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1丸子顕彰碑丸子顕彰碑 丸子町の工業100年を記念した碑。この碑は、1990(平成2)年に丸子町の工業が100年になったのを契機に、丸子文化会館の向かい側に丸子工業百年記念公園が造営された際に建てられた。顕彰碑やその周りには、丸子の工業の発展に尽くした幾人の偉人の碑やその紹介文があり、丸子の工業史を知ることが出来るスポットの1つとなっている。2021-05-05
2養老焼肉街道養老焼肉街道岐阜県養老町にある養老焼肉街道です。 焼肉屋や、精肉店、バーベキュー場など肉に関わるお店が密集してあるため焼肉街道と呼ばれています。養老町には食肉卸の会社が多くあり、小売店を挟んでいないため焼肉街道のお店では安く肉を提供しています。 美味しい肉を安く食べることができ幸せになれます。2021-05-05
3養老駅養老駅岐阜県養老町にある養老駅です。 養老駅では、入り口に掲げられている駅名の看板や、駅前のオブジェ、駅の天井などに養老町の名産品のひょうたんがあります。 風のある日には、天井からぶら下がっているひょうたんがぶつかり合いきれいな音を奏でています。2021-05-05
4養老天命反転地養老天命反転地岐阜県養老町にある養老天命反転地です。 この養老天命反転地は世界的に有名なアーティスト、荒川修作氏とそのパートナーで詩人のマドリン・ギンス氏の30数年に及ぶ構想を実現した身体で直接体験できるアート作品です。 自分の身体の持つ様々な可能性を見つけることができ、面白いです。2021-05-05
5上田飛行場跡上田飛行場跡第二次世界大戦中、軍用機の訓練場として利用された飛行場。現在は上田千曲高等学校などになっており、元関係者、地元住民により「碑」が建てられた。今現在は町とし上書きされてしまっており、面影もなくなっている。飛行場があったということを伝えるためにも、碑はとても重要だと感じた。2021-05-05
6養老サイダー養老サイダー岐阜県養老町にある養老サイダーです。 養老サイダーは1900年(明治33年)に製造開始し、惜しまれながら2000年(平成12年)に製造中止となりました。しかし、多くの人の期待に応え2017年の養老改元1300年祭の時にクラウドファンディングによって、養老町内限定で復刻しました。養老サイダーの水は日本百名水にも選ばれている菊水霊泉を使用しています。 味は、さっぱりしています。2021-05-05
7養老の滝養老の滝岐阜県養老町にある養老の滝です。 この滝には、親孝行の息子が滝の水を汲むとその水がお酒に変化し、そのお酒を飲んだ父親の病が治ったという親孝行伝説のある滝です。 駐車場から30分程度山道を歩かなければならなく、大変ですが、とても素晴らしい景色です。2021-05-05
8松本の道松本の道上田市だけでなく松本市に行ってみて探検してみた。 柳町のような昔の雰囲気を醸し出している。2021-05-05
9太陽光パネル太陽光パネル自転車で走っているとあったので撮った。 自然エネルギーを使い活性化を図っている。2021-05-05
10かつ丼屋 まつくぼかつ丼屋 まつくぼ辰野町にあるかつ丼屋さんです。 全体的にボリュームがあり、食べきれないため、持ち帰りをします。 開店前にはすでにお客さんが並んでいることもあり、人気のあるお店です。2021-05-05
11志のぶ 精肉店志のぶ 精肉店長野県の箕輪町にある、精肉店です。 ここのお店の特徴は「馬刺し」が売っていることです。癖がなく、おいしいと評判です。 お肉に厚みもあり、安いというわけでもないですが、多くのお客さんが買いに来ます。2021-05-05
12原田市神社原田市神社長野銀行の駐車場に堂々とした様子で建てられている神社です。今回の調査の中で一番小さい建物で、車で走っていたらなかなか気づきにくいこともあります。 なぜこんな所に建てられているのか気になり、調査しました。この神社の説明には、「城下町を造るにあたって市の守護神である高市事代主命を勧請して祀った神社」と書かれています。そして、ここまで小さくなってしまった原因は「第二次世界大戦後に道路が拡幅されたからだ」とも書かれています。供えられている供物や植えられている植物がしっかりと手入れされていたので、今でもなお忘れられず、崇拝されているのだと考えます。2021-05-05
13海野町市神高市神社海野町市神高市神社この神社に祭祀されている御両神は福の神の代表の恵比寿様、大黒様です。商店街の真ん中に置かれており、周りの環境で薄れることなく威厳のある神社だと感じました。 こちらも神社にしては小さいですが、どの地図にも載っているので多くの方に認知されているのだと考えます。 やはり商店街の中に置かれているだけあって、何人か人が集まっていました。今回の調査で人がいた神社・寺は唯一ここだけです。2021-05-04
14開運出丗(出世)稲荷神社開運出丗(出世)稲荷神社別の神社へ向かう途中の海野町商店街を歩いていた時に偶然見つけた神社です。かなり小さい神社で、大きさは2メートルちょっとです。 この神社の情報を見つけることは出来ませんでしたが、石に刻まれている文字を見てみると「昭和24年12月吉日」と書いてあるのがわかります。私が調べた寺や神社と比べるとかなり最近に出来たことがわかります。 この神社は路地にひっそりと建てられており、月極駐車場の中にあります。 タイトルの「出丗」は誤字ではなく、石に刻まれた漢字をあえてそのまま記しました。2021-05-04
15願行寺願行寺 願行寺は、天正14年(1586年)に真田昌幸が上田城下町を造る際に、海野郷(東部町)から城近くの厩裏町(大手末広町)に移転され、その後、元和七年(1621年)、信之によって現在地に移されました。  看板にも書いてありますが、門の造りが細かく、細部までこだわっているのがわかりました。また天井には、実際に何か描かれていた形跡があります。  こちらは日輪寺と比べ、大通り沿いに出来ているほか、入り口も整備されているので、よく人が来るのではないかと考えられます。2021-05-04
16伊香保温泉伊香保温泉群馬県渋川市伊香保町にある温泉。草津温泉と並んで県を代表する名湯です。黄金の湯・白銀の湯といわれています。急傾斜地に作られた石段の両側に、温泉旅館、みやげ物屋、遊技場(射的・弓道)、飲食店などが軒を連ねています。365段の石段は温泉街のシンボルであり、この界隈は石段街と呼ばれています。石段の上には伊香保神社が存在します。  365段の石段を登った後の温泉や、神社はても気持ちいいです。到達したときの達成感や癒やしが他の温泉や神社と比べものにならないと思います。  伊香保で有名な湯ノ花まんじゅうは甘すぎず、とても美味しいです。 写真引用アドレス https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/82/Ikaho_Onsen_03.jpg/299px-Ikaho_Onsen_03.jpg https://www.dan-b.com/shop_imgs/outd_ikaho/tops/fba5907701458924baf727fd5fec3cc3.jpg2021-05-04
