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写真タイトル説明登録日
1太郎山縦走路整備太郎山縦走路整備令和5.9.24 今日は西部公民館主催の太郎山縦走路整備でした。 毎年 春と秋2回行われています。 なんと20年続いているそうです。 天気にも恵まれ 今年は草丈が短く早めに終わりましました。 とても 爽やかな清々しい1日でした。 若い方の力 女性の力 お待ちしています。 仲間がとても楽しいですよ。2023-09-26
2第9回太郎山登山競争荷揚げと眺望をよくする為の伐採第9回太郎山登山競争荷揚げと眺望をよくする為の伐採2023.4.29 5月3.4日に行われる太郎山登山競争の荷揚げ,スカイニンジャのみなさんと行われました。 2日間 山頂は熱気に包まれます。 3日は大星神社から48曲がりを駆け上がるコースと 古井戸から一度降りて虚空蔵堂から牛伏城跡を駆け上がるコースがあります。 山頂から白馬を見たいと要望が多く 眺望の為 許可を得て伐採が始まりました。太郎山を愛する皆さんとボランティアの皆さん9回目も晴れです。2023-05-01
3太郎山の逆さ霧太郎山の逆さ霧雨上がりのあと 逆さ霧 ザワザワ!兎峰だけ顔出してますね。 見事でした。明日は 晴れ☀️ですね。2023-04-13
4牛伏コース牛伏コース2023年4月1日 牛伏コースの整備に行きました。山城の、牛伏城 荒城が連なっています。 このコースは5月3日4日に行う スカイランニングのコースです。 ここを勇者が駆け上ります。かなりの急登で四つん這いで這い上がるところのようです。 道を塞いでいる倒木を片付け、落ち葉を掃きながら登り、掃きながら下りてきます。 登山者用の回り道に階段をつくりました。まだまだ途中です。 山の整備は無理は禁物! 怪我をしないよう、何日もかけて整備します。次は9日の予定。2023-04-03
5太郎山山系の山城〈ケムリの城跡・燕城②〉太郎山山系の山城〈ケムリの城跡・燕城②〉 ケムリの城は、やせた岩尾根を何本もの堀切が区切り、平坦な場所はごくわずかです。堀切は、東西に深く切り落ちていて、渡るには危険を伴います。平坦地が少ないため、常時、多くの人を配置するのは困難に思えます。稜線を駆け上り、稜線をたどって坂城に侵入する敵を足止めさせる役割が大きかったのではないかと推察しました。  急で、滑りやすく、東西は切り落ち、登山道のわかりにくいところもあり、子どもが登るには、危険が大きいように思いました。  西南に下る尾根の突端に土塁に囲まれた平坦があり、標識はありませんが、燕(つばくろ)城の跡と思われます。  登山道を見失い、1時間かけて上塩尻神社の上に下山しました。  全景写真の左の鉄塔が25番でケムリの城、下に降りて24番、右に上がって23番が持越城の位置です。2023-03-07
6太郎山山系の山城〈ケムリの城跡・燕城〉太郎山山系の山城〈ケムリの城跡・燕城〉 座摩神社の西の沢を詰め、虚空蔵堂から石のゴロゴロした沢を登り、等高線に沿って西に回り稜線にとりつくと24番の送電鉄塔につきます。稜線をつづら折りに登ると石積みが現れてきます。木々の間から、東の持越城、その先に飯縄城が望めます。更に、急な稜線を登り25番の鉄塔にたどり着くと、そこが、ケムリの城(標高795m)の下部となっています。座摩神社から1時間ほどの登りでした。石積みに利用したと思われる緑色凝灰岩の岩が、鉄のネットをかぶせられて残っています。  やせた岩尾根を何本もの堀切が区切り、平坦な場所はごくわずかです。堀切は、東西に深く切り落ちていて、渡るには危険が伴います。2023-03-07
7牛伏城 復活作業 H30.夏牛伏城 復活作業 H30.夏山城が連なる太郎山山系 そのひとつである牛伏城の復活のため整備作業が行われました。 すべて 手作業です。 皆さん何日も頑張りました。2023-03-04
