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1西川町少年少女カヌー教室西川町少年少女カヌー教室月山湖で開催された西川町少年少女カヌー教室です。2023-03-15
2西川町へのアクセス2019/05/04の記録西川町へのアクセス2019/05/04の記録旅行者などが西川町へアクセスするには通常は車で山形自動車道もしくは国道112号線を経由します。 山形自動車道の寒河江サービスエリアを発ち、山形道を西川町に向かうと真正面には月山が迫って見えてきます。の時期は、沿道の新緑がより薄くなり、次第に標高の高いところに上がってきていることがわかります。それでも高速道の温度標識は気温22℃を示しています。 寒河江川に架かる橋も雄大で印象的です。さらに進むと進行方向に白雪の朝日連峰のパノラマが広がって見えてきました。西川町のこの上ない魅力ある山岳景観です。2022-05-30
3恵まれた山菜の宝庫恵まれた山菜の宝庫 西川町は、月山・朝日連峰山麓の豪雪地帯に位置し、雪と山がある故の自然の豊かな恵み山菜の宝庫である。4月下旬から7月初旬まで、雪の消えるのを追って山菜採取が出来る。2004-06-05
4第3次発掘調査第3次発掘調査考古学から見た安中坊 遺跡の概観  安中坊遺跡は、山形県西村山郡西川町大字吉川字上189番地外に所在する。六十里越街道は庄内から月山の麓を迂回して村山盆地に入る古くから交通路である。この街道に並行して月山に源流を発する寒河江川が東に向かって流下し、左右より小河川の水を集めて村山盆地の西部の現寒河江市の東辺で最上川に合流する。 本遺跡は、山間部を流下する寒河江川の中流域右岸の高位段丘上に位置し、河水面より比高12m、河岸からの距離約500mである。そして遺跡の東側は宇佐川が南の丘陵部より寒河江川に注ぐ。遺跡の南側背後には蒲谷地山(458,2m)を最高とする標高300m前後の丘陵山塊が連なり、これを越えると月布川流域の大江町に達する。この遺跡を含む吉川の集落は、寒河江川中・高位段丘2004-08-09
5第2次発掘調査第2次発掘調査近世宗門帳からよむ安中坊の住民 安中坊系譜と吉川村宗旨人別帳 安中坊(吉川大江氏)の住民について記述されたものに「安中坊系譜」(註1)と「吉川村宗旨人別帳」(註2)がある。「安中坊系譜」は吉川村阿弥陀別当・安中坊27代・道空が寛永20年(1643)3月に、吉川大江氏の系譜を認めて松平清左衛門代官に提出する際、道空の嗣子・義綱がこれを写し取ったものである。内容は大江広元の嫡男・親広が承久の乱で敗れ、吉川村に逃れて潜居したことをはじめとして、大江家は平城天皇の子孫として、江戸時代の寛永期まで連綿として続いてきたことを記してある。更に、26代・吉長から38代広満(広宥)の幕末までの系譜を追記している。  江戸時代になると、幕府はキリシタン禁制を強化し、異教徒を摘発するため宗旨改めを2004-08-09
6予備調査予備調査 平安時代末期の1189年、現在の西川町を含む寒河江の荘は、大江広元の所領となった。大江広元は、源頼朝の補佐役としての重責を担っており、遠国である寒河江荘を直接支配することが困難であったため、寒河江荘を管理したのは広元の妻の父である多田仁綱であった。仁綱は摂津国多田郷吉川村(大阪府豊野町)の生まれで、寒河江荘内を治める最適の地として現在の吉川の地を選び移り住み、「吉川」の地名は仁綱の生まれ故郷にちなみ命名されたようである。  その後、寒河江荘は広元の長男である大江親広の所領となった。親広は承久の乱において上皇方につき、戦いに敗れた後わずかに残った家臣とともに出羽の国に落ち延び祖父のいる吉川に潜んだという。そのとき既に仏門に入っていた親広は名を「安中坊」に改めたと伝えられている2004-08-09
7六部の報恩六部の報恩六部の報恩(沼山 鐘つき堂) ある年の晩秋の夕暮れ、何処から来たのかヨレヨレの単衣を纏った一人のみすぼらしい六部が笈を背負ってこの集落に入って来た。泊り宿を求めて家々を廻ったが、あまりにもひどいその姿格好を一目見て、どの家でも宿を貸してくれなかった。 困り果てた六部は、空腹をかかえ力なく歩いているうちに、人の良さそうな老婆が目に留まった。家の前にたたずむと、丁度老婆は夕食の支度時だった。六部は早速声もおろろに頼みこんだ。「御免下さい。私は見る通りの世間を信仰で巡り歩く一介の名もない六部ですが、一宿一飯の恩義に預かりたくお伺いした様な訳です。どうか宜しくお願いします。」聞いた老婆は一寸考え込んだが、「そうですか、それはさぞお困りの事でしょう。では一寸待ってて下さい。」と言って急2006-04-14
