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1上田城二の丸橋上田城二の丸橋上田の名所、上田城で真っ先に観光客を迎えるのがこの二の丸橋。下は遊歩道になっているためくぐり抜けることも可能です。 かつて下を電車が運行していたというこの橋。下から仰ぎ見ればその大きさ、歴史を体感できるでしょう。2021-11-15
2ミントグリーンのレトロな駅舎ミントグリーンのレトロな駅舎別所温泉駅は、上田電鉄別所線の終着駅である。ミントグリーンと木造の雰囲気がレトロな駅舎。昔の看板が今でも飾ってり、趣を感じられる。電車を待っている時間も、別所線の歴史を感じながら楽しく過ごすことができる。袴の駅員さんが訪れた人々に明るく接している様子が印象的だった。別所温泉駅は、人々を迎え、送る場所として魅力的な駅だ。2021-11-15
3不思議な街不思議な街しばらく街を散策していると、突然辺りとは違う景観が見えてくる。柳町とよばれるそこは石畳や古めかしく美しい歴史的な景観を醸し出す通りであった。 信州味噌、と書かれた看板をよく見かけたので、なんだろう?と思っていたら、すぐ近くに工場があったので合点がいった。 まるでタイムスリップでもしたような気分になって、新鮮な気持ちだった。2021-11-14
4上田城の歴史2上田城の歴史2関ヶ原の合戦後、上田城は徳川の手で破却されたが、真田に代わって上田城主となった仙石氏によって復興された。1626年に修復された上田城は真田氏時代の縄張りを受け継いだとみられ、仙石氏の後に城主となった松平氏の代になっても、その姿にほとんど変化はなかった。明治維新後、廃藩置県により1874年に上田城は民間に払い下げられ、再び廃城となった。この際、本丸付近を一括して購入した丸山平八郎氏は、1879年の祭り神社(現真田神社)創建に当たり本丸南側の土地を神社用として寄附し1893年には残りの土地を遊園地要として寄附した。これが上田城跡のの公園化の第一歩になった。2021-11-14
5上田城の歴史上田城の歴史上田城は、真田幸村の父、真田昌幸によって1585年に完成したと考えられている。初め徳川家康のもとで上杉に対する城として築かれたが、沼田領の帰属をめぐり、徳川と手切れとなり、その後上杉方の城として完成した。 その直後、徳川の大軍が上田城を責め、第一次上田合戦(神川合戦)が勃発したが、昌幸の巧みな戦術により徳川軍は大敗した。また、1600年には関ヶ原合戦の前哨戦といえる第二次上田合戦が起こり、徳川秀忠率いる3万8千人の軍勢が攻め寄せたが、これも見事に退けた。この徳川との二度の合戦に勝利したことで、真田と上田城の名は、天下に知られるところとなった。2021-11-14
6大星橋大星橋黄金沢川に沿って下流へ進むと現れたのがこの大星橋。 この付近は二子塚古墳や大星神社など、歴史を感じる街並。少し錆びたこの橋も、趣を演出する要素の一部となっている。そう感じました。2021-11-14
7上田橋上田橋上田橋…?どこかで聞いたような。 そう、この橋、上田大橋と一文字違いの名前をしています。「大」があるかないかの差ですね。 上田大橋に名前負けしているようにも思えてしまいますが、上田橋は竣工昭和45年という上田市最古の橋という歴史が特徴!長寿橋としてこれからも頑張っていただきたいですね。 また、アリオや上田城に最も近いのもこの橋です。2021-11-13
8講演「GIGAスクール時代における小諸の新しい学び方」講演「GIGAスクール時代における小諸の新しい学び方」講演資料をPDFで、講演記録を動画で公開しました。 ▼講演ダイジェスト版 4分36秒 ▼講演全長版 41分 前川道博@長野大学 「【渋沢栄一小諸講演】~フォーカス読み解き会」(2021/11/03、糸のまち・こもろプロジェクト主催、会場:相生会館)で掲記講演を行いました。2021-11-05
9上田城の歴史上田城の歴史 上田城は天正11(1583)年真田幸村の父である真田昌幸によって築城され、天正13(1585)年第一次上田合戦・慶長5(1600)年第二次上田合戦の二度にわたり徳川の大軍を退けたことで知られています。 二度もの実戦経験があり、上田城のような戦歴を持つ城は全国でも珍しく、他に例がありません。 関ヶ原の合戦後、上田城主は真田信之となり、以後には仙石氏(三代)、松平氏(七代)と代わり、廃城後は公園となり現在に至っています。2021-10-29
10フィールドワークフィールドワークこのフィールドワークの狙いは「上田の歴史に触れてみる」です。 この春上田に来て、まだ詳しくこの地域について理解が深められていません。 そこで上田は昔はどんなことをしていて、なにがあったのかというのを町や博物館などを訪問し、記録に残していきたいと思います。2021-10-27
112020信州上田学Aふり返りまとめ2020信州上田学Aふり返りまとめ▼全体まとめと成果
  1. 2020信州上田学A講義録(担当教員:前川道博)
  2. 信州上田学A2020⑭オンライン発表会記録 2020/07/29
  3. >信州上田学2020/学びの成果発表会(信州上田学A/B合同) 2021/01/24
▼上田市行政チャンネル
  1. >長野大学公開講座「信州上田学A」学生と市民の合同発表会 2020/07/29
  2. >信州上田学2020/学びの成果発表会(信州上田学A/B合同) 2021/01/24
▼学生受講生のマイサイト
ニックネーム、テーマと内容は一致していないケースがあります。
  1. 上田の食
2021-10-06
12海野町商店街の歴史探求海野町商店街の歴史探求2021-09-25
13蚕都上田探訪/飯沼郷蔵蚕都上田探訪/飯沼郷蔵郷蔵とは江戸時代、年貢米を貯蔵した倉庫です。飯沼(上田市生田)にあるこの郷蔵は教育委員会の説明板によると1729年に建てられ、その後度々の改修を経て現在に残っています。 この郷蔵からは幕末期、横浜からの生糸輸出を裏付ける大量の資料が発見されています。横浜開港資料館などが長年かけてその調査研究に当たってきました。驚くべき米倉庫です。我が国の生糸輸出や蚕糸業の歴史を紐解く数多くの文書がこのような倉庫に残っていたことも驚くべきことです。 この場所は飯沼の集落内にあり道は狭くわかりにくいので現地に行くには注意がいります。マップに位置を示しておきました。2021-09-19
14蚕都上田探訪/松田玄冲の墓と顕彰碑蚕都上田探訪/松田玄冲の墓と顕彰碑横浜開港(1859年)と共に列強の貿易商を相手に生糸貿易を始めた中居屋(中居屋重兵衛)の番頭の筆頭が松田玄冲(まつだげんちゅう)です。上田市生田の飯沼の出身。松田玄冲の墓の前に中居屋重兵衛顕彰会、上田郷友会、群馬県嬬恋村の連名による顕彰碑が立っています。 どこにあるのかがわからず、中居屋重兵衛顕彰会の方に教えてもらってやっと目的地にたどり着くことができました。確かにこの場所、普通では全くわかりません。GoogleMapの位置情報でご確認ください。2021-09-18