17日輪寺日輪寺バイト先へ向かう途中に毎回目に付いていたので気になり調査しました。日輪寺は天文14年(1545年)真田家の先祖である海野小太郎幸義公によって建てられた曹洞宗の寺です。町中にあり、さらに両隣には真新しい家や建物がありますが、門ををくぐるとガラッと景色が変わります。2021-05-04
18カーリングホールみよた 類を見ない手づくりカーリング場カーリングホールみよた 類を見ない手づくりカーリング場カーリングという競技は何をおいても競技場がないとできません。競技場があるところにカーリング文化が育まれていきます。カーリングホールみよたは全国的に数少ないカーリング競技施設の一つです。明らかに工場を競技施設に転用したもの。入口にはtotoのスポーツ助成金で出来た施設であることが記されています。(写真は2018/04/30撮影のもの) ネットで調べてみて、さらにその状況に感心をしました。 ★「カーリングホールみよた」のお話(みよた広報) http://www.town.miyota.nagano.jp/file/7252.pdf この記事に設立経緯が書かれています。なるほど! 目から鱗のようなお話です。何より地元有志の熱意がプロジェクトを動かしたこと。中越興業の建物を改造した施設。事業体がNPO法人あさまハイランド2021-05-02
19[14/09/11]山家の「真田氏館跡」[14/09/11]山家の「真田氏館跡」枡形道路とたつ道を進むと民家の石垣にぶつかりT字路となります。余談ですが、このような傾斜地に広がる集落がどことなく和歌山県の九度山に似ていることを想起しました。 この民家のある土地が平らに整地されていることから、ここに館があったという推定が興味を引きます。さらに、ここが真田氏の館跡であるという仮説もワクワクするようなものです。 真田氏の館跡はすでに真田町の各所で見てきました。角間の館跡、ここ山家の館跡、お屋敷公園の館跡、伊勢山にも館跡があったらしい。真田氏は角間から次第に低い方へと移り、やがて上田城へ。やがて真田信幸の代になり、上田藩主居館跡に、更にその後は松代へ移ることになります。この変遷をたどるだけでも実に興味深い。2021-05-01
20[14/09/11]長村役場等の跡、山家神社[14/09/11]長村役場等の跡、山家神社向畑遺跡から山家神社へ移動しました。山家神社へは過去にも訪れたことがあり、この時は一時休止しただけです。山家神社の駐車場が長村役場跡です。真田自治会による説明板のおかげで歴史がよくわかります。 2009年(平成21年)までここに旧役場庁舎があったことも驚きです。
長村役場・農協・駐在等の跡  「長村」は明治9年5月大日向・横沢・真田・横尾4か村が合併して誕生した。 当初の役場庁舎は、明治元年の神仏分離令により廃寺となった白山寺の一部があてられていたが、ここに庁舎が新築されたのは明治36年。昭和33年に真田町に合併されるまで、改築を経て村政が執行された。 当時から長村の中心地として役場の他、農協や警察官駐在所などがあった。 旧役場庁舎は平成21年に取り壊された。      平成
2021-05-01
21[14/09/11]角間区民広場[14/09/11]角間区民広場安智羅明神と日向畑遺跡の間に矩形の公園「角間区民広場」があります。真田氏館跡とされる日向畑遺跡の屋敷跡であるようです。ゲートボール場になっているようです。
角間区民広場  真田昌輝第十二代 真田幸雄 書 (以下裏面の文面) 昭和五十四年末中電送電線架設実施計画がはじまりこれに対する地域補償金を基金とし公共施設の区民広場建設に当り、町当局をはじめ土地所有者・工事施工者・関係区民の深いご理解とご協力によりここに完成をみるに至りました。 ここに所在する日向畑遺跡をはじめ松尾城跡は真田氏発祥の関係域跡群の一つとして重要な文化財であります。この遺跡を誇りとし この広場が区民のさわやか健康づくりの場として大いに活用されることを期待します。 昭和五十七年九月吉日 (略)
2021-05-01
22[14/09/11]安智羅明神[14/09/11]安智羅明神日向畑遺跡に行くつもりで安智羅明神に先に立ち寄りました。史跡「安智羅様」の看板に誘導されました。祠と鳥居が建っています。その手前には門石のような石柱が2つ建っています。「辛亥九月建立」と読めます。辛亥(しんがい)と聞くと先に「辛亥革命」を連想してしまうせいか、「辛亥九月」には違和感がありました。これは干支のイノシシという意味のようです。イノシシ年9月…何年をさすのでしょうか。 角間自治会による説明板の存在が実にありがたい。この説明を見て安智羅明神を理解しました。
安智羅明神(あんちらみょうじん)  鎮座地 上田市真田町長角間 この地は真田家の古いお屋敷跡で松尾古城のふもとに位置する。 神社のご神体は真田幸隆の幼少の姿を写した像と伝えられている。 ※創立は一五三〇年(
2021-05-01
23[14/09/11]角間渓谷・山神宮と角間配水池[14/09/11]角間渓谷・山神宮と角間配水池角間渓谷の角間集落と角間温泉のほぼ中間地点に「山神宮」があります。これについては何の基礎情報も持ち合わせていません。そのほぼ向かいに「真田町水道 新角間配水池」という施設があります。上水道の水源となっているようです。 山神宮の前には「熊出没注意」の注意書きが出されています。2021-05-01
24[14/09/11]真田町の真田→横沢を進む[14/09/11]真田町の真田→横沢を進むまさに里山の秋、収穫の秋です。稲が黄金色の実をつけて稲穂の先が垂れ下がってきました。収穫も間近いことでしょう。 真田氏発祥の地とされるのがこの周辺、旧真田町真田です。標高730mですから、上田城よりさらに300mほど高い位置になります。 上田から菅平へと続く国道144号線から一歩集落の中に入ると傾斜地に展開する独特の景観に変わります。何度訪れてもどこがどこなのかがよく記憶できません。道が曲がり、似たような傾斜地の特性を持っていることに一因があります。2021-05-01
25[14/09/11]真田町を進む、途中駅前食堂[14/09/11]真田町を進む、途中駅前食堂旧真田町に入って間もなく「駅前食堂」が右手に見えてきます。この店名が面白い。かつて鉄道・真田傍陽線が通っていたときにここに駅があったことに由来しています。隠れスポットとして知っておくと訪れたときに楽しいです。ただしこの時は通過しました。 最初に向かった先は真田氏歴史館です。2021-05-01
26[14/09/11]ようこそ真田の郷へ、途中伊勢山バス停[14/09/11]ようこそ真田の郷へ、途中伊勢山バス停真田氏発祥の地「真田」は上田の市街地からはやや遠く、菅平高原に行く途中にあります。上田市街から行くとずっと登り坂になります。そうした坂の途中に伊勢山バス停があります。 このバス停は映画『サマーウォーズ』で描かれたことから同映画の聖地巡礼の地として知る人ぞ知る隠れスポットとなって久しくなります。 伊勢山バス停を過ぎると「ようこそ真田の郷へ」の看板が見えてきます。ここからがいよいよ「信州真田」です。上田市に真田町が合併する前の町域となります。2021-05-01
