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1上田自然運動公園上田自然運動公園上田自然運動公園には体育館プールを中心に、マレットゴルフ場アーチェリー場がある。周囲は四季折々の鮮やかな顔を見せてくれる。敷地内にはひょうたん池という小さな池があり、コガモやカルガモなどの数種類の水鳥が生息していた。コガモは水中に顔をつけながらぐるぐると回り食事をしていて愛らしかった。長野大学からも近いため水鳥を見たい方は行けば愛らしい水鳥の姿が観察できるだろう。2021-12-22
2あんかけ焼きそばとの出会いあんかけ焼きそばとの出会い 以前から耳にしていた「上田に来たならあんかけ焼きそばを食べるべき」というおすすめを聞いて、気になっていました。バス停から少し上り坂を上ったところにあるお店「しんりん」さんで無事いただくことができました。  酢とからしをかけて食べた方がさらにあんかけ焼きそばの真価を味わえたと思いますが、忘れてしまい、かけずに食べきってしまいました。  それらを抜きにしても、濃すぎず、冷たい体に染みるような、ちょうど良い温かさのあんかけと、焦げ目がついて香ばしい味がするちりめんが程よいバランスでとても美味しかったし、ボリュームがあるあんかけ焼きそばをお腹いっぱい食べることができて、あんかけ焼きそばへの好感度が上がりました。 発祥は、真田坂を上った先にある海野町商店街を左折したところにある福2021-12-15
3上田藩主上田藩主上田と言えば真田氏が思い浮かぶが、その後の仙石氏・松平氏の治政はどのようなものだったのか気になったので調べ、それぞれを比較してみたいと思う。 参考資料については、上田市立博物館やデジタルアーカイブなどを活用して調べていきたい。2021-12-21
4標高605m標高605m上田駅発の菅平線バスに乗り、揺られること20数分… スポットライトに照らされた「幸村の里」の大きな看板を目印に、降車を決意しました。 降りたのは「殿城口」というバス停でした。 この写真は、歩道を歩いていて目に入ってきた看板を撮影したものです。上田市は上り坂も下り坂も多く、山の上にいる事を体感しますが、こうして看板を見ると、より山の上にいることを実感します。2021-12-15
5可動式看板「舌喰池で観察される鳥類」可動式看板「舌喰池で観察される鳥類」2022年1月に、可動式看板「舌喰池で観察される鳥類」を以下の内容で作成しました。 2022年2月開催の「舌喰池水鳥観察会」やさまざまなイベント・活動で、この看板(看板の画面サイズ:横幅200cm×高さ100cm、看板の脚を含む高さ160cm)を活用する予定です。 ■看板作成:  長野大学地域づくり総合センター「信州上田学」地域連携パートナー事業 舌喰池水鳥観察会       ■監修:  長野大学環境ツーリズム学部 高橋一秋教授 ■デザイン・鳥類データ(2016年~2021年に舌喰池で調査)・写真(塩田平ため池群で撮影)・イラスト ・解説(出典:原色 日本野鳥生態図鑑<水鳥編>(保育社)、山渓カラー名鑑 日本の野鳥(山と渓谷社)) :  高橋一秋・大和田樹里・三枝広樹・横内はるひ(写真加工)・小猿夏海(イラスト作成)・豊田2021-12-21
6上田電鉄別所線の軌跡を追う上田電鉄別所線の軌跡を追う上田の市街地に向かうとき、大学に行くとき、夕飯の買い物に行くとき…。皆さん少なくとも一度は、上田電鉄別所線を利用したことがあるのではないでしょうか。 別所線は今年で100周年を迎えたそうです。そこで私は、その100年の間にどういう改革やストーリーがあったのかを調べて発信しようと思います。 参考資料は、主に昔の文書や新聞記事、可能であれば別所線の運営に携わる方にインタビューが出来たら良いなと考えています。2021-12-21
7メロディー装置メロディー装置加舎白雄四季の歌というものが聴けるメロディー装置を見つけた。何回もここを通ったことはあるが、こういったものが置いてあることを今回初めて知った。スタートボタンを押すとこの歌が流れ、流すのも止めるもの手動なのがシュールで面白かった。2021-12-21
8上田城散策① 真田石上田城散策① 真田石大きな石垣が目を引く真田石。真田信之が父の形見として持って行こうとしたが微動だにしなかったという言い伝えがあるそう。どこの石垣を見てもそうだが、どういった技術で石をこんなに高く積んだのかとても気になる。2021-12-21
9温泉(大湯・石湯・大師湯)温泉(大湯・石湯・大師湯)大湯 北条義政や木曽義仲が愛妾である葵御前としばしば入浴したと言われている。北条義政が浴室を建てたことから「北条湯」、葵御前にちなんで「葵の湯」とも呼ばれていたが、後にその溢れ出る湯の量の多さから「大湯」に改められた。 石湯 池波正太郎の代表作「真田太平記」で真田幸村と女忍者・お江が、ここ石湯で出会いその後結ばれるというエピソードから真田幸村の隠し湯であったと言われている。 大師湯 天長2年(825年)比叡山延暦寺の座主円仁慈覚大師が北向観音建立のために来る度に、好んで入浴したことからこの名がつけられた。かつては、北向山に参詣した籠の者が夜通し入れ替わりで利用したため籠の湯とも呼ばれていた。また、昔矢傷を負った雉子(キジ)が傷を癒やしたことから「雉子湯」と呼ばれたこともあった。2021-12-21
10三楽時(安楽寺・常楽寺・長楽寺)三楽時(安楽寺・常楽寺・長楽寺)安楽寺の創設ははっきりしていないが、729~749年の間に高層として知られる行基(ぎょうぎ)によって、また、824~834年の間に慈覚大師円仁によって開かれたという説がある。国宝にも指定された八角三重塔があり、こちらに使われている木材を調査したところ、正応2年(1289年)に伐採した木材が内部に使用されていたことがわかり、13世紀末に建築された塔であると考えられている。 常楽寺は北向観音堂と同じく天長2年に建てられた。境内には樹齢350年とも言われる宝船ののような御船の松があり、この宝船で阿弥陀様が極楽浄土に導いてくれるという。また、本堂の裏には北向観音の霊像が出現したとされた場所に700年もの歴史がある石造多宝塔が保存されており、鎌倉時代に天台宗の拠点として栄えていたことが伺える。 長楽寺は焼失して現在は存在2021-12-21
11鬼女紅葉伝説鬼女紅葉伝説この伝説は諸説あるが、その中の一説を紹介する。 会津の子供に恵まれなかった夫婦が子どもを授かった。幼名を呉葉(くれは)といった。京にのぼり源経基(みなもとのつねもと)公に仕えたが、美貌と 才気が公の心をとらえ寵愛を受けるようになり懐妊した。紅葉は公の愛を独占するに御台が邪魔になると、魔性を現わし、御台を殺そうとした。そのことが発覚して、信州に流され、戸隠山麓の荒倉山に棲むようになった。信州では京を恋う毎日だったが、或る朝、顔を洗おうとしてふと水面を見ると角が生えた鬼の形相に映った。そこで紅葉は、心を鬼にし、武力を貯え都に力づくで押しのぼろうと決意、盗賊の頭となり、悪事を働いた。あたりの人々を悩ませる鬼女紅葉のことは京にも伝えられ天朝に達し平惟茂(たいらのこれもち)が勅命を受けて紅葉2021-12-21
