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1下之郷駅下之郷駅生島足島神社の最寄り駅である下之郷駅。神社が近いことからデザイン性が高く生島足島神社と同じように朱色が使われている。この駅では別所線に乗ることができる。 身近にあるこの下之郷駅は他の駅とは異なり生島足島神社と統一したようなデザインとなっており、駅だけでも観光資源になりえるのではないだろうか。2023-11-24
2生島足島神社の御柱生島足島神社の御柱生島足島神社にあった立派な御柱。このほかにもいくつかあり歴史深さを感じた。 一つ一つに説明がついていて凄いしそんなものが生島足島神社に何本もあるのは生島足島神社はよほどパワーがあるのだと裏付けしているように感じた。 とても大きく迫力があり荘厳さを感じた。 いくつか撮ったがなぜかこの御神木が一番印象に残った。2023-11-21
3北向観音北向観音塩田平の歴史的な建物である北向観音を訪れた。 愛染明王が祭ってあることを実際に訪れて初めて知った。   縁結びの神社としても知られている。善光寺とセットでお参りするとよいとされている(両参り) 北向きに本堂がありこれは日本の中でもとても珍しい。 歴史が深く825年に円仁によって開創された霊場。 現世利益を願う。 副男などいろんなイベントも開かれていて地域に根差している。 また境内には愛染カツラと呼ばれる霊木がありとても迫力があった。これは縁結びの霊木と呼ばれておりみんなに親しまれているのが分かる。2023-11-21
4生島足島神社生島足島神社塩田平の歴史に興味を持ったため探訪してみた。 生島足島神社には生島大神と足島大神が祭られていて生命力を与える神と満足を与える神だとされている。 太古より国土の守り神と仰がれていた。 諏訪大神が祀られている いつ建てられたかは分かっていない。醍醐天皇に認められた神社でもあり歴史が深い。様々な武将によって寄進や修築が行われてきた。 レイラインを結ぶ大事な神社 夏至と冬至の日には日の入りの時に太陽の光が鳥居をまっすぐ通り抜けるという幻想的な景色を楽しむことができる。そのイベントも開かれている。 県宝にも指定されている。2023-11-21
5生島足島神社生島足島神社生島足島神社に足を運んでみました 普段なら通り過ぎてしまいそうな、看板をじっくり読むことで、 上田の歴史や神社の魅力をより知ることが出来ました 池にはカモかいて可愛かったです2023-11-20
6風情ある道風情ある道別所神社や常楽寺に至る石畳の道です。地域住民の家々の間を通るように伸びていることが分かるかと思います。 地域文化の中に寺社が密着していることを再認識しました。2023-10-31
7別所神社参道別所神社参道厳かな雰囲気の別所神社の参道です。 鳥居をくぐるとすぐにこのような山道が出現します。 竹林に囲まれ、別世界に入り込んだような不思議な感覚を覚えました。 この参道から俗世界を離れて神の領域に入ることができます。2023-10-31
8別所神社別所神社別所温泉にある上田市の指定文化財です。 建てられた当時は熊野大宮大社(和歌山県)の熊野大神を祭ったものでした。 後に本殿の後ろにある「男石」、「女石」、「子種石」 も「縁結び」のご利益があるとされ、祀られました。 現在の「別所神社」は明治11年からの名称になります。 熊野大宮大社の分社でありながら、別所の地域文化に根ざしている特殊な神社です。2023-10-31
9別所神社神楽殿別所神社神楽殿別所神社神楽殿(べっしょじんじゃかぐらでん)は別所神社の境内にあり、神社に関する儀式の場です。 写真は別所神社神楽殿から撮った別所の風景です。紅葉する山の借景が美しいですね。 この場で地域住民が神と共に自分たちの住む地域を見下ろしながら儀式をしていたと想像すると何やら感慨深いものがあります。2023-10-31
10学生の地域探究テーマ2023学生の地域探究テーマ2023【第3回課題10/19】信州上田学2023/マイサイトと探究テーマ  ▼社会福祉学部学生 1 長野県の自然 2 蚕都上田はどのようにして生まれたか 3 上田の地域の特徴から、福祉に活用できる社会資源を考える。 4 上田にある文化財について 5 上田市の特産物にはなにがあるのか、特産物と気候や地形との関係、特産物を使った料理について 6 上田市の食とそこから見る地域の特性 7 上田城の季節による変化 8 食と福祉(飲食店と社会福祉施設、養護施設との連携) 9 真田幸村と上田の関わり 10 なぜ上田には晴れが多いのか 11 別所温泉の自然風景とその風景に関する歴史学的・地理学的な知識 12 上田と福祉について 13 上田市内の地区の名前の由来について 14 上田市は子育てや生活をする上で、便利な地なのかどうか 15 上田市の子ど2023-10-29
11お賽銭はペイペイでお賽銭はペイペイで別所神社に行くとお賽銭箱にPayPayが!周りのお寺は現金なのに1番廃れてそうなここが1番最先端!なんだか複雑な気持ちです2023-10-20
12常盤町の歴史 昭和35年から昭和39年まで常盤町の歴史 昭和35年から昭和39年まで今回の「常盤町の歴史」では、常盤町創立(昭和35年)から平成3年(「常盤町30年のあゆみ」に記載されている範囲)の範囲内を可能な限り記す。内容に関しては私個人が重要な事を抜き出し及び文章を変更して記載すると事実と異なる内容となる危険性があるため、記されている内容をそのまま記載する。尚、該当ページは第3章常盤町30年のあゆみ、第1節常盤町30年の沿革表が記されている77頁~100頁である。文量が多いため、5年毎複数のページに分けて記載する。 昭和35年 12  県企業局より住宅団地造成計画のあることが地元(生塚区)に示される。 昭和36年 2   このころから生塚区及び関係地主の対応が具体化し始め、団地造成委員会を設けたり関係地主大会も開かれ、県や市との交渉・話し合いが頻繁にも2023-08-09
