はじめての方へ
|
新規ユーザー登録
ログイン
西部地域デジタル写真展
マップ
歴史文化スポット・記録
写真記録
北国街道
気になるスポット
飲食店・食べ物
水路
山城山系
生物・植物
祭・イベント
地域活動記録
ゆうすげと蝶の里
花いっぱいの会
桜づつみホタル会
自治会・まちづくりの会
施設・公園
字界・地域の成り立ち
蚕種の郷
塩尻小学校郷土資料館
養蚕農家の生活
学びの支援
メンバー紹介
文書記録
猫瓦を愛する会
藤本蚕業歴史館(上塩尻)
子ども地域探検隊2022
子ども地域探検隊2023
子ども地域探検隊2024
並び替え:
最新順
管理番号順
タイトル順
登録日順
登録リスト(該当:186件)
≪
1
2
≫
写真
タイトル
説明
登録日
1
民有地開墾請願書
塩尻地区では山の尾根近くまで段々畑を作り、桑が栽培されていた。明治28年11月14日付で村民18名が連署し、下塩尻区長に提出された「下塩尻区民有地開墾請願書」には、その事情が記されている。 「…今や我が国の蚕業の盛大なる様子は、山川、荒野まで桑園になっていないところはない。しかし、わが区内の民有林は、桑園として地味豊かなのにもかかわらず、依然として草刈り場とするのみで、利益を上げられないでいる。今回、同志を募り同地(別紙図面)を借受け、開墾し、益々蚕業を盛大にすることは、村を豊かにするばかりでなく、国家の恩に報いることになる。ぜひ、許可を願いたい。」 別紙には、西は岩鼻、東は高津屋まで、合計10000坪を超える山の斜面の開墾を申し出ている。
2022-09-15
2
石垣段々畑の様子
蝶の里の太朗山に続く石垣の段々畑は、木が大きくなり、それを覆う葛やアレチウリ等で見えなくなっています。上に続く道は、何とか通れ、登山者も登っているようです。 以前は、地域の人々が手入れをして保全していましたが、今は、温暖化で木や植物の成長が早く、手入れ作業も困難を極めているのが実情です。 蚕種の里で栄えた美しい石垣段々畑……とても残念ですが、課題を浮き彫りにしています。
2022-09-10
3
西部マップ活動記(3)まちあるき秋和2019/05
2回目の西部地域まちあるきは秋和・上塩尻。この日は秋和の正福寺に集合した後、秋和ルートと上塩尻ルートの2班に分かれてまちあるきしました。秋和在住の中島さんがメインのガイド役。 秋和ルートは正福寺に続き、北国街道沿いに長昌寺、山沿いに移動し、秋和鉱泉、愛宕神社、北国街道に戻り猿田彦大神の碑、秋和公会堂などをめぐりました。
2022-09-03
4
沢山の百日草とアゲハ蝶
8月中は、作業中にアゲハ蝶を結構みかけました。目の前で羽撃きながら、みつを懸命に吸う姿は華麗と同時に生命力を感じます。育てた花に来てくれるのはとても可愛らしいです。
2022-08-28
5
岩鼻
岩鼻を通って吹く強い風がお蚕さんのえさとなる桑の木につく害虫を落としてくれたそうです。 昔は学校から帰ると裏山へ桑の葉をとりに行くのが子どもたちの仕事だったそうです。
2022-08-16
6
別所 氷沢の風穴(こおりざわのふうけつ)
昔蚕の卵(蚕種さんしゅ)の保存のために使われた場所。 階段に足を踏み入れた途端に、ひんやりした空気に包まれていた。 暑い夏の日なのに、階段を降りた場所の気温は約5℃に保たれている。 昔はここに蚕の卵を置いて孵化するのを防ぎながら保管していた。 入って行く道は熊が出そうな山道で、こんな場所までお蚕さんの卵を運んでいたいたのがすごいなと思いました。
2022-08-13
7
ヤブランの大群落
8月11日(木)山の日に上田バイパス待避所近くのヤブランを見に行きました。昨年の新聞に、このヤブランの記事が載っていて、ランニング途中に見たのが初めてでした。今年も、我が家のヤブランが咲いたので、バイパス側道へ見に行きました。北側の木々の下に一面のヤブランが咲いています。見事!としか言いようがありません。上田バイパス側道の散歩やランニングのときに、是非見てほしいと思います。
2022-08-11
8
多羅葉(タラヨウ)1:まさにハガキ
塩尻小学校の玄関前の林の中に、小さな説明板がついた樹木がありました。 説明板には「多羅葉(タラヨウ)俗名フミノキ 山地に自生する常緑喬木。葉裏に字を書くと消えない。門口などに植え、伝言などに使用された言われ、フミノキの俗名がある。往古、インドで写経に用いた多羅葉に似ることことからこの名がある。樹皮からはモチ(鳥もち)を製する。」とあった。まさに、葉書ですね。
2022-06-29
9
「不思議な水路」12 西小6年1組探検隊
6月のある日、外で子供たちの声がするので出てみると西小学校の6年1組の皆さんでした。5年の時に「米作り」をしたことをきっかけに「水路」に興味を持ち、総合的な学習で昨年から調べているとのこと。学校から流れに沿って歩いてきて、常磐町と秋和の境まで来たところでした。すでに上流の八幡西の矢出沢川の取り入れ口に行ってみたそうです。 学校の東側を流れる「水路」が、中央の壁をはさんで矢出沢川に向かう流れと、逆に太郎山に向かう流れがあることに不思議に思い調べ始めたら、さまざまな疑問が出てきたそうです。「西部地域デジタルマップ」の「水路」について紹介しながらも、もっともっと自分たちの足と目で追究して欲しいと思いました。
2022-06-23