12上田市の観光上田市の観光私は、上田市の観光名所や名物について探求したいと思います。 今知っている情報に加え、新しい情報や知識を収集することで自分も上田市のことを楽しみながら学び、発信したいと考えています。 具体的に、観光地や名物についてのサイトで情報を集めたり、訪れたりしたいと考えています。2021-12-21
13上田飯上田飯上田の名物といえばなんだろうか。まず挙げられるのは美味ダレと自慢焼きか。この二つくらいならば上田市民ではない私でも知っている。そんな上田飯のルーツ等に興味を持ったので調べて投稿していきたい。ついでに最近の上田飯として上田圏内の美味しい店等も上げられたらと思っている。2021-12-21
14美味だれ美味だれ探求テーマ選択理由:自分は居酒屋でバイトをしているのだが、焼き鳥に付けるために出されているたれをとても美味しく感じ、またそのタレが上田名物と知ってより興味が湧いたから。 探求内容:たれが上田市民に取ってどのような存在なのか、全国にはどれほど知れ渡っているのか、どのように作られているのかなど。 調査に用いる資料:おいだれ図鑑2021-12-21
15千曲川の歴史千曲川の歴史日本一の長さを誇る信濃川の上流を流れる千曲川。 川はいつの時代も人々の暮らしに恩恵を与えます。 しかし、一方で洪水や決壊によって猛威を振るうということが2019年の台風19号による災害で分かりました。 そこで、先人たちはどのようにして千曲川と関わってきたのか関係資料を中心に調べていきたいと思います。2021-12-21
16北国街道柳町北国街道柳町石畳が敷かれた古き良き街並みが魅力の柳町。名前の通り柳の木が生えており、春になれば見事なしだれ柳を楽しむことができます。上田の名物グルメのお店が集まるグルメスポットとしても注目されています。2021-12-21
17温泉の歴史温泉の歴史私はグループで上田の温泉について調べることにしました。上田は温泉が有名であるということを聞いていたので、どのような歴史がありどのように親しまれてきたのかを調べてみたいと考えました。それぞれの温泉について資料や実際に温泉を訪問したり地域の方の声も聞いてみたいと思います。その中で各々の特徴を比較し上田の温泉についての理解を深めていきたいです。2021-12-21
18温泉の歴史温泉の歴史私たちは上田の名物の一つでもある温泉について調べることにしました。 以前から上田は温泉の名所と聞いていたため、どういった歴史がありどのように親しまれてきたのか調べたいと考えました。 それぞれの温泉について資料や実際に訪れ地域の方の認識や意見を聞いてみたいと思います。 その中でそれぞれの特徴を比較していき温泉を通して地域理解を深めていきたいと思います。 今回はグループで探求していきます。2021-12-21
19上田駅お城口上田駅お城口上田駅といえば、真田氏ゆかりの六文銭マークのイメージが強いと思います。駅前の広場には真田幸村の騎馬像もあります。馬にまたがる勇ましい姿が印象的です。 周辺には中国寧波市から寄贈された石刻獅子像や、上田駅再開発のモニュメントとして作られた水車などがあります。どれも上田駅のシンボルとして親しまれています。2021-12-21
20上田のため池上田のため池私たちは上田市塩田のため池について調べようと思う。 このテーマを選んだ理由は、上田に来てため池が地元と比べ多いという印象を抱いたからである。どうしてこんなにため池が多いのか興味を持ったので、塩田の歴史やどんなものがあるのか調べたいと思った。 上田市文書館の資料や長野大学付属図書館、塩田の里交流館などで塩田の歴史とため池の関係をまとめていきたい。2021-12-21
21おおぼしおおぼし 長野県のラーメン専門店である「おおぼし」。信州ラーメン四天王と言われているらしい。  私は「おおぼし」一番人気の「ばりこて白」を注文。豚骨ベースで背油がたっぷり浮いていて、「これは後々きつくなるかも」と思ったのだが、スープを飲むとそんなことはなく、あっさりとしていて飲み干すのは余裕なほど。麺はかなりもちもちし、のど越しもよく、こってりとしたスープがよく絡む。  ラーメン四天王と言われるだけのことはあるので、ぜひ来店してみてほしい。2021-12-21
22米久肉店米久肉店 アリオ前にある、お持ち帰り専門の焼き鳥屋「米久肉店」。こちらでは信州上田の名物である「美味だれ」を焼き鳥にかけて食べることが出来る。1本60円という低価格で、私は「もも・ねぎま」を計20本ほど購入した。  家へ帰宅し、容器を開けてみると、焼き鳥と美味だれの香りがぶわっと広がり、食欲がさらにそそられる。お肉は絶妙な焼き加減でぷりぷりしていて、甘いたれがよく合い、いくらでも食べられてしまいそうだった。  注文は早めに電話をしたほうがいいと思う。2021-12-21
23さわむらさわむら 上田市丸子にある和洋菓子店「さわむら」。先日、バナナマンの日村さんがロケで訪れ、長野県を代表する郷土食の一つである「おやき」を紹介していた。1つ140円で、1日なんと500個も売り上げるそうだ。  私はあんこと野沢菜の「おやき」を購入した。生地はびっくりするほどモチモチ、そして自家栽培の野沢菜を使用しているようで、塩味が程よく生地に合い、多くの人に愛されているのが納得できた。  完売するのが早いので、購入する方は開店してからすぐに来店してほしい。2021-12-21
24華龍飯店華龍飯店 上田市上田原にある中国四川料理の「華龍飯店」。安い値段で大盛りが評判と聞いてはいたが、今回が初めての来店でとても楽しみにしていた。  私は「炒飯と唐揚げ1個ランチ」を注文。注文の品が届き驚愕したのが、炒飯の量と唐揚げの大きさである。炒飯は食べても全然減らず、半分食べてやっと多店舗の一人前という印象を受けた。また、唐揚げは自分の拳と同じくらいの大きさで、これだけでも満足感が得られた。  来店される方はお腹を空かせていかないと痛い目を見るので注意してほしい。  最後に、メニューを見ていると「カエルの唐揚げ」があり挑戦するのにかなりの勇気がいるなと思った。2021-12-21
25こぶたやこぶたや 大正時代の蔵を再生した豚肉料理の老舗である「こぶたや」。私は小さいころから、お祝いの日によく連れて行ってもらっていたお店で、美味しさは昔から変わらずである。  今回はランチメニューの「ロースかつ定食」を注文。衣がサクサクとしていて、お肉は柔らかく、噛むとジューシーさが口の中で広がった。値段の方も量の割には安く、満足のいくものとなっており、どおりで昔から来店しているわけだなと納得した。2021-12-21
26塩田平 地形塩田平 地形塩田平は典型的な盆地であり、かつて湖であった場所が産川や浦野川によって埋め立てられたものと考えられている。また、特徴的な地形として、鴻ノ巣バッドランドが挙げられる。バッドランドとは、「無数のかれ谷が密に深く刻み込まれ急斜面の斜面と、細かなひだが入り組む複雑に発達した水系網を特徴とする地形」(引用)地質を反映した地形[国土地理院]バッドランド (2021/12/21閲覧) である。 写真の黄色くマークされた場所は、鴻ノ巣バッドランドの場所である。もう一枚は、地理院地図3Dの鴻ノ巣バッドランド3D地形である。 参考・出典 地理院地図Vector[国土地理院]鴻ノ巣バッ2021-12-21
