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1仙石氏と松平氏の歴史仙石氏と松平氏の歴史 仙石氏は三代から五代目の上田城の城主を務めました。三代目城主の仙石忠政が関ヶ原の戦い後に破却された上田城を再建させ、現存する西櫓もこの時に建てられた貴重なものとなっています。  松平氏は六代から十二代目までの城主を務めました。その間実に160年余りであり、上田城の歴史の半分以上が松平氏が治めていたことになります。主に千曲川の洪水によって破損したがけの石垣の設置や、地震による石垣と櫓の修復工事などが行われていました。2021-12-17
2雪の山道雪の山道雪の降る山道では、しばしば枝が落ちていたり、木が折れたりしている。 なぜでしょう? それは雪が積もり、その重さで折れてしまうから。 前の記事のように重たい雪がこびりついてしまうから無理もない。 道路上には小さい枝や、写真のような中くらいの大きさ、さらにはもっと大きなものも。 山道を運転する際はこれらにも気を付けたい。2021-12-17
3草木染の仕方(『西塩田時報』第132号(1934年11月1日)2頁)草木染の仕方(『西塩田時報』第132号(1934年11月1日)2頁)この記事は草木染の復興の経緯と染色手順が記されている。手染の良さや使う草木によって染まり方の違いが細かく書かれている。 手染は確かに手間がかかるが、その分自分好みの味わいのある素敵なものができる。また使う草木によってこんなにも色合いのバリエーションがあることに驚いた。実際に自分も行ってみたいと感じた。 ▼この記事は以下から確認できます。 584 『西塩田時報』第132号(1934年11月1日)2頁2021-12-16
4団体の規則(『西塩田時報』第74号(1930年1月1日)1頁)団体の規則(『西塩田時報』第74号(1930年1月1日)1頁)塩田地区の団体の規則を見ることができます。その当時にあったもので、とても興味深い内容になっています。 ▼この記事は以下から参照できます。 『西塩田時報』第74号(1930年1月1日)1頁2021-12-15
5鍛冶屋の仕事~鉄とくらし鍛冶屋の仕事~鉄とくらし当時の町や村には、それぞれ必ず1軒か2軒の鍛冶屋があった。 そこでは、鍬、鋤、鎌などの農具や斧、蛇包丁などの日用品がつくられていた。この鍛冶屋は、野鍛冶ともいっていた。 鍛冶屋では、新しいものをつくるだけでなく、古くなって刃の減ったものを鍛えなおして再び使えるようにする先掛けも行っていた。 鍛冶屋で何度も再生された鉄製品を当時の人は最後まで大切に使った。2023-05-06
6上田における交通の2大生命上田における交通の2大生命上田における交通関係において車と電車って便利に動くなら欠かせないですよね。別所線が無くなったらものすごく困るみたいな人も多いんじゃないでしょうか。 これって欠かせないよねっていう要素がある状態の時、つまりそれを利用する人が割合で見ると多いんだと思います。 つまり、少なからずそれが何かしらの危機に陥ったとき「守ろう」という連帯感が生まれる根源になるとも言えます。 実際、鉄橋が被害を受けたとき(その時ここにはいなかったので現地がどうだったかは分かりませんが)、端から見てる分には重要な要素なんだなっていうのが伝わるぐらい連携しているように見えました。 血液というか血管というか、そういった循環器的な役割が確立されているとそこを中心に施策を考えたり出来る、つまりベースが定まっているので2021-12-15
7キャラクターがいると魅力的に感じるキャラクターがいると魅力的に感じる別所線のキャラクターの「北条まどか」さんってちゃんとストーリーがあるみたいですね。僕は最初見たとき、あんまり言い方は良くないと思うんですけど看板として使われてる存在なのかなって思いました。 でもちゃんと調べてみるとしっかり練られたストーリーと立ち位置があるみたいですね。 長いのでここでは割愛しますがウェブで見られる絵本的なものもあるみたいですよ。 さて、このようなキャラクターがいることでどのような効果があるか。一瞬は目をとめますよね。さらに、ちょっと調べてみようってなったらその地域資源についても触れるきっかけになりますよね。そうやって輪を広げていくための役割を担えるのがキャラクターだと思っています。 ただ、ちょっと残念だなと思ったのが物語に触れるきっかけがあんまし見当たら2021-12-15
8農家恐慌の実態(『西塩田時報』第1号(1934年10月1日)4頁)農家恐慌の実態(『西塩田時報』第1号(1934年10月1日)4頁)この記事は、面白いというより読んでいて当時の農家の実態のひどさが印象に残ったから選んだ。 私たちは、様々な恐慌についても、過去の出来事として学んでいるがここに書かれたものだと、現実味があって当時の苦労していた様子がリアルに伝わってきた。 馬鈴薯を主食にして1日に一回位の米粒を口にするものは上乗とされているとか、僅かな塩で飢えを充たしているとか。このような時代があったことを知っておく必要があるし、みんなに読んで欲しいと思った。 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0579.jpg2021-12-15
9民主政府は総選挙で(『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁)民主政府は総選挙で(『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁)この記事には、戦後の当時の選挙に対するとてもあつい雰囲気がうかがえる。「私たちが幸福になるためによく考える」という点は今でも変わらないものだ。 ▼この記事は以下から参照できます #985 『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁2021-12-15
10「上田市の主な工業」はじめに「上田市の主な工業」はじめに本記事では上田市の工業の特徴を探るべく、上田市内の企業をいくつか取り上げたうえで、その傾向を考えていきます。 ※掲載企業は「上田市に本社を持つ」「上田市に主力工業を置く企業」の中から投稿主の裁量で選択したものです。調べきれず掲載できない企業が多くありますが、これらの企業を主要ではないとして貶める意図はありませんので御了承ください。2021-12-15
11『衛星メモ』(『塩田田時報』第15号(1948年5月25日)1頁)『衛星メモ』(『塩田田時報』第15号(1948年5月25日)1頁)本記事では家庭の雑学のようなものがいくつか取り上げられている。 現代なら検索すればすぐに得られるような知識であるが、当時の人々からはこういった豆知識のようなものが重要だったのかもしれない。 ▼この記事は以下から参照できます。 #1015 『西塩田時報[戦後]』第15号(1948年5月25日)1頁2021-12-14
12家庭の改造と女性の地位(『西塩田時報』第2・3号(1947年3月10日)2項)家庭の改造と女性の地位(『西塩田時報』第2・3号(1947年3月10日)2項)この記事は、この時代までの男尊女卑の風潮を批判したものである。 この記事が発行された前年に女性は参政権を獲得したものの、女性の立場は家庭内や社会でほとんど変わっていない、というということが読み取れる。 現在の様子との違いをとても感じさせられる文章だった。 ▼この記事は以下から参照できます。 #980 『西塩田時報[戦後]』第2・3号(1947年3月10日)2頁2021-12-14
13「青少年学徒に賜りたる勅語」(『西塩田時報』第190号(1939年9月1日)1頁)「青少年学徒に賜りたる勅語」(『西塩田時報』第190号(1939年9月1日)1頁)昭和天皇の勅語を掲載した記事。この前年に国家総動員法が発令されたことがあり、これを含めて戦争一色となっていることがわかる。また、この日はドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発した日であり、欧州においても戦乱が広がり始めることになるが、それ以前よりこのようにあらゆる分野の記事で挙国一致、戦時体制の確立を訴えていることは、日中戦争がいかに長期化していったことを示すものだと考えられる。2021-12-14
