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1景観ウォッチング~秋和旧北国街道めぐり~景観ウォッチング~秋和旧北国街道めぐり~ 広報うえだ4月号に掲載された「景観ウォッチング~秋和旧北国街道めぐり~」にご参加ください。    広報うえだには、9:20に西部公民館に集合し、バスで秋和正福寺に行き、開会式、散策、八幡神社参道入り口で閉会式を行い、バスで西部公民館に戻る計画で、先着20人募集となっています。バスを利用する方は、都市計画課(23-5127)に申し込んでください。  地元の方は(定員外)、正福寺に9:30に集合、合流し、散策、閉会式の後は自由解散できます。希望する方はまちづくりの会(山﨑080-5108-5963)に連絡をお願いします。  秋和については、西部地域デジタルマップの下記のカテゴリーに情報が投稿されています。ご覧ください。 〈歴史文化スポット・記録〉  ・秋和地区蚕室づくりの家の変遷(小林武彦さん2024-04-15
2秋和地区 蚕室造りの家の変遷(1)小林武彦さんの記録秋和地区 蚕室造りの家の変遷(1)小林武彦さんの記録小林武彦さんの紹介  小林武彦さんは、秋和在住で今年90歳になりました。長年専売公社に勤め、全国を勤務して回りました。  中学生の頃、担任の先生の導きで、郷土史に興味持つようになり、退職後郷里に帰ってからは、上小郷土史研究会に入り調査研究に励みました。とりわけ塩尻地区近代化遺産調査事業の委員として西部地域の製糸業の歴史や先人たちの取り組みについて調査をし、事業報告書作成の中心メンバーとして活躍されました。また、西部公民館主催講座「蚕都上田ものがたり」を通して、調査・研究を深めこの記録を作成しました。  西部地域に関わる小林さんから預かった調査記録を多くの方々、特に地元に生きる若い方々に知ってもらい、この土地に刻まれた先人の労苦と逆境を跳ね返す精神を伝えたいと考え「西部地域デ2023-10-18
3歴史的景観ウォッチング 新町・諏訪部編 見学先民家歴史的景観ウォッチング 新町・諏訪部編 見学先民家 11月4日の景観ウォッチングでは、別紙のコースで5軒の民家の見学させていただきます。  それぞれの民家について下見でお聞きした概略を順次「地域デジタルマップ」に投稿します。当日は、素敵な写真を撮り、貴重なお話を聞き出してください。2023-09-23
4歴史的景観ウォッチング 新町・諏訪部編 案内回覧歴史的景観ウォッチング 新町・諏訪部編 案内回覧 11月4日(土)に、「歴史的景観ウォッチング 新町・諏訪部編」を催行します。  北国街道や養蚕・蚕種業を営んでいた民家が残る新町・諏訪部地区を歩き、由緒や来歴をお聞きし、見学させていただきます。写真を撮り、お話とともに「西部地域デジタルマップ」に投稿して、デジタル記録として残します。  多くの皆さんの参加をお待ちしています。後日、配布する回覧をご覧ください。2023-09-23
5滝澤秋曉「司令塔」より④滝澤秋曉「司令塔」より④ 「司令塔」の中で、最もページがさかれているのは、養蚕の仕事だ。明治末期 の養蚕の様子と人を使って養蚕に打ち込む姿が生き生きと描かれている。 『4月中旬か5月の初めに蚕は出る。掃きたてた(卵からふ化したて)当座は、蚕籠数もごく少ないが、眠(蚕は成長過程で4回脱皮する。脱皮の際、桑を食べず、静止している状態を眠という。眠と眠の間を齢といい、4眠5齢で繭をつくる。この間おおよそ30日程度)を重ねるにしたがって、恐ろしく殖えてきて、5室が残らずふさがるのも30日そこそこのうちだ。  僕は掃きたて以来蚕室の常番だが、蚕が2室を増えると、母屋から宿直の助手を連れてくる。妻と妹、2人して2号室の泊り番をする。  にぎやかでいいのは寝がけに給桑(桑を与える)する時だ。母や、下男や、炊事当番の女ども2023-06-04