27塩田平 観光塩田平 観光塩田平には生島足島神社や安楽寺、前山寺に代表される多くの寺や、神社があり、それを観光資源として利用している。また、別所温泉という温泉もあり人気の観光地となっている。 写真は前山寺。 参考・出典 [上田市]信州上田観光情報/温泉エリア (参照 2021/12/20)2021-12-21
28塩田平 気候塩田平 気候日本有数の寡雨地域であり、内陸性の気候であるため夏は平均気温は高い。冬は気温は低いものの、雪はあまり降らない。また、内陸性の気候によって年較差が大きく、盆地特有の気候によって日較差も大きい傾向にある。日照時間も全国平均より長い傾向にある。寡雨地域であることで、過去には養蚕が盛んになったり、ため池が多く作られたりした。 写真は日照時間に影響される太陽光発電の写真と、ため池の多さを示した地形図である。 参考・出典 長野県地方気象台/長野県の気候 地理院地図Vector[国土地理院]上田市地形 (参照 2021/12/20)2021-12-21
29塩田平 農業塩田平 農業主に稲作が盛んで多くの田が見られる。しかし、一様にただけでなく畑作も見られる。また、高地には果樹栽培も見られる。塩田平の農業の特徴は、なにより多くのため池による灌漑であるだろう。塩田平という地域は日本でも有数の寡雨地域である。この地図は、塩田平の地形図と土地利用についての地図である。多くのため池が確認でき、ため池の周りでは稲作、山の麓に行くにつれ畑作が多くなっていることが読み取れる。 参考・出典 地理院地図Vector[国土地理院]地形と土地利用 (参照 2021/12/20)2021-12-21
30塩田平 工業塩田平 工業塩田には多くの工場が存在する。この写真はその中の一部の写真である。上田市は、最大5000万円の助成金なども出し、積極的に企業誘致を進めている。 参考・出典 上田市-工場等設置事業助成金 (参照 2021/12/20)2021-12-20
31美ヶ原公園西内線を考える美ヶ原公園西内線を考える美ヶ原公園西内線は、美ヶ原に至る道と松本に至る道がある。 しかし、松本方面への分岐地点である武石観光センターあたりに、通行止めの看板があるため、通り抜けはできなそうだ。 そもそも単に松本方面に行きたいだけなら、北側に国道254号線が通っている。 わざわざ狭いこちら側を通る必要がない。 ちなみに、武石峠あたりから国道254号へつながる道があるが、年中通行止めである。 美ヶ原方面の道には、路面状況の悪い箇所、道幅の狭い箇所などが見受けられる。 加えて、冬季は通行止めになる。 前の投稿で、上田側からは白樺湖の方を通っていくのではないかと投稿した。 こちらは県道、あちらは国道なので無理もない。 以上のことを考えると、今現在この道の利用価値は限られていそうだ。2021-12-20
32美ヶ原と上田美ヶ原と上田上田側から美ヶ原へと向かう際に使うのが美ヶ原公園西内線。 この道には本格的な山道に店という店はなく、登り口に武石観光センターがあるだけである。 それに対し、諏訪方面からビーナスラインを通って行くと、霧ケ峰・白樺湖を中心に数々の店や温泉、ホテル等楽しみがある。 道路を比較してもビーナスラインのほうが走りやすく、知名度も高い。 そのため、上田側から美ヶ原に行こうとした際に、走りにくく楽しみも少ない美ヶ原公園西内線を選ぶより、白樺湖→霧ケ峰→美ヶ原のルートを選ぶ人が出てくるだろう。 せっかく上田から美ヶ原につながる道があっても、以上の理由で使われる頻度が少ないのならもったいないと感じる。2021-12-20
33「上田市の主な工業」まとめ「上田市の主な工業」まとめ今回、上田市内における十の企業を調査気づいたことをまとめていきたいと思う。 まず一つは、やはり機械・精密機器製造が盛んであったということだ。上田市は隣接する坂城町同様に機械・精密機器を工業の強みとしているという情報は調査前に持っていたが、実際に具体的な企業を通じて知ることができた。逆に、針や食料品などの製造にも大きな役割を持っているということも確認でき、多様性も見ることができた。 次に、全国、または世界に展開する企業が複数あったということだ。上田という地から多くの製品が広がりを見せていくというのは、上田で学ぶ人間として驚きであり、誇らしいことでもあった。 今回は数多く存在する中小企業に触れることができなかったために調査結果としては物足りなさがあるが、上田市の工業における一般2021-12-20
34《上田市に主力工業を置く企業①》山洋電気株式会社《上田市に主力工業を置く企業①》山洋電気株式会社関連会社など(国内):県内三つ・東京・北海道・宮城・栃木・山梨・石川・静岡・愛知・京都・大阪・広島・福岡 関連会社など(国外):中国・台湾・韓国・タイ・インド・シンガポール・ジャカルタ・アメリカ・フランス・ドイツ 主力製品:精密機器 ・クーリングシステム(冷却ファン,ファンユニットなど) ・パワーシステム(太陽光発電システム用パワーコンディショナ,無停電電源装置 (UPS)など) ・サーボシステム(サーボモータ・アンプ,ステッピングモータなど) 参考資料 山洋電気株式会社 (https://www.sanyodenki.co.jp/) 山洋電気株式会社 代表取締役会長 山本 茂生  代表取締役社長 児玉 展全  2021/12/13参照2021-12-20
35上田らしさ上田らしさ上田駅のすぐ近くにあるこの水車。そして銅像。初めて上田駅に訪れた時から感じてはいたが、駅の改札を抜けてからここまで市の特徴が入りやすい駅は興味深い。というのも、私は、駅はその場所のファーストインプレッションであり、その地域の雰囲気を掴む大切な場所だと考えている。駅の中で目にしたモチーフ、上田であれば真田という大きな売り出しポントが駅の中にも、街の中にも全面的に出されているのが非常に面白く、街を歩くのが楽しかった。2021-12-20
36[上田市に本社を持つ企業③]オルガン針株式会社[上田市に本社を持つ企業③]オルガン針株式会社関連会社など(国内):県内四つ・熊本 関連会社など(国外):ベトナム・中国・台湾・シンガポール・ドイツ 主力製品:針 ・ミシン針(家庭用・工業用いずれも) ・メリヤス針(ニット素材に用いられる) ・フェルト針(繊維を複雑に絡め合わせた不織布をつくる) ・ブローブ(「導通検査=電気的な接続を確認する試験」に用いられる) 参考資料 オルガン針株式会社 「一本の針に心を込めて、世界の顧客に手渡そう」. (https://organ-needles.com/company/outline/) オルガン針株式会社 代表取締役社長 増田 良介  2021/12/13参照2021-12-20
37[上田市に本社を持つ企業②]日置電機株式会社[上田市に本社を持つ企業②]日置電機株式会社関連会社など(国内):県内三つ・宮城・石川・埼玉・東京・神奈川・静岡・愛知・大阪・広島・福岡 関連会社など(国外):アメリカ・中国・シンガポール・タイ・韓国・インド・ドイツ・台湾・アラブ首長国連邦・インドネシア 主力製品:電気計測器 ・自動試験装置(基板検査装置) ・記録装置(データロガー、メモリハイコーダ、デジタルオシロスコープ) ・電子測定器(LCRメータ、電力計、耐圧試験器など) ・現場測定器(クランプメータ、テスタ、絶縁抵抗計など) 参考資料 日置電機株式会社-Hioki(https://www.hioki.co.jp/jp/)  日置電機株式会社 代表取締役社長 岡澤 尊宏  2021/12/13参照2021-12-20
