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1コトバヤコトバヤ2023/05/06 上田市、柳町へ。 本を買いに古本屋「コトバヤ」さんに入店。 店内は今風のオシャレな本屋さん。 漫画も、昔の本(森鴎外とか宮澤賢治とか)も置いてある。 景観も店内も柳町らしく非常に趣がありつつ綺麗だった。2023-05-06
2道遊の割戸道遊の割戸道遊の割戸は、金銀山が有名とされる佐渡でも、開発初期の採掘地とされる日本最大の露頭堀りの跡である。 これは、機械などのない江戸時代に人間が人力で掘ったとされるものであり、改めて当時の人間のすごさを感じた。2023-05-05
3大屋駅を未来に伝えるには大屋駅を未来に伝えるにはしなの鉄道大屋駅の歴史的な駅舎が建て替えられるとのこと。建て替わる前の駅舎の様子を記録にとどめておこうと思い、車窓越しに写真を撮りました。丁寧に記録することは後日に。 諏訪と小県をつなぐ中山道は1859年の横浜開港後、横浜とつなぐ生糸の輸送路として重要な役割を果たしました。信越本線開業後は、中央本線が開通するまでの間、大屋駅は生糸の一大生産地であった諏訪地方、とりわけ岡谷とつなぐ要衝の駅としての役割を果たしてきました。建物は建て替わってもその歴史は留めて未来に伝えたいものです。2023-05-01
4蚕養国神社例大祭2023蚕養国神社例大祭2023蚕養国(こがいのくに)神社は、上田小県の蚕糸業の尊祟神を祭る神社です。大星神社の摂社です。毎年恒例の例大祭はコロナ禍のために2020年以来中止となり、4年ぶりに通常の形態で催されました。 蚕養国神社奉賛会会長の笠原一洋さんの挨拶に続き、神事が催されました。その後、藤本工業社長の佐藤修一さんによる「塩尻の蚕種業~登録有形文化財となる~」と題する講演が行われました。2023-04-28
5信州、新緑の装い信州、新緑の装い4/21、所要で上田から岡谷へ。長和町を経由し和田峠を越えて諏訪地方へ。周囲の山々が新緑になり、めっきり春らしい装いにすがすがしさを感じました。 和田峠を挟んで長和町から岡谷市へ。信州の大自然、周辺に広がる山々の新緑が実に美しい。この季節に山越えできる幸運を感じました。 ちなみにここはかつての信州シルクロード。諏訪地方の生糸を和田峠を越え、上田小県を経由して横浜へ運ばれた、その幹線ルートです。 峠越えした先の岡谷市役所の梅も満開で彩りを添えています。諏訪湖畔の公園の新緑も徐々に色濃くなりつつあります。ちなみにこの公園の辺り、かつては製糸工場がひしめく、日本一の生糸生産地でした。そのようなことも思いつつ…。2023-04-22
6八ヶ岳高原、大自然の中の音楽堂八ヶ岳高原、大自然の中の音楽堂4/15、八ヶ岳高原音楽堂へ荘村清志さんのギター演奏を聴きに行ってきました。カラマツ林の中を散策して目的地の音楽堂にたどり着きました。 あいにくの雨天ながら、それを補って有り余るほどの自然の素晴らしさを満喫。加えてそれが満足度の高い文化的な環境となっていることに感動しました。 カラマツ林の自然環境がステージの空間と一体化し、音楽を堪能できることの幸せを実感しました。訪れている人々の文化的なクラスが違うことも感じました。ヨーロッパでは当たり前なのか、日本では体験できない音楽堂のコンセプト、設計にも感心をします。自然を生かしたこのような広大な自然環境も得難いものです。天候のよい時に、また季節を変えて訪れてみたい。2023-04-16
7霊峰月山が真正面に見える西川町の魅力霊峰月山が真正面に見える西川町の魅力本日3/15山形自動車道で山形市から西川町へ。何と進行方向の真正面に純白の霊峰月山が見え続けています。月山へ向かっているというこのアクセス感が月山をいっそう神々しくその存在感を高めてきます。中山町から寒河江市にかけての区間が特によく見えます。景観的には至福すら感じる景観体験でした。2023-03-15
83.11東日本大震災から2か月後の石巻3.11東日本大震災から2か月後の石巻東日本大震災が起きた2011/03/11から早くも12年が経過しました。当時の記憶はまだ生々しく残っています。12年経っても記憶が失せるものではありませんが、世間では次第に遠い過去のことのように語られがちになることが気になります。 私が被災地を訪れたのはその年の5/21のこと。仙台から石巻方面に向かいました。3.11から2ヶ月経過したとは言え現地の状況は復旧にはほど遠い状態でした。いくら言葉を積んでも当時の状況、様子は伝えられるものではありません。未来に向けて被災地の様子は現地を訪れて脳裏に刻んでおくべき、また記録に残しておきべき、とその時に強く思いました。映像などの記録によって視認ができます。当日はビデオカメラで撮影をしました。数枚の画像を添付しておきます。2023-03-11
9電柱と電線のある風景:つくば市→土浦市電柱と電線のある風景:つくば市→土浦市電柱と電線のない日本の風景を全国どこでも見たいものです。筑波研究学園都市の中心部を出ると同じつくば市内でもいきなり電柱と電線の風景を見続けることになります。ここでは土浦市までの風景をピックアップしましたが、同じような風景は全国に当たり前のように広がっています。 日本国民に景観意識が高まることを望むばかりです。2023-03-08
10電柱のない都市景観:筑波研究学園都市電柱のない都市景観:筑波研究学園都市電柱と電線は日本のどの都市にも例外ないぐらいに存在しています。日本の景観的な美しさを損ねているのみならず、日々、「なんて見劣りのする社会」なのだろうかと感じます。電柱・電線のない都市に暮らしたいという思いは常に抱いています。 筑波研究学園都市の中心部は概ね電線は地中化され電柱はありません。これがノーマルな日本の都市景観であってほしいと願います。 ところで、つくば市は全国に先駆けて「無電柱化条例」を制定した都市であることを知りました。いくつも関連した記事をリストアップしておきます。 《関連記事》 ★つくば市/つくば市無電柱化条例 2023年03月01日 ★週プレNEWS/茨城県つくば市で、地中に埋めて「2023-03-07
11実践講座2:地域資料のデジタルアーカイブ化講座実践講座2:地域資料のデジタルアーカイブ化講座実践講座2:地域資料のデジタルアーカイブ化講座 【日程】2023年   2月4日(土) 10:00~16:00 藤本蚕業歴史館に学ぶ地域アーカイブの課題[LINK]   2月5日(日) 10:00~16:00 地域資料デジタルアーカイブの構築に向けて[LINK]   2月18日(土) 13:00~16:00 皆さんのデジタルアーカイブ/地域学習企画披露会[LINK] アンケート結果を掲載しました。 披露会の動画記録は追って公開予定です。 ▼実施体制等 主催:藤本蚕業プロジェクト(代表:前川道博 長野大学企業情報学部教授) 共催:デジタルアーカイブ学会地域アーカイブ部会、岐阜女子大学 協力:藤2023-02-26
12実践講座1:地域資料活用によるキュレーション講座実践講座1:地域資料活用によるキュレーション講座実践講座1:地域資料活用によるキュレーション講座 【日程】2022~23年  12/10(土)10:00~16:00 藤本蚕業歴史館に学ぶ地域アーカイブの活用[LINK]  12/17(土)10:00~16:00 藤本蚕業所蔵資料で近現代のキュレーション[LINK]  01/14(土)13:00~16:00 皆さんのキュレーション披露会[LINK] ▼実施体制等 主催:藤本蚕業プロジェクト(代表:前川道博 長野大学企業情報学部教授) 共催:デジタルアーカイブ学会地域アーカイブ部会、岐阜女子大学 協力:藤本蚕業歴史館、上田小県近現代史研究会、長野大学 後援:日本教育情報学会デジタルアーカイブ研究会、日本デジ2023-02-26
13筑波研究学園都市の景観筑波研究学園都市の景観筑波研究学園都市の建設が始まったのが1970年代。初期に建設されたペデストリアンデッキの橋の銘板を見ると1978年が竣功年です。概ねその頃から学園都市の建設が本格化したとみてよいでしょう。その頃からは既に45年が経過しました。日本で本格的に都市計画された都市の先駆けと捉えてみると筑波研究学園都市の都市特性がよく見えてきます。 ここ10年ほどの筑波研究学園都市で著しい変化は「研究学園」地区の開発により中心部から研究学園への大規模な人口移動が起きてきたことでしょう。都市計画された新しい都市であったこの中心部が「旧市街地」化し、通常であれば中心市街地の衰退化を招きかねないところ、中心部には高層マンションが増え、公舎型の住まいから分譲型の住まいに移行しつつあります。人口は減らず、逆に増加しつつあり2023-02-26