14入學前の家庭教育に就て(『西塩田時報』第1号(1947年1月25日)2頁)入學前の家庭教育に就て(『西塩田時報』第1号(1947年1月25日)2頁)初等科一年生を受け持つ先生が保護者へ向けて書いた、入学前までにできるようになっていてほしいことを示したもの。カタカナの読み書きの習得から毎朝顔を洗うなんてことまで書かれている。 今の新聞ではあまり見られない記事で、当時と今の新聞の在り方の違いが感じられる。 さらにタイトル横の“父兄の皆様”という言葉も最近は聞かなくなったなと。 ▼このページは以下から参照できます。 #976 『西塩田時報[戦後]』第1号(1947年1月25日)2頁2021-12-14
15「西塩田時報」13号(1948年3月25日)1頁「西塩田時報」13号(1948年3月25日)1頁自分は企業情報学にいるため新聞業の規範というタイトルに興味を持った。新聞業の人間が持つ責任や義務、その他の教訓のようなものが長々と書かれていた。自分たちも近代になり誰でも莫大な量の情報を扱えるようになった以上、見習うべきことや考えさせられることがあると感じた。#59 『西塩田時報』第13号(1924年12月1日)1頁  この記事は以下から参照できます2021-12-14
16かつての成人の願い(『西塩田時報』第78号(1930年5月1日)3頁)かつての成人の願い(『西塩田時報』第78号(1930年5月1日)3頁)コラムを書いた筆者が、戦争の傷が残る子ども時代に見た大人の世界は、 生きるために血眼で戦う醜い世界。 そんな時代の先で彼が望んだのは、何か世の中の役に立つ人間になることだった。 生きるために戦うことの醜さを知らない現代の日本の大人たちは、 戦いの時代になったら、彼にとっての醜い大人になってしまうのだろうか。 私は世の中の役に立つ大人になりたいとは思うものの、そういう人にならない確証は無い。 なるべく避けたいものだなと思った。 現代では多分考えないだろうこの価値観が面白いと思った。 ▼この記事は以下より参照できます #337 『西塩田時報』第78号(1930年5月1日)3頁2021-12-14
17禁酒(『西塩田時報』第1号(1923年7月1日)4頁)禁酒(『西塩田時報』第1号(1923年7月1日)4頁)「禁酒」という分かりやすいタイトルのもとに、健康のために禁酒をしましょう的な真面目な勧告文が書かれているかと思えば、今でいうラップのように韻を踏んでいる唄なのである。内容は禁酒を進めるものであるのだが、酒飲みをこれでもかとディスっている。ふざけているように見えるが、実際に堅苦しい文章よりも読み進めやすく、タイトルもデカデカと「禁酒」の2文字で目に留まりやすい。意外と考えられている記事なのかもしれない。 ▼元記事はこちら  https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0004.jpg2021-12-14
18農村 (『西塩田時報』第108号(1932年11月1日)1頁)農村 (『西塩田時報』第108号(1932年11月1日)1頁)これは農村の困窮についての記事です。時報のなかでもかなり新しいもので、農村で暮らす庶民のリアルな生活が書かれています。こういった時代のなかでも、より暮らしやすい世を目指すために声を上げる人がいるからこそ今の世があるのだと思いました。こういった姿勢を失わないようにしていきたいです。2021-12-14
19雪國 (『西塩田時報』第27号(1926年2月1日)4頁)雪國 (『西塩田時報』第27号(1926年2月1日)4頁)これは長野県の新聞社主催のスキー講習会の記事です。スキー自体は戦前からあったものと知っていたのですが、大正時代から今現在まで長野県で有名なスポーツとして楽しまれていることに文化としての完成度の高さを感じました。また、長野県も雪國としてふさわしい地なのだと思います。2021-12-14
20働くものが幸福になる! 民主政府は總選擧で 總選擧に當り國民はいかにその貴き一票を行使するか?聞け!!村民の血の叫びを!(『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁)働くものが幸福になる! 民主政府は總選擧で 總選擧に當り國民はいかにその貴き一票を行使するか?聞け!!村民の血の叫びを!(『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁)選挙において、よく考えて投票することを呼びかけている。 よく調べずに「名前を聞いたことのある人だから」という理由だけで投票してしまったことがあるので、とても身に沁みる。自分の一票が政治を変えるのだとよく意識して投票するべきだと感じた。 この記事は以下から参照できます。 #985 『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁2021-12-14
21もつとほしい豫算(『西塩田時報』第30号(1949年9月20日)2頁)もつとほしい豫算(『西塩田時報』第30号(1949年9月20日)2頁)記者の先生に対するインタビュー記事である。 戦前に比べて生徒たちの主体性を育むための授業が行われ始めたと分かる。教室内が明るく感じたものの、記者の印象としては生徒が授業中に話すことは室内の秩序が乱れていると感じたと分かる。2021-12-14
22『児童の体格について』(『西塩田時報』第2号(1923年9月1日)3頁)『児童の体格について』(『西塩田時報』第2号(1923年9月1日)3頁)記事では日本全国・長野・西塩田小学校の児童の体格の平均を比べたもので、この村の児童の体格があまり良くないということが述べられている。 3つのデータから、どういった児童がどのような部分で全国・長野の平均を上回っているのかがよくわかる。 地域を感じさせる記事で興味深かった。 この記事は以下から参照できます #7 『西塩田時報』第2号(1923年9月1日)3頁2021-12-14
23地方選挙に望む『西塩田青年団報』第4号(1946年11月25日)1頁地方選挙に望む『西塩田青年団報』第4号(1946年11月25日)1頁選挙の理由や意義または仕組みなどが書いてあった。選挙の制度が地方選挙では村長・議会議員・知事などを決める。選挙に出るものは私的な欲望ではなく、村の代表として信頼される人物が望ましいとも記述してあった。 今でも選挙が行われており、昔の名残も残っているように感じ、面白いと思った。 『西塩田青年団報』第4号(1946年11月25日)1頁2021-12-13
24農村の若人に(一)(『西塩田時報』第121号(1933年12月1日)4頁)農村の若人に(一)(『西塩田時報』第121号(1933年12月1日)4頁)この文章は、匿名のYさんから農村の若者に向けた物である。 世界は戦争や疫病により、落ちぶれてしまっている。世界では資本主義や社会主義、科学を主体とする思想も広がっている。日本もそれを色々と真似ようとしているが、執筆者から見たら、立派な青年(日本)が不良な青年(外国)と遊んでいて悪い癖を覚えさせられているように感じられているそうだ。現に世界恐慌の際、労働者と資本家も苦しんでいる中で、大資本家や国際的な資本家は卑しく笑っていた。また、人間は自ら見つけた科学を全力で成長させてきた。その科学は完全に人間の上に立ち、一切の指令権を持つようになり、人間は科学に職を追われ科学の犠牲になりつつある。歴史ある美しき日本を守れ。そして、大和魂を持って世界を再生することが使命である。 ある程度理解2021-12-12