38[上田市に本社を持つ企業①]シナノケンシ株式会社[上田市に本社を持つ企業①]シナノケンシ株式会社関連会社など(国内):県内三つ・東京 関連会社など(国外):アメリカ・ヨーロッパ・中国・台湾・タイ・インド・メキシコ 主力製品:電子機器・精密機器 ・精密モーター、アクチュエータ ・産業システム機器(映像/ハイスピードカメラ・サーモ グラフィー(遠赤外線カメラ)) ・福祉・生活支援機器(録音図書機器、補聴器) 参考資料 ASPINA|シナノケンシのコーポレートブランド(https://jp.aspina-group.com/ja/) シナノケンシ株式会社 代表取締役社長 金子 元昭  2021/12/13参照2021-12-20
39別所温泉駅②別所温泉駅②別所温泉を出てすぐには古い電車や名物のおはぎやだんごを売っているお土産屋さんが2つほどあり、少し遠いですが下っていくとあいそめの湯という温泉もあった。この付近はかなり道が綺麗にされていた。 逆に坂を昇っていくと別所温泉遊歩道になり、石湯などいくつかの温泉や北向観音があった。標識がいくつか建っていて、外国語表示のものもあり観光地としてかなりいいと思った。しかし、駅を出て遊歩道に向かう途中から道があまり舗装されておらず歩きにくい印象を得た。舗装されているのが駅前の少しの範囲だけなのでそこを改善出来たらいいと思う。また、フィールドワークで来るまでおはぎやだんごが名物として売られていることすら知らなかった。2021-12-20
40別所温泉駅から上田の現状を見る別所温泉駅から上田の現状を見るフィールドワークの時間を使いほとんど行ったことのなかった別所温泉駅へと出向いた。ほかの別所線駅との違いとして、上田駅以外にはトイレなどはなく最低限の椅子しかないところが多い。しかし別所温泉駅は駅にトイレもあり、観光案内所やしっかりとした待合室が備えられていた。また、歓迎を表す置物や旗が、さらにはレンタル自転車まで置かれており電車を利用したお客さんにとってはかなり素晴らしいのではないかと思った。しかし、別所線でこのレベルなのはここと上田駅だけなのでほかの駅の質素さも目立ってしまうと感じた。2021-12-20
41柳町散策 柳町散策 柳町散策も終盤になるとある小さい橋と川についた。そのときはここが何という橋で何という川かわからなかったが、調べてみると「神宮橋」「矢出沢川」というらしい。2021-12-20
42柳町散策② ルヴァン柳町散策② ルヴァン天然酵母によるパン作りをしている「ルヴァン」。Instagramでよく見かけていたお店が柳町にあることを知らなかったので、見つけた際はテンションが上がってしまった。 スコーンを食べたがカラントが入っていてとても美味しかった。お店の方からおまけでパンもいただいて幸せだった。2021-12-20
43柳町散策① 柳町屋柳町散策① 柳町屋柳町を進んでいくと赤いのれんが目を引く「柳町屋」というお店を発見した。上田ブランド研究所のラボショップだそうだ。そこでアップルたまごタルトを購入した。軽食にぴったりでとっても美味しかった。2021-12-20
44自慢焼きの歴史自慢焼きの歴史上田市の名物の1つである自慢焼き。上田市民で食べたことがある人や知っているという人は結構な数がいると思います。それがいつからできて、どのように有名になったのかが気になったので調べようと思いました。 実際に自慢焼きを買ってみて写真をアップしたり、自慢焼きのルーツは何かを簡単にまとめたいと思います。 出来たら自慢焼きを実際に作っている映像をリアルタイムで配信しているサイトのURLも貼れたらいいと考えています。2021-12-20
45上田市の映画館上田市の映画館 私は「上田市の映画館」を地域探求テーマにして探求していきたいと考えている。  なぜならば、情報通信文化論の授業中に触れた「上田市街明細図」に上田劇場や上田電機館などの施設が載っていたが、ネットで調べて見てもどのような歴史があったのか、どのような作品が上映されていたかが不明瞭だったため、調べて見たいと感じたからである。  このテーマを探求し、上記の上田劇場の他にどのような劇場があったのか、どのような作品が見られていたかのアウトプット化を行っていきたいと考えている。  調べ方については、上田市内の図書館へ赴き資料の閲覧を主に行い、現在も残っている施設に関しては、直接足を運ぶことも視野に入れて探求していきたい。2021-12-20
46サントミューゼサントミューゼ上田駅から10分ほど歩き、サントミューゼを訪れた。驚きであったのは、複合型文化施設であるということだ。演劇や演奏が行われるホールもあれば、美術館もある。他にも、普段から市民が利用できるような防音室や個室があった。ここに来れば、文化的経験ができると思わせてくれる場だった。芸術ふれあい事業など地域の文化活動の活性化にも貢献しているようだった。また、外は芝生の広場になっていて、ボール遊びをする人、ごはんを食べる人、何かをノートに書いている人がいて、いろいろな過ごし方をしていて、面白いと思った。2021-12-19
47「西塩田時報」から見る戦時期の上田「西塩田時報」から見る戦時期の上田探求テーマ選択理由:個人的に歴史関連の授業で戦争について学んでいる事もあり、戦争下で生きていた人々の足跡に興味を引かれている。そして先日「西塩田時報」を読んだとき、戦争に関わる内容が多いと感じた。当文献を用いたこの探求テーマなら、自らの興味を満たす調査が行えるのではないかと思ったため。 探求内容:戦前・戦後の人々の生活を表す記事をいくつかピックアップし、自らの所感を述べていく。 調査に用いる資料:「西塩田時報」2021-12-19
48呉市の歴史呉市の歴史地元である呉市は、日本でも数少ない軍港であり、かつてはとても栄えており、昔の貴重な資料や、町の良さを投稿することで、多くの人に見てもらうことができると考え、テーマに選んだ。 軍港としての街ということを中心的に探究していきたい。2021-12-18
49仙石氏と松平氏の歴史仙石氏と松平氏の歴史 仙石氏は三代から五代目の上田城の城主を務めました。三代目城主の仙石忠政が関ヶ原の戦い後に破却された上田城を再建させ、現存する西櫓もこの時に建てられた貴重なものとなっています。  松平氏は六代から十二代目までの城主を務めました。その間実に160年余りであり、上田城の歴史の半分以上が松平氏が治めていたことになります。主に千曲川の洪水によって破損したがけの石垣の設置や、地震による石垣と櫓の修復工事などが行われていました。2021-12-17
50柳町柳町 上田城築城とともに作られた城下町であり、旧北国街道沿いの江戸時代のころからの面影が残る街並みになっています。現在ではお酒や味噌などのご当地名産品を扱っている店が多くあります。上田城から歩いて10分ほどの距離のため、お城への観光のついでに寄ってみるのもいいでしょう。2021-12-17