1422世紀に残したい上田の風景:わらボッチと稲わら焼き22世紀に残したい上田の風景:わらボッチと稲わら焼き上田に暮らして以来、かけがえのないこの地域の風景として心に刻まれたのが塩田平のわらボッチと稲わら焼きの風景です。2007/11/03、塩田平で撮った風景を載せておきます。 茨城や山形でもこのような原初的なわらぼっちと稲わら焼きの風景は見たことがありません。機械化による大規模な営農でなく、手作業による昔からの営農の姿がこの風景に顕れています。ちなみにわらボッチはこの地域では「にょっ」と呼ぶらしい。円錐形をなしたわらボッチが整然と立ち並ぶこの地域の無形的な文化形態は美しく、絵になります。 稲わら焼きは条例によって禁止されている県もあります。秋になるとそこかしこで稲わら焼きの煙が立ち上ります。いつまでこのような風景を見続けることができるのか。わらぼっちと言い、稲わら焼きの煙と言い、心の中に眠2023-02-25
15実践講座2:地域資料のデジタルアーカイブ化講座[第3回]実践講座2:地域資料のデジタルアーカイブ化講座[第3回]【オンデマンド講座】 ★DA講座2-3皆さんのデジタルアーカイブ/地域学習企画披露会 182分 【講座タイムテーブル】 講師:前川道博(長野大学企業情報学部教授) ゲスト講師:桂木惠さん(上田小県近現代史研究会事務局長)、朝倉久美さん(デジタルアーキビスト) 第3回 2月18日(土) 13:00~16:30 皆さんのデジタルアーカイブ(DA)/地域学習企画披露会 13:00 はじめに、ゲスト講師紹介 13:10 DA/地域学習企画披露会 Part1 (14:20 休憩) 14:30 DA/地域学習企画披露会 Part2 16:20 講評・まとめ 16:30 終了 《披露会の発表者と発表テーマ》敬称略。発表資料は以下に掲載してあります。 ①島津千登世/下河辺淳+戦後国土計画関連資料アーカイヴス  →下河辺淳アーカイヴス  →2023-02-19
16根津美術館根津美術館表参道にある美術館で、東洋美術(特に青銅器や仏像)や日本美術の作品を多く所蔵しております。また、建物がとてもスタイリッシュで解放感のあるエントランスには驚きました。 初めて行った時は5月の中頃で尾形光琳の《燕子花図屏風》を鑑賞したのち、隣接している庭を散歩しました。庭の植物もとても青々としていて素敵だったのですが所々に石碑などがありこれも展示物みたいだなと思いました。 11月末に行った時には紅葉がとても綺麗でした。 作品だけでなく、庭も楽しみながら非日常感に満たされる美術館だと思います。2023-02-18
17別所温泉の活性化 最終まとめ別所温泉の活性化 最終まとめ別所温泉の活性化 J22054 竹下倖生 まずこのテーマに決めた理由を述べたいと思う。私は昨年の夏から別所温泉の旅館でアルバイトをしている。そして働いてみていまいち活気がないなと感じた。温泉そのものはいいものだと素人目にもわかるが、何か物足りないと思った。その原因が何かを知りたく思ったためこのテーマにした。 次に、現在別所温泉は、4つの公衆浴場と旅館、多くの歴史的建造物を観光の目玉として推している。特に北向観音は有名だ。信州最古の温泉ということと、歴史的建造物をセットで押しているように見える。しかし私はそうは感じなかった。個々では推してはいるが、地域一帯でのまとまりのようなものが薄いなと感じた。しかしそれぞれがよいものであることは確かだ。それを町として推していくための方法を考えた。 2023-02-18
18四谷は요츠야? 四ツ谷は요쯔야?四谷は요츠야? 四ツ谷は요쯔야?街中などのサインが多国語表示になったのは大変望ましい社会環境の変化です。それと共にいつも私には気になってしまうのがハングル表記です。 日本語にあって韓国語にない音「ツ」は、JRでは「츠」(チュ、激音)で統一されているように見えます。たまたま四谷駅校内で「쯔」(チュ、濃音)と書かれているめずらしいサインを発見。おやおや、です。 なぜ違うのか。ここでその違いが意識して表記分けされている信じられないほどのトリックを発見しました。 駅名は「四谷」ですが、地名表記は「四ツ谷」です。後者は「四ツ谷口」と記されています。統一されていない、というよりも、駅名と地名が使い分けられているとみるのが至当です。余談ながらその下にある「四谷出口」は中国語表記です。日本語ではありません。 その使い分けに2023-02-17
19初代国立劇場さよなら公演初代国立劇場さよなら公演2/15、国立劇場小劇場で文楽『女殺油地獄』を観てきました。さよなら公演と銘打っていますが、9月までさよなら公演が続くようです。建設当時は立派な劇場を作ったつもりでも、建物の陳腐化は避けられず。緞帳の美しさに慰められます。劇場はハレの空間であってほしいところですが、正直、毎回国立劇場の建物には失望を感じ続けています。ハレがましくなくチープなことに大きな原因があります。日本がまだ豊かとはいえなかった高度経済成長期の一時期にその頃の価値基準で作られた建物です。欧米の劇場のように100年経って風格も高まる質の高い文化とは異なり、日本の建築文化はどうしてこれほどまでに持続性がなく、チープ化するのか、この劇場で我慢し続けなければならないのかと国立劇場を訪れるたびに思っています。2023-02-17
20新たな転換方法新たな転換方法参考までに、鉄道路線を活用したバス転換方法を紹介します。「BRT(バス高速輸送システム)」と呼ばれるこの方法は、線路の部分をアスファルトにし、バス専用道路として再利用するという方式です。東日本大震災で広範囲に被災した路線が同じことを行っており、こうすることで早期の復旧開業が実現したと言われています。バスで考えられた定時運行や交通障害といったデメリットは解消されます。2023-02-15
21コピーヌクラブ演奏会 「小諸唱歌」「信濃の国」「糸(中島みゆき)」「ピチカート」コピーヌクラブ演奏会 「小諸唱歌」「信濃の国」「糸(中島みゆき)」「ピチカート」 【目次】 0:00 コピーヌクラブ紹介 2:16 「信濃の国」 5:29 「小諸唱歌」 8:01 「糸(中島みゆき)」 13:45 「ピチカート」 【動画説明】 2022/11/3に開かれた特定非営利法人 糸のまち・こもろプロジェクト主催「民間で始まる蚕糸業ものがたり」内で演奏されています。 「民間で始まる蚕糸業ものがたり」 「コピーヌクラブ」  コピーヌクラブは2009年に結成された女性3人演奏家グループで、東信地域を中心にホテル、イベント会場などで演奏活動を続けています。ピアニストの竹鼻恵子さん、フルート奏者の椎名真美子さん、バイオリニストの吉田枝理佳さんで構成されていて、動画では竹鼻さんと吉田さんが出演しています。 「信濃の2023-02-15
22まとめまとめ https://jpsearch.go.jp/item/dignl-848938 明治時代と現代の美容について比較してわかったことは、いまも昔も変わらず日本人女性の美意識は高いことである。 年相応で、素材を活かす化粧が愛されるのは昔から変わっておらず、日本人女性の繊細な美意識からくるものであることがわかった。 意外だった点は、化粧水、パーソナルカラー、色の組み合わせの概念が明治時代からあった点である。 この分析を通して、一人の日本人女性として「日本人の美しさ」を大切にしていきたいと思った。2023-02-08
23三吉米熊三吉米熊三吉米熊は1860年、年長州長府藩士三吉慎蔵の長男として長門国(現在の山口県)豊浦郡長府村に生まれた。三吉米熊は自ら西ケ原蚕病試験場に行って研修するなど、積極的に技術・知識を習得し、その後、本格的に蚕糸業の指導にあたるようになり、県下各地の伝習所・講習所で講師を務めた。また、明治22年から24年まで2年間にわたり、フランスなどで視察・研修を行った。当時、蚕業教育の必要性を感じていた小県郡長中島精一は蚕業学校設立を提唱していたが、明治25年3月の小県郡会で設立案が可決され、小県郡立蚕業学校(現・長野県上田東高等学校)が明治25年5月に開校しました。外遊から帰国したばかりの三吉は、この蚕業学校に迎えられ、初代校長に就任した。 大正14年に蚕糸教育の功績によって勲三等瑞宝章が授与され2023-02-08
24明治時代から女性の化粧はマナーだった明治時代から女性の化粧はマナーだった https://jpsearch.go.jp/item/dignl-848938 明治時代の書籍「化粧と服装」によると、「婦人は世のため装飾する義務を持つ」とある。 女性がメイクをするのはマナーであることは、明治以前から言われていた。 「婦人が身を装う事必ずしも惹こうとの目的のみではない」 「装飾に身分と年齢との相応の程度のあるべき事」 年相応のメイクが求められているのは現代と変わらないことがわかった。 「身だしなみの心得は、第一が色の配合、第二が形の配合」とされている。 「自然の理に適っているのが装飾の最上となるのである」と書かれていることから、現代でも日本でナチュラルメイクが好まれている所以がわかった。2023-02-08