6「秋和の里」の滝澤秋暁邸が更地に「秋和の里」の滝澤秋暁邸が更地に しばらくぶりで秋和の北国街道を歩いた。驚いたことに「秋和の里」を代表する滝澤秋暁邸がなくなっていた。長屋門に茅葺にトタンをかけた重厚な母屋、門の東に続く気抜きを設けた蚕室、母屋の裏には庭を挟んで気抜きのついた2階建ての大きな蚕室がなくなり更地が広がっていた。    滝澤秋曉邸は、ずいぶん前から空家となっていてあちこちに痛みが出ていた。個人の力で修理は困難なことがうかがわれ、残すには行政の力が必要と思っていたところ、上田市の歴史風致維持保存計画に蚕種製造民家の調査事業が盛られ、記録だけでも残される可能性が出てきたところだった。また、西部地域デジタルマップでも歴史遺産の記録を残す呼びかけを始めたところであり、残念でたまらない。  地域の歴史を学び、じかに触れることができる歴史遺2023-05-19
7「今、記録しておきたいこの町なみ、歴史的景観」  プロジェクトについて「今、記録しておきたいこの町なみ、歴史的景観」 プロジェクトについて趣旨   上田市西部地域は、古代、都と東国を結ぶ東山道の東信濃の入口でした。近世は江戸と日本海岸地方を結ぶ北国街道が通る交通の要衝でした。  近世、この地に上田城を築いた真田氏によって、西部地域は「城下囲い」の集落として山すそのあった集落が城下の西入口に移住させられ、城下の外堀として改修された矢出沢川とともに城下の防備の役割を果たしました。  洪水によってたびたび被害を受けた千曲川に近い土地は、近世、水害に強い桑が植えられ、養蚕が盛んになりました。岩鼻から吹き込む強い西風は、桑に産み付けられ蚕を殺す蛆蝿の卵を振り落とし良質な桑「歩桑(ぶぐわ)」が育つため、蚕を掛け合わせて「蚕種」をとる蚕種業が盛んになりました。東北地方の養蚕先進地に学んだ上塩尻の蚕種家からは、養蚕技術の改良や2022-12-20
8 ねこ瓦の会 地域散策 ねこ瓦の会 地域散策 2022 11月22日午前中にねこ瓦の会で上塩尻公民館前のつつ研さん前を出発し、元宿地区、下塩尻地区の散策をしました。元宿の古くから残る町並みと住宅、ねこ瓦の残る古民家、下塩尻の安政時代に設置された道祖神、名の残る住宅、ダチョウの飼育場所も見て歩きました。  会のメンバーの二人は、この地元出身で、久しぶりの散策に変わった所や、古くから残る所に懐かしさを感じながら、みんなの関心の有るところの情報交換もしながらで、楽しいものでした。冬でも風もなく、日差しも暖かく、元気に歩けました。2022-12-17
9加賀藩主お休み処加賀藩主お休み処11月26日の街歩きの中で訪問した1つの加賀藩集お休み処です。ここは何度かまちあるきをする中であることは知っていたが、直接見せていただく機会がなかったため、今回初めて見ることができてとても嬉しかったです。中を見る前以前に、お休み処の建物自体とても魅力的で、価値のあるものがこんな身近に合ったんだと思うと、改めて私にとって上塩尻は直接的な地域ではないですが、一応地元の地域に位置する地区の1つであるため、この魅力を多くの人に伝えたいと感じました。2022-12-09
10北向観音道標北向観音道標2022-02-17
11西部地域まちあるき2019の記録西部地域まちあるき2019の記録 2018年に発足した「上田市西部地域まちづくりの会」は翌2019年度に本格始動しました。4部会の一つ「自然・生活環境部会」では地元地域の文化・歴史遺産・自然などをデジタルアーカイブ化・マップ化する活動を持続的な地域活動にしていこう、という方向で取り組みが始まりました。その活動の手始めにしたのが「西部地域まちあるき」です。 4月は西部地区(下紺屋町~生塚)、5~6月は塩尻地区(秋和・上塩尻・下塩尻)をまちあるきしました。部会のメンバーにとっては地元でありながら、地元自治会のエリアがより広域に広がった「西部地域」をお互いに詳しく見聞しあったことはなく、地元であ2020-08-25