51県道178号はなぜ冬季通行規制がされないのか県道178号はなぜ冬季通行規制がされないのか冬の山道は通行規制がされる場合もあるし、されない場合もある。 その違いは何だろうか。 規制は降雪による雪崩や落石の危険や、事故が起こる可能性が高くなるなど、交通の危険防止のために行われる。 県道178号がビーナスラインや美ヶ原公園西内線のように規制が行われない理由を考察してみた。 全ての道を走行してみて分かることは、道の狭さこそあれ178号が美ヶ原まで最短で登れる、かつキツいカーブが少ない道であることが分かった。 地図で178号と他の道を見比べてみると一目瞭然だ。 観光資源としての美ヶ原へのアクセスのため、相対的に危険の少ない道を通れるようにしているのだろう。2021-12-17
52雪の山道雪の山道雪の降る山道では、しばしば枝が落ちていたり、木が折れたりしている。 なぜでしょう? それは雪が積もり、その重さで折れてしまうから。 前の記事のように重たい雪がこびりついてしまうから無理もない。 道路上には小さい枝や、写真のような中くらいの大きさ、さらにはもっと大きなものも。 山道を運転する際はこれらにも気を付けたい。2021-12-17
53冬の美ヶ原冬の美ヶ原一面の銀世界に圧倒されてしまう、雪の美ヶ原。 空気もより一層澄んでいるように感じる。 トレッキングシューズでも意外と歩きにくい。 雪は硬めでずっしり感があり、木も雪がこびりついて重そうだ。 広大な美ヶ原で一人お昼を食べる、新鮮な体験もできた。 雪道を走れる自信がある人は防寒対策をしっかりして、冬の美ヶ原を訪れてほしい。 現地でしか味わえない自然の美しさに圧倒すること間違いなし。2021-12-17
54ビーナスラインへビーナスラインへ県道178号を登りきると、冬季通行規制のかかっていないビーナスラインにぶつかる。 除雪がしてあるので、比較的安心して通行ができる。 しかし、端に雪がたまっており、通常より狭くなっているので注意。 昼間でも一部凍結路面もあり。2021-12-17
55凍りの178号凍りの178号美ヶ原に向けて上っていくと、いよいよ冬らしい道になってきた。 こんな道でもよく走れる、スタッドレス様様だ。2021-12-16
56すずらんの滝?すずらんの滝?県道178号沿いにあるらしい滝。 後から滝があることを知ったが、もしかしてこれのことだったのかな? 岩がゴロゴロしている野々入川は見られた。2021-12-16
57長野県道178号長野県道178号長野県道178号は冬季通行規制の無い道路だ。 この道は通行規制の無い分部のビーナスラインにつながっており、冬でも美ヶ原にアクセスすることができる。 道は広いところもあれば、幅員が狭い場所もある。 狭いブラインドカーブでは対向車が来ないか特に注意が必要だ。2021-12-16
58民主化は先ず家庭から…(『西塩田公報』第35号(1950年3月5日)4頁)民主化は先ず家庭から…(『西塩田公報』第35号(1950年3月5日)4頁)世間は民主化が進んできているが、家庭内では夫が妻に対して亭主関白ぶりを発揮している様子が見て取れる。 自分でできることは自分でやる、そうすることで双方にとって無駄な労力の消費を防ぐことができると述べられている。 現代の社会でも同様に言う事が出来、家庭内だけではなく学校や会社の中でも同様だろう。 ▼この記事は以下から参照できます。 #1082 『西塩田公報』第35号(1950年3月5日)4頁2021-12-16
59草木染の仕方(『西塩田時報』第132号(1934年11月1日)2頁)草木染の仕方(『西塩田時報』第132号(1934年11月1日)2頁)この記事は草木染の復興の経緯と染色手順が記されている。手染の良さや使う草木によって染まり方の違いが細かく書かれている。 手染は確かに手間がかかるが、その分自分好みの味わいのある素敵なものができる。また使う草木によってこんなにも色合いのバリエーションがあることに驚いた。実際に自分も行ってみたいと感じた。 ▼この記事は以下から確認できます。 584 『西塩田時報』第132号(1934年11月1日)2頁2021-12-16
60親の愛(『西塩田時報』第117号(1933年8月1日)4頁)親の愛(『西塩田時報』第117号(1933年8月1日)4頁)この記事は親は我が子の欲望をどれだけ叶えてあげられるのかが話題になっている。それは子供が成長するにつれて難しくなってくると書かれている。 子供が愛されているという前提で書かれていたが、今日では親が子供を虐待といった問題も多く考え方が変わるのではないか。こういった今と昔の考え方の違いが面白いと感じた。 ▼この記事は以下から参照できます。 520 『西塩田時報』第117号(1933年8月1日)4頁2021-12-16
61団体の規則(『西塩田時報』第74号(1930年1月1日)1頁)団体の規則(『西塩田時報』第74号(1930年1月1日)1頁)塩田地区の団体の規則を見ることができます。その当時にあったもので、とても興味深い内容になっています。 ▼この記事は以下から参照できます。 『西塩田時報』第74号(1930年1月1日)1頁2021-12-15
62鍛冶屋の仕事~鉄とくらし鍛冶屋の仕事~鉄とくらし当時の町や村には、それぞれ必ず1軒か2軒の鍛冶屋があった。 そこでは、鍬、鋤、鎌などの農具や斧、蛇包丁などの日用品がつくられていた。この鍛冶屋は、野鍛冶ともいっていた。 鍛冶屋では、新しいものをつくるだけでなく、古くなって刃の減ったものを鍛えなおして再び使えるようにする先掛けも行っていた。 鍛冶屋で何度も再生された鉄製品を当時の人は最後まで大切に使った。2023-05-06
63鍛冶職人の世界鍛冶職人の世界鍛冶職人を集めて住まわせた上田の鍛冶町では、1706年の記録によると、32軒の鍛冶屋があった。それが、明治末には半数以下に減少してきた。 一人前の鍛冶職人になるためには、親方のところに弟子入りして、一定の年季をかけて修行した。これを徒弟制度といいい、親方は弟子に厳しく技を仕込んだ。 鍛冶町の鍛冶屋では、桑こき、稲こきや馬耕用の犂先なども生産したが、回して開ける柏錠もよく作られた。2021-12-15
64店の様子店の様子商家は営業の場である見世があり、その奥が居住の場となっていて、職住一体の構造だった。 呉服商の見世には帳台が置かれ、その奥に縮緬、紬などの絹織物、メリンスなどの毛織物、太物(木綿類)などの反物や帯を納める商品収容棚があり、伊達衿、帯揚、足袋などの小物類は土間に設けられた台に並べられ営まれていた。夜遅くまで店は開けられていて、笠つきの白熱電燈が何本も天井から吊り下がり、畳敷きの座売りの店内を明るく照らした。2023-05-06
65電力危機突破について『西塩田時報「戦後」』第10・11号(1947年11月30日)1頁電力危機突破について『西塩田時報「戦後」』第10・11号(1947年11月30日)1頁戦後間もない時期の深刻な電力不足に陥ってる状況がとてもよく分かる記事です。2021-12-15
66大相撲『西塩田時報』第3号(1923年11月30日)3頁大相撲『西塩田時報』第3号(1923年11月30日)3頁幼い頃から相撲が好きなため、当時の相撲について興味をもたから。2021-12-15