25上田蚕糸専門学校上田蚕糸専門学校また、明治43年には上田蚕糸専門学校(現・信州大学)が設立された。中等教育期間である小県産業高校と、高等教育機関である上田蚕糸専門学校が上田に作られたことは、上田の養蚕業・蚕糸業の繁栄ぶりが窺える。 現在の信州大学繊維学部は、日本で唯一の繊維学部である。 参考サイト:みんなでつくる信州上田デジタルマップ ▼この資料は以下から参照できます ぶ「信州大学繊維学部」 https://d-commons.net/uedagaku?c=&p=11526 (2023/02/06)2023-02-08
26壺形土器について壺形土器について出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/J-14320?locale=ja) 壺形土器(つぼがたどき) 弥生時代の農耕生活の進展が土器の上にも反映され、用途別の器種を生み出した。貯蔵用の壺、煮沸用の甕、盛り付け用の鉢・高坏といった用途で利用された。 壺型土器は口の部分が一度くびれるものが多い。この土器はもともとこの形であったのか、上部の口の部分が取れたのかは不明である。 時代:弥生時代(中期)・前2~前1世紀 出土地:長野県岡谷市天竜町・中央町・本町天王垣外出土 所蔵主:東京国立博物館2023-02-08
27太田水穂太田水穂太田水穂 歌人。 広丘村(現塩尻市広丘原新田)生まれ。 本名貞一。 長野師範に進学、島崎藤村に傾倒する。島木赤彦(久保田俊彦)とは同級生であった。 卒業後、革新和歌団体「この花会」を和田の地に結成し、松本平を支配する保守的桂園歌人に対抗して信州文壇に大きな刺激を投じた。この時、窪田空穂と親交をもつ。 明治41年上京、大正四年歌誌「潮音(ちょうおん)」を創刊し、歌人、研究者の道を歩む。象徴的観想の作風。「短歌のふるさと塩尻」の中心人物の一人。 引用:長野県塩尻市公式ホームページ(https://www.city.shiojiri.lg.jp/soshiki/64/3840.html)2023-02-07
28島木赤彦島木赤彦島木赤彦 歌人。 上諏訪町(現諏訪市)生まれ。 本名久保田俊彦。 長野師範卒業後、明治42年に広丘尋常高等小学校長として赴任。在職中に広丘歌会(広丘アララギ短歌会)を開き、中原静子らを育成する。 早くから伊藤左千夫に傾倒し、「馬酔木」(あしび)に参加し、左千夫の死後上京して「アララギ」の編集を担当し、斎藤茂吉・中村憲吉らと写実主義「アララギ」を歌壇の中核に高めた。 歌集に「馬鈴薯(ばれいしょ)の花」等があり、寂寥感(せきりょうかん)の漂う写実的な作風。下諏訪町に赤彦記念館がある。 引用:長野県塩尻市公式ホームページ(https://www.city.shiojiri.lg.jp/soshiki/64/3836.html)2023-02-07
29和綿の花和綿の花和綿は799年に渡来後、日本の風土に定着し栽培されてきました。2023-02-07
30信州大学繊維医学部信州大学繊維医学部校舎の中までは、入っていないが、信州大学も見てきた。 ここは、理・工・農・医+α、幅広い分野を横断した学びを展開している。新たな地平を拓くため、日本を超えて世界最前線と連携している。基礎研究にとどまらず、企業と連携した学びの環境を提供している。学科は、「先進繊維・感性工学科」「機械・ロボット学科」「科学・機械学科」「応用生物科学科」に分かれている。 参考文献 「信州大学繊維学部HP」より https://www.shinshu-u.ac.jp/faculty/textiles/2023-02-06
31娘義太夫娘義太夫娘義太夫の竹本京子と京枝 山本松谷(1870 - 1965) - 『風俗画報』明治32年3月号(185)(『ビジュアルワイド明治時代館』p.255 収録)2023-02-05
32二・二六事件を記録したアサヒグラフ二・二六事件を記録したアサヒグラフ藤本蚕業歴史館に所蔵されている昭和時代のグラビア雑誌です。2023-02-05
33別所温泉 北向観音 まめまき別所温泉 北向観音 まめまき北向観音では豆まきの行列が本坊常楽寺を出発する。芸能人や七福神、鬼も加わっての道中となる。観音堂で法要の後、福引き入りの豆やサインボールが投げられる。 引用元 Ueda City Database ( 2690054) https://museum.umic.jp/johogura/bessho/2690054/2690054.html2023-02-04
34「藤本蚕業アーカイブ構築」を振り返って「藤本蚕業アーカイブ構築」を振り返って 私はこの一年間地域資料のデジタルアーカイブ活動を行い、活用機会が無い地域資料の撮影とネット上の公開をしました。その中で藤本蚕業アーカイブについて紹介します。  藤本蚕業アーカイブは藤本蚕業歴史館史料をネット上に公開するアーカイブであり、かつて蚕の卵である蚕種の日本最大製造地であった上塩尻の中心であった佐藤家(藤本蚕業)所蔵の史料を扱っています。歴史館では蚕種にとどまらず歴史、文化、地理に関わる文書・書籍も多く有しており、アーカイブでも見ることが出来ます。私は当アーカイブにおいて主に史料の撮影、記事の投稿を担当しました。  実際の資料を紹介します。  1925年11月に発行された上田市図書館報第三号では、最も興味深い点として新刊の発表に法学系冊子を真っ先に乗せている点で、大正デモクラシ2023-02-03
35実践講座2:地域資料のデジタルアーカイブ化講座[第2回]実践講座2:地域資料のデジタルアーカイブ化講座[第2回]【講座タイムテーブル】  ゲスト出演:朝倉久美さん(デジタルアーキビスト) 第2回 2月5日(日) 10:00~16:00 地域資料デジタルアーカイブの構築に向けて 10:00 はじめに 10:30 地域社会におけるデジタルアーカイブの課題 11:00 地域アーカイブサイト参照 (12:00 休憩) 13:00 地域デジタルコモンズ「信州上田デジタルマップ」 14:00 ミニ実習 (14:20 休憩) 14:30 デジタルアーカイブ構築の企画立案・実践・Q&A 16:00 終了 【オンデマンド講座】 (1)午前の部:地域アーカイブの課題 83分   83分 (2)午後の部1:地域デジタルコモンズ 98分   98分 (3)午後の部2:DA企画披露会に向けて 43分   43分 ★オンデマンド講座 ・資料の分類とメタデータ 30分 ・著作権と資料の権利処理 30分
2023-02-03
36実践講座2:地域資料のデジタルアーカイブ化講座[第1回]実践講座2:地域資料のデジタルアーカイブ化講座[第1回]【講座タイムテーブル】  ゲスト講師:小平千文さん(上田小県近現代史研究会会長)、桂木恵さん(同事務局長) 10:00 講座のねらいと概要 10:15 藤本蚕業歴史館・概要 10:30 藤本蚕業歴史館・バックヤード資料見聞 11:00 藤本蚕業の資料整理をふり返る (12:00 休憩) 13:00 資料整理の課題と方法、資料目録の作成~藤本蚕業所蔵資料を例に~ (14:20 休憩) 14:30 受講者の皆さんのデジタルアーカイブ構築課題を聴きあう 16:00 終了 【オンデマンド講座(当日の講座記録)】 ▼①午前の部:講座のねらい/未整理史料見聞  講師:前川道博+桂木恵+小平千文 94分 ▼②午後の部1:資料整理の課題と方法~藤本蚕業所蔵資料を例に~  講師:前川道博 65分 ▼③午後の部2:皆さんのアーカイブ課題を聴い2023-02-03
37桔梗ヶ原〔信州の浮世絵〕桔梗ヶ原〔信州の浮世絵〕江戸時代の浮世絵師、二代歌川広重による錦絵の揃物「諸国名所百景」の一つ。 初代広重の門人で、師の亡き後その画風を継承した二代広重が、安政6年(1859)から文久元年(1861)にかけて制作した。版元は、初代広重晩年の作「名所江戸百景」を出版した魚屋栄吉。「桔梗の原」は天文年間(1532~55)に武田信玄と小笠原長時が相対した合戦場で、左にある「勘助子そだての松」は、合戦の最中に山本勘助が乳児を救い、その根元に置いて戦の後に戻ったところ、松の葉から落ちる雫を母親の乳房から出る乳のように口に含んでいたという伝説がある。その後、中山道の一里塚が築かれた。江戸日本橋の基点から59番目、江戸へ55里、京へ85里の道標で、塩尻市宗賀平出には、道を挟んだもう一方の塚が松の木とともに残されており、現存する数少ない一対2023-02-01
38恩田緑蔭(おくだりょくいん)恩田緑蔭(おくだりょくいん)文政2年松代生まれ。本名はゆり。桜雲亭緑蔭、桂月由里などとも称した。松代藩絵師の山田島寅や青木雪卿に師事、葛飾北斎や与謝蕪村にも私淑して作品を模写している。花鳥図や松代の風景、藩にゆかりのある人々の肖像を描いた。平成17年、長野市の水野美術館で「恩田緑蔭展~知られざる信州の元祖女流画家~」が開催された。明治7年、55歳で死去した。 ※図は「写生集壱」 https://yuagariart.com/uag/nagano09/2023-02-01