13於佐加(おさか)神社於佐加(おさか)神社長野市を流れる犀川の南岸旧・丹波島宿の最西端に位置する神社。 丹波島宿は、善光寺街道の重要な宿場町で東西に約654mの距離がある。善光寺参りの最後の宿場であるため、参拝者や旅人たちが多く利用した。 「丹波島の渡し」の無事を祈ってこの於佐加神社に参拝した。 現在でも地元の住人が参拝している様子が見られた。 写真は於佐加神社の案内掲示板。小坂神社の外観(鳥居)。摂社。旧・丹波島宿の地図。旧・丹波島橋の一部。狛犬などである。 小学生の頃に公園代わりによく遊んだが、久しぶりに訪れたら、ブランコとジャングルジムといった遊具がなくなっていて驚いた。2023-05-11
14白山神社白山神社こちらの神社は住宅街の中に建っている。名前は白山神社となっているが、読み方に関しては「ハクサン」なのか「シラヤマ」なのかインターネット上では不明である。 詳しい情報をまとめたサイトも見当たらないため、創建された年は不明だが、2023年5月時点の建物は平成六年(1994年)四月に創建したものであると建物東側の壁に記されていた。(建設に携わった人の個人名が記されているため、本記事には掲載しておりません)また、鳥居も同年十一月に創建されている。 著者が掲載している他の神社よりも最近建てられた神社であるため、建物の状態はとても良いと言える。2023-05-10
15坂城神社坂城神社坂城神社に夕方の4時半頃に行ってみました。神社を正面から撮ってみると趣を感じます。周りは田んぼが多いので虫の鳴き声が響いており心地よい風も吹いていました。2023-05-10
16愛宕神社(アタゴジンジャ)愛宕神社(アタゴジンジャ)こちらの神社は上田バイパスの北側に建てられている。神社の周りは木で囲まれており、離れたところからは鳥居のみしか見ることが出来ないようになっている。鳥居をくぐると181段(著者が数えたため正確性は保証できません)の急な階段があった。高齢の方に配慮してなのか階段の東側に階段よりは緩やかな道が作られていた。 登り終えて正面には木造のほこらがあり、左手側に神社が見える。本当であれば神社の正面から撮影を行いたかったが、神社の前はこう配が急な斜面となっており、撮影することは出来なかった。神社西側の裏には石のほこらがあり一円玉のお供えがされていた。2023-05-10
17生塚神社(ウブツカジンジャ)生塚神社(ウブツカジンジャ)こちらの神社は上田バイパスの北側に存在する。 生塚神社に含まれているのか不明だが、生塚神社の両隣に異なる神社が建てられていた。東から順に、赤岩神社、金比羅社、皇大神社、天神社、そして生塚神社を挟んで西側に左口社という配置である。 既にこのデジタルマップ内で他の方が記しているが、生塚神社では花いっぱいの会という団体の方が「花桃イベント」という物を開催している。興味のある方はそちらのイベントの方も確認されてはいかがだろうか。2023-05-10
18小松神社の青面金剛小松神社の青面金剛小松神社は、実家のすぐ近くにある小さな神社である。 この地域に住む子供たちにとっては貴重な遊び場であり、私も小学生の頃はよく公園がわりにしていた。 石碑に刻まれている青面金剛は日本仏教における信仰対象のひとつで、日本の庚申信仰の中で独自に発展した。庚申講の本尊として知られる。 神社の軒下につくられたまま放置されたスズメバチの巣は、この地の少子化の深刻さを物語っていた。2023-05-10
19須波三穂神社東の宮(スワミホジンジャヒガシノミヤ)須波三穂神社東の宮(スワミホジンジャヒガシノミヤ)こちらの神社は、上田バイパスを「上田市緑ヶ丘」の信号で南に降りた先の右側に存在する。 須波三穂神社西の宮とは異なり、「神社人」という神社に関わることが記されているサイトに情報が記載されておらず(2023年5月現在)、創建された年は不明である。また、定礎が記されているものも埋め込まれていないため、改装された年なども不明だ。しかし、手水鉢に記されている名前が「絶主 柳澤○右衛門」(○の部分は読むことが出来ませんでした)と西の宮と同一であるため、1770年代には存在したのではないかと推測される。また常夜灯には寛政十年(1798年)と記されていた。 西の宮には存在した石のほこらは東の宮にはなく、代わりに大きな石が置かれていた。2023-05-10
20諏訪神社を散策諏訪神社を散策大通りを少しそれたところに、諏訪神社を発見しました。一礼をしてから鳥居をくぐると、ひっそりとした雰囲気の神社がありました。近くのベンチには、お年寄りの方が座られて談笑しており、地域の憩いの場にもなっているようでした。鳥居からの石畳をよく見ると、人口的な四角い跡を発見。頻繁に見られるので、なんの後なのか非常に気になりました。2023-05-10
21須波三穂神社西の宮(スワミホジンジャニシノミヤ)須波三穂神社西の宮(スワミホジンジャニシノミヤ)こちらの神社は上田市の住宅街と上田バイパスの間に存在している。神社についてまとめられている「神社人」というサイトによると創建は天暦6年(952年)とされていた。その後、何度か改装されているためか、神社の建物には定礎昭和59年(1984年)と埋め込まれており、手水鉢にはおそらく安永2年(1773年)と記されていた。 神社には、賽銭箱と見受けられる物は見当たらなかったが、神社の西側には小さな石で作られたほこらがあり、一円玉がお供えされていた。おそらく、賽銭箱の代わりに石のほこらへお供えするルールがあるのではないかと考えられる。 参考文献 国際教養振興協会ICPA.「須波三穂神社西の宮」. 神社人-日本を楽しむポータル&コミュニティ.http://jinjajin.jp/modules/newdb/detail.php?id=9727(2023/05/10)2023-05-10