25YouTubeを用いた情報発信 後期中間報告YouTubeを用いた情報発信 後期中間報告YouTubeを用いた鉄道動画による情報発信について、 後期の中間報告になります。 スライドはあえて簡単なものにしました。 実際に動画を見てもらうことも兼ねているためです。 また、新しい動画も投稿しました。 下記のURLよりどうぞ。 チャンネルURL https://www.youtube.com/channel/UCsrC_Lq4hcpxyec0vmvT9FQ2021-12-12
26台風19号災害から2年…りんご農家の今台風19号災害から2年…りんご農家の今2019年10月13日、台風19号により千曲川の氾濫が引き起こされた災害から2年が経った。当時、千曲川から水と共に流れてきた泥などが地面に堆積、あるいはリンゴが水に浸かるなど、リンゴ農家にとって甚大な被害となったが、その後数ヶ月に渡るボランティア活動によって堆積した泥は撤去された。しかし、収穫時期真っ只中だったこと、住居・農機具様々なものが被災したことは想像以上に深刻なものだった。 復興していく中で、ある農家の方が方法の1つとして始めたのがSNSだった。当時は現状を伝えるものでしか無かったが、次第に励ましの声やオンラインでの販売など、SNS活用の可能性が広がっていった。農家の方によれば、そういった励ましの声が一番の復興の力になったそう。 2年が経過した現在、さらにSNSの可能性が広がり「復興りんご」2021-10-26
27リンゴの凍霜害リンゴの凍霜害今春、リンゴの花が咲いていた時期に霜が降り「凍霜害」という気象災害があった。農家の方によれば、40年リンゴ農家してきた中でもあまり経験のないようなものであったそう。 リンゴの凍霜害とは、夜の急激な温度低下によって、花が凍るなどして枯れてしまうものであり、その後の実の成りに影響が生じ収穫量が減少してしまうなどの被害がでる気象災害である。2021-10-15
28鳥居峠鳥居峠鳥居峠は国道なこともあり、路面はかなり綺麗。 道幅は広く、登坂車線もある。 写真は上田側に降りていく途中で、チェーンの脱着ができるようなスペースにて撮ったもの。 以前夜間に通った際、チェーンをつけている車がいたところだ。 写真からわかるように、昼間でも標高が高いので雪が残っている。 これから冬本番、もし通行することがあるならば、夜間と早朝は特に注意が必要だ。2021-12-01
29キモノマルシェ2015/信州シルクロードへの誘いキモノマルシェ2015/信州シルクロードへの誘い キモノマルシェ2015/キモノアカデミー/信州の蚕糸を知ろう 「信州シルクロードへの誘い」 会場:旧常田館製糸場施設(重要文化財、長野県上田市) 2015/10/04 講師:前川道博(蚕都上田プロジェクト代表世話人) 内容:前半レクチャー、後半見学。国内に残る近代の製糸場は富岡製糸場とここ常田館製糸場の2つ。蚕種製造でも栄えた上田は蚕都と呼ばれた。女工さんたちが働いていた工場の情景も想像してみよう。2021-11-29
30キモノマルシェ2013/信州の蚕糸を知ろうキモノマルシェ2013/信州の蚕糸を知ろう キモノマルシェ2013 in 上田 キモノアカデミー/信州の蚕糸を知ろう 「蚕都上田と旧常田館製糸場施設」 2013/11/17 講師:前川道博(蚕都上田プロジェクト代表世話人)2021-11-29
31のどごし◎生そばのどごし◎生そばそばの産地としても知られる信州。 痩せた土地、冷涼な気候がそばの栽培にうってつけの環境であり、良質なそばが穫れます。 内陸県のため、そばに浸けて食べるだし汁は昆布や鰹だしではなく、辛み大根のおろし汁と暖炉裏で焼かれた焼き味噌を和えて食べる「からつゆそば」が考案されました。 また、打ち立てのそばは味も香りも良く、美味しさそのものですが、保存には向かないため、「干しそば」が考え出されたりしました。 そばをおいしく食べるための知恵と工夫がこらされた信州そばを、お土産をきっかけに、本場で実際に食べてもらいたいですね。2021-11-24
32保命水とは?保命水とは?柳町の路地にある水場。明治14年に付近にある海善寺の湧き水を木管を繋いで引いてきたもの。上田市に上下水道が開設される大正12年まで生活用水・非常用水として、地域住民や北国街道を往来する人々に多く利用されていた。利用されている時も、生活用水として使われなくなってからも、地域住民が価値を見出し、長年、維持してきたことが感じ取れた。2021-11-22
33#りんご県のおみや#りんご県のおみやりんごの甘酸っぱさと、口当たりの良いバタークリームがおいしい、すっきり食べられるお菓子でs。 長野県といえば、全国的にもりんごの産地として有名です。上田もその例外ではありません。 明治七年(1874年)から栽培が始まり、善光寺への参詣客に売っていました。世界恐慌でそれまでの主要産業だった養蚕業が打撃を受けたことをきっかけに、りんご栽培が盛んになりました。当時は味が不評だったため、同じくりんごが特産の青森県を真似て、「紅玉」と「国光」の品種を中心に栽培されるように。 「水はけの良い土地」、「昼夜の気温差」がりんごの生育に適しており、8月~2月にかけてが旬と、おいしく食べられる期間が長いことが特徴。 りんごの名前の初めに「サン」がついているものは、袋をつけないで作られたりんごで、太陽光2021-11-23
34一番「強い」地域資源一番「強い」地域資源長野大学って一番強い地域資源だと思うんですよ 強いってどういうことか? 地域資源って店だったり自然、史跡って感じで色んなものがあるんですけど、1つだけ絶対に関わっている要素があるんですよ。 それは人です! それをたくさん抱えている大学という組織は地域において強い力を持っていると思うんですよね カードにするならユニットの強化系ですかね~2021-11-22
35上窪池上窪池上窪池は1645年に築造されたとあり、江戸時代に改修される以前は泥池と呼ばれていた。塩田鯉の養殖にも使われていた。池のほぼ北西に泥宮が祭られておりこの二つは一対の物と考えられる。泥は稲作にとって欠かせないものであり、稲の母として古来泥は神聖なものとして扱われてきた。また夏至の日には太陽の昇道がまっすぐ鳥居の真ん中にくる。2021-11-20
36駒形社跡駒形社跡駒形社があった場所。上信越自動車道開通に伴い、八満弓神社境内に移設されている。(参照 駒形社(八満弓神社境内)) 碑文 駒形社跡 裏面 小諸市大字八満字駒形に 鎮座していた駒形社 は創建 年代は詳らかではないが塩野の の牧の西方の駒形として奉齋 されたと伝えらている 現在の祠は貞享元年の再建で ある 此の度上信越自動車道開通 に伴い当初八満弓神社境内 に遷し奉り跡地に石碑を 建立してその名を留めるものなり  平成六年十二月吉日 宮司 金井重忠 筆頭 池田二郎 総代 美齊津卓雄    依田 進    田中三雄    小山春男    美齊津幸一2021-11-18
37蛇石蛇石蛇石 碑文 蛇石の由来 蛇堀川の南、加増村の字袖川原に、長さ六米、幅 二米、高さ一・五米の巨大な自然石で、その上には 小祠が立てられていて、石の周囲に大きな筋目 二条ついている。この石を蛇石とよんでいる。 伝説によると、近くの堀川に大蛇が生息して おり、夜になると出てきて、その石に横たわり、 通って畑を荒し百姓を苦しめたという。 蛇石様として祀ったので、その後は災がなく なり二条の筋目は大蛇のとぐろの跡だといい 伝えている。子どもの臍の緒をあげると、虫を 痛まないといわれている。 この石は享禄四年(一五三一)十一月二十二日から 二十三日にかけての大雪と浅間の噴火によって 蛇堀川に沿って土石流で押し出し、七尋石などと 同じ時に、ここに流れ着いたものと考えられている。 祭神は蛇で神様の使2021-11-18
38柳町柳町城下町だった頃を想像できる景観。350年の歴史がある酒蔵から、東京からやってきた天然酵母のパン屋さんまで古いものも、新しいものも景観として上手く溶け込んでいた。店の看板には、上田の農民芸術「こっぱ人形」が使われていて、こだわりを感じた。また、橋は生活圏と生活圏を繋げているものだと思った。2021-11-17