39昆虫体験学習館昆虫体験学習館佐久平パーキングエリア周辺にある昆虫体験学習館は、私が小学校時代に、社会見学の一環として訪れた場所でもあるのですが、この場所に行くだけで日本の昆虫だけでなく世界の昆虫について、知る事ができ実際に観賞する事が出来ます。そして、見るだけでなく触ることやクラフト体験も出来るため、訪れた後も頭の中に記憶として残りやすく、昔から現代までの多様な昆虫を知れる場所です。 参考文献 http://saku-konchuukan.jp/2023-02-01
40蚕業膝栗毛 第1編②蚕業膝栗毛 第1編②本文は、このように全部の漢字にフリガナがふってあるため読みやすいものになっている。 蚕業膝栗毛第壱編・第弐編は、藤本蚕業資料目録には掲載されていたので、今後藤本蚕業アーカイブにも掲載されたら詳しく見てみたい。 参考サイト:信州デジタルコモンズ ▼この資料は以下から参照できます 「蚕業膝栗毛 第1編」 https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/library/02BK0102151032 (2023/1/27閲覧)2023-01-27
41蚕業膝栗毛 第1編①蚕業膝栗毛 第1編①これは、明治29年2月に発行された、蚕業をテーマにした小説である。蚕業の質を高める為の講演会などの際に一緒に戯演されたものの書籍版、もしくは講演会で販売されたものだと考えられている。東海道中膝栗毛を捩っており、登場人物は主人公とその幼馴染。物語は、蚕業で成功した主人公が大失敗して財産がなくなったところから始まる。主人公は幼馴染を誘って、蚕業の知識を生かした蚕業大演説会を開催した。これがある程度うまくいったことが発端となり、蚕業改革の一端として日本蚕業倶楽部の設立を考える。その設立資金を蚕業演劇で稼ぎ、蚕業視察のために全国漫遊に出るという内容だ。 参考サイト:信州デジタルコモンズ ▼この資料は以下から参照できます 「蚕業膝栗毛 第1編」 https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/library/02BK0102151032 2023-01-27
42上田紬の歴史<繁栄>上田紬の歴史<繁栄>今回は上田紬がいつどうやって繁栄していったのかをまとめました。 上田紬は400年ほど前に戦国武将の1人して名高い真田昌幸が上田城が築いた時に、地場産業として奨励された真田家が麻つくった「真田織」が元になっています。 その後、上田地域の気候や風土が向いていたということもあり、蚕種業や養蚕業が盛んに行われ、現在の上田紬が形成され、江戸中期には京都や江戸の多くの人々に愛用され、日本三大紬の1つとなりました。2023-02-01
43鹿教湯温泉の歴史と五台橋鹿教湯温泉の歴史と五台橋鹿教湯温泉は20件ほどの宿泊施設が立ち並ぶ山間の温泉地です。上田市と松本市の間にあり、環境庁選定国民保養地として認定されています。そのため、健康の郷としても有名です。そのため、散策をしながら自然の癒しを感じることもできます。 鹿教湯温泉の歴史の始まりは地名がついた由来にも関連しています。漁師から矢傷を受けた鹿が温泉の場所を教えてくれたことから温泉地としての歴史をスタートし、1200年の長い歴史を誇ります。 湯量は非常に多く、20件ほどの温泉施設では24時間かけ流しの施設も。源泉の温度は46℃ほど。また、色は無色・透明。泉質は弱アルカリ性低張性高温泉となっており、高血圧、脳卒中の後遺症、疲労回復に対して効能があります。 また、写真は鹿教湯温泉の付近にある文殊堂へとつながる橋である五台橋の画像2023-02-01
44笹沢檪亭 (ささざわれきてい)笹沢檪亭 (ささざわれきてい)檪亭は、安政2年(1855)、小県郡坂井村(現上田市塩川)に生まれ、本名を清十といい、幼い頃より画才に富み、花鳥画を描いては村人を感嘆させたといいます。早くに父を亡くし苦労して育ちますが、母の理解もあって、明治6年(1873)、18歳の折に島田桃渓とうけいに師事して絵の指導を受けたのを手始めに、明治18年(1885)、29歳の時には、水戸の木下華圃かほに師事。この頃から専業画家としての道を歩むことを真剣に考え始めたものと思われます。  明治19年(1866)、31歳の折には終生の師となる児玉果亭に入門を許され、果亭より檪亭の雅号を受けました。この檪亭が入門した明治19年は、第2回内国絵画共進会に出品した果亭の即品が天覧に供され、出品2点のうち1点が宮内省買上げ、1点が銀杯(こ2023-02-01
45林倭衛 (はやししずえ)林倭衛 (はやししずえ)父は、倭衛が小学校在学中に製糸工場経営に失敗し、明治40年の春、倭衛と弟を実家の小林家にに預けたまま夜逃げ同様に東京へと出てしまいました。実家は上田駅に近い北天神町通りで蚕種用の和紙などを商っていましたが、倭衛は友人たちから離れ孤独にさいなまれましたが、同じ頃に同じ北天神町に移り住んだ馬場衛まさるが、生涯の友となりました。約1年の後にようやく父母の下に引き取られはしたものの、何かにつけて旧士族出身にこだわって失敗を繰り返す父に対して、倭衛は激しく不信を覚え続け、やがて少年の孤独感は次第に不屈な自立心へと成長していくのでした。  明治43年には印刷会社の給仕となり月給を得るようになると、近くの水彩画研究所の夜間部に入り、明るく旺盛な好奇心のままに、生涯にわたる美術関係の友人を2023-02-01
46西川小扇八 (にしかわこせんぱち)西川小扇八 (にしかわこせんぱち)上田地方だけでなく、広く東信地方から県内にかけて日本舞踊の普及に尽力した小扇八は、明治38年東京浅草瓦かわら町に生まれました。小扇八(本名金子光みつ)の育った浅草界隈は、古くから歌舞音曲かぶおんぎょくの盛んな土地柄でした。生まれつき体の弱かった光を心配した両親は、健康のために芸事を身につけさようと、長唄や日本舞踊、華道、茶道など日本古来の伝統芸能を一通り習得させました。  とりわけ光は日本舞踊に強く興味を示し、自ら進んで西川流に入門し、稽古に励みました。縁あって18歳で結婚しますが、婚家になじまず実家に戻ります。浅草に戻った光は生涯進むべき道を日本舞踊と決め、西川扇五郎に師事します。再び踊りの世界に没頭し、厳しい稽古に耐え、艱難かんなんを克服して次第に頭角とうかくを現あらわ2023-02-01
47中村直人 (なかむらなおんど)中村直人 (なかむらなおんど)大正期中ごろ山本鼎が提唱した「農民美術」と「児童自由画教育」の二つの運動の、発祥の地、神川で少年期を過ごした直人は、リアルタイムに農民美術、児童自由画教育の誕生を直視し、その渦中で小学校時代を過ごしました。  15歳の時、山本鼎の世話で上京し、木彫家吉田白嶺の木心社に入門。兄弟子松村外次郎より木彫の手ほどきを受け、小杉法庵にデッサンを習い、自己の彫刻表現の模索が始まりました。大正14年、直人21歳で院展初入選、以後連続入選し大正15年に日本美術院賞を受賞。昭和10年には院展同人(会員)に推挙され日本の彫刻界の新風として頭角を現し始めました。  終戦後は、新日本美術会創設に参加し、各種展覧会に出品しました。その後、以前から親交を深めていた画家で彫刻家の藤田嗣治がフランスに渡り、2023-02-01
48久米正雄(くめまさお)久米正雄(くめまさお)久米は、明治24年上田片平町(大手町)で生まれました。父由太郎は明治28年小県郡立高等小学校兼上田尋常小学校校長として勤務していましたが、明治31年、父が校長を務めていた上田尋常高等小学校上田分教場が焼失。その責めを負って父が自刃してしまったため、一家は母の実家福島県安積あさか郡桑野村へ転居し、ここで久米は中学時代を過ごしました。  この時代に、安積中学校の教頭と国語教師に指導を受け、俳人としての才能を見込まれ、将来を嘱望されるまでになりました。中学校在学中に「笹鳴吟社」を結成、また、学校教員の集まりである「群峰社」にも参加。桑野村を訪れた正岡子規や河東碧梧桐かわひがしへきごとうの影響を受け、新俳句会への道を進み、一高時代には碧門下の日本派俳人として知られるようになりました2023-02-01
49錦絵真田幸村巡見図錦絵真田幸村巡見図大坂の陣で大久保彦左衛門とともに身を隠す徳川家康(左下)と、それを捜す幸村を描いている。明治期の錦絵。作者は月岡芳年。芳年は明治に入って近代的な感覚を盛り込んだ歴史画に本領を発揮した人で、特に欧米で評価が高い。2023-02-01