15オンライン発表会「学生による附属図書館と地域・メディアの改善提案」記録:全部①~⑯オンライン発表会「学生による附属図書館と地域・メディアの改善提案」記録:全部①~⑯長野大学/メディアプランニング論2021(企業情報学部クラスター科目) オンライン公開発表会「学生による附属図書館と地域・メディアの改善提案」記録 発表者①~⑯+講評 ▼発表(YouTube)通しで再生 80分 地域情報メディア論2021解説(担当教員:前川道博) → 説明資料 ▼発表1:カテゴリ1:長野大学附属図書館の課題摘出と改善提案 発表①長野大学附属図書館の課題調査と考察2021-08-11
16⑮別所温泉を歴史的な面から観光⑮別所温泉を歴史的な面から観光長野大学/地域情報メディア論2021 オンライン公開発表会「地域と地域メディアの課題」 発表者⑮別所温泉を歴史的な面から観光 ▼発表(YouTube) ▼発表資料(PDF) 2021-08-10
17真田神社真田神社城門を通るとすぐにある真田神社は、松平氏を祀ってあった松平神社だったが、太平洋戦争後に歴代城主である真田氏と仙石氏も合祀されて上田神社となり、昭和38年に真田神社と改称されました。真田の知謀にちなんで、学業成就にご利益がある神社と言われています。その影響もあってか、神社を入って左側にある絵馬には学業成就に関した内容のものが吊り下げられていて、またその場所を写真スポットとしてもお客さんに提供している。記念写真をとる場所としても人気であります。2021-07-23
18北向観音堂北向観音堂北向観音堂は、平安時代初期の天長2年(825年)、比叡山延暦寺座主の慈覚大師円仁により開創された霊場です。 安和2年(969年)、平維茂は一山を修理し、三楽寺、四院、六十坊を増築したと伝えられている。北向観音様は北向に建立され 千手観音様を御本尊として現世利益の願いが込められている。 また、北向観音堂の周りにはお店がたち並んでいて、北向観音堂だけではなく周りのお店でも楽しめるものになっている。2021-07-23
19北向観音堂北向観音堂北向観音堂は、平安時代初期の天長2年(825年)、比叡山延暦寺座主の慈覚大師円仁により開創された霊場。源平争乱の中で全焼したが、建長4年(1252年)塩田陸奥守北条国時により再興された。長い歴史があり、今の時代の幸せを願い極楽世界でも幸せがあるようにと建てられた。2021-07-23
20上田の人物伝一覧(『上田市史』1940から)上田の人物伝一覧(『上田市史』1940から)上田市史・下巻(1940)』の「社寺古墳及人物誌/人物篇」をハイパーメディア化。(長野大学「マルチメディア論」2020/2021実習で分担作成) 人物01 真田昌幸
 真田一徳斎幸隆の第三子、天文十六年生る。 人物02 真田信之
  真田昌幸の嫡男、永禄九年生る。母は寒松院三修氏、幼名を源三郎と言ふ。 人物04 真田幸村
 幸村は正幸の代二子、永禄十一年生ると云う。 人物05 仙石政俊
 先の小諸城主後上田城主たりし仙石忠政の
2021-07-21
21人物59 八木与一郎人物59 八木与一郎兼助の子、慶応三年九月十五日江戸麹町六番町の薩邸に生る。(略) 尚最近菅平生物研究所長たり。 『上田市史・下巻(1940)』1090、1091頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌  人物篇2021-07-20
22人物47 世良田亮人物47 世良田亮安政五年を以て上田に生る。(略)明治十年米国留学を命ぜられ、同十四年卒業、後二ヶ年間欧州を歴遊し、同十六年帰朝し、海軍中尉に任ぜられ(略)、海上には彼の巨艦鎭遠等其功績に大なるものありき。(略) 『上田市史・下巻(1940)』1261頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌  人物篇2021-07-19
23人物40 門倉伝次郎人物40 門倉伝次郎上田藩士。文政三年八月二十六日生る。(略) 慢性腎臓炎に罹り、十月十八日逝く。年七十一 『上田市史・下巻(1940)』1238~1239頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌  人物篇2021-07-19
24人物15 安原龍淵人物15 安原龍淵龍淵は通稱清介、名は邦憲、字は有文又右文。(略) 『上田市史・下巻(1940)』1207・1208頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌  人物篇2021-07-19
25人物56 鈴木志津衛人物56 鈴木志津衛父は旧上田藩士、幸蔵の次男。明治五年九月二十七日生る。 『上田市史・下巻(1940)』1269~1271頁を転載 社寺古墳及人物誌  人物篇2021-07-19
26人物05 仙石政俊人物05 仙石政俊先の小諸城主後上田城主たりし仙石忠政の嫡男、元和三年七月小諸城に生る。(略) 猶領主篇参照のこと。 『上田市史・下巻(1940)』1012頁、1013頁、1014頁を転載 社寺古墳及人物誌 人物篇2021-07-19
27人物29 岡崎如毛人物29 岡崎如毛如毛は上田柳町の酒造家小堺屋五代目平助にして、名は知方。五窓緀、壱老人の別號あり。文政十三年四月十二日召す。行年六十八歳。(略) 『上田市史・下巻(1940)』1223頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌  人物篇2021-07-19
28人物61 小菅武夫人物61 小菅武夫小管訓導殉職記念碑(略) 『上田市史・下巻(1940)』1275頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌  人物篇2021-07-19
29小島麦二小島麦二麦二は常田の人、通称は鍋屋久兵衛という。(略) 『上田市史・下巻(1940)』1040頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌  人物篇2021-07-19
30人物91 よし女人物91 よし女常田村喜七の女なり。父の死後五年にして夫を迎へ別家せしが、夫病死せしかば本家なる親のもとに同居するに至れり。(略) 『上田市史・下巻(1940)』1303頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌  人物篇2021-07-19
31人物11 井上直元人物11 井上直元直元は上田藩士。元俊の子。通称は四郎左衛門。字は仲泰、宜休又水風と号す。延宝5年6月生る。天性温潤、学を好む。風に伊藤仁斎に就きて学び、終身其説を奉ず。 『上田市史・下巻(1940)』1195頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌  人物篇2021-07-19
32人物18 糸賀希亮人物18 糸賀希亮希亮は上田藩士、通称は聘三。(以下略) 『上田市史・下巻(1940)』1209頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌  人物篇2021-07-19