22山田神社山田神社2023/04/23 家の近くの神社へ。 境内には「神の水」と呼ばれている湧き水が流れている。 神社に行くまでの道は途中から車が一台ギリギリ通ることができるくらい。 細い道を抜けるとひっそりと建っている。 水は冷たくて心地よい。上田は山に囲まれているから他にも名水がありそう。2023-05-06
23蚕養国神社例大祭2023蚕養国神社例大祭2023蚕養国(こがいのくに)神社は、上田小県の蚕糸業の尊祟神を祭る神社です。大星神社の摂社です。毎年恒例の例大祭はコロナ禍のために2020年以来中止となり、4年ぶりに通常の形態で催されました。 蚕養国神社奉賛会会長の笠原一洋さんの挨拶に続き、神事が催されました。その後、藤本工業社長の佐藤修一さんによる「塩尻の蚕種業~登録有形文化財となる~」と題する講演が行われました。2023-04-28
24学生による地域キュレーション2022(信州上田学A受講生)学生による地域キュレーション2022(信州上田学A受講生)長野大学の地域科目「信州上田学A」を受講した学生が「信州上田」を接点とした地域キュレーションの学習成果です。タイトルを選ぶとその学生のマイサイトを表示します。 ▼カテゴリ1:蚕都上田 【1】 長野県の中でなぜ上田市が蚕都で有名なのか 【2】 上田の養蚕の歴史を掘り下げ、伝え続けるには。 【3】 蚕都上田の歴史と未来 【4】 製糸業の歴史 【5】 蚕都上田の歴史 【6】 蚕都上田2023-02-10
25まとめまとめ別所の温泉は平安時代から認知されていたり大成に駅が開通されたりと別所は歴史のある場所だとわかった。 歴史的価値のある古い建物があるだけではなく温泉もあり自然豊かなところであり行事を行ったりして観光にも特化していることもわかった。 前回は温泉にしか行かなかったのだが辻に別所温泉に観光に行ったら神社や森林センターなどにも訪れてみたい。2023-02-04
26太郎山神社(2)太郎山神社(2)神社拝殿の登り口左側に、明治35年再建の入母屋瓦葺の二間四方板床の神楽殿があって、五月初めの春の例祭には東麓の山口の人たちによって、ここで太々神楽が奉納される。太々神楽というのは、神職が願主に代わって捧げる舞で、第二次大戦後は山口出生の男子を中心に、継承の責任を担っている。 https://jpsearch.go.jp/item/u001-UMS_001_2512023-02-01
27太郎山神社(1)太郎山神社(1)太郎山の山頂付近には太郎山神社が建っている。写真は太郎山神社の本殿である。 棟札によると、明治6年3月15日に再建され、大工棟梁の山崎正是、金井為久、彫工棟梁の竹内八十吉など、大勢の人々によってつくられたとある。 https://jpsearch.go.jp/item/u001-UMS_001_0222023-01-30
28表参道(1)表参道(1)表参道は、太郎山の頂上への参道として、昔から親しまれてきた登山道である。 写真の小さな石のほこらは、表参道に約100m毎の距離で置かれている。ふもとの白山神社を起点に太郎山神社まで36個設置されている。 https://jpsearch.go.jp/item/u001-UMS_008_05312023-01-30
29まとめ~武田信玄武将の起請文〔八三通〕~まとめ~武田信玄武将の起請文〔八三通〕~写真の起請文は、武田信玄が配下の武将を、下郷(下之郷のこと。以下同じ)諏訪大明神(生島足島神社)へ集めて、信玄に絶対背かぬことを、神前で誓わせたものです。誓いの言葉を牛王紙の裏に書き、血判を押して、差し出させたもので、全国的に有名なものです。 この貴重な文書が生島足島神社に残っていることに歴史的な価値があると感じました。 https://museum.umic.jp/bunkazai/document2/089-1.html 武田信玄と信州は深い関わりがあり、その中でも生島足島神社に信玄がこだわったというのも面白く感じました。そして、信玄についてだけではなく当時の人びとがどのような宗教観や価値観を抱いていたのかを副産物として知ることができ、特定の人物だけでなく、社会がどのように動いていったのか文書から読み解けることにもつながることがわかりました2023-01-30
30壱叶・三かわ連署願文壱叶・三かわ連署願文この文書は戦国時代の武将室賀信俊の妻壱叶と、信俊の弟経秀〔の妻三かわが、武田信玄に従って出陣した夫〔の無事を、下之郷大明神(生島足島神社)にお祈りして差し上げた、お願いの文書で、願文といいます。戦国時代の女性の願文や女性の花押〔かおう〕(書〔か〕き判〔はん〕)を記した文書は、例が少なく大変珍らしいものであるそうです。 この時代の女性の苦悩がうかがい知れます。 https://museum.umic.jp/bunkazai/document2/089-5.html2023-01-30
31武田信玄願文(県宝)武田信玄願文(県宝) 武田信玄は、上杉謙信との戦いに備えて、東信濃の名社生島足島神社に、願文を献げ、今後の戦について深く祈願するところがあったそうな。  これがその願文で、おわりに永禄2年(1559)と記され、信玄自筆のものといわれています。 「謹んで、下之郷諏訪大明神に申し上げます。私(信玄)は、越後の軍勢(謙信をさす)が攻めてくるので、戦うがよいかどうかト(うらな)ったところ”吉”という卦が出ました。そこでこの天の教えに従って出陣いたします。何卒私の軍に勝利を与えられ、長尾景虎(謙信)が逃亡するようお助けをお願いいたします。もし私が凱歌をあげて帰国しましたなら、今年から10カ年間、毎年青銅貨10緡ずつお社のために上納いたします。」 調べて知ったことですが、信玄は戦国大名の中でも占いマニアだ2023-01-30