50擬洋風建築を残し続けるために擬洋風建築を残し続けるために擬洋風建築は幕末から明治頃にかけて日本の各地で建築された、日本の大工らが西洋風の建物を見様見真似で建てた西洋風の建築物であり、和洋折衷、様々な意匠や工法が混じった建築物は、文明開化、近代化の象徴的な存在です。しかし、現在その多くは取り壊しや火災などで失ってしまっています。この数少ない重要な建物を残すため、多くの人に魅力を知ってもらうことが重要だと思いました。 その魅力の一つは石の再現です。壁面の出隅は「隅石積」を、壁に漆喰を塗ることで模しています。木造建築でありながら、石造の建築に見せかけるという面白さと知恵を感じます。 もう一つの魅力は独自性です。玄関に唐破風屋根を設けられていたり、天井の飾りに、波に千鳥、松竹梅、菊などが描かれていたりして、洋風に見せながら和の要素を含む和2023-01-31
51まとめまとめ上田市、特に私の住んでいる神川地区の芸術家について探求してみました。 きっかけとして私は山本鼎が初めて自由画教育行った神川小学校にも通っていて小さい頃が馴染みがありました。また「山本鼎先生の部屋」という教室があり、当時の生徒が描いた作品が保管されていました。私が小学校の時も山本鼎について学んだり、農民美術も飾ってあったりと、とても身近な存在に感じていました。 そこで山本鼎のような芸術家はどのような影響を与えたかを探求してみたいと思いました。 多くの芸術家は農民などにあまり縁のなかった芸術に触れてもらおうと活発な運動をしていて、上田に対する愛を感じました。また芸術の他にも教育や行政にも関わることも行っていて上田市民のために動いた芸術家が多くいることが分かりました。今まで上田で暮2023-01-31
52農民美術と私農民美術と私山本鼎が感じていることなどが書かれている自伝 https://jpsearch.go.jp/item/dignl-25325052023-01-31
53中村直人中村直人大正期中ごろ山本鼎が提唱した「農民美術」と「児童自由画教育」の二つの運動の、発祥の地、神川で少年期を過ごした直人は、リアルタイムに農民美術、児童自由画教育の誕生を直視し、その中で小学校時代を過ごしました。 15歳の時、山本鼎の世話で上京し、木彫家吉田白嶺の木心社に入門。昭和10年には院展同人(会員)に推挙され日本の彫刻界の新風として頭角を現し始めました。 その後日本で活躍し、47歳でパリに渡りました。昭和28年のパリ展で大成功し、その後何度か個展を開き話題となり、滞欧12年の間に彫刻家から国際的な画家に見事な変身を遂げました。 昭和39年日本へ帰国。同年滞欧作展でパリ生活12年の成果を証明しました。その後二科会に招かれ、昭和55年には内閣総理大臣賞を受賞しました。帰国後は、様々な分2023-01-31
54兎束武雄兎束武雄上田町大手の銀行家兎束鐘一郎の長男として生まれた武雄は、幼い頃から音楽に特別な興味を示す子どもでした。母親の影響で琴を習っていたそうです。音楽に興味を示していた幼少期ですが、父親からは反対されていたそうです。 上田中学校(現上田高校)を卒業し、東洋音楽学校に入り勉強に励みましたが、東洋音楽大学だけの勉強では満足できず、他の大学でも聴講し、作曲やピアノ、チェロなどを勉強しました。大学を卒業した武雄は、高等学校の教師になることを決意して上田に帰ってきました。武雄は、音楽の楽しさや喜びを多くの人々と分かち合いたいと考え、地域の音楽活動に力を注ぎました。昭和8年、28歳のとき、梅花幼稚園の同窓生に声をかけ、「からたち合唱団」を創りました。当時、県下で混声合唱団と呼ばれるものはなく、上田2023-01-31
55小林一茶 一茶一代小林一茶 一茶一代小林一茶の詩や俳句がまとめられている資料である。 収録数は前編の発句が春、夏、秋の部がそれぞれ約1000、冬の部は約800、雑の部は22。俳諧歌は春の部62、夏の部30、秋の部54、冬の部28、雑の部59。文章は60。尺牘(手紙の類)は16。茶話は6。連句は春の部18、夏の部13、秋の部39、冬の部40、雑の部3。後編は発句が春の部120、夏の部95、秋の部101、冬の部49。連句は春の部3、秋の部5、冬の部2となっている。(信州デジタルコモンズより引用) それぞれの編を春夏秋冬と編纂しているのがいかにもは俳諧師という感じがする。この集は一茶本人が出版したものではなく、一茶の息子である直樹が出版したもの。 読み物としてはほとんど古語で書かれているため、かなり難読で、アマゾンなどで現代語訳されたものが販売されているため、読んでみたいと2023-01-31
56戦時版の新聞③「プロパガンダ映画」とまとめ戦時版の新聞③「プロパガンダ映画」とまとめ映画までもプロパガンダとして利用されていたことが分かる記事である。 イギリス領インドの青年を日本人(岡倉天心等)が助けるといった内容であると書かれている。 実際の人物までもプロパガンダ映画で使われていたことに驚いた。 岡倉天心の「東洋は一つ」という言葉を都合よく解釈し、戦争に利用したように感じる。 参考サイト 【戦後75年】戦時中の中部日本新聞をPDFで読んでみよう 2023年1月31日閲覧 ▼この資料は以下から参照できます。 『中部日本戦時版』「2023-01-31
57戦時版の新聞②戦時版の新聞②バチカン市国について書かれた記事である。しかし、内容は敵国(アメリカ、イギリス)に対する批判である。 現代の世界史とは違った視点から歴史を見ることができ、興味深く感じた。 参考サイト 【戦後75年】戦時中の中部日本新聞をPDFで読んでみよう 2023年1月31日閲覧 ▼この資料は以下から参照できます。 『中部日本戦時版』「戦争と闘ふヴアチカン 非道へ法王の睨み」(昭和19年3月16日)2023-01-31
58戦時版の新聞①戦時版の新聞①選民思想をかき立たせるような書き方をしている記事であるように感じる。 情報媒体が限られていた時代であるため、このような偏った情報でも疑いようもなく受け入れられていたのだろうか。 参考サイト 【戦後75年】戦時中の中部日本新聞をPDFで読んでみよう 2023年1月31日閲覧 ▼この資料は以下から参照できます。 『中部日本戦時版』「我等の身体 これぞ日本人の優秀性」(昭和19年3月2日)2023-01-31
59『昭和国民読本』(1939)『昭和国民読本』(1939)明治から昭和初期(1939)までの出来事や歴史がまとめられた書籍である。 出来事が事細かにまとめられていることが目次から推測できる。 当時(戦時中)の国民の思想を知るのに重要な資料として活用できそうだと思った。 ▼この資料は以下から参照できます。 『昭和国民読本』(1939)2023-01-31
60太郎山神社(1)太郎山神社(1)太郎山の山頂付近には太郎山神社が建っている。写真は太郎山神社の本殿である。 棟札によると、明治6年3月15日に再建され、大工棟梁の山崎正是、金井為久、彫工棟梁の竹内八十吉など、大勢の人々によってつくられたとある。 https://jpsearch.go.jp/item/u001-UMS_001_0222023-01-30
61別所温泉の活性化 まとめ別所温泉の活性化 まとめ「別所温泉を活性化」をテーマで探求をした。 私が別所温泉に行って感じたことは「物足りない」と感じた。ただ温泉があり、ただ旅館がある。それぞれはいいものなのだが、温泉地として何か足りない感じがした。そこで、別所温泉のような小さな温泉地で何ができるのかを調べた。 1黒川温泉 黒川温泉は熊本の温泉で、かなり山奥にあるにもかかわらず人気の温泉だ。入浴手形で有名だ。入浴手形とは、温泉のマークが書いてある木の板で、それを買うと3か所の温泉に入ることができます。手形は、思い出としても残るのでいいのではないかと思う。 2四万温泉 四万温泉は群馬県の温泉で、ここも小規模で山奥の温泉だが、ヘルシーな料理で有名なタニタとのコラボで有名になった。旅館でタニタの料理を出すというシンプルなものだが、珍しさ2023-01-30
622022年度 プロジェクト研究発表会資料「d-commons.net UI磨き上げ」2022年度 プロジェクト研究発表会資料「d-commons.net UI磨き上げ」本記事に登録されている画像は、2023年1月28日「プロジェクト研究発表会」で使用した資料(画像版)です。 画像表示されているものと、クリップファイルに登録されているものは同一のスライドです。お好きな方法で閲覧してください。 また、こちらはPDF版の資料です→PDF版2023-01-30
