滝澤秋曉「司令塔」より⑤

滝澤秋曉「司令塔」より⑤

 手塩にかけて育てた蚕が繭になった時(収繭)の喜びをこう書いている。 
 
 『5齢になって、蚕が部屋という部屋にいきわたって、予定の籠数をも通り越していく。この時、いろんな連中が来る。教員に引率された蚕業学校の生徒、支那人の留学生、役人や組合の技師、入れ替わり、立ち代わり応接も大抵なことじゃない。しかし、いい蚕を飼っているという確信があるから、案内しても気が引けることはない。
 朝3時に起きて、午前午後とも休憩1回約30分ずつ、昼寝が1時間、夜寝るのが11時。いよいよ蚕をまぶし(蚕に繭を作らせるために、ワラで作った個室)に入れ、美しい繭が、蚕室の屋根裏から床板の上まで真っ白くきらびやかに満ち渡るのを見ると、いやだいやだと言い続けたのはどこの誰かという気持ちになる。

 4月下旬から9月上旬まで、僕は冷たい蚕室の廊下の床板の上に臥せって起きてまた臥せって、一心不乱に虫の番人を務めるのであるが、天地に冬があるためにしばらくの間、司令塔を離れる。』

*明治41年には、春蚕、夏蚕、秋蚕を飼っていたと思われる。養蚕への打ち込みに比べ、蚕種製造にかかわる記述がないのは、この時点ではあまり蚕種の生産や販売にはあまり携わっていなかったのではないかと推察する。
 
 峰村国一氏は、著作集の巻頭に、明治42年、一週間ほど蚕種業の講習会に参加した時のことをこう書いている。『その時見た秋曉彦太郎先生は、村夫子然として柔和な風貌で、かって「有明月」により詩壇に新風を送った人とは思われず、話題も蚕種業に関することのみで、ついに文芸には及ばなかった』と書かれている。実際年譜には、このころ以降に発表した作品はわずかしかない。
 「司令塔」の書かれた明治41年に秋曉は、三好米熊の名で「通俗養蚕講話」を出版している。小県蚕業学校の校長三好米熊とは、蚕業学校の生徒が見学に来るという記述があるように、養蚕家として深いつながりを持っていたと思われる。
 父彦兵衛は大正9年に亡くなっているが、こうした事情を勘案すると養蚕家の思いを「司令塔」に、養蚕の実際を「通俗養蚕講話」まとめ、蚕を相手にする養蚕から、蚕種業に軸足を移していったのではないだろうか。
 
 蚕種業は、大正期以降、一代交雑種(日本種と外国種を交尾させて質の良い糸を吐く蚕を生みだす)の開発、人工ふ化(蚕の飼育期を自由にできるように冷蔵したり酸につける)などの技術が開発され、塩尻地区の蚕種業は全盛期となった。しかし、新技術の導入には、蚕の雌雄鑑別などの人手や冷蔵庫などの設備などに多額の資金が必要になり、蚕種家が手を合わせて組合や会社組織を作り、蚕種生産することが多くなり、小規模な個人蚕種家は手を引かざる得なった。
 
 こうした時代を、蚕種家滝澤秋曉はどのように生きたか興味は尽きないが、残念ながらそれを教えてくれる手がかりはない。

 写真は、秋曉邸の建物台帳。彦太郎は秋曉。南の長屋門から母屋、北の蚕室までの配置は、取り壊されるまでほとんど変わっていなかった。
 

登録日:2023-06-04 投稿者:やまさん
地区コード秋和(塩尻地区)
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