8西小 6年1組 牛伏城見学 R5.3.3西小 6年1組 牛伏城見学 R5.3.3西小学校の6年1組の皆さんが山城である 牛伏城の見学学習をしました。 山城に詳しい森垣さんの説明をききながら 牛伏城まで校長先生と太郎山山系の付き添いで登りました。 卒業学習となるようで、生徒は真剣にメモをとりながら説明に耳を傾けていました。 沢山の山城が連なる太郎山山系は、全国的にもファンが多いようです。 生徒達 山の新鮮な空気も沢山味わったでしょうか? 校長先生の企画 素晴らしい!と思いました。2023-03-04
9太郎山山系の山城〈持越城②〉太郎山山系の山城〈持越城②〉 一段高いところにある主郭部には、東側に数メートル低く土塁に囲まれた虎口とみられる平坦地がある。その下には、近代の畑とみられる石垣で区切られらなだらかな斜面が広がっている。主郭の上部は、兎峰の急斜面につながっていて、堀切などは見られない。上部にある村上氏の山城と連携して、下からの敵を防ぐ役割をはたしたのではないかと推測した。2023-02-07
10太郎山山系の山城〈持越城①〉太郎山山系の山城〈持越城①〉 虚空蔵山から南に下る尾根上、兎峰の下の600m~700mのやや平坦面に長く伸びている。登り口は、座摩神社の西の脇。座摩神社から30分ほど急な山腹をつづら折りに登ると鉄塔のある尾根に出る。西は大沢の深い谷、東は中沢で谷奥までやや緩やかな斜面があるため、東側には、石積の低い土塁が続いている。2023-02-07
11太郎山山系の山城〈荒城跡〉太郎山山系の山城〈荒城跡〉 牛伏城から狭い稜線をさらに40分ほど登ると荒城(900m)に着く。空堀によって隔てられた何段もの狭い平坦地(曲輪)の先に教室程の広さの主郭がある。主郭の奥の土塁の先の堀切を隔てて、太郎山山頂に向かう急な斜面が見える。下からの攻撃を迎え撃つ砦だが、太郎山の主稜線をたどってきた敵が、上田城を攻める場合は、最短ルートとなるため、上部からの攻撃にも備えていたのではないかと推測した。2023-01-19
12太郎山山系の山城〈牛伏城跡〉太郎山山系の山城〈牛伏城跡〉 緑ヶ丘の信号から太郎山に向かい、虚空蔵堂の東から険しい山腹をジグザグに登る。20分ほどで稜線に達すると岩山の下の凹地に出る。石切り場と思われるが、敵を迎え撃つに都合の良い地形で砦の一部として利用されていたのではないか。さらに稜線を20分ほど登ると牛伏城跡の看板がある平坦地(標高690m)に出る。手前に二条の堀切、奥の土塁の先には深さ2mほどの堀切がある。上部にある荒城の前衛の役割を果たしていたのではないかと言われている。  奥の空堀の底には、水がたまりイノシシのヌタ場(泥浴び場:体についた寄生虫を落としたり、体温調節をする)があった。  2023-01-19
13太郎山山系の山城〈飯縄山城④〉太郎山山系の山城〈飯縄山城④〉 二の曲輪(くるわ)の北、垂直の岩壁にはしごがかけられた深い堀切を登り返すと松林の下に主郭(しゅかく)が広がっています。ここには井戸跡や後世の神社跡があります。尾根を山に向かうと四の曲輪、さらに細い尾根道をたどると林道につながる沢路と虚空蔵山に登る山道の分岐に出ます。道の周りには、明治・大正時代に桑を栽培した畑跡の石垣がたくさん見ることができます。  林道の終点ヘリポートまでは車も入ることができ、傾斜も緩やかで登るのも容易です。2022-12-30
14太郎山山系の山城〈飯縄山城③〉太郎山山系の山城〈飯縄山城③〉 三の曲輪(くるわ)の北側には、深い堀切(ほりきり)を挟んで10mを超える岩山がそびえています。急斜面を登ると10m四方ほどの二の曲輪(くるわ)。南は上田盆地から塩田平まで、西は沢を挟んで兎峰の下の尾根に平坦な持越城、さらに、燕城が望めます。2022-12-30
15太郎山山系の山城〈飯縄山城②〉太郎山山系の山城〈飯縄山城②〉フェンス沿いの道を左に折れ、東西は崖になった険しい南斜面をつづら折りに登り、城の正面の防備のために築かれた二本の深い溝(堀切:ほりきり)、何段もの平坦面(腰曲輪:こしくるわ)を登りきるとやや広い平坦面に三の曲輪(くるわ)があります。2022-12-30