10
塩尻小学校のナンジャモンジャの木が満開です
塩尻小学校の庭にあるナンジャモンジャの木が白い花をいっぱいにつけています。上田市誌27巻の「上田市の文化財」には、こう書いてあります。 『昔、名前のわからない珍しい大木が虚空蔵山の頂上付近にありました。この地方では、「ナンジャモンジャの木」(市指定 天然記念物)と呼んで親しまれていました。7月の初め頃にマメやフジに似た白いきれいな花が咲き乱れます。』 塩尻小学校にある「ナンジャモンジャの木」は、虚空蔵山の親木の種から育ったもので2代目そうです。
2022-06-11
11
上塩尻蚕種製造民家群5 国の登録有形文化財「佐藤家住宅(三ツ引)」④
写真は、庭にある消火栓。 塩尻村では昭和4年、裏山の沢を水源にして水道が引かれた。当時、村長をしていたこともあり佐藤家には消火栓が設けられた。当時は、めったに見られない設備で現在も残っているのはここと佐藤宗家「藤本」だけである。
2022-05-30
12
上塩尻蚕種製造民家群5 国の登録有形文化財「佐藤家住宅(三ツ引)」①
佐藤家は先祖が室町時代に栃木県からやってきたと伝えられている。文禄4(1595)年の千曲川洪水で流された元宿から現在の山すその地に移り、江戸時代中期から蚕種製造を始めた。佐藤宗家「藤本」の分家にあたる。江戸時代には庄屋を務め、昭和の中期まで蚕種業を営んでいた。 江戸時代後期から明治時代にかけて建築された主屋、蚕室、物置、消毒室、文庫蔵、穀蔵、味噌蔵、屋敷神、門の9棟がR3年6月に国の登録有形文化財に登録された。 写真は、東南の方向から。気抜きのある2階建ての蚕室、門、物置が並んでいる。デジタル・マップの「塩尻小学校郷土資料館5」にあげた銅版画、佐藤尾之七邸宅(日本博覧図 明治30年発行)の現在の姿であるが、物置が2階建てになり、消毒室が増築されている。門の前の通りの奥には、佐藤宗家
2022-05-30
13
虚空蔵山から太郎山にかけて 新緑と逆さ霧
2022年5月14日 前日に少し雨が降っていて、曇り気味の朝。 大きな逆さ霧が出ていたので、下塩尻の千曲川を挟んで反対側にある、上田道と川の駅から虚空蔵山から太郎山方面にかけて撮影をしました。 新緑がとてもきれいで、逆さ霧も大きく出ていて雄大な自然を感じられる風景が見られました。
2022-05-14
14
ストンアートと木のプレートアート
花桃イベントの会場の里山の中に飾られているストーンアートと木のプレートです。 昨年飾られていた物もありましたが、今年初めて飾られたものもあり、散策しながら発見することで、より魅力を感じ感動しました。
2022-05-06
15
「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 4
写真は、村中を引き回される山車。芸者衆が乗って音曲を奏でているように見える。 後ろの山車は、繭玉を投げている。繭玉と引き換えにお札がもらえる。繭玉の中には福引の札が混じっていて、拾った人は、賞品をもらえる。「塩尻地区写真集」より
2022-05-03
16
「蚕種の郷」座摩(ざますり)神社の祭礼 2
座摩神社の由来は、奈良時代、元正天皇の養老元(717)年、虚空蔵山の山頂に「保食神(うけもちのかみ:食物養蚕の神)」を祀り、養蚕の守護を祈ったことに始まったと伝承されています。江戸時代の寛文2(1662)年、この地に里宮を遷され、文久9(1819)年、正一位座摩神社蚕養國大神の社号を受けて現社殿が建築され、明治29(1896)年に修復、背後の大石積が施され現在に至っています。
2022-05-03
17
太郎山登山競走
真田幸村コース 猿飛佐助コース 今日はこの2つのコース 太郎山へ駈け登れ!
2022-05-03
18
花桃のイベント2022
今年もネイチャービンゴゲーム! 午後から大雨予報でしたので午前中のみでした。 去年楽しかったから今年も来たよ!と 探し当てると楽しいよね。 ストンアート連休明けまで飾ってあります。 山笑う季節 清々しい空気 お腹いっぱいにどうですか?
2022-05-03
19
シロヤマブキの群落
ゆうすげと蝶の里から座摩神社に向かう林道沿いのシロヤマブキが咲き始めました。シロヤマブキは、西日本には自生していますが、この辺の山ではあまり見かけません。黄色いヤマブキはたくさん自生していますが、シロヤマブキは、園芸種です。かつて畑に植えられていたものが広がったものと思われます。ヤマブキの花弁は5枚ですが、シロヤマブキは4枚で、葉の付き方も違っています。 山の林の中もかつては住民の生活圏だった証拠です。
2022-04-24
20
上塩尻蚕種製造民家群2 蚕種製造の中心地:上塩尻「大村」の景観
蚕種製造の中心地上塩尻「大村」は、扇状地の斜面の50000㎡ほどの狭い土地に100戸ほどの民家が集中し、その半数以上が養蚕をし、蚕種製造を営む集落だった。 門構え、土塀、気抜き屋根を持つ白壁の総二階の蚕室を持つ江戸から明治にかけて建築された大きな蚕種製造民家が、狭い小路を挟んで立ち並ぶ景観は、他に例を見ない。写真は、 気抜きの屋根の並ぶ蚕種製造民家群を裏山から撮ったもの。手前の山の下を左右に北国街道が通る。
2022-04-03
21
上塩尻蚕種製造民家群1 蚕種製造の中心地:上塩尻「大村」