33人物85 七女人物85 七女常田村小三朗の女なり、幼にして父母に仕う、年十三にして父を喪ひ母に養わる。(略) 時に年四十七。 『上田市史・下巻(1940)』1299頁、1300頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌  人物篇2021-07-19
34人物09松平忠厚人物09松平忠厚忠厚、通称銀次郎。上田藩主松平伊賀守忠固の二男にして、嘉永四年八月二十四日江戸に生る。 『上田市史・下巻(1203)』1019頁を転載 (目次位地) 社寺古墳及人物誌  人物編2021-07-19
35人物43 服部元戴人物43 服部元戴上田藩士、義孚の二子。享和元年5月生る。名は義則、通称は半左衛門、元戴或は半斉と號す。(略) 『上田市史・下巻(1940)』1242頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌  人物篇2021-07-19
36人物53 正力直太郎人物53 正力直太郎安政三年十一月九日上田藩士正力六郎左衛門の長男として、上田市木町(当時鉄砲屋敷という)に生る。(略) 殊に信州教育界に対しては空に輝く明星として、永遠に不滅の光を放つべし。 『上田市史・下巻(1940)』1266、1267頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇2021-07-19
37人物06 松平忠周人物06 松平忠周松平忠晴の三男、幼名與十郎、寛文七年兄忠昭の養嗣となる、是父忠晴の願に依る。(略) 『上田市史・下巻(1940)』1198頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌  人物篇2021-07-19
38人物26成澤寛経人物26成澤寛経弘の塾に学び、翌年昌平に入り、古賀茶渓に就く。(略) 『上田市史・下巻(1940)』1034頁、1035頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌  人物篇2021-07-19
39人物25 瀧澤省吾人物25 瀧澤省吾上田藩士。文政九年十一月十九日生る。(略) 『上田市史・下巻(1940)』1033頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌  人物篇2021-07-19
40人物90 るい人物90 るい常田村兵九郎の女なり。(略) 常田村役所また其行為を記して之を郷閭に掲ぐ。 『上田市史・下巻(1940)』1302頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌  人物篇2021-07-19
41人物39 丸山忠右衛門人物39 丸山忠右衛門房山村の人なり。性は丸山氏、世々相つぎて、(略) ~所以なり。 『上田市史・下巻(1940)』1239項を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌  人物篇2021-07-19
42人物44 竹内八十吉人物44 竹内八十吉八十吉は國分村、上澤の人、萬蔵の子。文化十年生る。後常田新町柳澤榮三郎方へ同居す。年十一にして、中澤本次郎に就き彫刻を習う。 『上田市史・下巻(1940)』1242、1243頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌  人物篇2021-07-19
43人物22 加藤勤人物22 加藤勤勤は維藩の子、通称彦五郎、字は士成、天山と号す。(略)詩文若干あり、明治十一年死す、年六十七。 『上田市史・下巻(1940)』1214・1215頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌  人物篇2021-07-18
44人物28 成澤雲帯人物28 成澤雲帯雲帯は上田原町の呉服問屋、萬屋七郎左衛門が俳名なり。(略) 『上田市史・下巻(1940)』1222頁~1223頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌  人物篇2021-07-18
45人物80 かん女人物80 かん女田町善助の娘なり。(略) 時に年三十五。 『上田市史・下巻(1940)』1296頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌  人物篇2021-07-18
46人物46 伊藤久右衛門人物46 伊藤久右衛門天保十年十一月上田町の丸山家に生まれ、(略) ~同僚たりし渡邊國武の書なり。 『上田市史・下巻(1940)』1260頁、1261頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌  人物篇2021-07-17
47人物88 くさ女人物88 くさ女房山村博助の女なり。 昭和四年四歳にして野武村の四郎兵衛の養女となる。 明年四郎兵衛死し養母の手に育てられる。 『上田市史・下巻(1940)』1301頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌  人物篇2021-07-17
48地域メディアの在り方地域メディアの在り方 地域メディアの種類、特徴、課題を調査し、在り方を探る。  地域メディアとは、一般的には日本全国ではなく、特定の地域を対象として情報を伝達する媒体とされている。  「地域」の範囲として、都道府県や市区町村を1つの範囲とする分け方だけでなく、東北地方・九州地方といった広範囲な地域ブロックや、尾張地方・三河地方、県北・県南のような地理的・文化的背景で分けた地方、小さいものでは学区まで様々な分け方が存在している。  「メディア」の種類には、新聞やフリーペーパーのような紙媒体、ラジオやテレビなどの音声を含むもの、ブログのようなwebが存在しており、それぞれ情報の発信者や情報量などに特徴がある。  メディアの種類と特徴として、 ・新聞は、一般的に情報の信憑性が高いと思ってもらいやすい、情報2021-07-17
49人物65 勝俣英吉郎人物65 勝俣英吉郎慶應元年三月十八日上田藩御殿医勝保家に生る。(略) ~やみのゝむらかはき 『上田市史・下巻(1940)』1282頁、1283頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌  人物篇2021-07-16
50信州が蚕糸王国ってホント? ポスト蚕糸業(産業)の視点から信州が蚕糸王国ってホント? ポスト蚕糸業(産業)の視点から信州が蚕糸王国ってホント? ポスト蚕糸業(産業)の視点から(講演採録全文) 講師:前川道博(長野大学企業情報学部教授) ▼元の講演はコチラ https://youtu.be/yS-xdWDMTwE?t=2779 信州学「信州の蚕糸業とシルクロード」講座 第2回  2016年10月6日/まちなかキャンパスうえだ