12少林山長昌寺(しょうりんざんちょうしょうじ)少林山長昌寺(しょうりんざんちょうしょうじ)曹洞宗。本尊は釈迦牟尼仏 1580年(天正8年)機山林積禅師が暦遊し、1574年(天正2年)に小林飛弾守長昌が建てた小林堂を堂屋敷から ここに移して、長昌寺として開基したと伝えられている。 1875年(明治8年)にここに秋和学校が開設された。 1886年(明治19年)に通学区が変更されるまで11年続いた。2020-02-06
13大々神楽(だいだいかぐら)大々神楽(だいだいかぐら)「1864年(文久4年)に神楽の諸道具が破損して再興のために村で賛助金を募り3両3分1朱のお金が集まり、新しい道具を作り八幡(やわた)の八幡(はちまん)宮様に奉納した」と古文書に記録されています。戦中、戦後には神楽の舞は中断していましたが昭和43年から保存会が結成され、地区の行事に披露したり、橋の渡り初めや道路の開通式に出演しています。  出典:「上田 しおじり」2020-01-10
14<ruby>猫瓦<rt>ねこがわら</rt></ruby>猫瓦ねこがわらかいこべてしまうネズミをけるために上塩尻かみしおじり集落かしゅうらくではよくねこかおかたちをしたかわらられる。ねこからネズミ、ネズミからかいこへとつながるのはとても面白おもしろいとおもう。一見何いっけんなにだろうとおもうものもじつかんがえられていて、なるほどと感心かんしんさせられる。2020-01-10
15石垣石垣上塩尻地区に多く見られる石垣。上塩尻地区は山が近づくにつれ勾配が急になるため、石垣を組んで平たんにすることで立派な家にすることができる。この石垣からこれを作った人の奮闘が伝わってくる。歴史を体感できる場所だと思う。2020-01-10
16まぼろしの滝まぼろしの滝2019-12-20
17飯綱神社飯綱神社祀神は、「宇迦之御魂神(うがのごこんしん)」で、境内には天神社と金毘羅社が合祀され、本殿、拝殿、清殿、石の鳥居が備えられています。1798年(寛政10年)の再建と伝えられ、明治6年村社となりました。板に描かれた古い絵馬、俳句の掲額があり、毎年4月に例祭が行われています。なお、参道には尾崎行雄の記念碑が昭和12年に建立され、「公正自由なる選挙は立憲自治の基礎なり」と刻まれています。出典:『上田 しおじり』/塩尻地区近代化遺産活用ガイドブック編集委員会/ 発行 上田市教育委員会 2003年3月2019-12-20
18山根道祖神山根道祖神2019-12-20
19六寸街道六寸街道北国街道岩鼻の坂城町寄りの崖の中腹にある山道です。道幅がとても狭いため6寸街道と呼ばれ、崖下の道が洪水で通れないときに利用されました。街道の中の「親不知らず子知らず」に並ぶ難所でした。 出典:『上田 しおじり』/塩尻地区近代化遺産活用ガイドブック編集委員会/ 発行 上田市教育委員会 2003年3月2020-01-10
20去来(きょらい)の句碑去来(きょらい)の句碑『岩ばなや爰にもひとり月の客』の句碑が1799年(寛政11年)に地元の俳人らによって建てられました。碑石高110cm 幅60cm 雑草が生い茂る中で訪れる人もなく岩鼻の崖下にひっそりとたたずんでいます。「向井去来」(1651年~1706年)は、長崎で生まれた江戸前期の俳人で松尾芭蕉の十高弟のひとりでした。去来の句碑は全国で9基しかないといわれ、長野県では岩鼻の句碑一つだけです。 出典:『上田 しおじり』/塩尻地区近代化遺産活用ガイドブック編集委員会/ 発行 上田市教育委員会 2003年3月2019-12-20