32はじめに~武田信玄と上田のつながり~はじめに~武田信玄と上田のつながり~武田信玄は戦国時代に甲斐国(山梨県)の守護を独占してきましたが、一見関わりのなさそうな上田とはいったいどのようなつながりがあるのでしょうか?。 信玄は領地拡大のために信濃に侵攻した歴史が残っています。現在の上田地域を支配していた村上氏との上田原の合戦、砥石城の戦いで負け戦さとなったものの最終的には、村上氏をも越後へ敗走させ、川中島の戦いを経て北信濃までその支配下に治めたのがおおまかな史実です。 上田との関わりは、玄配下の武将たちが起請文を奉じた場所が生島足島神社であり、数多くの古文書が残されているという点です。   https://museum.umic.jp/ikushima/komonjyo/index.html2023-01-30
33上田町上田町上田町の明治時代前期の姿である。寺や神社が多いことが分かる。現在の上田町と比べても全く同じ名前の寺や神社が残っておりその中には江戸時代から姿を変えず残っているものもある。 https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03MP0301080250 (信州デジタルコモンズ)2023-01-27
34市街地方面の神社・寺院と真田氏市街地方面の神社・寺院と真田氏上田城周辺には、神社・寺院が多数存在する。しかも、同じような場所に集まっている場合が多い。これは、地域のシンボルである上田城に深く関わってくる。1583(天正11)年、上田城を築城した真田昌幸は、城下町として海野町を作った。これは、先祖の地である海野郷(現在の東御市本海野)より、新たな本拠地近くに住民を移住させたことに由来する。それに伴い、海野郷近辺にあった寺院を城の近くに移した。例えば願行寺や日輪寺といった寺院がこれに該当し、真田氏の先祖である海野氏が開いたとされる場合が多い。特に願行寺は、江戸時代に上田藩の菩提寺になったほど、この地域や人々に深く根付いていたと考えられる。また海野町には、商売繁盛を利益とする高市神社がある。これは昌幸がつくったものだ。 このように、上田城を築城す2023-01-26
35名工の社殿と養蚕農家 ~上田市下堀地区~名工の社殿と養蚕農家 ~上田市下堀地区~信濃国分寺駅の南側に位置する下堀地区です。 ここには堀川神社があり、今でも地区住民によって守られています。 拝殿は一見シンプルですが、本殿を見ると見事な装飾があります。これは1886年(明治19年)に上田の名工竹内八十吉によって掘られたものです。八十吉は1815年(文化12年)から1898年(明治31年)まで活躍した諏訪立川流の大工で、堀川神社以外にも信濃国分寺の本殿の彫刻も掘っている。 次に下堀地区は養蚕業で栄えていた地区である。その証拠がこの石垣である。 これは、ぼたもち積みと呼ばれる積み方でお金持ちの家しか作ることができない石垣である。https://d-commons.net/upload/4/575/054168_0023_006.jpg養蚕業で儲けていたからこそできる石垣で、当時は養蚕農家それぞれが競い合って家を建てていたそうだ。それほどまでにこの地区の養2023-01-19
36眞田神社眞田神社眞田神社は「上田合戦」に勝利した真田昌幸・幸村親子をはじめ代々の上田城主を祀った神社なので、「勝負運」や「勝運」、落ちない城ということで「学業成就」のご利益があるとされています。2023-01-26
37別所神社本殿別所神社本殿別所神社本殿は、別所温泉の北方、常楽寺に隣接し、塩田平をはじめ遠く浅間連峰が望める小高い丘の上にあります。 https://museum.umic.jp/bunkazai/document/dot14.htmlより引用2023-01-25
38塩田平の魅力の発信塩田平の魅力の発信塩田平のちにはため池が点在しており、塩田平の駅を降りるとため池が広がっています。もともとこの土地は塩田3万石といわれる上田藩の穀倉地帯だったのにも関わらず、恵みの雨が少ない地域でした。そのため、古くから人々にとってため池は、支えになっていたのです。そして、この塩田平には長い歴史があります。歴史があるということは、人が生きた物語があるということです。私は、こういったものを上田の地元の人はもちろん、観光客の方にも伝え発信していきたいと考えました。 こういった、地方の魅力を磨き上げ発信していくためには、まず若者の力は必要です。しかし、現在、地方の若者の人口は年々減少し、若者はみんな都心に流出していしまっています。その原因には、地方の地元の魅力をあまり理解できてなく、利便性だけが追2023-01-23
39三枝昌貞起請文三枝昌貞起請文生島足島神社には、甲斐から信濃へ版図を広げた戦国大名の武田信玄とその家臣達の起請文が数多く残されている。 起請文とは、主君に対して家臣が忠節を神仏に誓って尽くすことを決意表明した文書である。 基本的に、主君を裏切らないことや他国と勝手に文通をしないこと、賄賂を受け取らないこと等を誓うのだが、三枝昌貞の起請文は普通の起請文とは違う内容が書かれている。 内容は「信玄様に対して、如何なることにおいても愚痴を言わないこと」。このような起請文は珍しく研究の価値があるのではないだろうか。2023-01-23
40上田の魅力と活性化上田の魅力と活性化 単元3を通して、塩田平地域は「信州の鎌倉」と呼ばれ、多くの寺院や文化財、ため池など様々な魅力があることが分かった。しかし、活性化を考えたときに、オシャレや写真映えなどに興味がある若者からすると、現在の塩田平にあまり興味が湧かないと感じた。  そこで、ため池を活用した花火を打ち上げやイルミネーション、夜桜や紅葉をライトアップすることで若者を呼び込めると考えた。広いため池では、スワンボートのような足漕ぎボートを設置することで、若者だけでなく親子も楽しめると考える。  また、生島足島神社で祭りを開催したり、マルシェのようなものを開いたりすることで、老若男女問わず楽しめる場所になると考えた。マルシェでは地域の特産品などの宣伝を行うことも可能である。  以前、「信州上田レイライン線」2023-01-23