【1】蚕糸業って何? 蚕種製造、養蚕、製糸

■そもそも蚕糸業とは?

 今回、この講座は、多くの方に、後からも学習していただけるように、ということで、オンデマンド配信することを想定していますので、全く初めての方がこれを見ると「えっ? 蚕糸業って何?」、そういう基本的な疑問ですね。これを最初の方は誰もわからないわけです。その辺のところも含めてお話をさせていただきたいと思います。
2021-07-15
51人物36 勝俣守謙人物36 勝俣守謙守謙は上田藩士。(略) 門下に掛山勘右衛門、木村盛珍あらはる。 『上田市史・下巻』2/2(1940年)1236頁 人物誌2021-07-14
52人物33 田毎月丸人物33 田毎月丸上田藩士、平野六左衛門の子にして、天文六年三月上田鎌原口に生る。(略) ~後評者と仰がれたり。 『上田市史・下巻(1940)』1044~1048頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌  人物篇2021-07-14
53人物87 宇平次人物87 宇平次宇平次は、佐七の子にして世々商を営み、始め房山村に居りしが後柳村に就舎す。(略)以下に続きしに事跡を載す。 『上田市史・下巻(1940)』1301頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌  人物篇2021-07-14
54人物52 久米由太郎人物52 久米由太郎嘉永五年二月二十四日江戸小石川小日向新坂に生る。(略) 稀に見る盛儀なりき。 『上田市史・下巻(1940)』1265頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌  人物篇2021-07-14
55人物68 飯島保作人物68 飯島保作文久三年九月二十一日市内横町佐兵衛氏の長男として生る。(略) 昭和六年六十三銀行と合併し八十二銀行(資本金壱千五百萬)圓を創立して、其頭取となり、前途尚氏の手腕と要する多々ある際に於て、病に冒され昭和六年七月廿六日、遂に逝去せしは惜むべき事なりき。(略) 『上田市史・下巻(1940)』1286、1287、1288貢を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌  人物誌2021-07-14
56人物21 山口毅人物21 山口毅上田藩士。通称は平太郎字は子強、玄山と号す。(略) 明治五年死す。年五十六。 『上田市史・下巻(1940)』1030頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌  人物篇2021-07-14
57人物33 田毎月丸人物33 田毎月丸上田藩士、平野六左衛門の子にして、天文六年三月上田鎌原口に生る。(略) ~後評者と仰がれたり。 『上田市史・下巻(1940)』1044~1048頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌  人物篇2021-07-14
58人物16 林希言人物16 林希言希言は上田藩士。道信(原泉)の孫。初名道理、字は有中又士寛、金渓と号す。兄弟五人希言は其長なり。(以下略) 『上田市史・下巻(1940)』1208・1209頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌  人物篇2021-07-14
59人物41 竹内善吾人物41 竹内善吾山田村竹内友吉の二男。 上田に来てからは小諸などの場所で従学した。 開地改めや算数の才を様々なところで発揮した。 『上田市史・下巻(1940)』1055~1058頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌  人物篇2021-07-14
60人物10 河瀬運甕人物10 河瀬運甕名は義胤。通稱は丈右衛門、字は貞郷、運甕又蓬州と號す。上田藩士。(略) 河瀬丈右衛門義胤之墓と刻す。 『上田市史・下巻(1940)』1198・1199頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌  人物篇2021-07-14
61人物12 林道信人物12 林道信道信は上田藩士。通称は四郎兵衛。 原泉、また有隣と號す。(略) 『上田市史・下巻(1940)』1205頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌  人物篇2021-07-14
62信州が蚕糸王国ってホント? ポスト蚕糸業(産業)の視点から信州が蚕糸王国ってホント? ポスト蚕糸業(産業)の視点から信州学「信州の蚕糸業とシルクロード」講座 第2回 信州が蚕糸王国ってホント? ポスト蚕糸業(産業)の視点から 講師:前川道博(長野大学企業情報学部教授) 日付:2016年10月6日 会場:まちなかキャンパスうえだ <目次> 【1】蚕糸業って何? 蚕種製造、養蚕、製糸 【2】蚕糸王国長野県と蚕糸業 【3】ポスト蚕糸業 【4】未来への贈り物2021-07-13
63信州と風穴:知識の新たなフロンティアとしてのデジタルアーカイブ信州と風穴:知識の新たなフロンティアとしてのデジタルアーカイブ著者:前川道博(長野大学企業情報学部教授) 「第4回全国風穴サミットin信州小諸」(2017年)の記念誌に寄稿した原稿の再掲です(pp.88-95掲載)。 《目次》 1.信州デジタルコモンズ創成と風穴アーカイブ (1) 「風穴」データをアーカイブサイトに載せて遍在させる (2) 風穴を知る資料の発掘とシェア (3) 信州デジタルコモンズ構想 (4) 地域に偏在していた蚕糸業と風穴をシェアする方向へ 2.風穴の蚕種冷蔵と信州・上州のつながり (1) 蚕糸王国信州の実態 (2) 信州風穴の蚕種冷蔵の数量 (3) 小諸の風穴が果たした役割の大きさ (4) 上州の蚕糸業に貢献した小諸の冷蔵蚕種 (5) 田島本家と氷風穴蚕種との関連 3.最後に2021-07-12
64岡谷探索-3岡谷探索-3岡谷蚕糸博物館の内部の写真。岡谷蚕糸博物館では、近代に器械製糸で発展した岡谷市の蚕糸業の歴史を学ぶことが出来る。具体的には、諏訪式繰糸機を始めとする器械の展示や、製糸工場で働く女工さんの生活の様子などが詳しく説明されている。2021-07-11
65信州が蚕糸王国ってホント? ポスト蚕糸業の視点から信州が蚕糸王国ってホント? ポスト蚕糸業の視点からPDF資料は右上の「ダウンロード」を選んで御参照ください。 信州学「信州の蚕糸業とシルクロード」講座第2回 2016/10/06(木) 19:00~21:00 まちなかキャンパスうえだ レクチャー:ポスト蚕糸業(産業)の視点から  講師:前川道博(長野大学企業情報学部教授) 2021-07-11
66日本シルクロード講座・横浜編(6)まちあるき・汽車道ルート日本シルクロード講座・横浜編(6)まちあるき・汽車道ルート2011年10月30日 横浜まちあるき ガイド:嶋田昌子=横浜シティガイド協会 信州上田は横浜開港当初から横浜の生糸売込商を通じ、欧米諸国との貿易で栄え、後に蚕都と呼ばれました。学びあい講座では上田との交易の足跡をまちあるきして探訪しました­。

横浜まちあるき(2)汽車道ルート・ダイジェスト版

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横浜まちあるき(2)汽車道ルート・ノーカット版

35分 「日本シルクロード学びあい講座・港都横浜編」蚕都上田プロジェクト主催 <講座2日目> (1)横浜まちあるき・汽車
2021-07-11
67日本シルクロード講座・横浜編(5)まちあるき・馬車道ルート日本シルクロード講座・横浜編(5)まちあるき・馬車道ルート2011年10月30日 横浜まちあるき ガイド:嶋田昌子=横浜シティガイド協会 信州上田は横浜開港当初から横浜の生糸売込商を通じ、欧米諸国との貿易で栄え、後に蚕都と呼ばれました。学びあい講座では上田との交易の足跡をまちあるきして探訪しました­。

横浜まちあるき(1)馬車道ルート・ダイジェスト版

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横浜まちあるき(1)馬車道ルート・ノーカット版

52分 「日本シルクロード学びあい講座・港都横浜編」蚕都上田プロジェクト主催 <講座2日目> (1)横浜まちあるき・馬車
2021-07-11
68日本シルクロード講座・横浜編(4)上田と横浜の歴史アラカルト日本シルクロード講座・横浜編(4)上田と横浜の歴史アラカルト2011年10月29日 会場:北仲BRICK(横浜、旧帝蚕倉庫事務棟)