39紫陽花小道紫陽花小道ここ紫陽花小道は1万株もの紫陽花が植えられていている。小道というほどの短い距離ではなく、そこそこの距離がある。紫陽花が咲く時期に行けば一面の紫陽花もみられる。また少し高いところにあるので上田地域を見下ろすことができる。水車小屋もあり涼しげな雰囲気を感じることができるだろう。 梅雨の時期に行くことが多くなるが雨の後に行くと道がぬかるんでいるので注意したい。また蜂などの危険な生物も生息している場所になるので注意が必要だ。 注:写真は7月7日のもの2021-11-17
40前山寺のくるみおはぎ前山寺のくるみおはぎ事前に電話での予約が必要ですが、前山寺では胡桃おはぎをいただくことができます。お寺は山を登ったところにあるので見晴らしが良く、座ったお座敷のガラス窓からは、しおだを一望することができ、おはぎに舌鼓を打ちつつ景色も楽しむことができます。餡子で包まれたものではなく、胡桃入りのタレを付けていただきます。軽い食感なので、飽きることなく食べられます。甘いものや和菓子が好きな人にぜひ食べてもらいたい一品です。2021-11-17
41あいそめの湯②あいそめの湯②信州最古の温泉といわれている別所温泉であるが、あいそめの湯に飾られていた別所温泉の歴史が書かれたものがあったので、自分でも深く調べてみた。 別所温泉は景行天皇の時代、日本武尊の東征の折りに発見されたといわれている。または平安時代(794年-1185年)中期の女流作家、清少納言によって書かれた「枕草子」にある「湯は七久里の湯、有馬の湯、玉造の湯」という一節の中の「七久里の湯」が起源ではないかという説もある。 12世紀に入ると別所は木曽義仲(源 義仲)信州を平定するために派遣した軍勢によって火を放たれ、多くの寺院建築が灰になってしまったが、大悲殿ならびに安楽寺の八角三重の塔だけは焼失をまぬがれた。その後、焼失した別所の寺院は源頼朝、次いでに塩田北条氏によって再建されることとなった。そして、こ2021-11-16
42上田城上田城上田城では紅葉がピークを迎えました。もみじが真っ赤に色づいていてとてもきれいでした。写真は本丸跡で撮影したものです。みなさんもぜひ足を運んでお気に入りの紅葉スポットを探してみてください。2021-11-15
43上田紬を学ぶ⑥上田紬を学ぶ⑥着物を着る機会が減った今、上田紬だけでなく着物業界全体が厳しい状況にあります。お土産用の小物制作やワークショップだけでは収入につなげることも普及することも難しいのが現状です。藤本つむぎ工房の佐藤さんは、この現状を打破すべく着物の着方のイメージを変えていく必要があると言います。昔のものが現代人の体型に合わないこともあるため、現代風に少し着崩してみたり、様々な紬を組み合わせてリメイクしたりといった工夫でもっと紬が日常的なものにすることが、上田紬が生き残る活路になるかもしれないとおっしゃっていました。 写真は今回取材させていただいた藤本つむぎ工房さんです。2021-11-15
44上田紬を学ぶ④上田紬を学ぶ④りんご染めの糸で作られた上田紬です。黄色からグレーに近い色まで、りんごの品種によってその色は様々です。商品名にりんごの品種が書かれているものとそうでないものがありますが、書かれているものはその品種のみで染められたものでそうでないものは何種類か混ぜて染められたものだそうです。 りんごという長野県の特産品を染料に使うことで、上田紬が長野県のものであると強調することにつながっています。2021-11-15
45博物館訪問 仙石氏と松平氏博物館訪問 仙石氏と松平氏こちらは仙石氏と松平氏の胴具足。 仙石氏は仙石秀久が所有していたと伝わるもの。 兜鉢は豊作の象徴として縄で束ねたわらの形をしており、そこに縁起物であるシダの葉をかたどった脇立てを立てたユニークなつくりだ。 一方松平氏は松平忠周が所有していたと伝わるもの。 胴にある2ヶ所のくぼみは強度を証明するための鉄砲の試し撃ち跡であるが、きれいに凹んでいるので鏨で打った可能性もあるそう。2021-11-16
46上田紬を学ぶ②上田紬を学ぶ②小岩井紬工房さんでは様々なものが機織機を使って手織りで作られていました。 写真1枚目は反物を織っているところです。現代向けにカラフルではっきりとした色遣いになっています。 写真2枚目は珍しいものを織っている様子です。なんとこれ、銅線を編んでいるそうです。接地網と呼ばれるもので、同じく上田にある日置電機さんに卸しているとのことでした。2021-11-15
47前山寺前山寺前山寺に入ると、前山寺縁起というものがあります。ここには前山寺がどのようなお寺かという事が、詳しく書かれています。 先に進むと階段があり、門の隙間から大きなイチョウが見えます。入って右手には、大きな鐘があります。 中に入ると、大きなイチョウと奥に本堂が見えます。本堂は大きな三重等になっており、きれいです。2021-11-15
48雪屋 Conco雪屋 Conco上田駅のすぐ近くの天神商店街の通りにある、甘味処「雪屋 Conco」。和の雰囲気を感じるようなお店で、店の内装やBGMで気持ちを落ち着かせることが出来、とても居心地の良い場所だった。 私は「クリーム抹茶あんみつ」を頼んだが、見た目が赤、オレンジ、黄緑、黄色と色鮮やかで目でも楽しめた。そして、一口食べてみると「甘いものって人を幸せにさせるのだな」と改めて思うことが出来た。 しかし、ずっと食べていると口の中が甘ったるくなってくるのだが、なんと塩昆布も一緒に提供されたのだ。なので「甘い、しょっぱい」を繰り返すことが可能となり、いくらでも食べられるような気がした。2021-11-15
49日昌亭日昌亭 上田市民のソウルフードと言ったら、「あんかけ焼きそば」。その「あんかけ焼きそば」を食べることが出来るのが、昔から地元の人たちに愛されている「日昌亭」である。 また、「日昌亭」には本店と支店があり、私は支店の方へ行った。お店の中に入ると内装はシンプルで、「静か」というのが第一印象であったが、メニューを選んでいるときや頼んだものを待っているときの厨房から聞こえてくる調理音。これがまた気分を落ち着かせるような感じでとても良かった。 本題の「あんかけ焼きそば」だが、あんかけたっぷり、野菜たっぷりで麺はとてもパリパリ。そして、麺は脂濃くなく、しっかりと焼かれているのがはっきりと分かった。 さらに、からし酢もお好みでかけることが出来て、かけるとガラッと味の印象が変わり、より一層美2021-11-15
50中善寺中善寺中善寺の参拝料は200円です。 中善寺に入ると、紅葉ときれいに手入れされた木々が見えます。とてもコントラストがきれいでした。 進んで右手に中善寺薬師堂があり、茅葺がきれいなお堂が見えます。長野県最古の木造建築であり、このように綺麗に残っていることに驚きです。 進んで左手には、枯山水のようなものがあります。整備されており、とてもきれいでした。2021-11-15
51「上田探検」のねらいなど「上田探検」のねらいなど私がこの「上田探検」でしたいことは、上田の美味しいお店や料理を見つけ食べることである。こう思った理由は、ただ単純に「食べること」が大好きだから。ねらいは、自分自身が知るのもそうだけれども、多くの人に上田の美味しいお店や料理を知ってほしいということである。さらに、あまり知られていないけれど、美味しいものがあったら広めていければいいなとも思っている。2021-11-15
52公園のジョウビタキ公園のジョウビタキ生島足島神社の近くにある公園に立ち寄ったらジョウビタキのオスが姿を現した。ジョウビタキは人家近くによく現れる人気の野鳥だが、下之郷にもジョウビタキがいた。 ジョウビタキは縄張り性の野鳥のため、ここへ訪れれば高確率で出会えるだろう。 ジョウビタキは目線の高さくらいのものにとまって獲物を捕まえる習性を持っているが、この公園は目線の高さのフェンスなどがありジョウビタキが好みそうなとまり台があった。これらにとまりながら芝生の虫や地面の実などを食べていたのではないか。2021-11-15