63上田市で農地を所有しながら暮らすには上田市で農地を所有しながら暮らすには上田市は自然が豊かで農地が沢山あるのになぜか農業が盛んではないのだろうか。 我が家にも農地があるが半分以上がの農業放棄地となっている。農業放棄地が発生してしまっていることが農業が盛んになっていくうえで邪魔になっているのではないだろうか。 農業放棄地が増えていく原因の一つに農地に関する法律があると考えた。そこで農地法を調べたところいくつかの問題点が見つかった。 ・農地の売買や貸借に農地の所在する市町村の農業委員会の許可が必要な点。 ・農地売買の許可を得るのに農地の権利取得後の経営面積に原則として都府県50a、北海道は2ha以上になること(例外あり) ・農地を取得する個人またはその家族等が取得後に行う農業事業に必要な農作業に常時従事しないと農地を買えないこと これら3つが大きな問題と2023-01-30
64「海外視聴者向けの日本人youtuberと旅行動画」その活用方法の調査 最終版「海外視聴者向けの日本人youtuberと旅行動画」その活用方法の調査 最終版2022年度研究である 『「海外視聴者向けの日本人youtuberと旅行動画」その活用方法の調査』 の最終完成版になります。 私自身海外に向けた動画をいくつか制作してみた結果、 主に言語の面でかなり高度な技術が必要であることが分かりました。 それは同時に、新たに海外へ向けてYouTubeによる情報発信を企業や自治体が行うことは非常に難しいということにもなります。 外国語字幕を付けた動画で発信している企業はもちろん存在しますが、そのほとんどが日本人以外の社員も多く在籍している大企業であるため、それと同様のレベルを地方自治体などがこなすことはほぼ不可能です。 そこで、すでに個人や少人数であっても海外に向けて活動し、好調な成績を出している日本人youtuberに協力を仰ぐことで、世界中へ向けての効率的かつ効果的な情2023-01-30
65プロジェクト研究(長野大学前川ゼミ)2022アウトカムプロジェクト研究(長野大学前川ゼミ)2022アウトカム長野大学企業情報学部前川ゼミ/プロジェクト研究2022成果報告 ▼前川ゼミ2022成果報告 47分 ゼミメンバーの各自が成果を報告しています。(発表順は以下の順と同じ) ▼前川ゼミ・ポートフォリオ(マイサイト) 【1】川口将太(4年) 企業のソーシャルメディアを用いたメディア戦略 【2】高山大和(4年) 持続的な地域活性化策~大洗モデル~ 【3】林 亮太(4年) 「海外視聴者向けの日本国内旅行動画」その特徴と活用方法の調査 【4】中澤愛華(4年) 神川小学校における地域学習支援 【5】春原百々羽(2年) 蚕について地元の人が学ぶ理2023-01-30
66桑原康盛等連署起請文桑原康盛等連署起請文この一族は、信州の海野幸貞の被官ひかん衆。桑原くわばら氏は更級郡桑原(千曲 市)、塔原とうのはら氏は筑北地方の塔ノ原(東筑摩郡明科町)を本拠とする海野氏血族である。山崎氏・城内氏も、筑北地方の地侍じざむらいであろう。誓詞の最後の条からみて、上杉氏の勢力と接する地域であるため、特に警戒されたようです。 起請文の内容はほぼ似ているようですが、これを含めた三通は特に従順な忠誠心を誓わせているようです。 https://museum.umic.jp/ikushima/kishomon/rokukajyo.html2023-01-30
67真田氏最古の文書は信玄からの書状真田氏最古の文書は信玄からの書状「其の方年来の忠信、祝着に候。然らば本意の上に於て、諏方(訪)方(形)参百貫并ならびに横田遺跡上条、都合千貫の所これを進じ候。恐々謹言。 天文十九庚戌  七月二日 晴信(花押)   真田弾正忠(幸隆)殿」 この文書が効力を持つことになったため、上田の地にかなりの土地を得ることができたわけでありに幸隆の子昌幸が上田城を築くもととなったともみられる文書であり、その意味でも貴重なものであるとされています。 武田信玄は真田一族と深い関わりをもっていることがわかります。 https://museum.umic.jp/sanada/siryo/sandai/020202.html2023-01-30
68土偶型容器について土偶型容器について出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_item_images/tnm/J-7532?locale=ja) 土偶型容器(どぐうがたようき) 頭部が開いていて足の表現がない人型(ひとがた)の容器で、容器型土偶とも喚ばれる。中から焼けた小児骨が出土した例もあることから、再葬墓という当時の東日本で流行した墓制に関わるものと考えられている。 画像の土偶型容器の出土地は長野県上田市腰越。弥生時代(前期)・前4~前3世紀頃のものとされる。現在は東京国立博物館が所蔵している。 国宝の縄文のビーナス、仮面の女神と比べると険しい顔をしている。首や胴が長く頭が大きい、腕が体全体に対し短いというようにバランスはあまり良くないように見えるが、小児を表しているのではないかと考える。2023-01-29
69温泉薬師瑠璃殿温泉薬師瑠璃殿本尊薬師如来。北向観音堂の西方の崖の上に建てられた一風変わった建物で「医王尊瑠璃殿」と呼ぶ。建立年代は明らかでないが、資料によれば焼失した後文化6年(1809)に地元湯本薬師講中によって再建されたという。温泉の効能に併せて病気を除き解脱するという深い温泉薬師信仰に由来するものである。「瑠璃殿」という名は、薬師如来を瑠璃光如来とも呼ぶところからとった名である。 引用元 http://db.umic.ueda.nagano.jp/johogura/datadisp.php?arg_sano=6680142023-01-29
70お菓子の歴史(洋菓子輸入時代)お菓子の歴史(洋菓子輸入時代)明治頃に、文明開化が始まり、外国の文化が日本に取り入れられ生活が変化していったが、それは菓子も含まれる。明治10年に洋菓子の輸入が5千円であったが、20年には1万円、30年には2万5千円で、38年には一躍して23万5千円とまで上昇し、短期間で需要がかなり増えた。洋菓子製法技術や洋風食材が導入され、相手先もオランダ、ポルトガルから、イギリス、フランス、アメリカに変化した。 ビスケット、キャンディ、チョコレート、キャラメル、クッキーなどが輸入され、日本での消費が増えると国内生産の方が儲かると考える人が出てきて、製造が始まった。日本で最初に作られた洋菓子は明治8年のビスケットで、東京京橋の風月堂が始めた。明治中期になると森永太一郎が森永製菓会社を作り、ビスケットやドロップス、キャラメルなどの洋菓子生産2023-01-29
71初代上田藩主 真田信之初代上田藩主 真田信之真田信之は初代上田藩主を務めた人物であり、上田城を築城した真田昌幸の息子である。信之は徳川家に仕える猛将本田忠勝の娘、小松姫と結婚し、関ヶ原の戦いでは父昌幸、弟幸村とは対立することとなる。その後は上田領を任され、農村の復興と上田城下町の整備に尽力したが、1622年に松代へと移封されることとなる。 参考サイト 上田市デジタルアーカイブポータルサイト https://museum.umic.jp/sakuhin/web.html 上田市博物館 https://museum.umic.jp/hakubutsukan/ueda-castle-history/03/2023-01-28
72戦前長野の農業形態⑤戦前長野の農業形態⑤栽培されたイチゴは鮮度の問題から近郊には青果として、遠方には貯蔵できる形としてジャムにすることで販売していたようである。 この資料に加え、長野のジャムに関して調べてみたとこ ろ、明治10年新宿で初めて日本でジャムが作られ、その四年後に企業として初めてジャムが作られた地が長野であり、長野は日本のジャム生産の先駆的な地のようだ。 信濃産業誌 完」 https://api.ro-da.jp/v1/shinshu-dcommons/library/02BK0102152899/images/629fa7724c1f448586380935d789259b.jp2/651,655,2070,3016/333,485/0/default.jpg 「日本におけるジャムの歴史」 http://www.sudo-jam.co.jp/tokusyu/201402102023-01-28
73山賊焼き山賊焼き中信地域の郷土料理。鶏の一枚肉をタレに漬け込み、片栗粉をまぶして揚げた料理。タレのベースの味は、醤油、味噌、塩など、地域によって様々である。名前の由来は諸説あるが、山賊は物を“とりあげる”から、“鶏を揚げる”料理を「山賊焼」と呼ぶようになったそうだ。 [タレのベースの味は、醤油、味噌、塩等店舗によって様々](https://www.nisshin-oillio.com/report/kikou/vol35.html)より引用 紹介したのはほんの一部だが、寒さの厳しい気候を生かした郷土料理や野菜が多いと感じた。日本はたくさんの自然に恵まれ、四季がある。近年、日本の文化の継承が危惧されているが、「郷土料理」という地域の個性あふれる文化を大切にし、郷土料理を通して地元の良さを改めて考えるべきだ。2023-01-28