講座「上田と横浜の歴史アラカルト」ダイジェスト版

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講座「上田と横浜の歴史アラカルト」ノーカット版

45分 「日本シルクロード学びあい講座・港都横浜編」蚕都上田プロジェクト主催 <講座1日目> (4)上田と横浜の歴史アラカルト、横浜まちあるきのみどころ 講師:  前川道博(長野大学企業情報学部准教授、蚕都上田プロジェクト事務局長)  水島久光(東海大学文学部教授、北仲スクール) 特別ゲスト:  浦辺信子
2021-07-11
69日本シルクロード講座・横浜編(3)日本初の生糸輸出は信州上田から日本シルクロード講座・横浜編(3)日本初の生糸輸出は信州上田から2011年10月29日 会場:北仲BRICK(横浜)

講座「日本初の生糸輸出は信州上田から」ダイジェスト版

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講座「日本初の生糸輸出は信州上田から」ダイジェスト版

38分 「日本シルクロード学びあい講座・港都横浜編」蚕都上田プロジェクト主催 <講座1日目> (3)日本初の生糸輸出は信州上田から 講師:阿部勇(上田歴史研究会会長) (撮影・編集 森田文和@おらほ放送局)  
2021-07-11
70日本シルクロード講座・横浜編(2)横浜開港と生糸貿易日本シルクロード講座・横浜編(2)横浜開港と生糸貿易2011年10月29日 会場:北仲BRICK(横浜)

講座「横浜開港と生糸貿易」ダイジェスト版

3分で講座内容を手短かに掴むことができます。

講座「横浜開港と生糸貿易」ノーカット版

58分 「日本シルクロード学びあい講座・港都横浜編」蚕都上田プロジェクト主催 <講座1日目> (2)横浜開港と生糸貿易  講師:小泉勝夫(シルク博物館元部長) (撮影・編集 森田文和@おらほ放送局) ※肩書等は2011年当時のものです。
2021-07-11
71日本シルクロード講座・横浜編(1)新しい地域学習のすすめ日本シルクロード講座・横浜編(1)新しい地域学習のすすめ2011年10月29日 会場:北仲BRICK