53柿の木にとまるムクドリ柿の木にとまるムクドリ耕作地で車を走らせているとところどころに柿の木を見かける。食物が乏しい秋から冬は野鳥にとって厳しい季節だ。そんななか人間の植えた柿の木に成る柿は野鳥たちにとってはご馳走である。 このムクドリたちも群れで柿の木に集まっていた。 鳥たちが食べていた柿は熟しているものがほとんどで、柿に集まる野鳥を見るには、実ったばかりの柿ではなく、ある程度時間が経ち熟れているものが良いと考える。2021-11-15
54山田池のオオバン山田池のオオバン山田池には多数のオオバンが湖面に浮いていた。オオバンは水かきがあまり発達しておらず泳ぐのがあまり得意でない。 水の上を移動する際に頭をせっせと動かしながらがんばって移動している姿がとても可愛らしかった。 山田池にも枯れた水草などがところどころで見られて、オオバンの他にカモ類が多く見られた。水鳥が集まる条件の一つとして、水草などがあるというものが多いと考えられる。訪れたため池の中で水鳥が多い池には水草が生えていたという共通点があった。2021-11-15
55舌喰池のマガモ舌喰池のマガモ舌喰池にはたくさんの種類のカモが居たが、その中でも一際目立っていたのがマガモだ。 マガモは太陽の光の当たる角度により様々な色に輝く非常に綺麗なカモで、舌喰池に訪れた際は見ておきたいカモの一種だ。 舌喰池には夏になるとハスがたくさん植えられており、一面がハスで覆われるくらいになる。そのハスが冬になると枯れて、水の中に溶けるとカモなどの水鳥がそれを食べているところが観察できた。2021-11-15
56「言葉」屋さん?「言葉」屋さん?上田市柳町にある本屋さん。古本を含め、店主のこだわりを感じる様々な本が並んでいた。絵本がたくさん置いてある印象だが、お客さんのほとんどは大人。「子どもの頃読んだな~」「もう一回読みたい!」そんな声が聞こえてきた。ここは、懐かしさという癒しと、とっておきの一冊に出会える本屋なのだろう。そして、思い出という過去と現在の自分、その本を楽しんでいた誰かとつないでくれる場所だ。2021-11-15
57第8回山本鼎版画大賞展第8回山本鼎版画大賞展市立美術館で11月14日まで行われていた「第8回山本鼎版画大賞展」を先日見に行ってきました。版画は木版をイメージする方が多いと思いますが、石版や金属板を掘って作られた作品が全国から集まっていました。作者のテーマや思いがひとぞれ違っているけれどうまく表現されている物が多くとても感動しました。「版による芸術表現」というものを感じることができました。2021-11-15
58上田駅探索上田駅探索飲食店は多めだけど娯楽が少ないのではないかと思った。 若者が楽しめそうなものがカラオケくらいしかないように感じた。2021-11-15
59上田城下町絵図上田城下町絵図こちらは仙石氏在城時代の上田城下町絵図。1702年制作のものだ。上田城のホームページからアーカイブを開けば様々な絵図を閲覧できる。2021-11-15
60珍しい自販機!?珍しい自販機!?いつもの学校への通り道にあって思わず撮っちゃいました 毎日通ってるのに気づかないコトってあるんですねー この時は買わなかったんですが機会があるときに買ってみようかなと思います けっこう数が減ってたりするんで人気なんですかね? カードに使うんでしたら回復アイテムになりますかね~2021-11-15
61見逃していた場所見逃していた場所上田城へは何度か訪れていたのだが、今回の散策で注意深く辺りを見回していると、上田城に遊歩道があることに気がついた。トンネルのようなものの奥には紅葉が広がり、写真に撮りに来ている方が多くいた。ここへ来るまで随分とかかったので、写真のベンチで休んだ。2021-11-14
62プレミアムジェラート ハレTerraceプレミアムジェラート ハレTerrace北向観音参道にあるジェラート屋さん。撮影日はそこそこ寒かったですが、老若男女問わずたくさんのお客さんで賑わっていました。 紫芋のジェラートとラズベリーソルベを注文したところ、カップいっぱい山盛りに盛り付けていただきました。素材そのものの味が生きた素朴な味で、とても美味しかったです。2021-11-14
63北向観音北向観音別所温泉駅に到着し、まず初めに訪れたのは北向観音。境内には樹齢1200年の「愛染桂」が立っており若者たちからは縁結びの霊木として親しまれている。また、こちらは昭和14年に長野県の天然記念物に指定された。 お堂はとても厳かな雰囲気に包まれていた。本堂が北を向いたものはほとんど例がなく、「北向観音」という名称はこれに由来するという。長野県で有名な善光寺が来世住生を願うのに対し、北向観音は現世利益を願うとされており、向き合っている両方をお詣りした方がいいと言われている。 またこのお堂の対角には、額堂と呼ばれる絵馬堂が建っており、現在は仁王像が建っていた。2021-11-14
64常田新橋常田新橋竣工平成11年の比較的新しい橋である常田新橋。なんといってもその特徴は、カラータイルが敷き詰められた非常に広い歩道。そして独特なモニュメント。 このモニュメント、展望台としての機能を持っているようなのですが…現在本当に上ってよいものなのかは不明です。もし興味がある方は安全のためにも、上田市に確認を取ってから上ってみるのをお勧めします!2021-11-13
65千曲川橋梁(上田電鉄別所線)千曲川橋梁(上田電鉄別所線)朱色の鉄橋。毎日のように別所線が通っている千曲川橋梁だ。令和元年度に長野県を襲った令和元年度東日本台風により一時は崩落の憂き目に遭ったものの、2021年に復活を果たした。この災害においては、まさに復興の象徴ともいえるのではないだろうか。2021-11-13
66上田城 真田赤備え兜上田城 真田赤備え兜真田の代名詞でもある全国的に有名な兜。真田神社の敷地内にあります。大阪夏の陣で大活躍した時真田幸村が、赤で統一した「真田赤備え」部隊の時にかぶっていた物を、撮影スポットとして作られたものです。とても細かく作られており、その大きさに圧倒されます。2021-11-12
67美ケ原公園西内線美ケ原公園西内線楽しい楽しい山道にやってきた。 写真は美術館まで約8kmの地点と、白樺平で撮ったものだ。 この山道は景色はもちろん、先の見えないカーブの連続を走ることが楽しい。 ただ、一か所道が崩れているのか、パイロンで区画分けされている場所があるのでご注意を。2021-11-11
68岳の湯温泉 雲渓荘岳の湯温泉 雲渓荘今日の第一目標地点へやってきた。 人里離れた山の中にある、岳の湯温泉 雲渓荘。 他の温泉よりも少し安い、一回400円で入浴ができる。 風呂場は黒を基調としていて落ち着きがあり、静かな空間での入浴は心身ともにリラックスできる。 入口の赤い橋がとても好き。 ここまでの道は意外にも綺麗で、道幅も程よく広く走りやすかった。 しかし、落石注意の看板が大量にあった通り、小石と思われるものが転がっていたので注意が必要。2021-11-11
69上田城の歴史上田城の歴史 上田城は天正11(1583)年真田幸村の父である真田昌幸によって築城され、天正13(1585)年第一次上田合戦・慶長5(1600)年第二次上田合戦の二度にわたり徳川の大軍を退けたことで知られています。 二度もの実戦経験があり、上田城のような戦歴を持つ城は全国でも珍しく、他に例がありません。 関ヶ原の合戦後、上田城主は真田信之となり、以後には仙石氏(三代)、松平氏(七代)と代わり、廃城後は公園となり現在に至っています。2021-10-29
70上田の道路と環境の関わり上田の道路と環境の関わり上田駅から長野大学の道のりで道路と環境が関わることを探してみた。 1枚目の上田駅温泉口近くの写真は普段何気なく見る街路樹の写真である。街路樹には、景観を向上させるメリットや車の排気ガス・騒音などを緩和させる役割、更には夏の強い日差しを和らげるなど沿道の環境を良好に保つメリットがある。また、他にも街路樹があることで道の曲がり方などが分かりやすくなるため、ドライバーの視線誘導にも役立っているとのことである。 2枚目の写真は千曲川の両脇の土手沿いの写真である。土手(堤防)はこの場合川の氾濫を抑え込む役割であるが、その他にも交通渋滞の緩和を促す役割もあり渋滞緩和から排気ガスの充満も減少させることが出来る。 3枚目の写真は別所線の城下駅から赤坂上駅付近の道路の写真であり、電線の地中化が2021-11-15