41まとめまとめ上田には歴史が詰まっている。 私は長野大学に入学してから上田市とのかかわりが増え、より感じるようになった。 例えば、上田城。石垣やお城の後はそこに時代を感じさせる。神社やお寺も意外と上田にあったりする。 上田駅を出てすぐの商店街は今も昔もそこに存在している感じがする。少し歩けばいろんなお店があって、昔ながらのものもあれば最近できたおしゃれなお店まで、点在している。 上田市がどうやって歴史をつないで今の姿になっているのかを私たちは肌で感じながら暮らすことができる。 それこそが上田にある魅力の一つではないだろうか。2023-01-23
42祇園祭祇園祭京都で開かれる有名な祇園祭ですが、平安時代に疫病や厄災の除去を祈ったことが起源とされ、現在は八坂神社の祭礼へと継承されています。 ▼この記事は以下から参照できます。 https://jpsearch.go.jp/item/arc_nishikie-arcUP61972023-01-19
432023元日の上田2023元日の上田2023年の元日は晴天に恵まれ、塩田平にある生島足島神社へ初詣に出かけました。いつも見慣れている風景ながら、「上田とはどんなところか?」、改めて眺め直してみました。 上田からは烏帽子岳が最もよく見えます。何よりも烏帽子状の山容が美しい。 次に美ヶ原、深田久弥が「日本百名山」に選んだ山の一つ。山の頂は起伏が極めて少なく平坦に長く続き、これが一つの山とは認知しがたいぐらいに「控えめ」な佇まいをしています。地元の人は美ヶ原とは呼ばず「うつくし」と呼びます。山頂はほぼ平坦ながらわずかばかり高く見える山頂にテレビ塔がいくつも立ち並んでいます。美ヶ原はこのテレビ塔の存在がアクセントとなり不思議に美しい。 小牧山は地元の人々もそれが何山かを意識することなく存在している超低山です。この地点は地2023-01-03
4412月22日分 調査まとめ12月22日分 調査まとめ上田城の築城・歴史 「日本一の兵」真田幸村を輩出した真田氏は、現在の上田市真田町の周辺を拠点として活動していた。上田城の築城が開始されたのは1583年のことで、真田幸村の父である真田昌幸によって築城が開始された。当時徳川家康に仕えていた昌幸は、その援助を受けながら築城をしていた。しかし、北条と手を組もうとする徳川から土地の受領を要請された際にこれを拒否。徳川と断絶した昌幸は、上杉家に助力を求め次男の幸村を人質に差し出す。これにより、上杉方から戦力と築城の支援を受けた。上田城が一旦の完成を迎えた1585年、家康は鳥居元忠らを真田領に進軍させ「第一次上田合戦」が始まった。およそ1万の軍勢で進軍してきた徳川軍を昌幸は謀略を用いて少数の軍勢で撃退した。時は流れて関ヶ原の戦い最中の1600年、家康の息2022-12-22
45十九夜塔(加増公民館)十九夜塔(加増公民館)加増公民館駐車場の諏訪神社への階段の左に建立されている如意輪観音。きれいな案内板が設置されています。 寛政7年(1795年)建立。 石造物マップ2022-12-20
46前山 塩野神社前山 塩野神社御祭神は素盞嗚尊(すさのをのみこと)、大己貴尊(おおなむちのみこと)、少彦名尊(すくなひこなのみこと)です。独鈷山の麓に鎮座し、独鈷山登山口に大鳥居がそびえています。境内入口をはいり、杉檜の参道を進むと、塩野川を渡る神橋(7枚目の写真)があり、そこから広がる景色はとても神秘的です。2022-12-06
47上田招魂社上田招魂社上田招魂社は眞田神社と同じく上田城内に建立されている神社です。戊辰戦役従軍の戦死者をはじめ日清日露の戦争を経て今次の大東亜戦争に至る間国家の為尊き命を捧げられた5,936人の英霊をまつる御社です。2022-12-05
48眞田神社眞田神社眞田神社は真田氏、仙石氏、松平氏という歴代の上田城主を御祭神としています。しかし、もともとは松平家の御先祖をお祀りする御宮であり、松平神社と呼ばれていました。 4枚目の写真は城内唯一の大井戸で、この井戸の抜け穴は白の北方、太郎山麓や藩主居館跡にも通じていたとの伝説があります。2022-12-05
49氷上王子神社氷上王子神社氷上王子神社(ヒカミオウジジンジャ)は建御名方命、月読命、氷上王子命を祭神としている神社である。神社内にある王子像は市指定文化財に指定されている。2022-12-05
50蚕の蛹:活用考察④蚕の蛹:活用考察④この写真は生島足島神社です。 ここには池があり鯉や鴨が生息していて、餌やり体験が出来ますが、基本的に人工飼料です。 ここに蚕の蛹を練り込むことで、高タンパクである虫の栄養素を吸収させて肥大化を防いだり、自然素材である昆虫を使うことで過度な餌やりによる水質汚染が防止できる可能性があります。 綺麗な池の様子を保つことに一役買えるかもしれません。2022-12-05
51上田大神宮上田大神宮柳町を抜けた先にある神社。赤い屋根が目印です。2022-12-05
52真田神社真田神社上田城跡公園にある真田神社。風が吹き、絵馬がお互いにぶつかり合ってカラカラと音を立てていました。2022-12-05
53山家神社山家神社上田市真田町長にある山家神社です。「白山大権現(はくさんだいごんげん)」と称えられ、ご利益としては上田城鬼門除けの神として広く信仰されています。2022-12-05
54上田城上田城真田幸村で有名な上田城。二度にわたる徳川軍を退けた難攻不落の城と呼ばれている。大河ドラマの「真田幸村」や「サマーウォーズ」のモデルとしても知られ、多くのファンから人気の観光スポットにもなっている。春に行ったときは桜が満開で川に移る姿や楽し気な屋台の列が印象的でした。奥に進むと結構大きな神社もあって素敵な場所でした。2022-12-05