21天狗岩(にっこり岩)天狗岩(にっこり岩)参勤交代が行われていた頃のお話。下塩尻山根地籍を通る北国街道は、断崖絶壁の岩と千曲川の急な流れに挟まれて、街道の中でもかなりの難所といわれていました。六寸街道を無事に越すことができた殿様は、お籠から出て一休みしながら山の中腹を見上げると、何やらふっくらとした割れ目がある可愛い岩を見付けました。お殿様は国元に置いてきた奥方様を思い出して思わずニッコリしましたとサ・・・。 出典:『上田 しおじり』/塩尻地区近代化遺産活用ガイドブック編集委員会/ 発行 上田市教育委員会 2003年3月2019-12-20
22石造五輪塔(いしづくりごりんのとう)石造五輪塔(いしづくりごりんのとう)下塩尻字薬師堂に石造五輪塔(上田市指定文化財)が二つあります。鎌倉時代後期(1300年代始め)の作と推定され、高さは等身大で、ほぼ同じ造りをしています。空論、風論、火論、水論、地論の五つから成り立ち、ともに形が良く整い塔全体に安定感があります。造られた理由等は不詳ですが力のある豪族がこの地にいたことが推測されます。薬師堂瑠璃光如来の祭りは5月5日に行われ、毎年東福寺の住職が来場して、護摩を焚く行事を行っています。五色の吹流しや幟を立て、眼の神様として信仰されたことから「お目玉」と呼ばれるだんごを作って奉納2019-12-20
23下塩尻公民館下塩尻公民館下塩尻自治会は、蚕飼(こがい)の郷として栄えた北国街道筋にあたり、今も江戸、明治、大正の面影がそこかしこに残る地域です。地区は、山根地区と中島地区に分かれます。山根地区には、飯綱神社の参道、山の中腹には参勤交代でゆかりのある天狗岩、岩鼻のがけ下には向井去来の句碑があります。中島地区では、昔の岩鼻のホタル合戦の復活を目指し、ホタルの里として水辺環境の整備にあたっています。2019-12-20
24中島道祖神中島道祖神2019-12-20
25社宮神(しゃぐじ)社宮神(しゃぐじ)中島集落の西のはずれの一角。梅の古木の脇に祠が祀られています。この祠は縄文時代から農村では物を産み出す大地の精霊(産土の神・うぶすなのかみ)として信仰されてきました。 出典:『上田 しおじり』/塩尻地区近代化遺産活用ガイドブック編集委員会/ 発行 上田市教育委員会 2003年3月2019-12-20
26天満宮天満宮1771年(明和8年)の創建と伝えられ、舟形の地形が特徴です。古い絵馬や俳句の額が掲げられています。明治6年に村社になり、かつては春秋の例祭には村人の踊り、大々神楽、相撲等が奉納されました。敷地内には、福島安正書の「菅公一千年記念碑」もあります。 出典:『上田 しおじり』/塩尻地区近代化遺産活用ガイドブック編集委員会/ 発行 上田市教育委員会 2003年3月2019-12-20
27大日如来大日如来天満天神宮の南の堤防道路沿いにある大日如来の石碑。このあたり一帯のことをは「大日」と地元の人は読んでいる。この石碑の前の千曲川は昔、大きなワンドになっており、そこで、子どもたちが泳いだという話も伝わる。2019-12-20
28かすみ堤防かすみ堤防かすみ堤防は、戦国武将の武田信玄が治水のために考案されたと伝えられる。2019-12-20
29水天宮水天宮下塩尻字日月地籍に舟人の守護神、水の神、安産の神として水天宮が祀られています。千曲川水系では比較的大きな社殿と言われ、毎年9月には神主が来場して区民が例祭を行っています。 出典:『上田 しおじり』/塩尻地区近代化遺産活用ガイドブック編集委員会/ 発行 上田市教育委員会 2003年3月2019-12-20