71上田の地域資源を見つけたい!上田の地域資源を見つけたい!初めまして! 信州上田学を受講している長田悠馬と申します! 簡単に自己紹介します! 僕は、新潟県の出身で地元地域で魅力を伝える活動をしていてその中でカードゲームを作っています。 具体的には、地域資源の特徴などをカードの効果に絡めて「遊べる」状態にして「知る」きっかけにしてもらおうという取り組みです! せっかくここに来たんだしそれをこの上田の食べ物、生き物、文化を見てそれで遊んでいけたらいいなと思っています! よろしくお願いします! ちなみに画像は上田城で撮ったものです!2021-10-27
72前期振り返りの報告2前期振り返りの報告2前の振り返りの報告に 直近での変化点を付け加えたものになります。2021-10-11
73夏季休暇中の活動報告夏季休暇中の活動報告夏季休暇中の活動報告になります。 宣言下ではフィールドワークをすることが出来なかったため、SNSでの活動が主なものとなりました。 今後は夏季休暇中に進められなかったフィールドワークを中心に、SNSと並行しながら活動していきたいと思います。2021-10-03
74小宮山荘助翁ものがたり小宮山荘助翁ものがたり小諸の産業に大きな功績を残した小宮山荘助氏を讃える石碑が小諸市鶴巻に立てられている。設置後60年を経て改修がされたが、それを契機に小宮山家の皆さんがパンフレット「小宮山荘助翁ものがたり」を2021年(令和3年)9月30日に発行した。2021-10-03
75オンライン発表会「学生による大学広報の改善提案」記録:全部①~⑳オンライン発表会「学生による大学広報の改善提案」記録:全部①~⑳長野大学/メディアプランニング論2021(企業情報学部クラスター科目) オンライン公開発表会「学生による大学広報の改善提案」記録 発表者①~⑳+講評 ▼分析対象の広報媒体 広報紙媒体:長野大学パンフレット 長野大学ビジョン(冊子) 広報ウェブ媒体:長野大学ホームページ ▼発表(YouTube)通しで再生 75分 発表概要説明2021-08-09
76これまでの動画改善点に関して(2)これまでの動画改善点に関して(2)これまで投稿した動画毎に行ってきた意見聞き取りと改善点について簡単にまとめました。 2,冬の北海道鉄道旅に関して(第0、1,2、3、4) 第1,2,3回については自動音声(以下ゆっくり実況)を用いて制作しました。理由としては以下の2つです。 ・「鉄道旅ゆっくり実況」という動画のジャンルが存在しており、それをテーマにすることで初心者でも再生回数の向上が見込めるため ・ナレーションの原稿制作と収録の手間が省けるため 意見 第0回・次回予告に期待が持てる。    ・ナレーションはまだまだ練習が必要    →ゆっくり実況へ移行予定であったため具体的    反映はせず。 第1回・分かりやすくて面白かった。    ・ところどころにネタ要素を入れているのが    良かった。     第2回・コロナで遠くへ行2021-07-26
77公文書 社寺・村社 一覧公文書 社寺・村社 一覧先日公開した公文書に書かれていた社寺・村社を一覧にしたものです。今現在も存在している神社やお寺の名前もあれば、初めて耳にした名前もたくさん書かれていました。2021-07-26
78生島足島神社生島足島神社生きとし生けるもの万物に生命力を与える「生島大神」と、生きとし生けるもの万物に満足を与える「足島大神」の二神が祀られ、摂社(下社・下宮)には諏訪大神が祀られる信濃屈指の古社です。 御本殿は神池に囲まれた神島の中にまわりを老樹に囲まれて建っています。御扉の奥には御室と呼ばれる内殿(室町期建立)があり、内殿には床板がなく大地そのものが御神体(御霊代)として祀られています。この池を巡らせて神域とされる島をつくる様子は「池心の宮園池(いけこころのみやえんち)」と称され、出雲式園池の面影を残す、日本でも最古の形式の一つとされるものです。現在の社殿は昭和15年に国費をもって竣工したものです。内殿は平成10年9月「県宝」に指定されました。 また、ドラマや撮影に使われることもあり秋になると周りの山々2021-07-24
79真田神社真田神社城門を通るとすぐにある真田神社は、松平氏を祀ってあった松平神社だったが、太平洋戦争後に歴代城主である真田氏と仙石氏も合祀されて上田神社となり、昭和38年に真田神社と改称されました。真田の知謀にちなんで、学業成就にご利益がある神社と言われています。その影響もあってか、神社を入って左側にある絵馬には学業成就に関した内容のものが吊り下げられていて、またその場所を写真スポットとしてもお客さんに提供している。記念写真をとる場所としても人気であります。2021-07-23
80温泉薬師瑠璃殿温泉薬師瑠璃殿現在の建物は文化6年(1809)、地元の人々によって再建されたもの。この地には、温泉の薬効でさまざまな病気を治すという温泉信仰が昔から根強く、「るり」は、薬師如来を「瑠璃光如来」とよぶことからきている。舞台の上からは、別所温泉の旅館街を見渡すことができる。2021-07-23
81北向観音堂北向観音堂北向観音堂は、平安時代初期の天長2年(825年)、比叡山延暦寺座主の慈覚大師円仁により開創された霊場です。 安和2年(969年)、平維茂は一山を修理し、三楽寺、四院、六十坊を増築したと伝えられている。北向観音様は北向に建立され 千手観音様を御本尊として現世利益の願いが込められている。 また、北向観音堂の周りにはお店がたち並んでいて、北向観音堂だけではなく周りのお店でも楽しめるものになっている。2021-07-23
82愛染堂愛染堂現在の建物は明治15年(1882)に色川徳兵衛が建てたもので小規模ながら精緻な彫刻が施され格式のある造りです。愛染明王が祀られ、一般民衆は愛欲を無罪とし、それを糧として幸福を得ることが出来ると解釈し「恋愛・縁結び・家庭円満」を司る仏として信仰が広がりました。2021-07-23
83人物47 世良田亮人物47 世良田亮安政五年を以て上田に生る。(略)明治十年米国留学を命ぜられ、同十四年卒業、後二ヶ年間欧州を歴遊し、同十六年帰朝し、海軍中尉に任ぜられ(略)、海上には彼の巨艦鎭遠等其功績に大なるものありき。(略) 『上田市史・下巻(1940)』1261頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌  人物篇2021-07-19
84地域メディアの在り方地域メディアの在り方 地域メディアの種類、特徴、課題を調査し、在り方を探る。  地域メディアとは、一般的には日本全国ではなく、特定の地域を対象として情報を伝達する媒体とされている。  「地域」の範囲として、都道府県や市区町村を1つの範囲とする分け方だけでなく、東北地方・九州地方といった広範囲な地域ブロックや、尾張地方・三河地方、県北・県南のような地理的・文化的背景で分けた地方、小さいものでは学区まで様々な分け方が存在している。  「メディア」の種類には、新聞やフリーペーパーのような紙媒体、ラジオやテレビなどの音声を含むもの、ブログのようなwebが存在しており、それぞれ情報の発信者や情報量などに特徴がある。  メディアの種類と特徴として、 ・新聞は、一般的に情報の信憑性が高いと思ってもらいやすい、情報2021-07-17
85信州が蚕糸王国ってホント? ポスト蚕糸業(産業)の視点から信州が蚕糸王国ってホント? ポスト蚕糸業(産業)の視点から信州が蚕糸王国ってホント? ポスト蚕糸業(産業)の視点から(講演採録全文) 講師:前川道博(長野大学企業情報学部教授) ▼元の講演はコチラ https://youtu.be/yS-xdWDMTwE?t=2779 信州学「信州の蚕糸業とシルクロード」講座 第2回  2016年10月6日/まちなかキャンパスうえだ