8「日本の石仏」 2004 NO.111  特集―石祠「日本の石仏」 2004 NO.111  特集―石祠一西川町の概要  西川町は山形盆地の西部に位置し、朝日連峰や月山に抱かれ、総面積の九割は山林が占め、耕地と集落は寒河江川の本・支流沿いに分布している。江戸時代は幕府の直轄地と蝦夷・松前藩領として支配されていた。交通路としては山形盆地と庄内を結ぶ六十里越街道(現在は国道一一二号線)が走っており、出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)の参詣路として行者の往来が盛んであり、特に海味や水沢は宿場町として、また岩根沢や本道寺及び大井沢は出羽三山の登山口として、大伽藍の別当寺を中心に宗教集落が形成されていた。特に湯殿山信仰と関係が深く、湯殿山碑が多く建立されており、三山行者で賑わった面影をとどめている。しかし、戦後はエネルギー革命や貿易の自由化等に伴う産業構造の変化によって、過疎化が進展し、さらに2004-10-18
9月山道路新設工事竣工記念月山道路新設工事竣工記念月山道路新設工事竣工記念 延長 第1期工事  2720米    第2期工事  2300米 工期 第1期工事 自 昭和39.7.11至昭和39.9.18    第2期工事 自 昭和40.7.13至昭和40.9.18 施工 陸上自衛隊 第2施設団    第1期工事 第105施設大隊    第2期工事 第103施設大隊     西川町長 佐藤宗一2004-03-18
10句碑(雲の峰幾つ崩れて月の山)句碑(雲の峰幾つ崩れて月の山)松尾芭蕉が西川町にその足跡をしるしてはいないが、山岳信仰に平和と五穀豊穣を願ってきた郷土にとって、月山湯殿山で翁が詠まれた句は貴重な文化財として大切にされてきた。『雲の峰いくつ崩れて月の山』の句は町内で合計四基の碑として建立されている。2004-02-08
11獅子口諏訪神社本宮跡獅子口諏訪神社本宮跡一九九二年三月(平成三年)此処獅子ヶ口神社本宮六メートルうしろ西側通過の東北横断自動車道酒田線の決定が日本道路公団より発表された。これは、神社の尊厳と信仰を侵す宗教的神社存亡の問題であると直ちに『獅子ヶ口神社を守る会』を結成し、二万七千余名の署名者と県内宗教家二百十一名の賛同を得て国、日本道路公団、山形県、西川町に対し三年九ヶ月に亘り誠心誠意路線の変更を求め交渉した。平成七年八月に山形県知事により次項の幹旋が提示され高速道路の公共性を最優先し、これに調印したものである。  一、宗教活動に充分配慮した高速道路設計建設  二、獅子ヶ口諏訪神社鎮守の森構想実現 私達は、宗教的人格権を子々孫々に至るまで永遠にこれを伝えると供にご神徳の高揚と神社の興隆の為全力を尽くすのみである。ご支援ご2004-02-08
12春浅み・・・春浅み・・・ 春浅み・・・・詩が刻記 後面 揮亳    西川町長    賢者同人 横山万蔵    維持昭和六十三年二十七回忌報恩之辰    十七大法知教建立2004-02-05
13雲の峰いくつ崩れて月の山(芭蕉翁)雲の峰いくつ崩れて月の山(芭蕉翁)江戸時代の俳人、松尾芭蕉が西川町にその足跡をしるしてはいないが、山岳信仰に平和と五穀豊穣を願ってきた郷土にとって、月山湯殿山で翁が詠まれた句は貴重な文化財として大切にされた事が解る。月山を詠んだこの句は町内に他に3基有る。  雲の峰いくつ崩れて月の山       芭蕉翁   弘化四未年菊月2004-02-05
14創立百周年創立百周年 創立百周年  昭和五十一年十二月一日西川町川土居小学校   石材 佐藤新吉  寄贈碑面記念事業協賛会   石工 松田幸治2004-02-05
15志田周子先生歌碑志田周子先生歌碑志田周子(明.43.10~昭.37.7) 我町の最も奥に位地する大井沢竹は無医村で交通手段が専ら徒歩の時代は大変悲惨な日常が多々あった。志田周子は当時大井沢小学校校長をしていた父の念願で医師になった。更に父は東京に在住していた彼女を帰郷させ、昭和十年に大井沢診療所医、村医、小学校医として地域医療活動をする。彼女はコレを生涯の天職とし、僻地医療に献身された。ちなみに医療だけではなく、大井沢村(合併後は西川町)の議員として活躍し、婦人会活動でも指導を発揮し、婦人の地位向上にも力を注がれた。文化面では歌人として数々の作品を残し、逝去後に地元と婦人会が中心になって功労を顕彰してこの歌碑が建立された。2004-02-04
16竣工記念碑竣工記念碑表面『水上浄ダム導流土 竣功記念碑       平成元年八月      西川町長 横山万蔵謹書』 裏面『昭和63年8月28日発正  災害関連緊急事業  升川建設株式会社 国井建設株式会社』2004-02-04