67上田における交通の2大生命上田における交通の2大生命上田における交通関係において車と電車って便利に動くなら欠かせないですよね。別所線が無くなったらものすごく困るみたいな人も多いんじゃないでしょうか。 これって欠かせないよねっていう要素がある状態の時、つまりそれを利用する人が割合で見ると多いんだと思います。 つまり、少なからずそれが何かしらの危機に陥ったとき「守ろう」という連帯感が生まれる根源になるとも言えます。 実際、鉄橋が被害を受けたとき(その時ここにはいなかったので現地がどうだったかは分かりませんが)、端から見てる分には重要な要素なんだなっていうのが伝わるぐらい連携しているように見えました。 血液というか血管というか、そういった循環器的な役割が確立されているとそこを中心に施策を考えたり出来る、つまりベースが定まっているので2021-12-15
68キャラクターがいると魅力的に感じるキャラクターがいると魅力的に感じる別所線のキャラクターの「北条まどか」さんってちゃんとストーリーがあるみたいですね。僕は最初見たとき、あんまり言い方は良くないと思うんですけど看板として使われてる存在なのかなって思いました。 でもちゃんと調べてみるとしっかり練られたストーリーと立ち位置があるみたいですね。 長いのでここでは割愛しますがウェブで見られる絵本的なものもあるみたいですよ。 さて、このようなキャラクターがいることでどのような効果があるか。一瞬は目をとめますよね。さらに、ちょっと調べてみようってなったらその地域資源についても触れるきっかけになりますよね。そうやって輪を広げていくための役割を担えるのがキャラクターだと思っています。 ただ、ちょっと残念だなと思ったのが物語に触れるきっかけがあんまし見当たら2021-12-15
69「赤い鉄橋」「赤い鉄橋」今回はあの別所線の上田から城下間を結ぶ「赤い鉄橋」について書いていこうかなと思っています。 僕の印象では別所線の区間の一部という認識では無く、もう独立した名所という印象を受けています。 そう印象づけた原因はついこの間まであの橋は使えない状態だったのに別所線は運行していたからな気がします 豪雨によって被害を受けてしまった橋ですが、別所線は交通における車に並ぶ人権といっても差し支えないと思います。その一部が通れなくなりましたがなんとか復活してココだけがピックアップされたような状態の時にこっちに僕は来たもんですから、それがファーストインプレッションとしてすり込まれたんでしょうね。 たまにアリオに行くんですが、時々橋の写真を撮ってる人を見かけるのでそこそこの人気もうかがえます。2021-12-15
70人が集まれる大きな施設人が集まれる大きな施設突然なんですけどサントミューゼってすごいいいですよね なんでかっていうと、入学式だったりで人を大勢入れられるキャパシティがあるから。 僕も入学式と講義で何度かお邪魔させていただいたんですが、大ホールの他にスタジオだったり練習室だったりいくつも部屋があるんですよね しかも美術館も併設されてるから何度行っても飽きることが無い場所ですよね 集まれる場所って、一体感が生まれたり、そこを中心に網が広げるみたいなことが出来る「拠点」的な役割を果たしてくれると私は考えているので、地域資源の中で実は「建造物」っていうカテゴリでくくるなら城とかよりも重要な位置づけにあるんじゃないのかなって最近は思ってますね。2021-12-15
71農家恐慌の実態(『西塩田時報』第1号(1934年10月1日)4頁)農家恐慌の実態(『西塩田時報』第1号(1934年10月1日)4頁)この記事は、面白いというより読んでいて当時の農家の実態のひどさが印象に残ったから選んだ。 私たちは、様々な恐慌についても、過去の出来事として学んでいるがここに書かれたものだと、現実味があって当時の苦労していた様子がリアルに伝わってきた。 馬鈴薯を主食にして1日に一回位の米粒を口にするものは上乗とされているとか、僅かな塩で飢えを充たしているとか。このような時代があったことを知っておく必要があるし、みんなに読んで欲しいと思った。 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0579.jpg2021-12-15
72ビタミンの話(『西塩田時報』第5号(1946年12月25日)4頁)ビタミンの話(『西塩田時報』第5号(1946年12月25日)4頁)「ビタミンの話」というあまり見かけない話題にまず惹かれた。 記事の下には6種類のビタミンが表で示されている。書かれている食材が昔っぽいのもまた面白いなと思うし、すごく細かく詳しく書かれているので、きっとこの記事が役に立ったんだろうなと感じた。 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0973.jpg2021-12-15
73ルヴァン信州上田店ルヴァン信州上田店天然酵母パンの先駆けとして有名なお店。暖かい色の照明で照らされた店内は、お店というより工房のようで、どことなくホッとするような雰囲気。今回はスコーンをいただきました。ナッツとベリーが入ったシンプルなスコーンでしたが、とてもおいしかったです。おまけにつけていただいたパンも天然酵母ならではの味わいでした。2021-12-03
74民主政府は総選挙で(『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁)民主政府は総選挙で(『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁)この記事には、戦後の当時の選挙に対するとてもあつい雰囲気がうかがえる。「私たちが幸福になるためによく考える」という点は今でも変わらないものだ。 ▼この記事は以下から参照できます #985 『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁2021-12-15
75柳町柳町市街地に突如として現れる、古風な街並み。北国街道柳町です。歴史を感じる建物が連なるこの通りは実はグルメストリート。どのお店も派手な看板があるわけではありませんが、ゆっくり歩いて、自分で素敵なお店を探し出すのも楽しいかもしれません。2021-12-03
76「上田市の主な工業」はじめに「上田市の主な工業」はじめに本記事では上田市の工業の特徴を探るべく、上田市内の企業をいくつか取り上げたうえで、その傾向を考えていきます。 ※掲載企業は「上田市に本社を持つ」「上田市に主力工業を置く企業」の中から投稿主の裁量で選択したものです。調べきれず掲載できない企業が多くありますが、これらの企業を主要ではないとして貶める意図はありませんので御了承ください。2021-12-15
77震災の日震災の日ただ震災後の村の状況を淡々と伝える訳でもなく、語り手口調でその場の状況を生々しく伝えているのが、読み手に興味を引かせるので良いあり方だと思った。2021-12-15
78家庭メモ(『西塩田時報』第73号(1953年10月5日)4頁家庭メモ(『西塩田時報』第73号(1953年10月5日)4頁当時の法務省民事局参事官平賀健太氏が講義を行った「戸籍」についての記事である。 戸籍の話から住民票や選挙権、戦没者の身分証明に至るまで、戸籍の重要性を講義している。 戸籍の届け出が正確ではなかった当時の様子がうかがえる内容である。 ▼この記事は以下から参照できます。 #318 『西塩田時報』第73号(1929年12月1日)4頁2021-12-15