【1】蚕糸業って何? 蚕種製造、養蚕、製糸

■そもそも蚕糸業とは?

 今回、この講座は、多くの方に、後からも学習していただけるように、ということで、オンデマンド配信することを想定していますので、全く初めての方がこれを見ると「えっ? 蚕糸業って何?」、そういう基本的な疑問ですね。これを最初の方は誰もわからないわけです。その辺のところも含めてお話をさせていただきたいと思います。
2021-07-15
86日本シルクロード講座・横浜編(6)まちあるき・汽車道ルート日本シルクロード講座・横浜編(6)まちあるき・汽車道ルート2011年10月30日 横浜まちあるき ガイド:嶋田昌子=横浜シティガイド協会 信州上田は横浜開港当初から横浜の生糸売込商を通じ、欧米諸国との貿易で栄え、後に蚕都と呼ばれました。学びあい講座では上田との交易の足跡をまちあるきして探訪しました­。

横浜まちあるき(2)汽車道ルート・ダイジェスト版

5分でまちあるきの概略を掴むことができます。

横浜まちあるき(2)汽車道ルート・ノーカット版

35分 「日本シルクロード学びあい講座・港都横浜編」蚕都上田プロジェクト主催 <講座2日目> (1)横浜まちあるき・汽車
2021-07-11
87日本シルクロード講座・横浜編(5)まちあるき・馬車道ルート日本シルクロード講座・横浜編(5)まちあるき・馬車道ルート2011年10月30日 横浜まちあるき ガイド:嶋田昌子=横浜シティガイド協会 信州上田は横浜開港当初から横浜の生糸売込商を通じ、欧米諸国との貿易で栄え、後に蚕都と呼ばれました。学びあい講座では上田との交易の足跡をまちあるきして探訪しました­。

横浜まちあるき(1)馬車道ルート・ダイジェスト版

5分でまちあるきの概略を掴むことができます。

横浜まちあるき(1)馬車道ルート・ノーカット版

52分 「日本シルクロード学びあい講座・港都横浜編」蚕都上田プロジェクト主催 <講座2日目> (1)横浜まちあるき・馬車
2021-07-11
88日本シルクロード講座・横浜編(4)上田と横浜の歴史アラカルト日本シルクロード講座・横浜編(4)上田と横浜の歴史アラカルト2011年10月29日 会場:北仲BRICK(横浜、旧帝蚕倉庫事務棟)

講座「上田と横浜の歴史アラカルト」ダイジェスト版

3分で講座の概略を掴むことができます。

講座「上田と横浜の歴史アラカルト」ノーカット版

45分 「日本シルクロード学びあい講座・港都横浜編」蚕都上田プロジェクト主催 <講座1日目> (4)上田と横浜の歴史アラカルト、横浜まちあるきのみどころ 講師:  前川道博(長野大学企業情報学部准教授、蚕都上田プロジェクト事務局長)  水島久光(東海大学文学部教授、北仲スクール) 特別ゲスト:  浦辺信子
2021-07-11
89日本シルクロード講座・横浜編(2)横浜開港と生糸貿易日本シルクロード講座・横浜編(2)横浜開港と生糸貿易2011年10月29日 会場:北仲BRICK(横浜)

講座「横浜開港と生糸貿易」ダイジェスト版

3分で講座内容を手短かに掴むことができます。

講座「横浜開港と生糸貿易」ノーカット版

58分 「日本シルクロード学びあい講座・港都横浜編」蚕都上田プロジェクト主催 <講座1日目> (2)横浜開港と生糸貿易  講師:小泉勝夫(シルク博物館元部長) (撮影・編集 森田文和@おらほ放送局) ※肩書等は2011年当時のものです。
2021-07-11
90日本シルクロード講座・横浜編(1)新しい地域学習のすすめ日本シルクロード講座・横浜編(1)新しい地域学習のすすめ2011年10月29日 会場:北仲BRICK