17芭蕉翁芭蕉翁松尾芭蕉が西川町にその足跡をしるしてはいないが、山岳信仰に平和と五穀豊穣を願ってきた郷土にとって、月山湯殿山で翁が詠まれた句は貴重な文化財として大切にされた事が解ります。  芭蕉翁   雲の峰 いくつ崩れて 月の山2004-02-02
18月山花笠ライン月山花笠ライン左面の碑文 この碑は山岳道路として美しい自然景観と調和し、機能と活力に優れた道路として「日本の道百選」に選定されたのを記念し、この栄誉を後世に伝えるため建立した。  山形県知事 板垣清一郎 謹書  西川町長  横山万蔵  建立    石工  河北町 松沢辰義2004-02-02
19右 よつや村・左 志づ村右 よつや村・左 志づ村右 四谷村(現在はこの集落は無い)、左 志津村(西川町大字志津)と刻記され、江戸時代後期以降に建てられた追分石。2004-02-02
20供養塔供養塔供養塔由来(碑文)  私達の古里月山沢は北に霊峰月山西に石見堂岳を仰ぎ、南に豪壮な山岳美を誇る朝日連峰を望見し東に断崖と警告である西方山に囲まれ四季それぞれ自然美の景観を誇る山里であった。しかも月山を源とする四ツ谷川、大越川と朝日連峰を源とし東折して村山盆地を潤す水清く水量豊かな寒河江川の合流する段丘にあり、半年雪に埋れているが三川の恵みを受け南に開けた地味豊かな土地に生命の安定をささえ平和な里であった。先祖はこの土地こそ子孫繁栄の住家であると定め八百年余の古より開拓した人情豊かに平和であれとの教訓は長い歴史の中で培われて来た。この教訓こそ子孫の私達にとって何物にも優る誇りであった。山の幸、川の幸等の豊富な資源は人々の心を豊か人情を厚くその上信仰心をも篤くした。経済的に自給自2004-02-02
21第5回全国中学生柔道大会出場記念第5回全国中学生柔道大会出場記念第5回全国中学生柔道大会出場記念 於講道館 1974.8.16        西川町月山沢中学校2004-02-02
22大月山大月山碑の背景には月山の展望が素晴らしい。 月山 山形県の中央部にそびえる月山・羽黒山・湯殿山の出羽三山。月山が中央にあって最も高く、山頂には月読命を祀る月山神社がある。西川町の歴史の中心となっていた信仰の山。2004-02-01
23芭蕉翁芭蕉翁松尾芭蕉が西川町にその足跡をしるしてはいないが、山岳信仰に平和と五穀豊穣を願ってきた郷土にとって、月山、湯殿山で翁が詠まれた句は貴重な文化財として大切にされた事が解る。また、江戸時代の後半、文化、文政から幕末にかけて我町にも俳諧が隆昌ており松尾芭蕉への崇敬があったと思われる。    猿坊施主建   芭  蕉  翁     語られぬ湯殿に      ぬらす袂哉2004-01-30
24狛犬狛犬寒河江市小沼公平美代子家門長久を ■祈奉りて狛犬壱対を寄進す仭つて 台座を作り開山以来の霊城たる大黒森 の守護として是処に安置す  昭和五十八癸亥年九月八日 中興開山祖称奉空山上人以来第四十六世 明治神仏分離令以神山■祀更以来十代         宮司 佐藤國本  協力者 西川町間沢 佐藤新吉  石工 寒河江市西根 安孫子順一2004-01-30
25村社 要害神社村社 要害神社要害神社(通称 稲荷様) 御祭神は稲倉魂命、白山姫命、金山彦命。創立由来は創立元中四年と伝わる岩根沢口月山道に近くに有る要害地で寒河江城主大江氏と山形城主最上氏が対立し沼の平楯城主東海林隼人守を中心として軍事的には大江氏の前哨線とした役割を持って庄内への警戒を担当して地で要害森に楯を造り東海林隼人の弟が楯主となり守護神三権を奉斎したと言われる。稲荷神社元来は岩松寺門の守護神であったが、文久三年社殿が破損したが寺の財政が社殿を復元するに乏しかったので、村と檀家が相談の上浄土を要害森に求めて移転し郷土の守護神として敬神した。明治三年佛号返上とともに要害神社に合祀して現在に至る。明治六年村社に列せられる。村合併して西川町となった現在は「村社」の文字を消された。2004-01-29
26廿六夜塔廿六夜塔二十六夜塔(にじゅうろくやとう) 正月あるいは七月26日の夜などに月の出を待ち、精進供養をし、月が昇ればこれを拝し、共同飲食などをする行事。二十六夜の本尊は愛染明王なので、この明王を守り神とする染物業者の仲間でも二十六夜待をしたり二十六夜塔を建てている。また農家などで二十六夜待をする所も多い。農家では作がよくできるとか願い事がかなうなどといい、商人は金に恵まれ商売が繁盛するなどという。 西川町内には、6基がある(2基が小山にある)。湯屋の月待講の発生は40年程おくれている(澄又のは安永3(1773)年)。他の月待塔と比べて数の上で少なく年代的に18世紀後半に蚕の神にあてて祭っているが、他は特定の神にあてていない。 表面     文化八辛未天      廿 六 夜 塔      2004-01-27