講座「新しい地域学習のすすめ」ダイジェスト版

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講座「新しい地域学習のすすめ」ノーカット版

67分  「日本シルクロード学びあい講座・港都横浜編」蚕都上田プロジェクト主催 <講座1日目> (1)新しい地域学習のすすめ  講師:水島久光(東海大学教授)、前川道博(長野大学准教授) (撮影・編集 森田文和@おらほ放送局) ※肩書等は2011年当時のものです。
2021-07-11
72日本シルクロード講座・横浜編・ダイジェスト版日本シルクロード講座・横浜編・ダイジェスト版 ダイジェスト版25分 2011年10月29日 会場:北仲BRICK(旧帝蚕倉庫事務棟、横浜) 提供:蚕都上田プロジェクト 横浜を訪ねて上田を知る。蚕都上田全盛時の生糸貿易とゆかりのある歴史的建造物「旧帝蚕倉庫」(信州の生糸が貯蔵された倉庫)の事務棟を会場に横浜と上田の人々がお互いの地域の歴史を学びあいました。 講座内容 (1)新しい地域学習のすすめ 講師:前川道博(長野大学准教授)、水島久光(東海大学教授) (2)横浜開港と生糸貿易 講師:小泉勝夫(シルク博物館元部長) (3)日本初の生糸輸出は信州上田から 講師:阿部勇さん(上田歴史研究会会長) (4)上田と横浜の歴史アラカルト  講師:前川道博+水島久光 ゲスト:浦辺信子(上田藩松平家直系御子孫) (撮影・編集 森田文和@おらほ放送局) ※肩書2021-07-11
73「渋澤栄一と小諸商人」展「渋澤栄一と小諸商人」展NPO糸のまち・こもろプロジェクト代表の清水寛美さんが中心となり企画展示「渋澤栄一と小諸商人」を小諸本町のゆもと京都屋呉服店で開いています。7/3、会場を訪れ清水さんをはじめ関係の方々とお会いしてきました。 清水さんは、長年、小諸の蚕糸業や着物と関わる探求をされてきました。関係の資料も収集され、唯一無二の一次資料も相当数あります。さまざまな文献・論文等から小諸と関わりのある情報源を渉猟され、カテゴリ別に分けて展示構成をされています。何と言っても驚くのは資料の物量と展示構成のキュレーション力。博物館の学芸員でもここまで探求しキュレートできるものでもありません。一個人がこれだけのキュレーションをされたことが驚きです。 展示のコーナーは次のように構成しています。 ●製糸業コーナー ●絹業2021-07-09
74西部地区の考究と学習支援(中間報告)西部地区の考究と学習支援(中間報告)私は「西部地区の考究と学習支援」というテーマで研究しています。内容としては、西部地区という私自身が住む地域についての歴史や資料の深掘りを行い、それをデジタルマップを通じて情報発信をするということと、小学校でタブレットを使用した授業が行われているということで、それを活かした地域学習の支援を行いたいと思っています。2021-07-07
75小諸の製糸場/工女たちのものがたり小諸の製糸場/工女たちのものがたり「糸のまち・こもろの歴史歩き」(糸のまち・こもろプロジェクト主催、2015/09/19実施)では、小諸にあった丸萬製糸場を見下ろす場所に純水館の工女の墓4基があります。故・野澤敬氏が工女の墓の前でその解説をされました。 添付の資料「工女たちのものがたり」(PDF)は、当日参考資料として配られたものです。2021-07-05
76海野町商店街の歴史探求海野町商店街の歴史探求2021-07-05
77蚕都上田の歴史について蚕都上田の歴史について2021-07-04
78野澤敬氏による小諸の歴史「糸のまちと戌の満水」野澤敬氏による小諸の歴史「糸のまちと戌の満水」▲解説資料『「糸のまち」と「戌の満水」を巡る」 長野県小諸市の巡検イベント「糸のまち・こもろの歴史歩き」(糸のまち・こもろプロジェクト主催)に先立ち、野澤敬氏が小諸の製糸の歴史と戌の満水にいて解説した説明の記録。公開を想定して録音したものでないため、雑音が入り聴きにくくなっている点、どうぞご了解ください。 (2015/09/19、会場:北国街道ほんまち町屋館)2021-07-04
79社寺明細帳(1880/明治13年 上田町)社寺明細帳(1880/明治13年 上田町)上田市公文書館所蔵 社寺明細帳(1880/明治13年 上田町) 下のリンクを選ぶと文書全体のPDFをダウンロード表示します。ダウンロード表示には時間がかかります。
PDF社寺明細帳(1880/明治13年上田町)
68頁/9.05MB
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68ファイル/59.7MB
▼上田市公文書館資料情報 社寺明細帳 しゃじめいさいちょう 請求番号 01-M13-01-5
2021-06-28