27長福寺長福寺1625年に金蓮寺覚裕が土生町にあった長源寺の堂舎を移転し、長福寺と改め開山された場所です。 長福寺には「お参りして下さった皆様がみんな仲良く笑顔で暮らせますように」という意味を持つ「なかよし地蔵」があり、とても可愛らしいものでした。 生島足島神社のすぐ近くにあり、向かった際に立ち寄ってみてはどうでしょうか。2021-04-25
28明治28年の海野町を記録した写真明治28年の海野町を記録した写真海野町のすや(酢屋)呉服店が所蔵している古い写真の一枚。写真の裏面には「明治二十八年」との書き込みがある。1895年(明治28年)は、日清戦争が終結、勝利した年に当たる。旭日旗や「送小林」の旗などが見える。出征兵士を送り出す情景の記録ではないだろうか。海野町商店街の沿道に大勢の人々が繰り出し、人々の目線が写真機の方を向いている。向かいの店の看板「酢屋本治郎」が読み取れる。 驚くことにその軒先の屋根上に楽隊が陣取っている。大太鼓、小太鼓、クラリネット、チューバ、ホルン(他にシンバルも?)が確認できる。明治のこの時代にこれだけの楽器を有する音楽隊があったことを物語る貴重な証拠写真である。当時、上田が西洋文明をいち早く吸収した先進的な文化都市であったこと、経済的にも反映していたことを雄弁に物2021-03-26
29塩尻村大字上塩尻字壱丁田全図(地籍図[旧公図])塩尻村大字上塩尻字壱丁田全図(地籍図[旧公図])小県郡上塩尻村大字上塩尻之内 第七番字壱丁田全図 (上田市税務課所蔵) 塩尻村大字上塩尻(かみしおじり)字壱丁田(いっちょうだ)の地籍図である(現在は上田市上塩尻)。 字壱町田は現在の塩尻保育園の辺り、塩尻小学校と北陸新幹線に挟まれた区画、国道18号線の上塩尻交差点の北西側の区画である。 地籍図は1889年(明治22年)の市制町村制施行に伴い、上田町大字常磐城(旧常磐城村)の地籍図として1890年頃作成したものと思われるが、年代の記載がないため確認できない。2021-03-22
30塩尻村大字上塩尻字信福寺/宮田全図(地籍図[旧公図])塩尻村大字上塩尻字信福寺/宮田全図(地籍図[旧公図])小県郡上塩尻村大字上塩尻之内 第六番字真福寺 第七番字宮田 全図 (上田市税務課所蔵) 塩尻村大字上塩尻(かみしおじり)字信福寺(しんぷくじ)/宮田(みやた)の地籍図である(現在は上田市上塩尻)。 字信福寺、字宮田は区画が小さいことから合体した全図となっている。藤本蚕業歴史館から南に150mほど下った辺りの区画である。かつては水田であったが、現在は宅地化している。 なお、「上田市文化財マップ」に字信福寺にあった「上塩尻板碑」の解説がある。 地籍図は1889年(明治22年)の市制町村制施行に伴い、上田町大字常磐城(旧常磐城村)の地籍図として1890年作成したものと思われるが、年代の記載がないため確認できない。2021-03-22
31上田町会議案綴(1902/明治35年 上田町)上田町会議案綴(1902/明治35年 上田町)下のリンクを選ぶと文書全体のPDFをダウンロード表示します。ダウンロード表示には時間がかかります。
PDF上田町会議案綴(1902/明治35年 上田町)
528頁/114MB
PDF全頁JPEG画像[長辺1280ピクセル] ZIP形式で圧縮
528ファイル/126MB
▼上田市公文書館資料情報 上田町会議案綴 うえだちょうかいぎあんつづり 請求番号 01-M35-01-1356 文書の種類 旧役場文書 地域 上田町 作成年度(和暦) 明治35年
2021-03-07
32長野県の明治初期の村絵図長野県の明治初期の村絵図 長野県立歴史館のサイトhttps://www.npmh.net/ezu/ で明治初期の村絵図が公開されています。 古い地図と現在の地図を比べてみるとこれまでの変化がわかり面白いです。 小諸市  https://www.npmh.net/ezu/?keyword=&area%5B0%5D=%E6%9D%B1%E4%BF%A1&city%5B0%5D=25&n=18&submit=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&p=1#result 現小諸市・東御市 滋野村 https://www.npmh.net/ezu/2020/02/id-151.php 現小諸市・御代田町 塩野村 https://www.npmh.net/ezu/2020/02/id-93.php2021-03-02
33六供無縁堂(六供区無縁仏墓地公園)六供無縁堂(六供区無縁仏墓地公園) 小諸市六供区、18号下の中沢川近くに、寛保2年(1742年)8月の戌の満水と呼ばれる大水害で亡くなった無縁仏の墓地。 小諸市のホームページ https://www.city.komoro.lg.jp/official/kanko_sangyo/kanko/rekishi_bunka/2/6696.html  によると、この水害では 「小諸では旧暦8月1日に、六供、本町、田町、袋町、さらには小諸城三之門なども流失する大災害となりました。小諸城下では、507名の死者を出しました。 六供無縁堂は、死者の御霊を供養するとともに、災害復興を記念して1754年8月1日にこの地に建立されました。」  とのことです。  二十三夜塔も2基あります。2021-02-28
34明治35年 常磐城區有土地建物寄附之件明治35年 常磐城區有土地建物寄附之件『明治35年上田町会議案綴』(上田市公文書館所蔵)より 土地や建物の寄附について、土地の広さや建物の見積もり金額が記されている。 「前記ノ土地建物ハ上田町大字常磐城ノ所有ノ処上田尋常高等小学校ノ用ニ供スル為左ノ条件ヲ付シ上田町ヘ寄附スルモノトス」 年代や地名から推測すると、上田尋常高等小学校常磐城分教場(現上田市立西小学校)に使用された土地や建物と思われる。 【参考資料】 『上田市誌 近現代編(8)学校教育のあゆみ』上田市誌編さん委員会/編(上田市 2003年)2021-02-27
35長野県満州開拓史長野県満州開拓史満蒙開拓資料、佐久穂町図書館蔵2021-02-27
36あゝ開拓千曲郷の断末―開拓難民引揚げの記録―あゝ開拓千曲郷の断末―開拓難民引揚げの記録―千曲郷開拓団の資料、佐久穂町図書館蔵、1974年(s49) 編集発行:北相木村役場 南牧村から開拓団の先遣隊として、唯一派遣された家族は、千曲郷に属した。2021-02-27
37上田松本間に計画された鉄道(丸子経由案)上田松本間に計画された鉄道(丸子経由案)丸子町誌歴史編下巻の217ページに記載されている図である。 丸子町誌には詳しいことは書かれていなかったが、図から考えると、丸子線の丸子町駅から延伸し、国道254号や県道185号などに沿うような形で建設される計画だったのではないかと考えられる。 この図がいつ頃書かれたものなのかは記載を確認できなかったが、浅間温泉~松本間の松本電気鉄道浅間線が描かれていないことを考えると1964年から1969年の丸子線廃止までの間に書かれたものなのではないかと考えた。これについては今後問い合わせるなどしたいと思う。 また、次のページには、「丸子町から和田もしくは大門の峰を越えて諏訪地方に入り、中央本線と連絡する構想」があったともされている。2021-02-27