27国道改良完成記念国道改良完成記念国道112号 国道112号改良の経過は昭和11年九月に指定剣道12号となり、昭和28年には2級国道112号に昇格、さらに43年より一般国道112号となった。昭和38年度から国の公共事業として全面的な改良工事が着手され、西川町の35.6キロメートルの区間も昭和の間に幅の広い現在の道路となった。 表面  国道112号線道路改良工事     水沢石倉工区完成記念     寄進者後藤建設株式会社2004-01-23
28村社 月山神社村社 月山神社月山神社 御祭神は月読命。創立年代は慶長年間。例祭は五月十五日。 最上義光官幣月山神社の遥拝地を当地と定め、一社を創立し小月山権現と称し武運の長久を祈願した。寛文十二年検地の際別当敷二畝十歩は租税を免ぜられる。明治六年三月村社に列せられる。武将の崇敬として山形最上義光崇敬驚く社殿を建立し武運長久の祈願所の一とせり、社僧としては大江院神仏両修験道を以って奉仕明治三年三月復飾大江氏を称す。この神社は水沢小学校前に在ったが校庭拡張の為昭和三〇年に現在地に遷宮す。水沢村が合併後西川町となって、『村社』の文字は消されている。2004-01-23
29ふるさと水ヶ瀞ふるさと水ヶ瀞表 ふるさと   水ヶ瀞   西川町長 横山万蔵 裏 元水ヶ瀞居住者7名の氏名が刻記   平成元年九月吉日   東北電力株式会社建立2004-01-22
30竣功記念碑竣功記念碑  竣功記念碑   西川町長 横山万蔵謹書   裏面  山ノ神下山地区土地改良総合整備事業として基盤整備三〇ヘクタール農道二四〇〇米場水桟二基総立費二億八百万圓を費し昭和五十四年着工昭和五十七年竣功せり    多数の氏名が刻記2004-01-20
31山菜学シンポジウム山菜学シンポジウム平成15年(2003年)の秋には、文化の国体と言われている「第18回国民文化祭・やまがた2003」が県内全市町村を会場に開催された。  西川町で開かれた「出羽三山と文化展『山菜学』(10月4日~5日)と「文芸際『現代詩大会』」(10月11日~10月12日)は、開発センターや四季派の詩人・丸山薫が戦中戦後の3年余りを過ごした岩根沢地区を中心に開催された。    『山菜学』は、磐梯朝日国立公園「月山・朝日連峰」をはじめとする、豊かな自然とそこで貯えられる清らかな水に恵まれ、山菜の宝庫でもある西川町から、全国に向けて、山菜についての新しい価値観を発信しようという試みである。山菜を生活の糧としてきた町の歴史や受け継がれる食文化、また、国全体の健康志向の高まりによる消費量の増加、最近の乱獲による自生地の狭小問題等様々な角2004-11-25
32現代詩大会現代詩大会平成15年(2003年)の秋には、文化の国体と言われている「第18回国民文化祭・やまがた2003」が県内全市町村を会場に開催された。  西川町で開かれた「出羽三山と文化展『山菜学』(10月4日~5日)と「文芸際『現代詩大会』」(10月11日~10月12日)は、開発センターや四季派の詩人・丸山薫が戦中戦後の3年余りを過ごした岩根沢地区を中心に開催された。    丸山薫の詩の世界を散策しながら味わい、また、現代詩全国コンクールの上位入賞者の朗読や山形県の詩人展を鑑賞することができた。2004-11-25
33大井沢温泉源泉大井沢温泉源泉大井沢における掘削作業は、平成12年(200年)8月から行われ、同年10月に源泉が湧出し、12月15日には現地で揚湯式が行われた。その後、大井沢という豊かな自然環境に合った温泉交流施設の建設をめざして、町と地元のみなさんで検討を重ねた。建設工事が始まったのは、平成14年(2002年)8月である。林野庁の木のふれあい空間整備促進緊急対策事業(「民間活動支援施設」整備事業)の適用を受け整備が進められ、大井沢温泉「湯ったり館」は、平成15年(2003年)4月にオープンした。「湯ったり館」という愛称、地元のみなさんの公募によるものである。一般浴室のほか、交流・研修室、実習体験室、調理実習室及び屋外体験室を備えている。  平成15年(2003年)5月には、大井沢直売所が大井沢温泉館「湯ったり館」の駐車場にオープンし、翌平成16年(22004-11-25