80長野県管下信濃国小県郡常磐城村 村社(1884/明治17年 上田町)長野県管下信濃国小県郡常磐城村 村社(1884/明治17年 上田町)上田市公文書館所蔵 長野県管下信濃国小県郡常磐城村 村社(1884/明治17年 上田町) 下のリンクを選ぶと文書全体のPDFをダウンロード表示します。ダウンロード表示には時間がかかります。
PDF長野県管下信濃国小県郡常磐城村 村社(1884/明治17年上田町)
13頁/1.48MB
PDF全頁JPEG画像[長辺1280ピクセル] ZIP形式で圧縮
13ファイル/10.8MB
▼上田市公文書館資料情
2021-06-28
81常磐城村氏神替届(1882/明治15年 上田町)常磐城村氏神替届(1882/明治15年 上田町)上田市公文書館所蔵 下のリンクを選ぶと文書全体のPDFをダウンロード表示します。ダウンロード表示には時間がかかります。
PDF常磐城村氏神替届(1882/明治15年 上田町)
9頁/904KB
PDF全頁JPEG画像[長辺1280ピクセル] ZIP形式で圧縮
9ファイル/7.12MB
▼上田市公文書館資料情報 常磐城村氏神替届 ときわぎむらうじがみかえとどけ 請求番号 01-M15-01-563 文書の
2021-06-28
82上田蚕糸専門学校-1上田蚕糸専門学校-1上田蚕糸専門学校は1910(明治43)年に小県蚕業学校の隣接地に設立された。小県蚕業学校が中等教育機関であったのに対し、上田蚕糸専門学校は蚕糸業の高等教育機関として機能した。蚕糸業の中・高等教育機関が続けて建てられたことは、上田が蚕糸業の中心地であったことを表す1つの事例となっている。当学校の後継に当たる信州大学繊維学部は、全国の大学機関で唯一繊維学部の名を残していることが、その歴史を後世に伝えている。2021-06-20
83上田市公文書館上田市公文書館先日初めて上田市公文書館に行ってきました。この建物の存在自体は知っていましたが、なかなか行く機会がなく、今回初めて訪れてみたのですが、やはり場所もとても分かりづらいがために、地元の方にもほとんど知られていないようで、それがとてももったいないように感じました。この建物には、明治時代に作成された公文書などが保管されており、閲覧するには申し込みが必要なのですが、現代にとってはとても貴重な資料がたくさん保管されているため、上田のことを知るにあたり、特に地元の方には知っていて欲しい場所であると私は感じました。2021-05-25
84戸隠神社戸隠神社急峻な山容と、裾野を潤す豊かな水が、 古くから農耕民に仰がれ、 水をつかさどる神・九頭龍が棲む所とあがめられていた戸隠山。 鎌倉時代の仏書「阿娑縛抄(あさばしょう)」には、 849年、戸隠山を開山した行者・学問が窟の中で祈念して 九頭一尾の龍が現れたことが記されています。 その後は、多くの修験者が入り、 信仰と修験者のメッカとして栄えた神域・戸隠。 その名残は今も、戸隠古道や戸隠神社、宿坊にみられ、 毎年春から秋にかけて全国から講仲間が大勢この地を訪れ、 代々継がれてきた御神楽、祭りの数々が献奏されます。 戸隠奥社2021-05-16
85信州そば・江戸前そばの発祥信州そば・江戸前そばの発祥信州そば そば切りは1574年の信州木曽定勝寺の落成祝いに振る舞われたのが最古の文献記録。日本国内では蕎麦が食べられてたが、「そばがき」や「そば団子」などが主流。 信州は山間地、高冷地が多く、昼夜の気温差が高くて蕎麦の栽培には最適な土地。 江戸時代には信州信濃国の本山宿から全国に麺状の蕎麦が広まっていった。 江戸前そば 男一人で江戸に出張する機会があるため、外食ビジネスの需要が高まった。1657年頃、浅草にできた一膳飯屋を皮切りに、蕎麦を提供する店が出現。気軽にお腹を満たせるスタイルが江戸っ子に受けて、町には蕎麦屋が瞬く間に増えた。2021-05-14
86そばの歴史そばの歴史蕎麦が日本の歴史上はじめて文献に登場するのは、奈良時代の歴史を記した「続日本記」で8世紀頃。栽培の容易な蕎麦は救荒作物として奨励された。 鎌倉時代、室町時代になると頻繁に文献に登場。そばの栽培が普及していった 江戸時代には信濃国本山宿から蕎麦を麺状にする「そばきり」が全国に広まったと伝えられている。とりわけ江戸では信州そばがルーツとされる江戸そばが大変な賑わいを見せる。 江戸で1789年に信州の行商人が信州更科蕎麦屋を始めたのをきっかけに、藪そばと共に江戸中にそばが広まった。2021-05-14
87馬車鉄道石碑馬車鉄道石碑何故かミニストップ(コンビニエンスストア)の裏にある石碑。明治時代に鉄道が栄える前に存在していた馬車による鉄道の停車場跡地。 歴史の存在を思わせる。2021-05-06
88半過古墳群半過古墳群縄文、弥生、平安時代のものが見つかっているそうです。2021-05-06