38上田松本電鉄計画上田松本電鉄計画1951年に運輸省告示第二百四十八号にて告示されたものである。 国立国会図書館デジタルコレクションのURLを以下に張り付けておく。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2963979/4 この計画は「上田松本電鉄」という会社のもので、一説によるとかなり本格的なものであったとされる。 以下、内容を要約する。 申請の理由 ・もともと国鉄信越本線、篠ノ井線が開通するまでは松本~東京間の街道筋に当たっていた ・現在は急峻な峠を越えて往復する1日4回のバスがあるだけである ・上田~松本間が3時間以上かかる ・冬季は降雪に阻まれて運行不能となる不便さがある ・輸送力が少ない ・沿線の産業、文化、観光資源の開発などに、非常な障害となっている 開通のメリット ・上田~松本間がわずか1時間半で到達される ・沿線住民が多大な利便を2021-02-27
39丸子は「まりこ」?丸子は「まりこ」?旧丸子町は昭和36年までは「まるこ」「まりこ」どちらにも読まれていたが、町制50周年と丸子実業高校野球部の春の選抜出場を期に読み方が統一された。それが町議会で可決されたとの2次資料が『丸子修学館100周年記念誌』に掲載されていたが、実際に丸子町議会の議事録に残っているかを調べる。2021-02-22
40萬葉集(写本)萬葉集(写本)『萬葉集』(写本)全9帖 (市立小諸図書館所蔵) 『萬葉集』とは・・・ 飛鳥・奈良時代の歌集で、約130年間の長歌、短歌、旋頭歌、仏足石歌など4500首余りを収録。天皇、皇后をはじめ一般民衆の歌まで含んだ歌集。 【参考文献】『国史大事典』(国史大辞典編集委員会/編 吉川弘文館 1992) 本書は、江戸初期の写本といわれていて、国文学者佐佐木信綱氏の著書『萬葉集事典』(平凡社 1956)の諸本―写本の項で『小諸本萬葉集』として収録されています。 綴葉装(てっちょうそう)の活字附訓本で、缺本(欠けた巻がある本)で、5,6巻が欠けています。 サイズは、縦23.5cm×横17.5cm。 小諸藩主牧野氏の蔵書で、のちに小諸町で酒造業を営んでいた大塚宗次氏が購入、大正3年(1914)に財団法人小諸図書館へ寄贈されました。 大塚宗次氏に関2021-02-16
41運の石運の石これは2021年2月10日に撮影した運の石の写真である。 この運の石は海野町商店街の高市神社に祀られている。 高市神社のご神体は、海野宿の隣にある白鳥神社にあった霊力のある石であり、真田昌幸が築城する際に祀られたといわれている。このとき祀られたご神体には直接触れられない。そのため、真田昌幸と関係がある高野山九度山の神石が触れられる運の石として祀られている。2021-02-10
42海野宿と海野町商店街の共通点海野宿と海野町商店街の共通点海野宿と海野町商店街について調べて、以下の共通点があることがわかった。  まず、真田昌幸が海野郷の豪族の海野氏の子孫だったことから、海野町商店街は海野郷にいた住民によって作られた。そのため、海野宿と海野町商店街は海野氏という豪族に関係があることがわかった。  また、海野宿の横に位置する白鳥神社にあった霊力がある石を、真田昌幸が築城する際に海野町商店街の高市神社に祀ったことがわかった。そのため、高市神社と白鳥神社には、ありがたい石でつながっているという関係があることがわかった。2021-02-09
43花のマリモ花のマリモ【高校2年生に息子を持つ主婦へインタビュー】 海野町で生まれ育っているので、とても愛着を感じているそうです。 昔は、七夕祭りにミス七夕というイベントがあったり、30年前には毎週日曜日の9時ごろから5時まで海野町商店街の通りを交通規制して、パラソルやいすを並べたり、風船おじさんが来たり、マジックをして街を盛り上げる日曜広場というイベントが行われていた。 また、海野町にはマンションが急増している。その中でマンションの住人と海野町商店街に住んでいる方々は交流があるのかを聞いてみたところ、子供がいても親同士の関わりはない状態であるということが分かった。しかし、商店街同士の関わりはあって、イベントの打ち上げを行ったり、母親同士のつながりは徐々に強くなっているそうだ。 今後どのような街になっ2021-02-01
44長野県の美術館紹介長野県の美術館紹介長野県の美術館を紹介します。 すべて紹介するときりがないので、じゃらん観光ガイドの長野県の美術館TOP10を紹介します。 ◆軽井沢千住博美術館 世界で活躍する日本画家・千住博の作品を美しい樹々や花々とともに楽しんでいただける美術館です。 ◆世界の影絵・きり絵・ガラス・オルゴール美術館 ビーナスラインの中心地。白樺湖で、通年営業の美術館です。 ◆北斎館 葛飾北斎の肉筆画・画稿・書簡など50点と北斎筆の天井絵で知られる上町・東町の祭り屋台2台(県宝)を展示。龍と鳳凰、男浪・女浪の怒涛図が、時代を経た今、美しく妖しい魅力をかなでています。 ◆松本市美術館 鑑賞の場、表現の場、学習の場、交流の場を4つの柱とした地域に根ざす開かれた美術館です。松本市出身の芸術家・草間彌生の作品展示のほか上條信山2021-01-31
45その後の探究その後の探究データ比較 出典 ●総人口、年少人口率、生産年齢人口率、高齢人口率、人口1000人あたり人口増減率、出生率(1000人あたり)、死亡率(1000人あたり):総務省「住民基本台帳人口・世帯数」2020年1月1日現在 ●総面積:国土交通省国土地理院測図部「全国都道府県市町村別面積調」2018年 ●可住地面積人口密度:https://www.seikatsu-guide.com/compare/20203/38201/1/ ●歳入額、歳出額、地方交付税依存度、財政力指数:総務省「地方財政状況調査関係資料」2018年度 ○人口 松山市と上田市では総人口の点では松山市が大きく勝るが、年齢別の割合で見ると年少人口率はさほど変わらないが、生産年齢人口率や高齢年齢人口率では上田市の方が少し割合が高く、出生率や死亡率の面では上田市の方が出生率では低く、死亡率では高いことから高齢化が少し進んでいることが2021-01-31
46西部地域デジタルマップの紹介西部地域デジタルマップの紹介自治会のイベントの1つである「ときわ祭」という展示会に出展した作品です。 同じ自治会の方などに少しでもデジタルマップについて知ってもらうために、模造紙にまとめました。2021-01-31