55市街地方面の寺院、神社市街地方面の寺院、神社やはり城下町らしく、この地を治めた真田氏に縁あるものが多い。欧州ではキリスト教、東洋で仏教、そして日本の神道。古来より信仰というものは人々の生活の隣にあるものだった。信仰のあり方はその地域の生活のあり方ともいえる。歴史を紐解くうえで貴重な材料となり得るものである。(今回キリスト教を取り上げなかったのは、ここいら一帯はキリシタンが現れた時期が遅かったと考えられるためである。)2022-12-04
56科野大宮社科野大宮社祭神は「事代主命(コトシロヌシノミコト)」、「大巳貴命(オオナムチノミコト)」。なかなかの規模の神社。近くに高校があったり、スーパーがあったりする。こういった施設が入り乱れている点も上田市のいいところ。2022-12-04
57高市神社高市神社海野町の通りにある神社。祭神は「大国主(オオクニヌシ)神」、「事代主(コトシロヌシ)神」。大国主神は大黒天、事代主神は恵比寿神として七福神にも数えられる。 この神社は海野町の商いの神様である。 境内には「運の石」という石があり、開運と悪運除けがご利益。真田昌幸が上田城築城の折に白鳥神社から霊力宿る石を授かった。それがこの神社のご神体。そして、その石に縁ある石を高野山から持ってきて運の石とした。2022-12-04
58太神宮社太神宮社祭神は「天照(アマテラス)皇大神」、「豊受(トヨウケ)皇大神」。1622年に秋和から今の場所へ遷された。上田地域の伊勢信仰の中心。境内にはお稲荷様らしき連鳥居がある。2022-12-04
59諏訪神社諏訪神社祭神は「建御名方富命(タテミナカタトミノミコト)」。 諏訪大社の分社、分神として、諏訪大明神と称された。2022-12-04
60太郎山太郎山上田市の北に位置する里山。 近くには太郎山神社があり、信仰も根強い。 歩道も整備されており比較的登りやすい山である。2022-12-02
61根子岳根子岳上田市の菅平高原に位置する山。 緩やかな登山道が印象的で周りの広々とした景色を楽しみながら登ることができる。 頂上は広々としていて小さい神社がある。2022-12-02
62蚕影社蚕影社上田の最初の町の成型として考えられるのが蚕影社であり、神畑にあるこの社は28か所あるとされている神社の一つである。この神社群は養蚕の神を奉り、蚕の安定を図るために作られた。そのような経過を経て、上田地方では養蚕の拡大に伴い各地で養蚕振興が盛んになったことがうかがえる。また、神社は古代における村や集落の中心であったため、昔から現在にかけてまで、蚕は街づくりの基盤となっていたと考えることができる。2022-11-30
63木々と水の音が響く神聖な場所木々と水の音が響く神聖な場所今回は「別所温泉森林公園」や「別所氷沢の風穴」の近くにある、「三嶋神社」にきました! 木々に囲まれ、静かに流れる水の音を聞きながらの参拝。 とても身が締まる気持ちになりました。 日が陰っている時間帯でしたので、全体的に薄暗く、少し怖くもありました。 その厳かな雰囲気に圧倒されながらも、これぞ日本という感覚を直に受けることができた、良い経験となりました。2022-11-30
64戸隠神社 中社戸隠神社 中社 ゼミの研修で戸隠神社の中社に行く機会があった。これは、その時に撮影した写真である。  戸隠神社には、奥社・中社・宝光社の3社が存在している。平安時代から修験道が行われ、日本有数の霊場として知られていた。 この歴史は古く、嘉祥2年(849)頃、学問行者により戸隠寺(奥院)が開かれたと言われる。康平元年(1058)に宝光院、寛治元年(1087)に中院がそれぞれ開かれたと伝えられている。  中社のご祭神は「雨八意思金命 あめのやごころおもいかねのみこと」である。この神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)の度重なる非行に天照大神がお隠れになった時に岩戸神楽(太々神楽)を創案し、岩戸を開くきっかけを作った神である。  学業成就・商売繁盛・開運・厄除・家内安全に御神徳がある。2022-11-30
65養蚕国神社養蚕国神社養蚕国神社は大星神社と一緒になっていて、敷地は広かったですが、養蚕国神社の建造は小さめでした。説明文がわかりやすく書かれており、どのうなことがあったのかがすぐわかりました。 1937年(昭和12年)、上小蚕糸業界の尊崇神ときて蚕影神社の建立を決議しました。 竣工は昭和16年4月28日で、同時に遷宮奉祝祭が執り行われました。以後、関係者によって例年蚕糸祭が開かれています。2022-11-30
66感染対策ばっちり感染対策ばっちり 眞田神社を訪れたときにお参りしようとしたら、鐘を自分で揺らして鳴らすのではなく、手をかざすことによって鳴らすという画期的なものを見つけました。お賽銭箱の上に3つ並んでいたので、順番を待つ時間も短縮され、一石二鳥です。  本当は動画を掲載したかったのですが、うまくいきませんでした。。。2022-11-30
67生島足島神社生島足島神社 生きとし生けるもの万物に生命力を与える「生島大神」と、生きとし生けるもの万物に満足を与える「足島大神」の2神が祀られ、摂社(下社・下宮)には諏訪大神が祀られる信濃屈指の古社である。  ご本殿は神池に囲まれた神島のまわりを老樹に囲まれて建っている。御扉の奥には御室と呼ばれる内殿があり、内殿には床板がなく大地そのものが御神体として祀られている。この池を巡らせて神域とされる島を作る様子は「池心の宮園池いけこころのみやえんち」と称され、出雲式園地の面影を残す、日本でも最古の形式の1つとされるものである。  2枚目の神楽殿からちょこっとのぞく内殿の写真が個人的ベストショットです。2022-11-30