明治30年発行の「長野県小県郡熱心蚕種製造家一覧」には、上田町を中心に郡下163戸の蚕種製造家の氏名が記載されている。その2/3の107戸は、旧塩尻村(上塩尻58,下塩尻20、秋和29)がしめている。塩尻とともに西部地域に属する(鎌原7,諏訪部2)も加えると上田盆地の西部、千曲川北岸が蚕種製造の中心だったことがわかる。 上塩尻の中でも53戸の蚕種製造家が集中している「大村」(字:北側・南側)は、千曲川と虚空蔵山に挟まれた大沢の扇状地の斜面で、千曲川の洪水を受けにくく、江戸時代には信越、北陸を結ぶ北国街道が通っていた。上塩尻村の中心である「大村」は、扇状地の上部を北国街道が西の扇端部に向かって下り、平坦部を通る国道18号線とがけ下で交わる西端地点を頂点し、東500mの塩尻小学校の西縁とそこから北に向
2022-04-03
22
〈秋和〉不思議な街並み 5
秋和の北国街道は直線的だが、道幅が狭いため大軍の進軍は難しい。家々の間口の幅が同程度なのも人工的に作られたからだろう。街道に面して出入口を作らず、小路から出入りし、時には小路に隠れて敵を迎え撃つ。小路を50mほど奥に入ると家並の裏に東西に走る小路があり、街道から見られずに移動ができる。間口いっぱいに建てられた家は、江戸末期から養蚕・蚕種業が盛んになり、広い蚕室を確保する確保するために改築されたものではないか。 西脇や新町のように城下町に近い村は、時代が下がると町屋化し、商いのために道に面して入口を設けるようになった。秋和は農が主で店も宿もほとんどなく、旅人に出入口を開く必要もなかったのではないか。むしろ、背後にある田や山麓や河川敷にある桑畑に通うには、家にわきにある小路が重宝
2022-03-23
23
〈秋和〉不思議な街並み 4
秋和は、生塚、新町、西脇などと同様、真田氏が上田の城下町を作るときに太郎山の山麓にあった村々を城下町の防衛帯(城下囲:じょうかかこい)とするために移住させてできた。滝沢和喜夫著「秋和の今昔」(S57刊)には、『北国街道に添った秋和村の家の構造は、敵をあざむくために、障子の後ろに雨戸を設けて無防備に見せかけ、小路を多く作って、小路を入った正面に入口を置かず、小路の左右を入口として、攻めるに難く、逃げるに易くするというのが共通の家構えであった。』とある。そのため、真田氏・仙石氏の治世では、屋敷にかける年貢は免除されていた。写真は、街道から北へ抜ける小路。左側に家は小路に向いて門がある。
2022-03-23
24
太郎山山系を楽しくつくる会
西部公民館の里山支援事業で始めた太郎山から虚空蔵山にかけての縦走路整備に参加したメンバーを中心に2009年に設立した会です。縦走路や登山道整備に限らず数々の活動を行なってまいりました。今までの活動履歴を今後ご紹介してまいります。どうぞよろしくお願いいたします。
2022-03-13
25
山極勝三郎
やまぎわかつさぶろう
生家
せいか
山極勝三郎
やまぎわかつさぶろう
(1863~1930)は、1915
年
ねん
ウサギの
耳
みみ
にコールタールを
塗
ぬ
り、
人口癌
じんこうがん
の
発生
はっせい
に
成功
せいこう
し、
当時
とうじ
のノーベル
医学賞
いがくしょう
候補
こうほ
にもなった
人
ひと
です。このように
生家
せいか
も
保存
ほぞん
されています。
偉人
いじん
に
接
せっ
してみては!
2022-02-16
26
養蚕農家の生活12 手伝いを通して一人前に
この桑しょいというのが、自分の力がどれだけあるようになったかを知るバロメーターでした。去年は一わだったのに、今年は二わしょえるようになった。早く兄や父と同じくらいしょえるようになりたいものだと思ったものです。 桑束三ばをしょえるようになったのは、6年生の夏蚕の時でした。今日こそはと桑束をしばる「すがい」を三つ持って山の畑に行きました。父と同じくらいの束三ばを作り、背負子につけました。つけ終わったときは、皆帰りかけており、私が一人残りました。腰を下ろして背負子に肩を入れ、さて力を入れて立とうとしましたが立てません。前の桑株にすがったり、あっちこっちとずって歩きようやく足をぶるぶるさせて立ち上がりました。嫌な坂道も注意して下り、石垣の上の細道も気を張って過ぎ、途中の休み場も下
2021-11-15
27
養蚕農家の生活11 夏蚕、秋蚕、晩秋蚕
繭かきの済んだ後の蚕巣ワラは燃やしてしまいました。 このころは田の「しつけ」も繭と並行で、田植えはほとんど他人まかせで、家中でやったことはなかったのです。 7月中旬にはまた夏蚕が始まるのです。夏蚕は子供たちの夏休みと重なり、暑くて飼育が容易なので、我が家では重点をここに置くのです。 庭起きともなると桑は1キロも道のりのある小玉の丘陵まで切りに行くのです。父母姉2人兄2人に私の7人の1ケ分隊が、みな背負子をしょって水上の田の細いあぜ道、しかも高い石垣の細いあぜ道を一列になって行くのです。この行列は私たちだけではありません。 ほとんどの家がこの丘上に桑畑を持っているのです。細道を進んでいくと早い家ではもう桑をしょってこの道を帰ってくるのです。そこで道をよけて通してやるのが大変でした
2021-11-15
28
山城アフターサミット