47海野町史-海野町の誕生海野町史-海野町の誕生海野町は、真田安房守昌幸が先祖の地である海野郷から住人を移住させて、街並みをつくらせたのが起源である。また、三年遅れて、原の郷から招致したのが原町である。この海野町と原町を上田城下の元町という。海野町と原町は、真田・仙台・松平時代から明治・大正・昭和まで上田の中心枢要な位置にあり、共に商業経済の発展に貢献している。 海野町へ移住して来た人々は、海野郷大平寺村の住人で、氏神様の深海神社の祠(ほこら)だけを残し、全村挙って五十八家族が移住した。その人々は、思い思いに農村風の家を作り、大方南側に向き、従来に出入り口のない家や瓦をのせず床もない素朴な家に住んでいたという歴史が残っている。(海野町史第1章より)2021-01-31
48私の地域探求テーマ一覧(情報通信文化論2020)私の地域探求テーマ一覧(情報通信文化論2020)長野大学の講義科目「情報通信文化論2020」(講義担当:前川道博)では、情報通信文化の根幹をなす文化伝承・知識伝承を概念的に学ぶだけではなく、受講生たちに自ら文化伝承・知識伝承による「キュレーション型」の学びを実践してもらいました。地域循環型社会にシフトしつつ現代においては、自ら問いを立て、一次資料に当たったり、地域に赴いて自ら得たデータを新たな一次資料とし、主体的に探求していくことが求められます。その学習プロセスが文化伝承・知識伝承に他なりません。 それらの課題探求テーマと成果を以下のマイサイトからカテゴリ「私の地域探求」を選んで御参照ください。 <私の地域探求テーマ一覧> 1 舌喰池の名前の由来(LGTMのサイト) 2 2021-01-28
49海野宿の起源海野宿の起源 海野宿は、1625年(寛永2年)に馬で荷物や人を運ぶことを主な仕事とする、田中宿を助ける宿として作られたとされている。しかし、1742年(寛保2年)の大洪水、戌の満水で、田中宿に大きな被害が出てからは、田中宿より被害の少なかった海野宿が本宿になった。  海野宿のある地は豪族の海野氏の本拠地であった。現在の白鳥団地に海野氏の居館があった。 参考資料 「東部町誌歴史編上」東部町誌編纂委員会 「東部町誌歴史編上」東部町誌編纂委員会2021-01-27
50海野町商店街の起源海野町商店街の起源 海野町商店街の始まりには、真田幸村の父の真田昌幸が関係している。真田昌幸は現在東御市本海野の海野宿がある地にあった、海野郷の豪族、海野氏の子孫だった。真田昌幸は1583年(天正11年)に上田の千曲川の支流にあった尼ヶ渕という地名の場所に城を築くときに、海野郷大平寺村にいた住民に町を作らせた。これが、海野町商店街の起源である。 参考資料 「海野町史」中澤好冨 「海野町商店街の歴史」 ナガブロ URL「http://unnomachi.naganoblog.jp/e1286383.html2021-01-27
51現在の海野町商店街(2021年)現在の海野町商店街(2021年)2021年1月27日に撮影した海野町商店街の写真である。 海野町商店街がある場所は海野町通りとも呼ばれている。 また、お茶所喜光堂という看板が見える。喜光堂は1882年から操業している、歴史のある店である。 喜光堂の少し先には高市神社がある。 昔(1913年)の喜光堂 URL「http://www.d-commons.net/uedagaku/detail.php?id=3875」 海野町通り(1913年) りらっくすさんのサイト みんなで作る信州上田デジタルマップ2021-01-27
52真田祭り真田祭り説明 上田城下町で毎年4月末に行われる真田三大をたたえる祭り。真田氏発祥の地として上田市内では真田ゆかりの地が多くある。 用法 上田市の真田資料は16世紀が多いという一つ 参考 https://www.mtlabs.co.jp/shinshu/event/sanada.htm2021-01-27
53うちいれうちいれうちいれは(画像右)上田盆地の懐かしいふるさとの味として愛されていたようですが、地粉が手に入りにくくなったことや手間がかかることから現在は忘れられて来てしまっている料理だそうです。 材料は、小麦粉、かぼちゃ、はくさい、にんじん、だいこん、じゃがいも、煮干し、みそを使用し作られ多くの野菜が入った麺料理です。 お米の少なかった昔に夜食としてうちいれがよく食べられていたそうです。 ※うちいれの写真は本に掲載されていなかったため上田市真田町にある「真田庵」で提供されているうちいれをネットから 参照URL:さなだんごの旅 真田ファンの旅づくり応援サイト 参考図書:「つけものの味ふるさとの味」長野県農業改良協会(p.342)2021-01-27
54ハート形土偶ハート形土偶【作品】 ハート形土偶 【所在地】 群馬県高崎市 【作品説明】 大きさは約30㎝、ハート形をした顔が特徴的である。この形の土偶が発掘されたのがこの土偶が全国初で、それ以降は各地で発見されているようだ。ハート形の部分は顔なのか仮面なのかは不明だが、女性像であるといわれており、様々な曲線は妊娠線・産道を表現していると考えられている。歴史的にも芸術的にも評価され、1965年に重要文化財に指定された。 【参考資料】 ・東京国立博物館:https://www.tnm.jp/modules/r_exhibition/index.php?controller=item&id=4512 ・My rock town 東吾妻:https://myrocktown.com/event/1482021-01-27
55前橋市にある日本一安い遊園地「るなぱあく」前橋市にある日本一安い遊園地「るなぱあく」「るなぱあく」は群馬県前橋市にある「にっぽんいちなつかしいゆうえんち」。1954年に開園して以来、三代にわたり群馬県の人に愛されている。テレビ番組等で日本一安い遊園地とも紹介されており、その価格は、なんと10円から乗ることができる。10円木馬という乗り物があるもくば館は国の登録有形文化財に指定されている。移動する国産の木馬としては、日本一古い木馬である。 『こどもにもどりたい、おとなたちのために』というコンセプトのもと、毎年夏の夜には限定で夜間開園されている。遊具で遊ぶことも、お酒を飲んで楽しむことも可能。 ~実際に行ってみて感じたこと~ 遊園地内は一般歩行者が通る通路につながっていて、出入りが自由になっている。実際に敷地内を歩いてみると、そこまで広くなかったためすぐにぐるりと一周回る2021-01-27
56焼町土器焼町土器群馬県渋川市にある道訓前古墳から出土した焼町土器である。 道訓前遺跡は縄文時代中期中葉から後葉にかけての大規模な環状集落である。この遺跡から出土した品々の多くが国の重要文化財に指定され、その数は165点である。 道訓前遺跡から出土した焼町土器を始め多くの土器が重要文化財に指定された理由としては、群馬県西部から長野県東部にかけて比較的限定された地域に見られる独特な文様の「焼町土器」の他にも赤城山麓を中心に分布する個性豊かな「三原田式土器」、それが変容した形である南関東の「加曽利E1式土器」「加曽利E2式」期と様々な形態なものが存在し、それらは新潟県や長野県・南関東、北関東の他地域との文化交流の様子や、赤城山麓独自の地域文化の芽生えを示していると判断されたからである。 【参考資料】 ・2021-01-27