30郡道標識と半過の渡し舟郡道標識と半過の渡し舟「半過渡船ヲ経塩田方面」の郡道標識が昭和2年下塩尻の青年団によって建てられました。渡しがあった千曲川の川幅は約50mで、昭和16年頃まで主に対岸の人々が中島地籍に田畑を耕作するために利用していました。舟番と呼ばれる人が小さな小屋にいて、両側の人々が大声で舟番に呼びかけると舟を渡してくれました。 出典:『上田 しおじり』/塩尻地区近代化遺産活用ガイドブック編集委員会/ 発行 上田市教育委員会 2003年3月2019-12-20
31諏訪泉神社 拝殿中央の彫刻諏訪泉神社 拝殿中央の彫刻「司馬温公瓶割の図」 司馬温公が子供の時の故事に由来しています。本名は司馬光という。 司馬光が友人と遊んでいたところ、友人が誤って瓶に落ちてしまいました。司馬光は機転を利かせ、貴重な水瓶を割って友人を助け出すことができました。 人名の尊さを訴えています。2019-11-15
32ほらが石(鳴石)ほらが石(鳴石)諏訪泉神社境内 文化2年(1805)諏訪部村の人々が千曲川の水中に、この石を見つけました。この石の上辺に小穴があり、これを吹くとホラ貝のような音がしました。村の人々は珍しい石であるとして、神社境内に安置し、しめ縄を曳いて神の如くしました。2020-02-06
33千人塚 (せんにんづか)千人塚 (せんにんづか) 1742(寛保2)年7月27日から8月1日まで激しい雨が降り続き千曲川が未曽有の大洪水(戌【いぬ】の満水)となった。佐久地方から海野、大屋、下塩尻にかけて大きな被害があり、千曲川沿岸に流れ着いた流死者を集めて正福寺に埋葬した。その際「流死含霊識(りゅうしがんれいしき)」と記した碑を建て、千人塚と言った。2020-02-06
34丸山邸 (木屋平)丸山邸 (木屋平)丸山邸は、江戸時代から材木問屋を営んでいた屋敷。母屋のほか多数の別棟や蔵があり、敷地は畑を含めて約6500㎡余である。敷地と建物を支える重厚な石垣は、見事な曲線を描き、往時の隆盛を偲ぶことができる。2020-02-06
35北向観音道標 (きたむきかんのんみちしるべ)北向観音道標 (きたむきかんのんみちしるべ)1895年(明治28年)に上田橋が完成するまで 上田と別所温泉、あるいは中南信を結ぶ道路(松本街道)はここだけで 茶屋や商店が並び人々が往来して賑わっていた。 古くから重要な道路として利用されていた。2020-01-10
36高橋高橋矢出沢川にかけた高い橋なので高橋と言う。敵が攻めてきたとき、この橋を落とせば、西の方から上田の城下町に入れなくなる。矢出沢川は自然の堀で、 上田城にとっ て高橋は、重要な防衛地点であった。さらに、ここは道を直角に曲げて作った「枡形」である。2020-02-06
37上塩尻地区の蚕室建築群上塩尻地区の蚕室建築群上塩尻地区の蚕室建築群模型2019-06-14
38床が抜けるほどの蔵書蓬廬書屋床が抜けるほどの蔵書蓬廬書屋神奈川県で先生をしておられた当主のお父さん、おじいさん三代にわたる蔵書が床も抜けんばかりに積み上げてあり蓬廬書屋と名付けられた。本人も枯骨閑人と名乗り、仙人のようでした。2019-06-14
39上田藩西端の番所跡上田藩西端の番所跡松代藩に続くこの地で藩への出入りをチェックした。ことに男性のチェックは厳しかったとのこと。2019-11-22
40沓掛酒造の百合子社長の話沓掛酒造の百合子社長の話元禄年間創業の老舗蔵。かつて岩戸籠の名で飲まれていました。おじいさんの代に福無量に変わり今も親しまれています。2019-11-22
41沓掛酒造沓掛酒造沓掛酒造は1688年創業という古い歴史の中で地酒の醸造元として今も北国街道沿いで酒造りを営んでいます。 沓掛酒造にある蹴鞠は、昭和44年上田市指定有形文化財有形文化財に指定されました。2020-01-10