34ケアハイツ西川オープンケアハイツ西川オープン 高齢化社会、長寿社会に対応した抜本的なシステム、施設づくりを行うために、保健、医療、福祉が三位一体となった施設づくりが検討された。その後、詳細な検討を経て、平成3年(1991年)1月には西川町老人保健福祉施設設置準備室が開設された。以後、同準備室が主体となって業務をすすめ、平成4年(1992年)4月、「ケアハイツ西川」がオープンした。また、平成7年(1995年)度には、増築工事が行われた。2004-11-24
35西川町総合開発(株)設立西川町総合開発(株)設立・平成3年(1991年)7月 西川町総合開発株式会社設立準備会並びに計画策定委員会を設置 ・平成3年(1991年)11月 西川町総合開発株式会社設立発起人会開催(設立総会) ・同年12月 西川町総合開発株式会社取締役会において当時の横山町長が代表取締役就任に決定。設立登記完了 ・平成4年(1992年)4月 営業開始(事務所は水道管理センター内) ・平成9年(1997年)9月 事務所を総合交流促進センター「月山名水館」内へ移転 ・平成11年(1999年)8月 事務所を水沢温泉館内へ移転2004-11-24
36西川塾スタート西川塾スタート地域づくりは人づくり―西川人を育成する西川塾開塾  時代が激しく変遷する中で、新しい町づくりを進めていくためには、自立自助の精神のもとに地域自らが努力して立ち上がる必要があり、結局、地域づくりは人づくりに尽きるといえる。21世紀の新しい町づくりのために、自己を見つめ、地域を見つめ、時代を見通す力を養い、それぞれの成果を実践に移し、豊かで住みよい活力ある町づくりに貢献する西川人を育成することを目的として、昭和60年(1985年)から西川塾が開熟した。  主催は町、教育委員会、商工会で、西川町クオリティ・ライフ研究所が設立された昭和62年(1987年)からは同研究所が主催に当たった。原則として2か年を1期間とし、平成8年(1996年)3月に閉塾するまで5期10年にわたって開催された。2004-11-24
37観光キャンペーン観光キャンペーン都心新宿で雪だるま大作戦  昭和58年(1983年)から月山自然水が東京新宿の伊勢丹デパートをキー店として販売されることになったことから、都心に向けた具体的な観光PRの足掛かりができた。昭和59年(1984年)の夏の日曜日、同デパートにおいて、月山夏スキーの勧誘、月山自然水をはじめとする町内特産物のPR・販売、ふるさとクーポンの会員募集を中心にした西川町の観光キャンペーン「雪だるま大作戦」が展開された。特徴づけたものにするため、月山の残雪を保冷車で運び込み、デパート入口に雪だるまや、屋上にミニスキー場を設置し、枝付きさくらんぼ等を展示した。ふるさとクーポンや月山自然水による全国への情報発信と相まって可能になったキャンペーンであるが、町の観光施策上画期的な試みとなった。2004-11-24
38町立病院完成町立病院完成相次ぐ町の中核施設の完成  国においては、オイルショック以後の1970年代後半、国債発行による公共投資主導により景気を回復させたが、公共投資の拡充は西川町においても見られた。  第2次高度経済成長末期の昭和48年(1973年)には、役場庁舎と第1期山村振興計画の重点施策であった開発センターが完成したが、引き続いて、この時期には、第2次山村振興計画による事業も開始され、町立図書館(昭和50年―1975年)、町民体育館及び町立病院(昭和51年―1976年)、中部保育所及び町民グラウンド(昭和53年―1978年)、町民グラウンド夜間照明施設(昭和54年―1979年)等が完成し、町の中核施設と言える社会資本の整備が引き続いて行われた。2004-11-22
39三山線廃止三山線廃止大正13年(1924年)に設立した三山電気鉄道株式会社(海味、資本金70万円)による三山線は、翌大正14年(1925年)に着工され、昭和元年(1926年)に羽前高松~海味間8.8㎞(所要時間28分)が開通し、昭和3年(1928年)に海味~間沢間2.6kmが延長され、全線11.4kmが開通した。昭和18年(1943年)に同社が、高畠、尾花沢両鉄道、山形交通自動車商会、今村自動車等を吸収合併し、山形交通株式会社を設立したことにより、以後、その経営下に置かれるが、西川町の社会、経済活動には欠かせない「町民の足」として広く利用されてきた。昭和30年(1955年)の利用状況を見ると、 [間沢、西海味、海味の3駅の業績] ・乗車人員 4222004-11-22