57だるまとつながりのある群馬県の主なお祭りだるまとつながりのある群馬県の主なお祭り高崎だるまの歴史についてまとめた前編はこちらから↓ 高崎だるま ①前橋初市まつり 毎年1月9日に国道50号の本町二丁目で行われるお祭りで、前橋では三大祭りの一つとして有名である。別名「だるま市」と呼ばれ、その名の通りたくさんのだるまが売られている。50号沿いだけでなく、すぐ近くの中央通りアーケード(前橋の商店街)でも屋台の出店やイベントが開催されるので非常に賑やかである。 1番の名物は古いだるまを供養して燃やす「お焚き上げ」で、当日はお昼ごろまで多くのだるまと、火と煙を見ることができる。市民の間で、この行為を「どんど焼き(どんと焼き)」と呼ぶことが多い。群馬県では、新年になると各地でこのどんど焼きが行われる。 ②高崎だるま市  毎年1月1日から22021-01-26
58生糸はどこから来たのか生糸はどこから来たのかNPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ (参考資料:原町問屋日記 trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2000515100/2000515100100040/ht039211) 「原町問屋日記」という資料が見つかった。この資料には上田の生糸について書いてある。 この資料から、生糸が上田に来た歴史などが書かれており、上田の生糸は外国からも人気で生糸の輸出が上田を潤していたことが分かる。また、生糸はもちろん、養蚕、製糸の発展が上田地域に欠かせないものだということが分かる。製糸が発展した上田地域の環境の中で上田紬が作られ、発展していったことが分かる。2021-01-26
59海野町通り(1913年)海野町通り(1913年)1913年(大正2年)に撮影された海野町通りの写真である。 海野町商店街がある場所は海野町通りとも呼ばれている。1913年の海野町通りは海野宿を思わせる町並みをしている。 この写真は、西側から東側に向けて撮られており、荷車や着物姿の子供が多く見られる。 また、左側に「喜光堂茶舗」という名前が見える。これは、現在もあるお茶屋喜光堂の店舗である。 画像は海野町通り,「写真集上田いまむかし:上田市・丸子町・真田町/郷土出版社編」,郷土出版(1980年2月18日),P50より引用 現在の喜光堂 URL「http://www.d-commons.net/uedagaku/detail.php?id=3954」 現在の海野町商店街(2021年) りらっくすさんのサイト みんなで作る信州上田デジタルマップ2021-01-26
60信濃国分寺について信濃国分寺について国分寺は聖武天皇の命令により、国ごとに国分寺が創建された。信濃国分寺は奈良時代に上田に建立されたが、承久の乱で焼失したと言われている。そのため、室町時代に上田市国分に再建された。これが信濃国分寺である。写真は信濃国分寺本堂である。 [参考文献] 信濃国分寺公式ホームページhttp://shinano-kokubunji.or.jp/2021-01-25
61戸隠神社 中社戸隠神社 中社毎年行っている戸隠神社の中社に行ってきました。 「戸隠神社」と言えば奥社が有名だと思いますが、「奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社」の五つがあります。 町とは違い、雪がとても多かったです・・・2021-01-25
62長沼地域の歴史長沼地域の歴史 長沼地域は「大町・穂保・津野・赤沼」の4つの集落で構成されています。戦国時代には武田氏の北信濃統治の中心であったことから城下町として繁栄していました。  今は「信州リンゴ発祥の地」やアップルラインと呼ばれる国道があるほどリンゴの町として知られていますが、その始めは明治末頃から始まりました。2021-01-25
63ナオミナオミ1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 お店の雰囲気も建物全体の雰囲気も変わった様子はないが、商店街の雰囲気にとても馴染んでいるように感じる。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-24
64旧美容室いちばん星Loop's・現cafebosso/Nofy旧美容室いちばん星Loop's・現cafebosso/Nofy1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。現在は1階がカフェ、2階が美容室となっており、2012年の時点であった美容室いちばん星Loop'sは反対側の通りに移転している。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-24
65ヨロズヤヨロズヤ1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 利用している人はあまり見たことないが、雰囲気が現在もそのまま残されていて、歴史を感じる建物である。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-24
66フードショップみやしたフードショップみやした1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 雰囲気というのはほとんど変わらないが、このような食料品が売っている小さなお店というのはなかなかないため、とても貴重であると感じる。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-24
67但馬軒但馬軒1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 一部塗り直したたところもあり、外見自体少しきれいになった感じもするが、もともととてもおしゃれな雰囲気もあり、まるで見た目では精肉店のような雰囲気ではない建物 のように感じる。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-24
68万年筆の庄村万年筆の庄村1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 現在も営業しているお店であり、外見も変わらずそのままで、そして、看板の字も変わらず昔の雰囲気を感じる。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-24
69旧玉井フルーツ店・現VACILANDO COFFEE旧玉井フルーツ店・現VACILANDO COFFEE1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 2012年の時にはあった玉井フルーツは現在移転し、今はカフェとして使われている。建物の茶色の部分とはだいぶ違う真っ白な壁となっており、とてもきれいな雰囲気を感じる。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-24