42愛宕神社(あたごじんじゃ)愛宕神社(あたごじんじゃ) 1550年頃(天文年間)真田幸隆により祀られたとの伝承がある。後、仏教と習合し愛宕権現となり、正福寺が別当となり火難徐け祈祷をしてきたが、神仏混淆禁止令により1869(明治2)年愛宕神社となった。  今でも消防団により出初式の日に梯子乗りを奉納し安全と防火を祈願している。このお宮には180段の石段がある。2020-02-06
43智徳山正福寺(ちとくざんしょうふくじ)智徳山正福寺(ちとくざんしょうふくじ)真言宗。本尊は大日如来。742年(天平14)行基上人の開山と伝えられ、1560年(永禄3)当時の八幡社の西側より現在地に移した。1851年(嘉永4)焼失、1873年(明治6)に再建された。境内の観音堂には右手に桑を持ち、左手に蚕を乗せ、桑の葉に繭をつけた冠をかぶっているという大変珍しい姿の仏様が記られている。2019-11-22
44杉並木古株 (すぎなみきこかぶ)杉並木古株 (すぎなみきこかぶ) 真田昌幸が上田城築城の際、城の西側にあたる秋和集落に267本の杉を植えたと伝えられている。  このうち1本残った杉の木が史跡名勝天然記念物に指定されていたが、台風で倒れ今はこの古株から当時の杉並木を偲ぶだけとなった。2020-02-06
45正福寺の山門正福寺の山門1851(嘉永4年)の火事で金堂ほか焼失したが唯一残った山門です。2019-05-13
46東山道(とうさんどう) 「曰理駅(わたりのうまや)」東山道(とうさんどう) 「曰理駅(わたりのうまや)」「曰理駅 」は千曲川の渡河(とか)地点にあった。その場所については、議論もあったが、塔心礎(とうしんそ)の存在と瓦塔片(がとうへん)の発見などにより、この場所が有力推定地となっている。2020-01-10
47西講山向源寺(さいこうざんこうげんじ)西講山向源寺(さいこうざんこうげんじ)浄土真宗。本尊は阿弥陀如来。当初は上田原にあった。1566(永禄10)年、武田信玄の本陣となり、信玄はこの寺を戦場にしてはいけないという朱印状を与えたといわれる。1626(寛永3)年に現在地に移転した。俳人一茶も逗留し、作品や、寝泊まりした小さな家も残されている。2019-11-29
48松翁山芳泉寺(しょうおうざんほうせんじ)松翁山芳泉寺(しょうおうざんほうせんじ)浄土宗。本尊は阿弥陀如来。開創当時は常福寺と称した。1600(慶長5)年真田信之は常福寺を菩提寺としたが、信之の後に上田城主となった仙石氏により常福寺は下之条に移された。代わって小諸の菩提寺である宝仙寺をここへ移し、翌年法泉寺とした。境内には上田市指定史跡の「小松姫の墓」や「仙石家霊廟」がある。2019-11-29
49小松姫のお墓小松姫のお墓小松姫のエピソード 姫の婿選びのため、家康公に呼ばれてひれ伏している諸大名の髭を、姫が掴んで顔を見た。その態度に立腹し、鉄扇で手を打ち据えた大名が信之公だった。姫はこれに怒るどころか、他の大名のだらしなさを軽蔑し、彼の正室となり上田へ嫁いできた。2020-02-06
50西脇稲荷社(にしわきいなりしゃ)西脇稲荷社(にしわきいなりしゃ)祭神(さいじん)は宇加之御魂大神(うかのみたまおおかみ)、倉稲魂大神(うかのみたまおおかみ)。1843(天保14)年京都の伏見稲荷大社の御神霊(ごしんれい)を受け創建された。その後二回の改築を経て、現在の社殿は2003(平成15)年に建てられた。身近な神様として五穀豊穣(ごこくほうじょう)、商売繁盛(しょうばいはんじょう)、殖産興隆(しょくさんこうりゅう)、家内安全、交通安全の守護神(しゅごしん)として信仰を集めている。2020-02-05
51和田龍酒造和田龍酒造創業は1887年(明治20年)で創業者の和田龍太郎氏は酒造業の傍らブドウの品種改良も手掛け(ブドウ和田龍)をつくり東信地域で珍重される。以来、酒も「和田龍」と命名した。主なブランドは「清酒和田龍」「和田龍大吟醸」 「純米上田獅子」「本醸造真田太平記」その他原酒、にごり酒等がある。2020-01-10