11月7日 山城アフターサミットで秋和にある飯綱山山城を見学してきました。 当日朝 熊が出たと連絡あり 爆竹先発隊数名 皆さんは萩原さちこ講師の講演の後バスでゆうすげの里へ。 ヘリポートまで歩き、いざ山城へ! ヘリポートから見る兎峰は壮観でした。 礎石を見学し、看板の所で萩原講師の説明をうけ 深い堀切を越え見晴らしのいい場所に登頂。 そして 戦に思いを馳せ幾重にもなっている郭を降りてきました。わたしは、むらさきしめじやくりたけを発見! 仲間に(目の付け所が違う)とほめられました。(笑)
2021-11-08
29
養蚕農家の生活2 桑の状態や水田の仕事、働き手に合わせて
私の家では桑畑を春(はる)蚕(ご)用に400坪(1320㎡)、夏(なつ)蚕(ご)、秋(あき)蚕(ご)用に600坪(1980㎡)をあてていたようです。なぜ夏蚕に重点をおいたかというに、春は気温が低く温度をとる養蚕には不向きであり、しかも養蚕期間が長いという不利と水田の「しつけ」(田植え)時期と重なるからです。また、夏期は子供たちの学校の長期休業という戦力の当てがあるからです。 『養蚕業について』西沢吉次郎著から 写真は、開校当時の塩尻小学校。桑畑に囲まれている。奥に見ええる山にも段々畑が広がっている。子供たちも養蚕の大事な労働力だった。(復刻版塩尻時報扉より)
2021-10-15
30
蚕種の郷13 衰退した養蚕製糸業
なぜ、今、桑畑は無いのでしょうか。養蚕農家はどうなってしまったのでしょうか。 江戸後期から養蚕業は広がり、幕末に生糸が欧米に輸出されるようになると生産は一気に増加しました。大正の中頃、第一次世界大戦が始まると女性の社会進出が進み、欧米ではその足元を飾るストッキングに絹が使われ、生糸の輸出は更に増えました。この頃、生糸の価格は最高値をつけています。塩尻地区の桑園面積が最も大きくなったのも大正から昭和の初期でした。明治初期の畑の面積の4倍にもなっています。段々畑を山の急斜面に段々畑つくるばかりでなく、水田を桑畑に転換する所もありました。 ピークは昭和5年です。前年、アメリカに始まった株の大暴落は、瞬く間に世界中に広がり世界恐慌となり、生糸の輸出はストップし、養蚕農家や製糸工場
2021-06-29
31
蚕種の郷12 先人たち苦闘の印
とはいえ、桑畑を作るには、河原を1.5メートルも掘りあげ、石や礫を出し、竹で作った篩で振るい、大石は畑の周囲に石垣として築き、砂地にするという大変な作業が必要でした。また、段々畑を作るには、石は豊富にあるとはいえ山のがれ場から石を運び、石垣を築き、雑木を取り除き、斜面をならし、畑にしなければなりません。更に、桑の手入れや人糞などの肥料入れ、桑の収穫に何度も険しい山道を上り下りしなければなりません。「塩尻へ嫁に行くか、それとも裸で荊(いばら)を背負うか」ということわざは、厳しい自然環境の中、必死に生き抜いてきた先人の苦闘を教えてくれいるのではないでしょうか。そして、雑木に覆われた段々畑は、苦闘の印です。河原の畑は、洪水を防ぐ連続堤防が築かれ、戦後の土地改良で広い水田に作り変えられ
2021-06-25
32
蚕種の郷10 蚕種製造に欠かせない歩桑(ぶぐわ)の栽培
蚕の餌となる桑は、他の樹木と違って、その根を地中深く伸ばします。千曲川の洪水に流されることもなく、急斜面でも地下水を吸収して成長できるので干ばつにも強いのです。また、洪水は上流から肥えた土を供給してくれました。 さらに、岩鼻から吹き出す強風は、蚕の害虫カイコノウジバエの卵を桑の葉からふりおとしてくれます。そのため塩尻地区の河原や扇状地、山の斜面に育つウジバエの卵を産み付けられていない桑「歩桑(ぶぐわ)」は、蚕種製造には、欠かせないものでした。 写真は、バイパスののり面に桑の実を食べた鳥の糞から育った桑の葉
2021-06-25
33
蚕種の郷8 養蚕から蚕種製造へ
塩尻では、豊臣秀吉の時代、文禄4年(1595年)の千曲川大洪水で壊滅的な被害を受け、水害に強い桑を植え、養蚕が始まったと伝えられています。江戸時代は、米を年貢として取り立てていたので田に他の作物を作ることは禁止されていましたが、しばしば水害に襲われる河原の畑や急な斜面の段々畑に桑を植え、蚕を飼うことは許されていました。中期には、稲作の合間に始めた養蚕の中でも蚕種製造に力を入れるようになり、後期には本場の奥州(東北地方)を追い越し、日本一の蚕種の生産地となりました。写真は、昭和20年ころ養蚕作業の様子(塩尻地区写真集より)です。養蚕は手がかかる仕事が多く、家族総出で作業しました。学校は、「蚕休み」にして子たちも手伝いました。写真は、蚕が作った繭を前に置かれた藁で作った「まぶし
2021-06-25
34
蚕種の郷6 「塩尻へ嫁に行くか、それとも裸で荊(いばら)を背負うか」
昔、塩尻には「塩尻へ嫁に行くか、それとも裸で荊(いばら)を背負うか」ということわざがあったそうです。北に険しい虚空蔵山が聳え、南の千曲川に挟まれたわずかな平地は岩鼻に向かって狭くなっています。さらに堤防のない時代には、千曲川の洪水に度々襲われ、砂地や石がゴロゴロしている河原のような有様になりました。塩尻に嫁げば、裸の背に棘のある荊を背負うような苦労をするだろうと言っているのです。その塩尻の先人たちが、苦難と向き合い、営々と努力、工夫を重ねてきた証がこの河原と山麓に広がる桑畑です。
2021-06-25
35
蚕種の郷5 段々畑で作られていた作物は?