70アサヒカメラ堂アサヒカメラ堂1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 見たことがあるのみで、実際お店の中には入ったことはないが、約10年経ってもそのままの形で残されている。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-24
71ホケン堂藤岡薬局ホケン堂藤岡薬局1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 目印となる左上の看板は少し雰囲気は変わったが、建物自体はそのまま残されている。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-24
72千串屋千串屋1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 現在も1階にある焼き鳥屋は特に変化がないが、2階に関しては、今では居酒屋ができていたり、一番上の広告のようなものも新しいものに変わっている。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-24
73旧むぎの里・現Nakamura旧むぎの里・現Nakamura1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 ピンク色でとても目立つ建物だが、それ自体には特に変化がない。しかし、左下のお店が2012年ではむぎの里だったのが、現在はNakamuraという居酒屋に変わっている。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-24
74旧らーめん邦心・現串まる旧らーめん邦心・現串まる1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 現在は串まるという居酒屋さんに変化したが、2012年ではラーメン屋さんであった。こう見ると、お店が変わるだけでなく、雰囲気も大きく変化している。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-24
75メガネのヤジマメガネのヤジマ1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 このお店は大きな看板も建物も特に変化がないことが分かる。とても大きく目立つ建物であるが、特に眼鏡の形をした看板には歴史を感じる雰囲気がある。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-24
76小池水産小池水産1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 現在も営業しているのかは分からないのだが、特に大きな変化はなく、そのまま残されている。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-24
77清水書店清水書店1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 全体的に変化していないのが特徴であり、まさに歴史を感じやすいお店・建物である。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-24
78いけだ薬局いけだ薬局1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 変わった点としては、2012年の時点ではカタカナでイケダと書いてあるのが、今はひらがなに変わっている。しかし、特徴があり目印ともいえる緑と白の屋根はそのまま残されている。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-24
79旧上田情報ビジネス専門学校3号館・現有料駐車場旧上田情報ビジネス専門学校3号館・現有料駐車場1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 2012年の時点であった上田情報ビジネス専門学校3号館は現在1号館の横に建てられており、そして、写真からも分かるように、今は有料駐車場になった。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-24
80学志ゼミナール学志ゼミナール1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 建物自体は特に変化がないが、2012年ではDSKパーソナルクラスだったのが、現在は学志ゼミナールに変わっている。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-24
81bb(ブラウスビューティフル)上田店bb(ブラウスビューティフル)上田店1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 特に大きな変化というのはないが、現在はお店の入り口の上にも看板が付けられていて、屋根の部分があるだけでも、また雰囲気が変わるように感じる。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-24
82ル・カドルル・カドル1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 現在はフランス料理店として経営している建物であるが、2012年の時点では特にお店はなかったことが写真から分かる。壁の色も茶色から白に変わり、とてもおしゃれである。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-24
83昭和商事株式会社 上田支店昭和商事株式会社 上田支店1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 2012年の時点では何も利用されていない建物だったが、今では2階には昭和商事株式会社、そして、1階には学習塾や不動産屋として利用されている。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-24
84信学会 上田予備校信学会 上田予備校1枚目が現在、2枚目が2012年の外見を表した写真である。 私も一時期通っていた学習塾だが、今も多くの学生が利用しており、建物自体はほとんど変化がないことが分かる。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-24
85旧レオパレス旧レオパレス1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 現在は特にお店としては使われてないが、2012年時点ではレオパレス21となっていたことが写真から分かる。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-23