74戦前長野の農業形態②戦前長野の農業形態②まず始めに触れたいのが稲作である。資料に記載されているように川による豊富な水源、肥沃な土、夏期に暖かく、基本的に冷涼な気候であることから稲作が行われていたことがわかる。稲作に適する条件が現代と同じであり、当時から盛んに行われていたことがわかる。左のデータには作付量、反別、収穫高などが記載されている。 「信濃産業誌 完」 https://api.ro-da.jp/v1/shinshu-dcommons/library/02BK0102152899/images/75b5398006c44bf0b725eedac59bc2f7.jp2/620,642,1725,3035/308,542/0/default.jpg2023-01-28
75ペグーの大臥像に見入る皇軍勇士(『ビルマ作戰 : 大東亜戰史』)ペグーの大臥像に見入る皇軍勇士(『ビルマ作戰 : 大東亜戰史』)ビルマ(ミャンマー)に侵攻した日本軍が、ペグー(バゴー)の寝仏を見ている写真。 この写真が載っている本には、進軍している様子や戦っている様子、町の状況等の写真が多い。そのため、この写真のように戦いに関係のないものが載っていることに違和感を覚えた。 観光できるほど、英軍に圧勝であると伝えるためだろうか。それとも、ただ単純に近況報告をしているだけなのだろうか。様々な考察ができる。 ▼この写真が掲載されている書籍は以下から参照できます。 国立国会図書館デジタルコレクション 『ビルマ作戰 : 大東亜戰史』,同盟通信社,1942年2023-01-28
76真田村① 本原村真田村① 本原村真田村に関しても1958年10月1日に長村、傍陽村、本原村が合併しているため三つの地域を調査する。 明治18年。 https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03MP0301080170 (信州デジタルコモンズ)2023-01-27
77お菓子の歴史(点心時代)お菓子の歴史(点心時代)菓子は一日二回の食事の間に食べる間食用として長く続いていたが、鎌倉時代になると都会では三食制となったため、菓子は嗜好品になり、一般庶民からは縁のないものになった。 そのころ、茶が日本に渡来して、喫茶が流行した。その際に使用する菓子を「点心」と呼ぶ。もともと、点心とは定食と定食との間の小食であり、間食やおやつを意味する。点心には主に羹(あつもの)という汁と、まんじゅう類があり、それぞれ多くの種類がある。これらが和菓子の発展に繋がっていった。 守安正 著『お菓子の歴史』,白水社,1965. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2507981 (参照 2023-01-27)2023-01-27
78尺貫法からメートル法へ(1933)尺貫法からメートル法へ(1933) メートル法に関するプリントを、生徒の各家庭に配布したという記事である。この記事の翌年の1934年に、日本従来の尺貫法が廃止され、メートル法が取り入れられた。これまで使ってきた単位を、使わないようにしなければならないと考えると、当時の学生はとても苦労しただろう。教育において、使用する単位を変えるということはとても大変なことだ。 #507 「西塩田時報」第114号(1933年5月1日)3頁 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/pdf/nishishioda/ns07_101to120.pdf2023-01-27
79かわいい見た目に全世代から人気のお菓子 餅屋伝助のウサギ餅かわいい見た目に全世代から人気のお菓子 餅屋伝助のウサギ餅引用元:https://ueda-tabi.com/mochiyadensuke/ ウサギの形に丸めた可愛いお餅の中に、餡が入ったお菓子です。ウサギ餅はカスタードクリーム、カマンベールチーズ、チョコレートの3種類。上品な甘さがあり、ふんわりもちもちな食感、口溶けの良い柔らかなお餅に餡がマッチしていて、どの世代の人からも人気のお土産として愛され続けています。 この商品でのデザイン面を考えるにあたって着目すべきは本体のかわいらしいウサギの形でしょう。 ウサギの顔をデフォルメ化し表現したものや、簡単に耳のみを焼き目としてつけているものなど、昔から変わることなく愛されているこのデザイン。変にモダンチックな凝った仕上がりでなく、このような親しみやすい見た目だからこその愛され度合だと感じました。2023-01-27
80はじめにはじめに私は、大正・昭和初期における教育の特色について調べていきたいと思う。西塩田時報の学校行事などについて書かれた記事を参照して、当時どのような教育が行われていたのかを解き明かしていく。また、当時、軍国主義となっていった日本だが、教育にはどのような影響が及ぼされたのかなども詳しく見ていきたい。2023-01-27
81唐菓子について唐菓子について奈良時代から平安時代にかけて遣唐使によって唐から伝来した唐菓子は,米粉や小麦粉を捏ねていろいろな形に作り,油で揚げたり,焼いたものである。 日本や仏教の世界でお供え物とされるほどであり、当時はとても高価でめったに食べられないものであったが、現在では限られた和菓子店だけではあるが、手軽に食べることができる。 写真は岡田哲「食文化入門-百問百答-」から抜粋2023-01-27
82お菓子の歴史(上古時代~唐菓子時代)お菓子の歴史(上古時代~唐菓子時代)日本のお菓子の歴史はとても古く、約2000年前の上古時代といわれている。菓子の名称については色々な説があるが、初めは「古能美(このみ、木の実)」、「久多毛能(くたもの、果物)」であり、現在でいう菓子とは違っている。 現在の菓子は唐菓子時代(奈良朝平安朝初期)に輸入された唐菓子が始まりとされている。 守安正 著『お菓子の歴史』,白水社,1965. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2507981 (参照 2023-01-27)2023-01-27
83上田市の自然文化について上田市の自然文化について別所温泉は、信州最古の歴史を持つ七久里の湯と呼ばれる温泉を持ち、平安時代の有名な和歌集にも記されている。安息の場として栄えた別所温泉は、かつて真田幸村の隠し湯があったとも言われていて、1500年以上の歴史を持っているとされている。 また別所を含む塩田平は、信州の鎌倉とも呼ばれ、温泉に限らず多くの文化財が残されている。 「幕宮池」と呼ばれる池は、日本で最も降雨量が少ないとされる位置にあり、多くのため池が作られた場所である。 〈参考資料〉 https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/others/01DD001H230003 https://adeac.jp/shinshu-chiiki/catalog/mh0555002023-01-26
84上田紬のデザイン上田紬のデザイン日本らしさが残るデザインになっているため、観光客の目にとまりやすいと感じた。また、近年では若者向けにデザインされるお土産が多い中、伝統的な要素が前面に出されている。 画像・資料参考元:みんなで作ろう信州上田デジタルマップ 投稿者名:あやか様2023-01-26
85前川ゼミレポート前川ゼミレポート私は、なぜ上田氏は真田氏のPRに固執するかについて疑問を持ったため調べることにした。というのも、上田市には別所温泉近辺にたくさんの歴史的建造物があり、「信州の鎌倉」という別名まで付けられるほどのだからだ。そして「別所温泉」という名前自体は全国的にもある程度知られている。まったくの無名の観光地をアピールするわけではないのになぜここを差し置いて真田氏に固執するのだろうか。 真田氏に固執する理由として思いついたのが歴史好きに対するアピールの強さだ。二度にわたる上田の戦い・大阪の陣で有名な真田幸村にゆかりのある地(真田村)であることから、上田城や真田氏についてアピールできる。だが、この真田氏についてもやや疑問がある。一般人に「武将の真田」と言って思い浮かべるのは真田幸村だろう。この真田2023-01-26
86戦後80年で人々の価値観はどう動いたのか戦後80年で人々の価値観はどう動いたのか 戦後日本において、新幹線が開通し、オリンピックが開催され、インターネットが普及する間に、日本人の価値観・人生観はその生活の様相とともに大きく動いてきたように思われる。そこで、戦前の人々の価値観は、現在を生きる我々から見ていかに違うのかを研究する。  本記事では西塩田時報第百八十二號第五頁を取り上げて述べる。 「幹部修養講習會に出席して」という項目は、「原田晴章」なる人物が、「三好武治」なる人物の講演の一端を書くというもの。講演の内容は、主に支那事変(日中戦争の、当時の日本での呼び名の一つ)についてのものである。 「日本で今度の事變での勝利は精神力である」 「支那事變は世界に類の無立派なる所の正しき戰争である」  このような記述がある。やはり根拠のない精神論や戦争を美化する意2023-01-26