上田市誌の近現代編(2)「蚕都上田の栄光」の73Pの「桑園地地図」を見ると明治34年、太郎山山麓の塩尻村、上田町と記された場所は黒く塗りつぶされ、桑園になっていることがわかります。 さらに桑園は千曲川の両岸にも桑園が広がっています。今では見ることがない桑畑が、扇状地や河原、山の斜面に広がっていたのです。
2021-06-25
36
蚕種の郷4 戦前の写真には
写真は、「支那事変の戦没者村葬の様子(昭和12.13年)」(塩尻地区写真集)です。会場は今の塩尻小学校の校庭です。背後にみえる山腹には中ほどまで石垣と段々畑が広がっているのがよく分かります
2021-06-25
37
太郎山登山競走2021
5月3・4日 太郎山登山競走がおこなわれました。4日 は25キロ3000メートルを駆け上がるというハードな大会がありました。折角登ったのに下っては登りを繰り返します。 行きは元気ですが最後の登り前では足がつる人が何人かいてとても過酷です。 今年は第7回!来年も楽しみです。
2021-05-14
38
花桃イベント 生塚神社~里山の中の様子
花桃イベントのネイチャービンゴゲームを実際に行っている最中の様子とやその際に里山の中を歩いている様子を撮影した写真です。途中の道で険しいところもありますが、進んでいくと眺めが良い場所もあり、それが魅力の里山となっています。ここを歩けるように整備したと考えると、すごいなと改めて思います。
2021-05-08
39
花桃イベント 参加者の様子
イベントには写真のように大人の方をはじめ、たくさんの子どもたちが参加してくれました。里山に登る前も楽しみにしていて、終わったあともとても楽しんでくれた様子が感じられました。
2021-05-06
40
花桃イベント
4月24日に花いっぱいの会の方が企画した花桃イベントが行われました。メインイベントでもある「ネイチャービンゴゲーム」では、大人の方もはじめ多くの子供たちも参加してくれていました。内容としては里山を歩きながら最後の画像にあるカードに書かれたお題のものを探すのですが、ストーンアートが置いてあったりとても貴重な白花タンポポが咲いていたりして、短いコースの中でもいろいろなものを発見することができました。この日はとても天気が良く、コースの途中では一枚目の画像の景色も見え、道のりは大変ですが、見晴らしの良い場所にも巡り合うことができます。
2021-04-30
41
蚕種の郷3 航空写真に写った段々畑(2)
画像を拡大すると石垣の黒い線が見えてきますが、ここでは扇状地の部分だけでなく沢に沿って山の上まで白い畑が延び、段々畑になっていることがよく分かります
2021-04-24
42
蚕種の郷3 航空写真に写った段々畑(1)
昭和22年撮影の航空写真(国土地理院)には、今は雑木に覆われている段々畑がはっきりと見えます。北に連なる太郎山山系、南には東西に流れる千曲川、左上から右下に国道18号線、右下が上田市街、中央に秋和の集落、左上に山と国道に挟まれた塩尻の集落が見えます。中央の黒い部分は水田、黒くひだになった山と水田の間の白い部分が畑です。右の大きく張り出した部分は緑が丘で、黄金沢と和合沢の複合扇状地です。山麓を西に向かうと沢の出口に小さな扇状地が並び、秋和の北西にやや大きな扇状地が見えますが、ここが前記の大藏京です。
2021-04-24
43
蚕種の郷 2 こんなに高いところまで!
秋和の豊秋霧原野神社(大藏京)から林道を登ると次々に石垣が現れます。中には高さ10メートルを超える石垣もあります。麓から2.2km、200m登った標高650m地点、ヘリポートのある阿弥陀平の辺りまで石垣がつくられています。険しい岩峰(兎峰うさぎみね)の直下から岩がごろごろと転がっているガレ場の下です。 塩尻岩鼻の高圧線の鉄塔が立つ尾根の上には和合城跡があります。下塩尻から急な登山道をのぼり、稜線近くややなだらかになった600m辺りにも立派な石垣が並んでいます。
2021-04-24
44
蚕種の郷 1 雑木に覆われた石垣
冬、太郎山の山麓を歩くと葉を落とした木々の間から石垣が見えかくれしています。急な斜面の上部に向って幾段も並んでいます。石垣の高さは2~3m、緩やかな傾斜になっている段の上は広いところもありますが、幅1mぐらいの狭いところもありひな壇の様です。一体、誰が、いつ、何のためにこんな大変なことをしたのでしょうか。
2021-04-24
45
イノシシコースの秘密(ひみつ)
みんなが歩いてきたイノシシコースは「死人郷路(しびとごうろ)」という名前がついています。 これは大昔の戦争、上田原の合戦(うえだはらのかっせん)で亡(な)くなった人たちの骨が、明治の人が井戸を掘(ほ)ったときに沢山(たくさん)でてきたことからこのような名前が付けられました。 また、郷路というのは石が「ごろごろ」している「道路」という意味が込められています。 もしかしたら、今でも土を掘ったら骸骨(がいこつ)が出てくるかもしれません・・・
2021-04-15
46
太郎山登山道整備
4月13日 太郎山整備に行ってきました。 5月3.4日に行われる太郎山スカイランニング大会の準備で 落ち葉はきをしてきました。 落ち葉の下にある石があぶないんですよね。 新緑の中は気持ちが良いです。 当日はいいタイムが出ることでしょう! カモシカに会いましたよ。
2021-04-14
47
花桃イベント2021
4月24日 [花桃イベント2021] を開催します。 [春をさがそう ネイチャービンゴゲーム]は子供達達が 里山で春をさがす ゲームです。 コロナ禍において遠出しなくても ワクワク ドキドキ 楽しめる企画です。是非 ご家族で散歩してみてください。 その頃には大きな 山桜が 満開で迎えてくれると思います。
2021-04-04
48
花いっぱいの会 活動
花いっぱいの会は毎月第3土曜日の朝 整備活動をしています。 3月20日は緑が丘西区からバイパスに抜けるアンダーパス(とんねる)の近くの側溝掃除をしました。ここは不法投棄が多く木に藤ヅルやアレチウリが巻付き 鬱蒼として 歩いて通るには怖いなと思うようなところでした。5年かけやっと綺麗になってきました。バイパスができてから約30年 はじめての側溝掃除だとおもいます。皆さんが気持ちよく散歩出来るよう整備していきます。これから桜 花桃 山桜 桃 ずみなど次々に咲きだします。お散歩にどうぞ!