89松本行きました松本行きました松本城とても綺麗でした 綺麗な街並みで、街全体が景観を保っていてとても雰囲気が良かったです。 将来住むならこのような街に住みたいと思いました。2021-05-06
90富士山文化遺産センター富士山文化遺産センター富士山文化遺産センターという名前の通り、富士山が文化遺産として登録された理由を示す歴史館のような施設。 学生は無料ではいることが出来、訪問時はあいにくの曇りであったが、晴れの際はテラスから富士山を眺めることも出来る。2021-05-06
91樋之詰(とよのつめ)樋之詰(とよのつめ)別所温泉石湯から森林公園へ至る道の最中に突如として現れる野湯(?)。 これは正式名称を樋之詰(とよのつめ)と言い、湯川をボーリングした源泉をポンプによって揚湯し、近隣住民の生活用水として供しているもののようです。 水温はおよそ20.4℃、pHは8.95。泉質はほかの別所温泉群と同じく、単純硫黄泉と思われます。 民家の真横という立地も相まって浴びたり入ったりはまず不可能。 開湯時期は不明。 別所温泉の歴史は古く、その多くの期間を源泉の自然湧出のみで乗り越えてきました。 しかし、別所温泉源泉の湧出量は年々減少し、それに対する策として昭和30年頃からボーリングによる掘削が行われました。樋之詰もその開発の一環で開発されたものだと思われます。2021-05-06
92国重要文化財が眠る長福寺国重要文化財が眠る長福寺生島足島神社のすぐ隣にあるお寺。「信州夢殿」と称される八角のお堂の中には、国重要文化財である救世観音が祀られている。2021-05-06
93方光寺方光寺 松本日光方光寺は西暦730(天平2)年に建立されたとされる、長野県内で最も古い歴史をもつお寺の一つです。厄除け縁日には毎年多くの人が訪れ、テレビコマーシャルが放映されていたりもします。  あまり大きなお寺ではありませんが、落ち着いた雰囲気が非常に趣深い場所です。私が参拝したときは他に人もおらず、静かにお参りできました。穏やかにお寺をお参りしたい方はぜひ行ってみていただきたいです。 参考:松本日光方光寺公式 http://houkouji.com/ 画像引用:「歩いてみたブログ」https://iwalkedblog.com/?p=69852 画像アドレス:https://iwalkedblog.com/wp-content/uploads/2021/04/hokoji-matsumoto-7.jpg2021-05-06
94真っ赤な本殿・生島足島神社真っ赤な本殿・生島足島神社生島大神と足島大神を祀る神社。周りを池に囲まれた真っ赤な本殿が特徴的。有名どころとあり、参拝客も多かった。2021-05-06
95駿府城駿府城これは静岡市にある駿府城の写真である。別名が静岡城や府中城。築城主は徳川家康であり、石垣やお濠などが存在する。いくつか再建造物があるがとても歴史があるものである。上田には上田城があるため相違点や類似点などを見る懈怠と思う。2021-05-05
96歴史を感じる誉田別神社歴史を感じる誉田別神社調べても詳しい情報がなかなか出てこない、謎深い神社。名前から推測すると、全国に3万から4万あるといわれている八幡様を祀る八幡系神社の一つと思われる。交通量の多い大通りの脇にポツンとたたずみ、そこだけ時が止まっているかのような厳かな空気を醸し出している。2021-05-05
97住宅街に佇む・加美畑神社住宅街に佇む・加美畑神社上田原の戦いの際、武田信玄が先勝祈願したとされている神社。住宅街の中にひっそりと構えられている鳥居をくぐって進むと、そこには歴史を感じる本殿が存在感を放っている。2021-05-05
98上田原合戦の中心地・石久摩神社上田原合戦の中心地・石久摩神社武田信玄と村上義清が武力衝突した上田原合戦(1548)の中心地。境内にはその歴史を伝える上田原古戦場の碑が置かれている。現在の静かな住宅街の様子からは、そのような戦いがあったということはとても想像できない。2021-05-05
99柳町柳町北国街道沿いの家並みが残る通り。現在では信州上田の魅力的な名物・銘品を扱う店舗が並ぶ、江戸時代の面影を残した上田城下の商い処。昔ながらの街並みがとてもいい雰囲気を醸し出している。写真ではなかなか伝わらないので実際に行ってみることがおすすめ。2021-05-05
100やまへいやまへいやまへいは小諸市にある美味しい蕎麦を頂くことができるお店で、連日賑わいをみせている。また敷地の外には日本庭園を楽しむことができ、観光目的としても利用されている。個人的な感想として、建物が前の時代などにありそうな造りをしていてお店に入る前に見入ってしまうほどでした。昔の雰囲気を味わう事が出来ると思います!2021-05-05
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