87市街地方面の神社・寺院と真田氏市街地方面の神社・寺院と真田氏上田城周辺には、神社・寺院が多数存在する。しかも、同じような場所に集まっている場合が多い。これは、地域のシンボルである上田城に深く関わってくる。1583(天正11)年、上田城を築城した真田昌幸は、城下町として海野町を作った。これは、先祖の地である海野郷(現在の東御市本海野)より、新たな本拠地近くに住民を移住させたことに由来する。それに伴い、海野郷近辺にあった寺院を城の近くに移した。例えば願行寺や日輪寺といった寺院がこれに該当し、真田氏の先祖である海野氏が開いたとされる場合が多い。特に願行寺は、江戸時代に上田藩の菩提寺になったほど、この地域や人々に深く根付いていたと考えられる。また海野町には、商売繁盛を利益とする高市神社がある。これは昌幸がつくったものだ。 このように、上田城を築城す2023-01-26
88名工の社殿と養蚕農家 ~上田市下堀地区~名工の社殿と養蚕農家 ~上田市下堀地区~信濃国分寺駅の南側に位置する下堀地区です。 ここには堀川神社があり、今でも地区住民によって守られています。 拝殿は一見シンプルですが、本殿を見ると見事な装飾があります。これは1886年(明治19年)に上田の名工竹内八十吉によって掘られたものです。八十吉は1815年(文化12年)から1898年(明治31年)まで活躍した諏訪立川流の大工で、堀川神社以外にも信濃国分寺の本殿の彫刻も掘っている。 次に下堀地区は養蚕業で栄えていた地区である。その証拠がこの石垣である。 これは、ぼたもち積みと呼ばれる積み方でお金持ちの家しか作ることができない石垣である。https://d-commons.net/upload/4/575/054168_0023_006.jpg養蚕業で儲けていたからこそできる石垣で、当時は養蚕農家それぞれが競い合って家を建てていたそうだ。それほどまでにこの地区の養2023-01-19
89吉田東伍について吉田東伍について越後の農民として生まれた吉田東伍は、郷土の大地こそが日本の風土の一部であり、日本を正しく理解するためには、風土を組み立てている郷土についてしっかり見なければならないと考えていた。13年という長い時間をかけて編纂した、大日本地名辞書は人間の活動地帯である「土地」と刻まれた歴史の語り部としての「地名」を大切にすることを教えた。我が国全土の「郷土の未来」を見据えるための学問であると言える。 彼は教育をほとんど独学で行い、図書館に保管されている書籍や学術論文を主な教材としていた。その知識を活かして小学校教諭になった経歴がある。 彼の地理学の研究から、彼は小さな町の目立たない郷土や風土は決して意味のない産物ではなく、日本という国を作る一つの要素として働きかけているのだと伝えているのだと2023-01-25
90常楽寺常楽寺北向観音の本坊で、鎌倉時代には天台数学の道場として栄えていた。境内には国の重要文化財に指定されている石造多宝塔があり、苔が生えていて趣を感じることができた。樹齢350年の「御船の松」は、とても立派な松だった。 別所温泉旅館組合「別所温泉のオススメ観光情報[公式]」 https://www.bessho-onsen.com/ (最終閲覧2023/1/26)2023-01-25
91北向観音北向観音『現世利益を願う厄除観音として知られる「北向観音堂」。本堂が北を向いて建てられることはほとんど例がなく、長野市にある未来往生を願う善光寺(南向き)と向き合っていることから「北向」と名付けられて』(別所温泉旅館組合)いる。境内からは、町の景色を見ることができた。また、通りには、お土産屋さんやジェラート屋さんなどがあった。 別所温泉旅館組合「別所温泉のオススメ観光情報[公式]」 https://www.bessho-onsen.com/ (最終閲覧2023/1/26)2023-01-25
92兎束武雄(うづかたけお)兎束武雄(うづかたけお)上田町大手の銀行家兎束鐘一郎の長男として生まれた武雄は、幼い頃から音楽に特別な興味を示す子どもでした。しかし、父親は音楽は男のするものではないと考え、武雄の音楽に対する熱意を快く思っては居ませんでした。母親は、音楽を好み自ら琴を弾いたり、4人の姉妹たちにも琴を習わせていました。  上田中学校(現上田高校)を卒業した武雄が、音楽の道に進みたいと父親に相談しましたが猛反対を受けましたが、母親の協力と武雄の熱意に最後には承諾しました。  武雄は上京し、東洋音楽学校に入り勉強に励みましたが、東洋音楽大学だけの勉強では満足できず、他の大学でも聴講し、作曲やピアノ、チェロなどを勉強しました。大学を卒業した武雄は、高等学校の教師になることを決意して上田に帰ってきました。  上田に戻った武雄2023-01-25
93蚕業の背景蚕業の背景江戸末期、鎖国政策を終え古くから生産されてきた生糸を中心に貿易を開始した。しかし、増える需要に対して品質基準を満たす生糸の生産が追い付かない状況であった。 明治維新を経た日本は、「殖産興業」による「富国強兵」を掲げた。それに伴い、生糸を主要な輸出品とし、品質向上、生産力向上に努めた。 新たな生産工場の建築を行うために、フランスなどから技師が招聘されるなど、積極的な動きがあった。2023-01-25
94蚕業と気候蚕業と気候上田市は年間降水量が1000mm未満であり、日本一晴れの日が多い街である。この気候は蚕の飼育に適しており、上田市は日本でも屈指の蚕の産地になった。2023-01-25
95サントミューゼサントミューゼサントミューゼのサントは、かつて蚕都として栄えた上田市の歴史と、日本一の晴天率を誇るため、太陽が燦々と、さらには文化・まち・人を育てるという3つの目標が込められている。 ミューゼはミュージアムからの造語である2023-01-25
96蚕業の施設蚕業の施設長野県上田市では、かつては蚕業が盛んな地域であった。それを象徴するのが常田館製糸場である。この製糸場は明治33年創業の歴史ある建造物である。当時の養蚕業は日本の近代化の原動力であり、様々な箇所で利用されていた。この施設では、室温度、通風、乾燥などを整えることで、一年を通して平均的に生糸を生産することが可能となっていた。 木造5階建繭倉庫、鉄筋コンクリート5階建倉庫群などは、国指定重要文化財に指定されている。2023-01-25
97桑皮生産増強に就て(『西塩田村公報』第5号2項)桑皮生産増強に就て(『西塩田村公報』第5号2項)桑皮生産の増強についての記事である。上田は桑栽培の適作地であったことから桑が多く栽培されていた。 蚕の餌として生産していたと考えていたが、戦時中は繊維資源としても生産していたようである。 また、「東亜共栄圏」という言葉が多く使われている。 日本政府がスローガンとして使っていただけでなく、日常でも「東亜共栄圏」という言葉が使われていたことが分かる。 ▼この記事は以下から参照できます。 #928 『西塩田村公報』第5号(1942年5月22日)2頁2023-01-25
98安楽寺八角三重塔安楽寺八角三重塔日本で最も古い臨済禅宗寺院の一つである安楽寺。そこにある木造八角三重塔は、木造の八角塔としては全国で一つしかないという貴重な建築で、長野県では一番早く「国宝」に指定された。 https://museum.umic.jp/bunkazai/document/dot1.html2023-01-25
99別所神社本殿別所神社本殿別所神社本殿は、別所温泉の北方、常楽寺に隣接し、塩田平をはじめ遠く浅間連峰が望める小高い丘の上にあります。 https://museum.umic.jp/bunkazai/document/dot14.htmlより引用2023-01-25
100温泉薬師瑠璃殿 解説温泉薬師瑠璃殿 解説本尊薬師如来。北向観音堂の西方の崖の上に建てられた一風変わった建物で「医王尊瑠璃殿」と呼ぶ。建立年代は明らかでないが、資料によれば焼失した後文化6年(1809)に地元湯本薬師講中によって再建されたという。温泉の効能に併せて病気を除き解脱するという深い温泉薬師信仰に由来するものである。「瑠璃殿」という名は、薬師如来を瑠璃光如来とも呼ぶところからとった名である。 http://db.umic.ueda.nagano.jp/johogura/datadisp.php?arg_sano=668014より引用2023-01-25
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