2021-02-23
49
思わぬ洪水5 「矢出沢川の流下能力を超える神川からの流入、用水路にも」
平成22年の水害時の降水量は、上田で時間雨量56mm,累計雨量82mmでした。時間雨量は上田市観測史上1位となっていますが、累計雨量は昭和39年より少なく、用水路も改修整備されているのになぜ水害がおこったのでしょうか。同時刻、菅平94mm、真田110mmと流域面積が矢出沢川により格段に広い神川流域に多量の降水がありました。矢出沢川は、懐の浅い太郎山の金剛寺地籍から流れ出た沢水を集めた川で、梨ノ久保沢、黄金沢などを合わせても水量はわずかなので下流の水田を潤おすには足りず、江戸時代に神川から水を取り入れる堀越堰が作られました。堀越堰ばかりでなく古代から拓かれていた神科台地の用水も神川の上流から取り入れられており、余った排水は蛭沢川などを通って矢出沢川に落ちています。平成22年の水害は、真田地区でも多くの床下
2021-01-25
50
思わぬ洪水4 「想定外だった用水の氾濫」
平成22年の豪雨では、上田市全体では152件の床上・床下浸水被害があり、特に矢出沢川の関係では蛇沢、上川原、諏訪部、秋和、上塩尻、下塩尻の被害が大きく、伊勢山、神科新屋、長島、大久保、下川原、北大手、下紺、常磐町で被害がありました。 図は、長野県の管理している矢出沢川・黄金沢川について、平成19年の整備状況を勘案して100年に一度の大雨(1時間に58mm以上)が降り、川が氾濫した場合の浸水想定区域図(県土木部のホームページより)です。被害にあった地区は、図の想定区域とほぼ重なりますが、常磐町をはじめとして想定外の地区にも広がっていたことがわかります。地図の説明文には、内水(小河川や水路の氾濫)は、考慮していませんと書いてあります。どういうことでしょうか。なお黄金沢川は、氾濫しなかった
2021-01-25
51
思わぬ洪水2「ちょっと降ると水害でした」(常磐町30周年誌より)
昭和39年8月の集中豪雨では、2時間ばかりの間に合計105.4mmの降水量があり、常磐町一帯に浸水被害を受けたことは、古くからの住人の脳裡に刻まれています。 常磐町ができたころの様子が30周年誌に載っています。「以前はよく水害がありました。ちょっと降ると水害でした。団地の中を流れる田用水が氾濫するのです」。その理由について「この団地は緑ヶ丘地区に比べるとずいぶん低いんですね。極端ないい方をすると『なべ』の底みたいにこの辺が一番低い。中でも西団地は特に低い。山に近いから西のほうが高いと思っていたんですが、川が山の方角へ向かって流れるわけだから山ぎわのほうが低い」と語っています。写真は、常磐団地ができたばかりの頃の様子です。東側は緑ヶ丘まで一面の水田です。道路も水路も舗装されていません。
2021-01-23
52
思わぬ洪水1「あっという間に道路が川に」
思わぬ洪水 「あっという間に道路が川に」 平成22年(2010年)8月2日午後7時ころから降り出した雨は、午後8時半ころから集中豪雨になりました。道路はあっという間に川となり、水路に沿った家や水路がぶつかる家に流れ込み、常磐町では床上・床下浸水合わせて50棟を超える被害が発生しました。常磐町が発足して間もない昭和39年(1964年)以来の浸水被害でした。昔を知らない若い住人には、千曲川の氾濫原より高い段丘の上にあり、段丘面を深く削って流れる矢出沢川より太郎山側に数百メートル離れた常磐町が水に浸かるとは思いもよらないことでした。
2021-01-23
53
西部地区探検隊[不思議な水路11]
写真(国土地理院所蔵)は昭和22年、当時の占領軍が空中撮影したものです。西部地区の東側の扇状地(緑ヶ丘)や太郎山のすそは白っぽい色をしていて、畑作地帯です。南側を国道と北国街道が東西に走っていて、北国街道に沿って家が並んでいます。間の濃い灰色の部分、現在の常磐町と城北は、あたり一面の水田地帯です。碁盤の目のように道路が走っている(条里遺構)様子がよくわかります。道路にそって、用水路も走っています。右下に西小学校が見えます。郵便局や裁判所のあるあたりも水田になっていたことがわかります。国道の南側を矢出沢が流れ、左下で千曲川に注いでいます。右下は上田市街地です。
2021-01-12
54
初日の出
生塚神社付近 初日の出が綺麗です。近くですのでどうでしょうか。7時10分頃です。 コロナ禍において太郎山では今年焚き火がないようですよ。
2020-12-28
55
地域の記憶:上塩尻・段々畑の桑園
地域のありようは長い間には大きく様変わりします。昔その地域がどうであったのかを確認するにはその当時の資料が欠かせません。人の記憶の中にその様相は残っていても、第三者がそれを確認できるのはデータとして残された何らかの記録です。証言のような言葉(人の記憶)でも補えますが、それを証言してくれる映像なり、道具なり、資料なりがあってその確認ができます。 2019年2月、上塩尻のSさんのお宅を訪問しました。蚕種製造の中心地・上塩尻の古い資料をデジタルアーカイブ化しようというねらいです。 Sさんのお宅にあった一枚の写真に注目。少年たちと大人たちの集合写真です。脱穀作業を共同で行った時の記録と思います。少年たちは国民服を着ています。1940年代前半の撮影ではないかと思われます。その背後に段々畑の桑園
2020-12-19
56
白山神社2
緑ヶ丘西自治会にもある神社です。滑り台などの遊具や大きな木が植えられています。
2020-12-06
57
白山神社1
緑ヶ丘西自治会にある神社です。緑が丘北自治会にも同じ名前の神社があります。
2020-12-06
58
コスモスの写真展
上田西部公民館に於いてコスモスの写真展を開催しました。 地域の皆さんより募集し沢山の方から応募頂きました。 塩田地区の山並みや上田市街地と共に写されているものや お子さんの散歩の様子など それぞれの思いの写真が飾られ とてもほっこりとするものでした。 コロナ禍に於いて 集まらないイベントとして写真展は良かったとおもいます。
2020-11-20
59
ヤマキチョウに出逢うのは何年ぶりだろう?
生塚神社そしてコスモスを見ながらの里山散歩は私いつものコース。しばらく下って行くとやがて秋和鉱泉と愛宕神社に辿り着く。 この辺りにはもう何十年前に捕虫網と3角ケースを携え友人と蝶を追ったものだ。当時の記憶からすれば、高山蝶であるヤマキチョウ、スジボソヤマキチョウが多く乱舞していたものだ。 本日出逢えたのは実にラッキーと言って良い。
2020-10-20
60
太郎山山頂
太郎山山頂の草刈り整備に行ってきました。下から太郎山を見あげると2本の木が見えます。そこが山頂の目印です。 6台の草刈り機でいっせいに刈払います。熊もびっくり!