40西川町役場新庁舎開庁西川町役場新庁舎開庁相次ぐ町の中核施設の完成  国においては、オイルショック以後の1970年代後半、国債発行による公共投資主導により景気を回復させたが、公共投資の拡充は西川町においても見られた。  第2次高度経済成長末期の昭和48年(1973年)には、役場庁舎と第1期山村振興計画の重点施策であった開発センターが完成したが、引き続いて、この時期には、第2次山村振興計画による事業も開始され、町立図書館(昭和50年―1975年)、町民体育館及び町立病院(昭和51年―1976年)、中部保育所及び町民グラウンド(昭和53年―1978年)、町民グラウンド夜間照明施設(昭和54年―1979年)等が完成し、町の中核施設と言える社会資本の整備が引き続いて行われた。2004-11-19
41山形西川局(4局)自動電話開通山形西川局(4局)自動電話開通 この時期に入り、西川町では、日常生活に欠かすことのできない電話や、水道の普及が大幅に進んでいく。  電話の普及状況を調べると、昭和43年(1968年)に東部地区の12004-11-19
42広域簡易水道工事広域簡易水道工事 現在の西川町の水道事業は、上小沼を水源地とする上水道事業及び地区単位にできた五つの簡易水道事業、三つの飲料水供給施設事業があるが、この時期には、まず、昭和40年(1965年)に鶴部飲料水供給施設が、続いて昭和41年(1966年)に軽井沢飲料水供給施設が完了した。また、昭和45年(1970年)に上水道の前身である広域簡易水道が完成するとともに、翌昭和46年(1971年)には志津及び本道寺地区の二つの簡易水道が完成している。これらの一連の完成により、昭和40年代半ばには水道普及率が一挙に50%を越えた。2004-11-19
43初代西川町町長近松三吉氏初代西川町町長近松三吉氏2004-11-19
44四ヶ村合併四ヶ村合併 昭和29年(1954年)に、西山村、川土居村、本道寺村、大井沢村の4か村が合併して西川町が誕生した。2004-11-19
45「大井沢の大栗」「大井沢の大栗」指定年月日:平成23年2月4日 種別:天然記念物 名称:大井沢の大栗 員数:1 所有者:個人 所在地:西川町大字大井沢字桐の木久保3001 幹回り:8.48m(地上1.5m部分) 樹齢:約800年 樹高:16.82m 概要:財団法人自然環境センター内「全国巨樹・巨木の会」理事、「巨樹の会」主宰、平岡忠夫氏を団長とし、樹木医林繁氏他6名の調査が平成8年10月12日に行われ、『幹回り日本一位のクリ』と判定され、平成8年10月15日付け奥多摩巨樹の里だよりにより、東京都奥多摩町立「奥多摩町森林館(巨樹の里・日原森林館)」館長原島金廣氏より、全国に情報発信があった。2011-03-02
46郷土の彫刻家 高山文五郎郷土の彫刻家 高山文五郎三山神社に関連するので簡潔に記す。 【名工 高山一門】  作品の所在  町内  摂社三山神社(旧日月寺) 向拝 虹梁彫刻 ・・・安政年中(1854~1859)      東泉寺(間沢)向拝 虹梁彫刻      大沼神社 奥の院(長沼)向拝 虹梁彫刻      三宝荒神社(沼山)奉納 大天狗面  町外  紅花資料館(河北町 旧堀米四郎兵エ邸)御朱印庫正面の彫刻      大荒沢不動堂(米沢市)欄門各間彫刻      黄金山神社(宮城県金華山山頂)本殿両扉 昇龍、降龍の彫刻・・・専蔵      貞泉寺(高畠町)欄間 中国 二十四孝・・・文五郎      大本山総持寺祖院大祖堂(石川県門前町)欄間 開祖禅師誕生諸国行脚透彫      ・・・富十親子 【高山文五郎】  文五郎は西川町沼山田代の、荒木慶蔵家(2004-11-24
47第30号 岩根沢太々神楽第30号 岩根沢太々神楽指定年月日 平成21年2月23日 所在地 西川町大字岩根沢字上ノ平95-3番地 所有者   月山神社・出羽神社・湯殿山神社摂社月山出羽湯殿山三神社 占有者 出羽三山神社岩根沢社務出張所 所長 伊藤高志 祭務 岩本功 種類    無形文化財(芸能) 史実・由来・伝説その他参考となる事実 絵馬、板札、板額が三山神社の廊下に掲げられている。(1)絵馬 「月山神社出羽神社湯殿山神社奉納太々神楽木面」 明治25年8月、岩代国安達郡上川崎村の方々が奉納したもので、絵馬には12面の木面略図と奉納者氏名が記されている。(三山先達 古沢円蔵) (2)板札 「金拾円也 太々神楽」 福島県岩代国安達郡上川崎村大字小沢の太々神楽講中の寄贈である。(年代不明 三山先導 古沢円蔵) (3)板額 「奉納三山参詣太々神楽及2009-03-23