16太郎山山系の山城〈飯縄山城①〉太郎山山系の山城〈飯縄山城①〉 虚空蔵山から秋和に延びる尾根上にある飯縄山城跡は、城の下部から上部(757m)まで約450mもある大規模な城です。眼下には大倉京古墳やなどの遺跡や古道が東西に通っています。秋和の八幡神社が登り口で、林道を登り、獣除けフェンスを越てフェンス沿いに登ります。2022-12-30
17虚空蔵山整備活動虚空蔵山整備活動12月29日 虚空蔵山へ 草刈り作業にいきました。 イブキジャコウソウや河原撫子がある場所です。 野薔薇がはびこり 花が少なくなっているとのことで 野薔薇の伐採作業にいきました。 道中 兎峰の回り込みの道(ロープ箇所)雪があり大変でした。 頂上は風もなく お日様があたるとぽかぽかでした。 来年はお花畑になっているでしょうか? 一歩一歩です。2022-12-30
18太郎山山系の山城〈和合城跡〉太郎山山系の山城〈和合城跡〉 太郎山から虚空蔵山につながる稜線の西端が険しい崖となって千曲川に落ちる塩尻岩鼻の上に和合城跡がある。下塩尻の沓掛酒造から600mほど西の登り口には40分の案内板。険しい斜面をジグザグに登り、にっこり岩を過ぎた稜線の手前の緩斜面には、石垣が幾段も組まれ桑畑に利用されていた跡が残る。稜線に出ると右が主稜線で菖蒲平から虚空蔵山へ、峠を前方に下れば40分で坂城の南条へ、和合城跡は左へと案内板が立っている。深い堀切を渡れば、平坦面が四段連なり、西端のひときわ高いところ(654.7m)が城の中心となっている。  この城は、坂城の村上氏が上杉氏を後ろ盾にして上田盆地に進出するため、武田氏側についた真田氏に対抗するため築いた。武田氏滅亡後も、徳川氏を後ろ盾にし上田城を築城を進める真田氏との争いが続いた。北2022-12-20
19太郎山山系の山城〈矢島城跡〉太郎山山系の山城〈矢島城跡〉 上田バイパスの緑が丘信号の北、虚空蔵沢の西側、断崖の上に南に向いて小さな平坦な畑が広がっている。養豚施設に向かって東斜面を上り詰めると崖ぞいの小道に、矢島城跡の看板が見える。ここは深い堀が掘られ、山側からの攻撃への備えとなっている。道を進むと2段になった平坦面があり、矢島城の中心部。上部の西北に稲荷神社がまつられている。  矢島城は、室町時代初期、諏訪からきた矢島氏がこの地を支配していた北林氏(北林城ともいわれる)を追放して築いたといわれれてる。  バイパスの南側、須波三穂神社の東に矢島屋敷という小字名があるが、ここを居館とし、戦の時にはその背後にある矢島城に立てこもったと推測される。  2022-12-20
20太郎山山系の山城①太郎山山系の山城① 木々が葉を落とし、太郎山の尾根や谷がはっきりと見えるようになってきた。尾根を登ってみるとあちこちに石垣や溝によって区切られた平地がみられる。これは、室町~戦国時代に築かれた山城や砦の跡。  戦国時代、坂城を本拠地とする村上氏と真田地域を本拠地とする真田氏が競い合っていた。甲斐(山梨県)から信濃(長野県)に進出してきた武田氏の勢力が強まると、真田氏は武田氏と手を結び、村上氏は越後の上杉氏に助けを求め、上田地方ではたびたび合戦が起こなわれ、両雄が雌雄を決する川中島の決戦につながっていく。山城や砦の多くは、その頃に築かれ、見張りや交通の要地を確保したり、合戦の時に領民が避難するために築かれた。いずれも、山の斜面やがけを利用して防備を固めている。  写真は、Googleに山城や砦の跡を書き2022-12-10
21太郎山山系を楽しくつくる会太郎山山系を楽しくつくる会西部公民館の里山支援事業で始めた太郎山から虚空蔵山にかけての縦走路整備に参加したメンバーを中心に2009年に設立した会です。縦走路や登山道整備に限らず数々の活動を行なってまいりました。今までの活動履歴を今後ご紹介してまいります。どうぞよろしくお願いいたします。2022-03-13
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