2020-10-18
61
熊の捕獲と保護
太郎山山系では熊の出没が報道される。虚空蔵山麓は人、農作物への被害防止を目的に自治会、猟友会が協力し檻、罠を仕掛け熊を捕獲しています。しかし熊は保護動物のため捕獲後各種データを取り、遠くの山に放獣されます。写真は催眠状態で測定を受ける小熊です。
2020-10-15
62
上塩尻 ゆうすげと蝶の里 2020年9月22日
2020年9月の上塩尻のゆうすげと蝶の里のアサギマダラの様子です。 この写真を撮影した2020年9月22日の早朝は5頭ほどのアサギマダラがフジバカマの周りを舞っていました。 そのほかの蝶も数頭飛来していました。 アサギマダラは10月の初旬ごろまで飛来していると思いますので、ぜひご覧ください。 近くに太郎山の登山者用の駐車場もあります。
2020-09-24
63
生塚 花いっぱいの会 コスモス散歩道
18号上田バイパス沿いの側道、生塚神社周辺約300mほどに秋の季節はコスモスが咲いています。 上田市西部公民館に車を停めていただき、徒歩で10分ほど。地元の花いっぱいの会さんが少しずつ整備をされています。 この道には、2019年には、ハナモモも植えられ、ハナモモをみる散策道も整備されつつあると伺っています。 結構道のアップダウンがありますが、そのためか、近所の方が健康維持のために散歩される姿や、お子さん連れで散歩を楽しまれている方々の姿もときどき目にします。 遠くに見える塩田方面の山々、岩鼻の眺望も楽しめ、秋には、黄金色の稲穂とのコントラストも楽しめるところです。 生塚地域の拠り所の一つになりそうです!
2020-09-14
64
山﨑 洋(やまざき ひろし)
常磐町に住んでいます。サンデー毎日、晴耕雨讀の生活をしています。よろしくお願いいたします。
2020-08-28
65
西部地区探検隊[不思議な水路 8]
4月下旬、田植えの前に水門が閉められ、右側用水路は満々と水をたたえ、太郎山に向かって流れていきます。 医療センターに向かう道路の一つ手前の交差点付近で水路は西に曲がり、網の目のように水田を潤し、水田から流れ出た水や沢水、雨水を集めながら西に流れます。東西に流れる水路も生塚で支流を北に向けて分けた後秋和の街道沿い流れ、上塩尻の入り口で山沿いを流れてきた用水路と一緒になり最後は、岩鼻手前で千曲川に流れ込みます
2020-08-28
66
西部地区探検隊[不思議な水路 7]
矢出沢川から水を取り入れ西部地域の水田を潤しているこの水路は「堀越用水」といいます。矢出沢川の源流は東太郎山の麓の金剛寺という部落です。しかし、源流から流れ出る水量だけでは不足するため、江戸時代に、神川の水を引き入れる「堀越用水」が造られました。神科と真田との境にある川久保橋の上流から用水を取り入れ、神川の台地の上を幾筋もの水路となって水田に利用された水が、矢出沢川にそそいで、不足を補っています。写真は、「堀越用水」の神川からの取り入れ口です。
2020-08-28
67
西部地区探検隊[不思議な水路 6]
6 なぜ、そんな面倒なことをしているのか。実は、西小学校の東側の道路から西は秋和まで、矢出沢川から北の太郎山の麓までの平地には、古代(平安時代頃)から水田が開かれていました。今は、秋和のあたりにしか水田は残っていませんが、東西南北に等間隔に並ぶ道路やあぜ道は条里制の名残です。 山からの沢水や湧水を利用して水田がひらかれましたが、水田が広がると水が不足し江戸時代の初期の頃より矢出沢川の水を引いて使うようになりました。
2020-08-26
68
西部地区探検隊[不思議な水路 5]
5 西小学校の脇の水門に戻ります。八幡橋の下で取り入れられた用水はここでそのまま西、秋和方面に流れる用水と、太郎山から道路側の水路に流れ込む水に分かれます。矢出沢川に水を落としている水門を閉めたらどうなるでしょうか。まさか太郎山に向かって流れていく?そう、そのまさかです。8月上旬の雨の少ない時期、道路側の水路は山に向かって流れていました。 水路の高低差はほとんどないため、歩道側の水路は山からの流れる勢いで矢出沢川に、道路側の水路は矢出沢川から取り入れる用水の勢いで山に向かって流れているのです。
2020-08-26
69
西部地区探検隊[不思議な水路 3]
3 一方道路側の右水路には、矢出沢に沿って東側から流れてきた水路から大量の水が流れ込み、開いている水門から矢出沢川に流れ落ちています。太郎山から矢出沢川に向かって南北に走る2本の水路の上を立体交差して東西にもう一本の水路がとうとうと水をたたえて流れています。
2020-08-26
70
西部地区探検隊[不思議な水路 2]
2 水が流れている歩道側の水路を追いかけると国道をトンネルでくぐり抜けて上須波橋のたもとで矢出沢川に注いでいます。歩道側の水路は太郎山から流れ出た沢水を集めて矢出沢川に流す水路だとわかりました。
2020-08-26
71
上塩尻から和合城跡、虚空蔵山、太郎山 方面 秋の風景
上塩尻の畑から和合城跡、虚空蔵山、 太郎山方面の秋の風景
2020-08-25
72
下塩尻から和合城跡・虚空蔵山方面の眺め
下塩尻の桜づつみホタル水路付近から和合城跡、虚空蔵山方面をみた眺め
2020-08-24
73
少林山長昌寺(しょうりんざんちょうしょうじ)
曹洞宗。本尊は釈迦牟尼仏 1580年(天正8年)機山林積禅師が暦遊し、1574年(天正2年)に小林飛弾守長昌が建てた小林堂を堂屋敷から ここに移して、長昌寺として開基したと伝えられている。 1875年(明治8年)にここに秋和学校が開設された。 1886年(明治19年)に通学区が変更されるまで11年続いた。
2020-02-06
74
石垣