48第29号 絵画 板絵出羽三山女講中参詣図第29号 絵画 板絵出羽三山女講中参詣図指定年月日 平成20年2月25日 所有者    湯殿山神社(旧本道寺) 所在地    西川町大字本道寺字大黒森381番地 員数      1枚 政府は明治5年(1872)に修験道を禁止し、女性の登山参詣を認めた。出羽三山では同10年(1877)8月に女人禁制を解いた。更に内務省は同17年(1884)に出羽三山に山先達なしで、自由に登ることを公認した。  これらの動向を受けて、山形市内では出羽三山女講中が結成され、登拝が行われるようになった。  この絵馬は、その記念に湯殿山神社(旧本道寺)に奉納されたものであり、筆者は不明であるが出羽三山(月山)に登拝する姿を活写した優品である。  特に、奉納年と奉納者の住所・氏名や後見人、発願者、世話人の氏名が明らかであり、奉納時の社会的背景や奉納者の分布2009-03-03
49第28号 絵画 月山登拝図第28号 絵画 月山登拝図指定年月日 平成20年2月25日 所有者    湯殿山神社(旧本道寺) 所在地    西川町大字本道寺字大黒森381番地 員数      1枚 この絵馬は笠原景親という有名な絵馬師の作品であり、図柄は本道寺から月山山頂までの「石跳川コース」と「高清水通り」の二つの登拝路に参詣者が連なっている姿の描図であり、明治時代の後期は出羽三山参詣が盛んであったことの証になる。  更に、奉納者・浅野養太郎は宮城県に住む先導(元里先達)であり、五十三回も信者を月山や湯殿山に案内してきたことが記されており、本道寺と元檀那場との結びつきを示す意味でも意義がある。 筆者・笠原景親は渓斎と号した画家である。東京出身の人で浮世絵を揚洲周延に学び、明治初年より仙台東三番丁に住み、専ら絵馬絵と芝居看板書きを職業とした。2009-03-03
50第27号 石造物 旧本道寺代参塔群第27号 石造物 旧本道寺代参塔群指定年月日 平成18年12月28日 所有者    湯殿山神社(旧本道寺) 所在地    西川町大字本道寺字大黒森381番地 員数     7基 現  状  湯殿山神社(旧本道寺)境内に7基の代参塔が建っている。塔型は角柱型が6基、他の1基は自然石である。角柱型の5基は現在地に移動して、一直線状に配置されている。自然石に刻まれた代参塔は他の石碑群の中に混在している。  代参とは湯殿山信者が諸願成就のため、多額の金銭を旧本道寺に寄付し、信者に代わって旧本道寺の住職が祈願(住職は山先達に命じて湯殿山に代参させる)することであり、信者は御札(御祈祷札)を受けるのである。代参は毎月の依頼が多いが、毎日の場合もある。  代参塔は、代参依頼の寄付額の一部を用いて建立されたものである。その性格は湯殿山供養2009-03-02
51第26号 石造物 旧大日寺代参塔群第26号 石造物 旧大日寺代参塔群指定年月日 平成18年12月28日 所有者    湯殿山神社(旧大日寺) 所在地    西川町大字大井沢2884の2 員数      11基   大日寺は、天長年中(824~833年) 弘法大師の開基とされ、応永年中(1394~1427年)、僧道智や天文7年(1538年)勢真によって再興されたが、延宝2年(1674年)大火によって一切焼失、その後亮海は再興に努力し、利海、亮快の三代は隆盛を極め、亮衛までこの繁盛は続いた。しかし、明治36年(1903年)の火災によって仁王門を残し、他の伽藍は焼失した。 往時の面影をとどめているものに「代参塔」がある。 代参とは湯殿山信者が諸願成就のため、多額の金銭を旧大日寺に寄付し、信者に代って旧大日寺の住職が祈願し、信者は御札(御祈祷札)を受けるのである。代参は毎月が主体であるが、一季代参もある。祈願の2009-03-03
52第25号 石造物 湯殿山碑第25号 石造物 湯殿山碑指定年月日 平成18年12月28日 所有者    湯殿山神社(旧大日寺) 所在地    西川町大字大井沢2884の2 作者      片岡仁兵衛資房 制作年代  文政13年(1830年) 寸法     石碑 高さ 335cm  幅188.5cm 厚さ83cm         台座 高さ  60cm  幅280cm  奥行き200cm 大日寺は、天長年中(824~833年) 弘法大師の開基とされ、応永年中(1394~1427年)、僧道智や天文7年(1538年) 勢真によって再興されたが、延宝2年(1674年)大火によって一切焼失、その後亮海は再興に努力し、利海、亮快の三代は 隆盛を極め、亮衛までこの繁盛は続いた。しかし、明治36年(1903年)の火災によって仁王門を残し、他の伽藍は焼失した。 ただ湯殿山別当四か寺の一つとして栄えた往時の面影をとどめているものとして石碑が存在2009-03-03