68眞田神社眞田神社 眞田神社は上田城本丸跡に鎮座しており、真田氏、仙谷氏、松平氏という歴代の上田城主を御祭神としている。しかし、本来は松平家の御先祖をお祀りする御宮であり、松平(しょうへい)神社と称していた。  松平家は、真田氏、仙谷氏のあと、江戸時代中期から明治の廃藩に至るまで7代160余年の長きにわたる上田藩主であった。  上田藩主となった系統の藤井松平氏の初代忠晴公は、隠退後は忠山と号した。寛文9年(1669)に亡くなった。忠山公の御墓所は京都の金戒光明寺にあり、京都に忠山公の御霊をまつる忠山社が設けられてもいた。これが眞田神社の起源となっている。  明治維新の変革の中、国に接収された上田城もまもなく民間に払い下げられ、城跡は急速に桑園・麦畑などに変化していった。そのような情勢の中で、旧上田藩士や2022-11-30
69アリオ神社アリオ神社 2021年12月28日にアリオ上田に設置された通称アリオ神社。本当の名前は「四阿流尾神社(あずまやりゅうおじんじゃ)」といい、上田市真田町長にある「山家神社」の分祀だそうだ。  社の大きさは横68㎝、奥行き88㎝、高さ約100㎝で総ヒバ造り。真田町の建築業者が設計し、武石村の大工が建築した。  山家神社の始まりは、食物の実り、郷の安寧、人々の無事を大きなしぜんのなかの一部として生かされていることに感謝し、祈りを捧げ掌を合わせたことである。  主祭神は国造り、国護り神話の中心的な神である大国主神、対偶神の伊邪那伎神との国生み、神生みの伊邪那美神、伊邪那伎神が伊邪那美神を追って黄泉国に到り、そこから逃げ帰ろうとして、黄泉平坂で争った際、間に立って二神の調停をした菊理媛神である。  神社の隣には2022-11-30
70生島足島神社生島足島神社日本の真ん中に位置していると言われている「生島足島神社」です。池には鯉や鴨がいて、餌やりができました。2022-11-30
71蚕養国神社②蚕養国神社②蚕養国神社で行われた行事の様子がホームページで公開されていて、とても興味深かったです。 関心のある方は、ぜひ見てみてください。2022-11-28
72蚕養国神社①蚕養国神社①蚕養国神社は、木に囲まれた中にひっそりとある雰囲気がとても素敵だと思いました。 神社のすぐそばに駐車場があるので、車で行くことができます。2022-11-28
73生島足島神社生島足島神社県内でも諏訪大社に次いで古いとされている生島足島神社。創建がいつかはっきりしていないが、平安時代の書物にはその名が記されていた事から、かなり古い歴史を持つことがわかる。生島足島神社では毎年1月に、お粥を使ってその年の農作物や蚕の出来高を占う行事が行われており、蚕都としての長い歴史を垣間見ることができる。2022-11-28
74蚕養国神社②蚕養国神社②県歌である「信濃の国」の3番後半の歌詞には、蚕都上田の蚕糸業が日本経済の命運を左右する程重要な産業であることが歌いこまれている。 養蚕・生糸から始まった上田市産業文化の発展を願い、平成19年に神社脇に「萬葉歌碑」が建立された。上田市の産業と蚕には深い関わりがある。2022-11-27
75蚕養国神社①蚕養国神社①上田市内には「蚕」の名がつく神社が7社ある。 その中で、蚕が繭になる直前の大きさと同じ大きさの女神像が安置されている蚕養国神社に行ってきた。 昭和12年に上小蚕糸同盟会は蚕糸業界の尊崇神として蚕影神社の建立を決議したが、具体的には上田大星神社の摂社蚕養国神社の増営をすることとなった。工事が完了したのは昭和16年6月28日で、同時に遷奉祝祭が執り行われた。以後関係者によって例年蚕糸祭が開かれている。2022-11-27
76蚕神像蚕神像手に繭をのせた「蚕神」のブロンズ像が上田駅構内に飾られている。上田市内には蚕の神に関する神社も多数存在している。2022-11-27
77高市神社高市神社海野町商店街にある神社です。受験前にここに立ち寄り、運の石を触って験担ぎしてから受験しました笑笑。2022-11-27
78常田館製糸場見学1常田館製糸場見学1蚕都上田について学ぶため、常田館製糸場に見学に行ってきました。 上田駅から常田館製糸場に行くまでの道で「蚕影町の由来」と書かれた看板を見つけました。そこの周辺が一面桑畑であったことや、常田館が建設されて、機械製糸業が主流となり、蚕の道(シルクロード)と呼ばれて蚕都の全盛を迎えたことなどが書かれていました。神社や町の名前に「蚕」という字が入るほど、蚕糸業が当時の生活に大きな影響を与えていたのだと感じました。2022-11-24
79土佐神社土佐神社2022/02/27 高知県、土佐一宮 土佐神社へ。 ここ、土佐神社は1570年に長宗我部元親により再建されてる神社。国の重要文化財にも指定されている。 私は旅行に行くと調べることが2つある。 1つ目は山。その場所で有名な山を調べることは山好きあるある。 2つ目に寺社仏閣と教会。一見、寺社仏閣と教会は反対のように見えるかもしれない。しかし、私がこれらが好きなのは”時には人の心のよりどころ””時には願う場所”と人を惹きつけるという所になんともいえぬ魅力を感じているから。 実はこの土佐神社には個人的なエピソードがある。 マイサイトでも投稿したが5月に北海道に行ったときのこと。 私がいつも通り、御朱印帳に日記を書いているとCAさんに「御朱印やられているんですか?」と声をかけていただいた。御朱印帳2022-11-22
80一番お世話になっている神社一番お世話になっている神社生島足島神社に行ってきました。我が家から徒歩10分程度で行けるので初詣に毎年訪れています。パワースポットしても有名らしく観光バスなどをよく見かけます。様々な行事を行っているので今度参加してみたいなと思いました。身近な場所が有名になると自分も誇らしくなります。2022-11-18
81加美畑神社加美畑神社上田原合戦の折に、武田信玄公が通ったとされる神社。 氏神は今日まで住民から崇拝される大明神で、子孫繁栄や無病息災などを祈願していた。2022-11-11