上塩尻地区に多く見られる石垣。上塩尻地区は山が近づくにつれ勾配が急になるため、石垣を組んで平たんにすることで立派な家にすることができる。この石垣からこれを作った人の奮闘が伝わってくる。歴史を体感できる場所だと思う。
2020-01-10
75
山根道祖神
2019-12-20
76
六寸街道
北国街道岩鼻の坂城町寄りの崖の中腹にある山道です。道幅がとても狭いため6寸街道と呼ばれ、崖下の道が洪水で通れないときに利用されました。街道の中の「親不知らず子知らず」に並ぶ難所でした。 出典:『上田 しおじり』/塩尻地区近代化遺産活用ガイドブック編集委員会/ 発行 上田市教育委員会 2003年3月
2020-01-10
77
天狗岩(にっこり岩)
参勤交代が行われていた頃のお話。下塩尻山根地籍を通る北国街道は、断崖絶壁の岩と千曲川の急な流れに挟まれて、街道の中でもかなりの難所といわれていました。六寸街道を無事に越すことができた殿様は、お籠から出て一休みしながら山の中腹を見上げると、何やらふっくらとした割れ目がある可愛い岩を見付けました。お殿様は国元に置いてきた奥方様を思い出して思わずニッコリしましたとサ・・・。 出典:『上田 しおじり』/塩尻地区近代化遺産活用ガイドブック編集委員会/ 発行 上田市教育委員会 2003年3月
2019-12-20
78
下塩尻公民館
下塩尻自治会は、蚕飼(こがい)の郷として栄えた北国街道筋にあたり、今も江戸、明治、大正の面影がそこかしこに残る地域です。地区は、山根地区と中島地区に分かれます。山根地区には、飯綱神社の参道、山の中腹には参勤交代でゆかりのある天狗岩、岩鼻のがけ下には向井去来の句碑があります。中島地区では、昔の岩鼻のホタル合戦の復活を目指し、ホタルの里として水辺環境の整備にあたっています。
2019-12-20
79
丸山邸 (木屋平)
丸山邸は、江戸時代から材木問屋を営んでいた屋敷。母屋のほか多数の別棟や蔵があり、敷地は畑を含めて約6500㎡余である。敷地と建物を支える重厚な石垣は、見事な曲線を描き、往時の隆盛を偲ぶことができる。
2020-02-06
80
智徳山正福寺(ちとくざんしょうふくじ)
真言宗。本尊は大日如来。742年(天平14)行基上人の開山と伝えられ、1560年(永禄3)当時の八幡社の西側より現在地に移した。1851年(嘉永4)焼失、1873年(明治6)に再建された。境内の観音堂には右手に桑を持ち、左手に蚕を乗せ、桑の葉に繭をつけた冠をかぶっているという大変珍しい姿の仏様が記られている。
2019-11-22
81
正福寺の山門
1851(嘉永4年)の火事で金堂ほか焼失したが唯一残った山門です。
2019-05-13
82
東山道(とうさんどう) 「曰理駅(わたりのうまや)」
「曰理駅 」は千曲川の渡河(とか)地点にあった。その場所については、議論もあったが、塔心礎(とうしんそ)の存在と瓦塔片(がとうへん)の発見などにより、この場所が有力推定地となっている。
2020-01-10
83
西講山向源寺(さいこうざんこうげんじ)
浄土真宗。本尊は阿弥陀如来。当初は上田原にあった。1566(永禄10)年、武田信玄の本陣となり、信玄はこの寺を戦場にしてはいけないという朱印状を与えたといわれる。1626(寛永3)年に現在地に移転した。俳人一茶も逗留し、作品や、寝泊まりした小さな家も残されている。
2019-11-29
84
松翁山芳泉寺(しょうおうざんほうせんじ)
浄土宗。本尊は阿弥陀如来。開創当時は常福寺と称した。1600(慶長5)年真田信之は常福寺を菩提寺としたが、信之の後に上田城主となった仙石氏により常福寺は下之条に移された。代わって小諸の菩提寺である宝仙寺をここへ移し、翌年法泉寺とした。境内には上田市指定史跡の「小松姫の墓」や「仙石家霊廟」がある。
2019-11-29
85
山極勝三郎生家 (やまぎわかつさぶろうせいか)
1863年(文久3年)上田藩士山本順兵衛政策の三男として 裏鎌原(現北大手)で生まれた。16歳の時に上田藩卸典医、山極吉哉家の養子となった。明治21年東京大学医学部を首席で卒業した。ドイツに留学し、1915年(大正4年)ウサギの耳にコールタールを塗り、人工癌の発生に成功した。 世界的な癌学者として知られノーベル医学賞候補にもなった。今でも癌研究では「世界の山極博士」である。1930年 (大正5年)急性肺炎で亡くなる。67歳であった。
2020-01-10
86
COSMOS
上塩尻を散策しながら、神社に向かう途中山のふもとにたくさんのコスモスが咲いてたので思わず写真を撮ってしまいました。
2019-04-01
≪
1
2
≫
太郎山山系(7)
上塩尻(3)
花いっぱいの会(3)
白山神社(2)
神社(2)
里山(2)
花桃イベント(2)
自然(2)
ストンアート(2)
歴史(2)
逆さ霧(2)
自然現象(2)
秋和(2)
太郎山整備(1)
緑ヶ丘西(1)
桑園(1)
地域景観(1)
蚕種製造業(1)
生塚(1)
生塚神社(1)
花桃(1)
ストーンアート(1)
イノシシコース(1)
白花タンポポ(1)
子ども(1)
親子(1)
ネイチャービンゴゲーム(1)
山(1)
登山(1)
山極勝三郎生家(1)
歴史スポット(1)
医学者(1)
ウッドアート(1)
木のプレートアート(1)
虚空蔵山の霧氷花(1)
蚕種製造(1)
市場経済(1)
共同社会(1)
太郎山登山競争#スカイランニング(1)
猫瓦(1)
太郎山縦走路整備(1)
縦走路整備(1)
太郎山山頂(1)
草刈り(1)
絶景ポイント(1)
桑の木(1)
手芸ボランティア(1)
西小学校(1)
移動ポケット(1)
キモノマルシェ(1)
蚕都上田(1)
蚕糸業(1)
学生(1)
発表(1)
花桃イベント2024(1)
森のカスタネット(1)
山桜(1)
山笑う(1)
ログイン
トップページへ