53第24号 彫刻 弘法大師坐像第24号 彫刻 弘法大師坐像指定年月日 平成18年12月28日 所有者   湯殿山神社(旧本道寺) 所在地   西川町大字本道寺字大黒森381番地 作者   山形銅町鋳物師 川嶋金次郎 藤原金春 制作年代  安政2年(1855年) 寸法    像高126cm 肩張55.3cm 面長29.8cm 肘張79.5cm 面幅25.5cm 膝張 105.3cm 像厚 80.3cm 品質 青銅鋳造 (1)坐像  ・袈裟の左襟に「湯殿山」の文字が陽刻 ・像背右肩部に「六十六部回國」の墨書 (2)台座背面 ・干時   寛政二乙卯歳八月吉祥日 ・正別当  本道寺 祐寛代 ・役人   髙橋健之輔 ・納所   荒木喜作 ・発願主  奥州信夫郡上飯坂 谷光院 ・山先達世話 久清坊、長慶坊  上飯坂、常泉寺  湯ノ村 小林吉次郎  廻國世話人  尾張 重左衛門、ムツ、金助、ア  キ、嘉作、チクコ、政蔵、ヲ2009-03-02
54第23号 彫刻 金剛力士像第23号 彫刻 金剛力士像指定年月日 平成18年12月28日 所有者    湯殿山神社(旧本道寺) 所在地    西川町大字本道寺字大黒森381番地 作者     不明 製作年代  17世紀(推定) ①阿形 頭部は髻を紐で結い、頭飾をつけている。目と口は開いている。右手は下に伸ばして開き、左手は振り上げて独鈷を 持っている。腰は左に捻り立っている。下衣、裳、天衣をつけている。 総高 300cm 像高275cm 髻頂~顎 70cm 頭頂~顎50cm 面幅36cm 胸奥58cm 腹奥60cm 足先開き(外)96cm 肘張(右肘外~左肘外)140cm 天衣幅141cm ②吽形 頭部は髻を紐で結い、頭飾をつけている。目は見開き、口は閉じている。右腕は胸側で曲げ、手は開いている。 左手は腰脇で拳を作り、腰は右に捻り立っている。下衣、裳、天衣をつけている。 総高 300cm 2006-12-28
55第22号 建造物 金山神社本殿(旧八聖山不動尊本堂)第22号 建造物 金山神社本殿(旧八聖山不動尊本堂)金山神社は、もと八聖山不動尊と称し、神仏混合であった。社伝によれば大同4年(809)空海が本道寺とともに開山したと云われる。中世以降は、出羽三山神社の道中祈願所として栄え、湯殿山正別当と称した本道寺に親依してきた修験道の二院を基とするとも云われている。江戸時代以降は、鉱山師、鉱山従事者の信仰を集め、全国唯一の鉱山の神として信仰の対象となってきた。  西川町の歴史にとって欠かせない出羽三山信仰、とりわけ類例の無い修験道建築や鉱山信仰の栄華を今に伝える数少ない建造物である。2004-10-26
56第17号 彫刻 木造地蔵菩薩坐像第17号 彫刻 木造地蔵菩薩坐像 この地蔵尊は、湯殿山信仰で栄えた金色山大日寺(現大井沢湯殿山神社)の歴史を伝える数少ない仏像である。明治維新の神仏分離令により寺号を返上し神社となり、伝承によると600体とも言われた大日寺の仏像がことごとく消失したが、明治30年(1897)、現在地に地蔵堂が再建され祀られることとなった。  製作年及び作者は、胎内の銘記により永祿4年(1561 室町後期)に京都の七条大仏師大貮法眼が製作したものとわかる。  西川町の歴史にとって欠かせない出羽三山信仰、とりわけ湯殿山信仰の歴史を物語る数少ない文化財といえろる。2004-10-26
57かべかけとけいかべかけとけい旧西川町立東部中学校の昭和25年度卒業生の寄贈品で、現在の西川中学校からこの資料館へ譲り受けました。今も立派に時を刻んでいます。 第2次世界大戦敗戦後から占領が解ける1952年までの数年の間、日本製品には「MADE IN OCCUPIED JAPAN」という刻印が義務付けられていました。「占領下の日本製」という表示が、この柱時計にもみることができます。2004-01-29
58スキースキー雪の多い西川町では冬の代表的な遊び道具です。 スキーは桜の木の板をまげて、お湯に入れた後糸でつり、囲炉裏の上の棚に干して作りました。2004-01-21
59はんてんはんてん消防団が着用します。 『西川町消防団 第四分団第二部員』2003-12-26
60かさかさ西川町歴史民俗資料館にようこそ、お出で下さいました。西川町は出羽三山の主峰「月山」の玄関口に位置しており、三山信仰によって育まれた自然と文化が織り成す山紫水明の町です。この資料館には、寒河江ダムに水没した「月山沢集落」の民俗資料を中心として、町内より収集した貴重な資料を800余点ほど公開してあります。まだまだ不十分なものではありますが、今後より一層の充実を図りたいと考えております。それでは、ごゆっくりご覧下さい。館長。 はじめに「かさ」です。 農作業のときかぶります。 雨傘はスゲで編みました。2003-12-26
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