79農民への問いかけ農民への問いかけ地元の農民に対して役人に搾取される人生で良いのかと、もっと考えながら生きた方が良いと問いかけていたのが、面白かった。 ▼この記事は以下から参照できます。 『西塩田時報』https://d-commons.net/admin/content_edit.php?id=5840#photo_gallery2021-12-15
80『農村女性のあり方』(『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)2頁)『農村女性のあり方』(『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)2頁)農村で働く女性の扱われ方、女性という立場の不自由さが赤裸々に述べられている。 これからの社会では、もっと「男女平等」を図っていかなければならないということを訴えかけており、令和の今でもよく取り上げられる問題が、戦後のこの時代から問題視されていたのだと思うと考え深い。2021-12-14
81「銃後の完璧 体位向上の秋!本団体育大会 見よ堂々の戦華を」(『西塩田時報』第190号(1939年10月1日)1頁)「銃後の完璧 体位向上の秋!本団体育大会 見よ堂々の戦華を」(『西塩田時報』第190号(1939年10月1日)1頁)当時行われた体育大会の結果の様子を掲載した記事。全体的な種目は現代とほぼ変わらないが、中には「手りゅう弾投げ」のような非常に軍事色のある種目も行われ、競い合っていたことが分かる。このようにスポーツにおいても戦争の色が濃くなっていることが示されている記事を地域ニュースとして保存されているのは歴史的に非常に価値があり、次世代への教訓にもなると感じた。2021-12-14
82『衛星メモ』(『塩田田時報』第15号(1948年5月25日)1頁)『衛星メモ』(『塩田田時報』第15号(1948年5月25日)1頁)本記事では家庭の雑学のようなものがいくつか取り上げられている。 現代なら検索すればすぐに得られるような知識であるが、当時の人々からはこういった豆知識のようなものが重要だったのかもしれない。 ▼この記事は以下から参照できます。 #1015 『西塩田時報[戦後]』第15号(1948年5月25日)1頁2021-12-14
83家庭の改造と女性の地位(『西塩田時報』第2・3号(1947年3月10日)2項)家庭の改造と女性の地位(『西塩田時報』第2・3号(1947年3月10日)2項)この記事は、この時代までの男尊女卑の風潮を批判したものである。 この記事が発行された前年に女性は参政権を獲得したものの、女性の立場は家庭内や社会でほとんど変わっていない、というということが読み取れる。 現在の様子との違いをとても感じさせられる文章だった。 ▼この記事は以下から参照できます。 #980 『西塩田時報[戦後]』第2・3号(1947年3月10日)2頁2021-12-14
84「青少年学徒に賜りたる勅語」(『西塩田時報』第190号(1939年9月1日)1頁)「青少年学徒に賜りたる勅語」(『西塩田時報』第190号(1939年9月1日)1頁)昭和天皇の勅語を掲載した記事。この前年に国家総動員法が発令されたことがあり、これを含めて戦争一色となっていることがわかる。また、この日はドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発した日であり、欧州においても戦乱が広がり始めることになるが、それ以前よりこのようにあらゆる分野の記事で挙国一致、戦時体制の確立を訴えていることは、日中戦争がいかに長期化していったことを示すものだと考えられる。2021-12-14
85入學前の家庭教育に就て(『西塩田時報』第1号(1947年1月25日)2頁)入學前の家庭教育に就て(『西塩田時報』第1号(1947年1月25日)2頁)初等科一年生を受け持つ先生が保護者へ向けて書いた、入学前までにできるようになっていてほしいことを示したもの。カタカナの読み書きの習得から毎朝顔を洗うなんてことまで書かれている。 今の新聞ではあまり見られない記事で、当時と今の新聞の在り方の違いが感じられる。 さらにタイトル横の“父兄の皆様”という言葉も最近は聞かなくなったなと。 ▼このページは以下から参照できます。 #976 『西塩田時報[戦後]』第1号(1947年1月25日)2頁2021-12-14
86卒業生名簿(『西塩田公報』第47号(1951年3月10日)2頁)卒業生名簿(『西塩田公報』第47号(1951年3月10日)2頁)この記事は、当時の卒業生の名前が書かれており、しかもフルネームである。 現代の学校では名簿を世間に出すことさえも厳重な取り扱いを求められているが、この時代には時報に載っている。 個人情報保護などは考えられていなかった時代ならではの記事で面白いと思った。 ▼この記事は以下から参照できます #1124 『西塩田公報』第47号(1951年3月10日)2頁2021-12-14
87児童の体格について(『西塩田時報』第2号(1923年9月1日3頁))児童の体格について(『西塩田時報』第2号(1923年9月1日3頁))この記事は当時の児童の体格について書かれている。また、日本全国と長野、西塩田小学校の3つの児童の体格の平均が比較されている。比較した後に、身体の発達に家庭でも一層のご注意を、などといった文面も見受けられる。 現代においても、このような記事を目にすることは多いのではないか。当時の記録がデータとしてしっかり残っている点が興味深かった。 ▼この記事は以下から参照できます #7 『西塩田時報』第2号(1923年9月1日)3頁2021-12-14
88「西塩田時報」13号(1948年3月25日)1頁「西塩田時報」13号(1948年3月25日)1頁自分は企業情報学にいるため新聞業の規範というタイトルに興味を持った。新聞業の人間が持つ責任や義務、その他の教訓のようなものが長々と書かれていた。自分たちも近代になり誰でも莫大な量の情報を扱えるようになった以上、見習うべきことや考えさせられることがあると感じた。#59 『西塩田時報』第13号(1924年12月1日)1頁  この記事は以下から参照できます2021-12-14
89「西塩田時報」第4号(1946年11月25日)2頁「西塩田時報」第4号(1946年11月25日)2頁「武士道は死ぬことと見つけたり」という有名な言葉が目にとまり、その後のこの言葉をオマージュしているのを見てとても興味をそそられた。ことわざと実数値を使い食事という者の重要性をとき、人間的な生活の成立を軸に記事が立てられている。食事という行為について考えさせられる記事だ。#16 『西塩田時報』第4号(1924年1月1日)2頁2021-12-14