52山極勝三郎生家 (やまぎわかつさぶろうせいか)山極勝三郎生家 (やまぎわかつさぶろうせいか)1863年(文久3年)上田藩士山本順兵衛政策の三男として 裏鎌原(現北大手)で生まれた。16歳の時に上田藩卸典医、山極吉哉家の養子となった。明治21年東京大学医学部を首席で卒業した。ドイツに留学し、1915年(大正4年)ウサギの耳にコールタールを塗り、人工癌の発生に成功した。 世界的な癌学者として知られノーベル医学賞候補にもなった。今でも癌研究では「世界の山極博士」である。1930年 (大正5年)急性肺炎で亡くなる。67歳であった。2020-01-10
53紺屋町八幡社(こんやまちはちまんしゃ)紺屋町八幡社(こんやまちはちまんしゃ)祭神は応神天皇(おうじんてんのう)、神功皇后(じんぐうこうごう)、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)、玉依姫命(タマヨリビメ)。創建年は不詳。真田昌幸が1584(天正12)年上田城築城にあたり鎮護のため、東御市の八幡神社(現:滋野神社)を現在地へ移したと伝えられてる。武門(ぶもん)の神様としても崇敬(すうけい)されている。祭日は4月14・15日。2020-01-10
54村上連珠砦 牛伏城の整備村上連珠砦 牛伏城の整備2019-03-03
55上塩尻の蚕室上塩尻の蚕室蚕種製造のための養蚕施設。下に埋薪(まいしん)と呼ばれる暖房の仕掛けがあるのが特徴。韓国のオンドルに似ています。2019-03-01
56熊棚熊棚上塩尻のとある場所で。 熊が木に登り休むために枝で棚をつくる熊棚を発見しました。2019-02-20
57沓掛酒造沓掛酒造沓掛酒造は、小岩井紬工房のお母さんにおすすめの場所を伺った際に教えていただいた酒造だ。 この酒造では、信州の地酒の「福無量」と「互」と製造しており、直売店【郷の蔵】では様々なお酒を購入、試飲することが出来る。 お店のお母さんもとてもやさしかった。 また、蔵内の見学は随時行っており、年に一度の蔵開放などイベントも行っているそうだ。2018-12-08
58COSMOSCOSMOS上塩尻を散策しながら、神社に向かう途中山のふもとにたくさんのコスモスが咲いてたので思わず写真を撮ってしまいました。2019-04-01
59藤本蚕業歴史館藤本蚕業歴史館蚕業の資料などがあり、歴史を学ぶことができます。実際に繭玉に触れることもできます。2018-12-08
60気抜きがある家気抜きがある家上塩尻を散策していると、いくつかこのように屋根のところに気抜きがある家がありました。 これは、蚕を育てるためのもので、今もこのように変わらず残っており、歴史を感じることができました2018-12-08
61はなびやさんはなびやさん原商店の向かいにあるはなびやさん 不定期で営業中 夏の花火シーズンに行きたい場所!!2018-12-08
62小岩井紬工房小岩井紬工房小岩井紬工房の見学に行きました。 養蚕に関する文化や歴史を知ることができる親しみやすい場所でした。 機織りと聞くと、地味だったり、渋いイメージでしたが実際に見ると、カラフルでかわいいものが多く、若い人にも手に取りやすい この青と黄色の着物は、息子さんが織ったもので、このような絶妙な淡い色のバランスを出すのが、すごく難しいようでとても時間がかかったと聞きました。2018-12-08
63座摩神社への道のり座摩神社への道のり座摩神社へはたどり着けませんでしたが、途中で見た景色はとても綺麗でした。2018-12-08
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