8210/27 神川小地域学習支援① 地域探検~お気に入りの場所やものを探そう~10/27 神川小地域学習支援① 地域探検~お気に入りの場所やものを探そう~全3回ある授業の1回目です。 10月27日に神川小の3年生の児童と一緒に、国分地区を探検し、お気に入りの場所やものを探すという学習支援を行いました。 今回は蚕影神社→信濃国分寺駅→国分寺→史跡公園の順番で地域を探検し、みんな思い思いにいろんな物にカメラを向けていました。 児童はクロームブックで写真を撮ることに非常に興味を持っていて、神社などの大きな建造物から駅に咲いている花や公園に落ちている葉っぱなどの小さなものまで写真をたくさん撮っている児童が多く見受けられました。 「こんなところに文字が書いてある!」「なんだこれ!?」と不思議に思ったり新しい発見ができた児童や「こんなの見つけたよ!」「きれいな写真が撮れたよ!」と私に見せてくれる児童もいました。 子供はこういうところに興味を持つんだ2022-10-27
83上田探検隊まとめ上田探検隊まとめ上田探検隊を通じて、私は上田の名所について新しく知っていく度に、上田に住んでいながら自分は上田についてまだまだ知らないんだなと感じさせられました。実際に愛宕神社や、一里塚については初見でしたし、上田城の近くにあることぶき商店も上田探検隊の活動で初めて知りました。上田についてまだまだ知らないことが多いということを実感したのと共に、魅力がある場所が結構あるにも関わらず、自分のように上田に住んでいたけど知らなかったりと、上田市の魅力があまり色んな人に行き届いていないのも実感しました。2022-11-06
84愛宕神社について②愛宕神社について②愛宕神社のいわゆる建物の中には入れなかったものの人々が参拝する場所には行けました。軽いお賽銭箱のような物が扉についていました。上田市の眞田神社に比べるとやはり建物は小さいものの、自然に囲まれた神社の神聖な雰囲気を味わえました。2022-11-03
85愛宕神社 上愛宕神社 上愛宕神社の下の鳥居から階段を登り、その上にある愛宕神社につきました。その愛宕神社は山にたてられているため、周りは草木が生い茂っており、田舎にある神社というイメージがぴったり当てはまる様でした。この雰囲気が個人的には結構落ち着くものだったのでとても心安らぎました。2022-11-03
86愛宕神社について愛宕神社について愛宕神社は入口の鳥居から既に歴史を感じさせます。その奥には見上げるほどの段数の多い階段があり、傾斜もきつく、かなり危険でした。しかし、登った後に上から見る街並みは上田城の上から見る景色とはまた違う景色で、綺麗だと感じました。実際に上ってみる価値はあると感じました。ですが、危ないのには変わらないので、上るかどうかは個人の判断にお任せします。2022-11-03
87常楽寺常楽寺常楽寺に行ってきました。別所温泉駅周辺は温泉だけでなく、歴史を感じるお寺や神社がたくさんありました。見どころがたくさんあるのでぜひきてみてください。2022-11-03
88コスモスコスモス秋和の北側、生塚神社周辺にはコスモスが咲いています。時期は既に遅めですが、2、3輪ほど綺麗に咲いていました。2022-11-03
89上田市の景色上田市の景色愛宕神社から見える景色。若干紅葉もしていて綺麗だった。田舎の街並みがよく見える。2022-11-03
905倍速:神社を下る5倍速:神社を下る愛宕神社の、約180段にもなる階段を下りました。あまりに長いので5倍速です。 2022-11-03
91愛宕神社愛宕神社山の中にある神社。急な階段を登ると突如現れる。落石注意の看板もあり怖い。上から見る景色はきれいだった。2022-11-03
92愛宕神社愛宕神社上田市秋和にある、愛宕神社。上田市内には何故か、「愛宕神社」という神社がいくつかあります。長い階段は180段以上…!登る途中に後ろを振り返ると、上田市街が一望できます。2022-11-03
93生島足島神社生島足島神社2022-11-03
942022-11-02
95長福寺長福寺生島足島神社に隣に建つ長福寺は平安時代の康保2年(965)創建で、創基は祐存上人と伝えられている。境内の一隅にある八角円堂は奈良、法隆寺の夢殿を模して、二分の一の縮尺で建てられた美しい御堂で、信州夢殿と呼ばれて親しまれている。 境内の中で一番目立っていたのはやはり八角円堂で普通の寺とは全く異なる印象を受けた。2022-11-01
96生島足島神社生島足島神社創建は不詳。社伝では、建御名方富命(摂社諏訪神社祭神)が諏訪へ向かっていた時、この地に留まり、生島・足島両神に米粥を煮て献じたという。この伝承から、生島・足島両神は当地の地主神であると見られており、伝承自体は現在も特殊神事の「御籠祭(おこもりさい)」に名残を残している。 赤を貴重とした建物は周りから見ても大変目立っており、訪れたのは平日だったにも関わらず参拝者は多くいた。2022-11-01
97上田探検 まちなか 高市神社上田探検 まちなか 高市神社ここは高市神社という街中にある神社である。ここには運の石というスポットがあり、悪運を祓い、良運を呼び寄せると言われています。2022-10-31
98生島足島神社生島足島神社こちらは有名な観光地ですが、せっかくなのでよって写真を撮りました。生島足島神社です。赤い建物がとても美しく、池の鯉もゆったりと泳いでいて、風情を感じる場でした。また平日にも限らず多くの人でにぎわっており、上田の観光地として大きく貢献しているのだな、と目で感じました。2022-10-31
99コミュニティーカフェ「縁舎」コミュニティーカフェ「縁舎」生島足島神社のすぐ近くにあったあったカフェ、縁舎の写真です。この日は運悪く店がお休みでした… 外装、特に瓦屋根や年季の入った壁などから、とても風情を感じてすてきだな、と感じました!2022-10-31
100眞田神社眞田神社眞田神社は上田城の中にあります。過去の上田城の城主を御祭神にしているそうです。2022-10-31
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