90さよなら「西塩田公報」過去の苦楽もまたなつかしい(『西塩田公報』第104号(1956年5月5日)4頁)さよなら「西塩田公報」過去の苦楽もまたなつかしい(『西塩田公報』第104号(1956年5月5日)4頁)この記事は西塩田時報の最終刊の投稿である。 西塩田時報が地域で長く親しまれ人々に影響をどれだけ与えてきたのかが分かる内容だった。 西塩田時報がどれだけ優れた公報だったのか、どのような苦労や地域との関わりがあったのか読んでいてとても面白かった。 最終刊にあたり長く親しまれてきた公報が戦争を受けた言論統制以外での理由で廃刊を受けた人々の惜しい気持ちが当時の西塩田時報の立ち位置を示しているようで興味深かった。 ▼この記事は以下から参照できます。 #1346 『西塩田公報』第104号(1956年5月5日)4頁2021-12-14
91火鉢を囲んで (『西塩田時報』第4号(1924年1月1日)4頁)火鉢を囲んで (『西塩田時報』第4号(1924年1月1日)4頁)この記事は人間にとって幸福とは何かについて文化生活論的な内容が小説のように書かれていた。 少々哲学的な内容に感じたが戦争が現在よりかは身近な時代に人々の争いについてどのように考えるのか記述があり、とても興味の引かれる内容だった。 人間にとっての幸せとは何なのか、どのような自覚を持つべきなのか考えさせられる文だった。 ▼この記事は以下から参照できます。 #24 『西塩田時報』第4号(1924年4月1日)4頁2021-12-14
92ビタミンの話(『西塩田青年団報』第5号(1946年12月25日)3頁)ビタミンの話(『西塩田青年団報』第5号(1946年12月25日)3頁)記事では、ビタミンは人間が生きていくうえで不可欠な物質であるとした上で、摂取すべき食材が各ビタミンごとに示されている。 ビタミンB1不足によって起こる脚気はかつて国民病であったというが、戦後になって知識が広まり、食料不足も次第に解消されたことで、ようやく解決に向かったのだろう。 ▼この記事は以下から参照できます。 #973 『西塩田青年団報』第5号(1946年12月25日)3頁2021-12-14
93通知表の見方に就いて(『西塩田時報』第35号(1926年10月1日)3頁)通知表の見方に就いて(『西塩田時報』第35号(1926年10月1日)3頁)通知表の評価についての小学校からの説明である。 「うちの子の評価がいつもより低いのはどうしてだ」というクレームを受けての記事だという。 しつこい保護者はこの時代にもいたんだなと思った。 ▼この記事は以下から参照できます。 #31 『西塩田時報』第5号(1924年6月1日)3頁2021-12-14
94かつての成人の願い(『西塩田時報』第78号(1930年5月1日)3頁)かつての成人の願い(『西塩田時報』第78号(1930年5月1日)3頁)コラムを書いた筆者が、戦争の傷が残る子ども時代に見た大人の世界は、 生きるために血眼で戦う醜い世界。 そんな時代の先で彼が望んだのは、何か世の中の役に立つ人間になることだった。 生きるために戦うことの醜さを知らない現代の日本の大人たちは、 戦いの時代になったら、彼にとっての醜い大人になってしまうのだろうか。 私は世の中の役に立つ大人になりたいとは思うものの、そういう人にならない確証は無い。 なるべく避けたいものだなと思った。 現代では多分考えないだろうこの価値観が面白いと思った。 ▼この記事は以下より参照できます #337 『西塩田時報』第78号(1930年5月1日)3頁2021-12-14
95靑年團廻れ右!軍隊化を目指す文相新體制案 (『西塩田時報』第203号(1940年10月1日)1頁)靑年團廻れ右!軍隊化を目指す文相新體制案 (『西塩田時報』第203号(1940年10月1日)1頁)この記事は、政府が地方を把握しきれていないと批判し、改善を提案している。 国民を機械にすることが新体制であるとまで言っており、日本が強くなる過程で国民が政府に絶対服従することは容認しつつ、逆に政府も完璧であることを求めているところが興味深い。 ▼この記事は以下から参照できます。 #907 『西塩田時報』第203号(1940年10月1日)1頁2021-12-14
96禁酒(『西塩田時報』第1号(1923年7月1日)4頁)禁酒(『西塩田時報』第1号(1923年7月1日)4頁)「禁酒」という分かりやすいタイトルのもとに、健康のために禁酒をしましょう的な真面目な勧告文が書かれているかと思えば、今でいうラップのように韻を踏んでいる唄なのである。内容は禁酒を進めるものであるのだが、酒飲みをこれでもかとディスっている。ふざけているように見えるが、実際に堅苦しい文章よりも読み進めやすく、タイトルもデカデカと「禁酒」の2文字で目に留まりやすい。意外と考えられている記事なのかもしれない。 ▼元記事はこちら  https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0004.jpg2021-12-14
97農村 (『西塩田時報』第108号(1932年11月1日)1頁)農村 (『西塩田時報』第108号(1932年11月1日)1頁)これは農村の困窮についての記事です。時報のなかでもかなり新しいもので、農村で暮らす庶民のリアルな生活が書かれています。こういった時代のなかでも、より暮らしやすい世を目指すために声を上げる人がいるからこそ今の世があるのだと思いました。こういった姿勢を失わないようにしていきたいです。2021-12-14
98雪國 (『西塩田時報』第27号(1926年2月1日)4頁)雪國 (『西塩田時報』第27号(1926年2月1日)4頁)これは長野県の新聞社主催のスキー講習会の記事です。スキー自体は戦前からあったものと知っていたのですが、大正時代から今現在まで長野県で有名なスポーツとして楽しまれていることに文化としての完成度の高さを感じました。また、長野県も雪國としてふさわしい地なのだと思います。2021-12-14
99働くものが幸福になる! 民主政府は總選擧で 總選擧に當り國民はいかにその貴き一票を行使するか?聞け!!村民の血の叫びを!(『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁)働くものが幸福になる! 民主政府は總選擧で 總選擧に當り國民はいかにその貴き一票を行使するか?聞け!!村民の血の叫びを!(『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁)選挙において、よく考えて投票することを呼びかけている。 よく調べずに「名前を聞いたことのある人だから」という理由だけで投票してしまったことがあるので、とても身に沁みる。自分の一票が政治を変えるのだとよく意識して投票するべきだと感じた。 この記事は以下から参照できます。 #985 『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁2021-12-14
100もつとほしい豫算(『西塩田時報』第30号(1949年9月20日)2頁)もつとほしい豫算(『西塩田時報』第30号(1949年9月20日)2頁)記者の先生に対するインタビュー記事である。 戦前に比べて生徒たちの主体性を育むための授業が行われ始めたと分かる。教室内が明るく感じたものの、記者の印象としては生徒が授業中に話すことは室内の秩序が乱れていると感じたと分かる。2021-12-14
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