講座「新しい地域学習のすすめ」ダイジェスト版

3分で講座内容を手短かに掴むことができます。

講座「新しい地域学習のすすめ」ノーカット版

67分  「日本シルクロード学びあい講座・港都横浜編」蚕都上田プロジェクト主催 <講座1日目> (1)新しい地域学習のすすめ  講師:水島久光(東海大学教授)、前川道博(長野大学准教授) (撮影・編集 森田文和@おらほ放送局) ※肩書等は2011年当時のものです。
2021-07-11
91日本シルクロード講座・横浜編・ダイジェスト版日本シルクロード講座・横浜編・ダイジェスト版 ダイジェスト版25分 2011年10月29日 会場:北仲BRICK(旧帝蚕倉庫事務棟、横浜) 提供:蚕都上田プロジェクト 横浜を訪ねて上田を知る。蚕都上田全盛時の生糸貿易とゆかりのある歴史的建造物「旧帝蚕倉庫」(信州の生糸が貯蔵された倉庫)の事務棟を会場に横浜と上田の人々がお互いの地域の歴史を学びあいました。 講座内容 (1)新しい地域学習のすすめ 講師:前川道博(長野大学准教授)、水島久光(東海大学教授) (2)横浜開港と生糸貿易 講師:小泉勝夫(シルク博物館元部長) (3)日本初の生糸輸出は信州上田から 講師:阿部勇さん(上田歴史研究会会長) (4)上田と横浜の歴史アラカルト  講師:前川道博+水島久光 ゲスト:浦辺信子(上田藩松平家直系御子孫) (撮影・編集 森田文和@おらほ放送局) ※肩書2021-07-11
92「渋澤栄一と小諸商人」展「渋澤栄一と小諸商人」展NPO糸のまち・こもろプロジェクト代表の清水寛美さんが中心となり企画展示「渋澤栄一と小諸商人」を小諸本町のゆもと京都屋呉服店で開いています。7/3、会場を訪れ清水さんをはじめ関係の方々とお会いしてきました。 清水さんは、長年、小諸の蚕糸業や着物と関わる探求をされてきました。関係の資料も収集され、唯一無二の一次資料も相当数あります。さまざまな文献・論文等から小諸と関わりのある情報源を渉猟され、カテゴリ別に分けて展示構成をされています。何と言っても驚くのは資料の物量と展示構成のキュレーション力。博物館の学芸員でもここまで探求しキュレートできるものでもありません。一個人がこれだけのキュレーションをされたことが驚きです。 展示のコーナーは次のように構成しています。 ●製糸業コーナー ●絹業2021-07-09
93小諸の製糸場/工女たちのものがたり小諸の製糸場/工女たちのものがたり「糸のまち・こもろの歴史歩き」(糸のまち・こもろプロジェクト主催、2015/09/19実施)では、小諸にあった丸萬製糸場を見下ろす場所に純水館の工女の墓4基があります。故・野澤敬氏が工女の墓の前でその解説をされました。 添付の資料「工女たちのものがたり」(PDF)は、当日参考資料として配られたものです。2021-07-05
94野澤敬氏による小諸の歴史「糸のまちと戌の満水」野澤敬氏による小諸の歴史「糸のまちと戌の満水」▲解説資料『「糸のまち」と「戌の満水」を巡る」 長野県小諸市の巡検イベント「糸のまち・こもろの歴史歩き」(糸のまち・こもろプロジェクト主催)に先立ち、野澤敬氏が小諸の製糸の歴史と戌の満水にいて解説した説明の記録。公開を想定して録音したものでないため、雑音が入り聴きにくくなっている点、どうぞご了解ください。 (2015/09/19、会場:北国街道ほんまち町屋館)2021-07-04
95社寺明細帳(1880/明治13年 上田町)社寺明細帳(1880/明治13年 上田町)上田市公文書館所蔵 社寺明細帳(1880/明治13年 上田町) 下のリンクを選ぶと文書全体のPDFをダウンロード表示します。ダウンロード表示には時間がかかります。
PDF社寺明細帳(1880/明治13年上田町)
68頁/9.05MB
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68ファイル/59.7MB
▼上田市公文書館資料情報 社寺明細帳 しゃじめいさいちょう 請求番号 01-M13-01-5
2021-06-28
96長野県管下信濃国小県郡常磐城村 村社(1884/明治17年 上田町)長野県管下信濃国小県郡常磐城村 村社(1884/明治17年 上田町)上田市公文書館所蔵 長野県管下信濃国小県郡常磐城村 村社(1884/明治17年 上田町) 下のリンクを選ぶと文書全体のPDFをダウンロード表示します。ダウンロード表示には時間がかかります。
PDF長野県管下信濃国小県郡常磐城村 村社(1884/明治17年上田町)
13頁/1.48MB
PDF全頁JPEG画像[長辺1280ピクセル] ZIP形式で圧縮
13ファイル/10.8MB
▼上田市公文書館資料情
2021-06-28
97常磐城村氏神替届(1882/明治15年 上田町)常磐城村氏神替届(1882/明治15年 上田町)上田市公文書館所蔵 下のリンクを選ぶと文書全体のPDFをダウンロード表示します。ダウンロード表示には時間がかかります。
PDF常磐城村氏神替届(1882/明治15年 上田町)
9頁/904KB
PDF全頁JPEG画像[長辺1280ピクセル] ZIP形式で圧縮
9ファイル/7.12MB
▼上田市公文書館資料情報 常磐城村氏神替届 ときわぎむらうじがみかえとどけ 請求番号 01-M15-01-563 文書の
2021-06-28
98山本鼎と神川小学校児童の自由画山本鼎と神川小学校児童の自由画上田市マルチメディア情報センターのHPから、山本鼎と児童の作品を閲覧しました。神川小学校の児童の作品660作品が載っていて数の多さに驚きました。自分の目で見て感じ取ったものを描くことが大切という「児童自由画教育」を提唱した山本鼎により、同じ家を描いていても児童によって白黒の絵であったりカラフルな絵であったり角度が違ったりと、児童が自由に描いている様子が見て分かりました。お手本の絵をまねする必要はなく、自分の思ったように描けば良いということが山本鼎が伝えたい思いなのかなと私は感じました。2021-06-20
99小県蚕業学校-2小県蚕業学校-2小県蚕業学校では、生徒の出身地が広範囲にわたっているという特徴があった。具体的には、岩手県から鹿児島県に至るまで範囲内にあった。その背景には、小県の蚕種製造業者がそれだけ広範囲に販路を広げていたことが挙げられる。卒業生の動向としては実家での養蚕・蚕種業の従事や養蚕指導者になったものが多い一方で、遠く清国や朝鮮、アメリカにまで人材を輩出している。また、蚕糸業だけでなく上級学校への進学や教職員、官公吏、銀行員となる者も存在していることから、教育機関としての機能も果たしていたことが分かる。このような点から、小県における蚕糸業はたんにそれのみで存在しておらず、金融業や教育業などあらゆる業界と密接に結びついていることが分かる。あるいは、蚕糸業を基盤としてあらゆる業界が幅広く発達したと2021-06-13
100醋屋藤金物店醋屋藤金物店 海野町商店街にある醋屋呉服店が所蔵している写真の一枚である。  この写真の店舗は、現在の海野町商店街にはない醋屋藤金物店である。昔は醋屋という名前の店舗はいくつかあった。しかし、今は醋屋(すや)呉服店のみとなっている。  一般的に金物店では、「鍋・釜」類、「利器・工具」、「建築金物」「家具金物」などの種類に分類されるが、どのようなものが販売されていたのか興味がある。2021-06-11
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