86理容タケウチ理容タケウチ1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 現在も営業されているのかは正直不明であるが、建物自体そのまま残されており、看板もそのままとなっている。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-23
87コエダ時計店コエダ時計店1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 外見はほとんど変わらないが、入り口の左側にあるガラス張りのところに飾られているものを見ると、歴史を感じる。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-23
88若林陶器若林陶器1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 このお店も外見の雰囲気はそのままであり、そして、入り口の横のガラス張りに飾られているものも少しの変化はあるが、雰囲気というのはあまり変わらないように感じる。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-23
89旧大正館えんぎや旧大正館えんぎや1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 タイトルにも旧と書いたように、現在このお店はもう閉店してしまったのだが、今でも看板だけがそのまま残されている。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-23
90三井住友銀行上田支店三井住友銀行上田支店1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 銀行ということで、とくに建物なども変わってはいないが、とても立派な建物である。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-23
91松尾町フードサロン松尾町フードサロン1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 大きく変わった様子はないが、とても入りやすい雰囲気を感じる。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-23
92えんぎや京町家えんぎや京町家1枚目が現在、2枚目が2012年の外見を表した写真である。 この建物は全くというほど変化がないことが分かる。このお店は居酒屋だが、歴史的でとてもおしゃれな建物のように感じる。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-23
93松尾カメラ松尾カメラ1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 左上のフジカラーの看板がお店の名前の松尾カメラに変わったくらいで、その他はほとんど変化がないことが分かる。歴史を感じる建物である。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-23
94やまぎわ薬局やまぎわ薬局1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 この薬局も外装が古くなっていることから、塗装しきれいになっていることが分かる。古い外見のまま残すのも歴史的であり魅力があるが、外装塗装をするのもまた雰囲気が変わるため、このように写真で比べると塗装も悪くないと感じる。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-20
95プラザホテル第一駐車場と旧クリーニング松屋プラザホテル第一駐車場と旧クリーニング松屋1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表している写真である。 プラザホテル第一駐車場はそのまま残っていて、建物の外見はほとんど変わらないが、2012年の第一駐車場の右側には、その当時クリーニング松屋というクリーニング屋さんがあった。今は特に何も使われていない様子である。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-20
96旧安田たばこ店旧安田たばこ店1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 今は特にお店とかはなく、一階は住宅のようになっているが、もともとは安田たばこ店というたばこ屋が存在していたのが分かる。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-20
97上田プラザホテル上田プラザホテル1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。形としては時に変化していないが、さすがに古くなってきていることもあり、現在はきれいに塗装されており、古さを感じさせない、また新しい雰囲気のように感じる。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-20
98みすゞ飴本舗 飯島商店みすゞ飴本舗 飯島商店1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 見て分かる通り、この建物もほとんど変化がなく、歴史ある建物として大切に残り続けている。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-20
99リンズコーヒーリンズコーヒー1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 このカフェは約10年経っても外見に関しては特に変化がないことが分かる。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-20
100魚民 上田お城口駅前店魚民 上田お城口駅前店1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。 今では魚民の上の階にKATEKYO学院があり、2012年当時はなかったことがわかる。そして、その上の大きな看板には、2012年から変わらず長野大学を表す看板があることも分かる。 (2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用)2021-01-20
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