| 写真 | タイトル | 説明 | 登録日 |
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1 |  | 太田水穂 | 太田水穂
歌人。
広丘村(現塩尻市広丘原新田)生まれ。
本名貞一。
長野師範に進学、島崎藤村に傾倒する。島木赤彦(久保田俊彦)とは同級生であった。
卒業後、革新和歌団体「この花会」を和田の地に結成し、松本平を支配する保守的桂園歌人に対抗して信州文壇に大きな刺激を投じた。この時、窪田空穂と親交をもつ。
明治41年上京、大正四年歌誌「潮音(ちょうおん)」を創刊し、歌人、研究者の道を歩む。象徴的観想の作風。「短歌のふるさと塩尻」の中心人物の一人。
引用:長野県塩尻市公式ホームページ(https://www.city.shiojiri.lg.jp/soshiki/64/3840.html) | 2023-02-07 |
2 |  | 島木赤彦 | 島木赤彦
歌人。
上諏訪町(現諏訪市)生まれ。
本名久保田俊彦。
長野師範卒業後、明治42年に広丘尋常高等小学校長として赴任。在職中に広丘歌会(広丘アララギ短歌会)を開き、中原静子らを育成する。
早くから伊藤左千夫に傾倒し、「馬酔木」(あしび)に参加し、左千夫の死後上京して「アララギ」の編集を担当し、斎藤茂吉・中村憲吉らと写実主義「アララギ」を歌壇の中核に高めた。
歌集に「馬鈴薯(ばれいしょ)の花」等があり、寂寥感(せきりょうかん)の漂う写実的な作風。下諏訪町に赤彦記念館がある。
引用:長野県塩尻市公式ホームページ(https://www.city.shiojiri.lg.jp/soshiki/64/3836.html) | 2023-02-07 |
3 |  | 信州大学 繊維学部 講堂 | 中には入っていないが、素敵な講堂を見つけた。
これは、信州大学繊維学部の前身である上田天蚕専門学校の講堂である。この講堂の特徴は、蚕糸のシンボルである桑・繭・蛾が各所に意匠として付けられている点である。口の天井の換気口には繭と蛾、ステージの柱には桑、アーチ の縁飾りには蛾と桑、演台には蛾と繭、脇台には桑が使われている。映画のロケ地としても使われている。
参考文献
「信州シルクロード」より
https://shinshu-silkroad.jp/%E4%BF%A1%E5%B7%9E%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E7%B9%8A%E7%B6%AD%E5%AD%A6%E9%83%A8%E8%AC%9B%E5%A0%82/ | 2023-02-06 |
4 |  | 元旦の広告欄 | ページ全体の2/5が別所温泉 花屋ホテルの広告となっている。
#16 『西塩田時報』第4号(1924年1月1日)2頁 | 2023-02-05 |
5 |  | これでも大阪市 | 古い民家が並ぶ私の地元 | 2023-02-05 |
6 |  | 娘義太夫 | 娘義太夫の竹本京子と京枝
山本松谷(1870 - 1965) - 『風俗画報』明治32年3月号(185)(『ビジュアルワイド明治時代館』p.255 収録) | 2023-02-05 |
7 |  | 鵜殿石仏群 | 佐賀県唐津市相知町にある磨崖石仏群。
806年に空海が唐からの帰国の際に立ち寄り、「弥陀」、「釈迦」、「観音」の三尊を刻んだとされている洞窟跡。(この三尊は現存はしていない)
岩壁に南北朝時代の作と推定される石仏、十一面観音、多聞天、持国天など大小58体の磨崖仏が穿たれている。
主窟右側には、胎内くぐりがあり大日如来が刻まれている。
1956年3月に佐賀県の史跡に指定。 | 2023-02-05 |
8 |  | 別所温泉 北向観音 まめまき | 北向観音では豆まきの行列が本坊常楽寺を出発する。芸能人や七福神、鬼も加わっての道中となる。観音堂で法要の後、福引き入りの豆やサインボールが投げられる。
引用元
Ueda City Database ( 2690054) https://museum.umic.jp/johogura/bessho/2690054/2690054.html | 2023-02-04 |
9 |  | 「藤本蚕業アーカイブ構築」を振り返って | 私はこの一年間地域資料のデジタルアーカイブ活動を行い、活用機会が無い地域資料の撮影とネット上の公開をしました。その中で藤本蚕業アーカイブについて紹介します。
藤本蚕業アーカイブは藤本蚕業歴史館史料をネット上に公開するアーカイブであり、かつて蚕の卵である蚕種の日本最大製造地であった上塩尻の中心であった佐藤家(藤本蚕業)所蔵の史料を扱っています。歴史館では蚕種にとどまらず歴史、文化、地理に関わる文書・書籍も多く有しており、アーカイブでも見ることが出来ます。私は当アーカイブにおいて主に史料の撮影、記事の投稿を担当しました。
実際の資料を紹介します。
1925年11月に発行された上田市図書館報第三号では、最も興味深い点として新刊の発表に法学系冊子を真っ先に乗せている点で、大正デモクラシ | 2023-02-03 |
10 | ![実践講座2:地域資料のデジタルアーカイブ化講座[第2回] 実践講座2:地域資料のデジタルアーカイブ化講座[第2回]](https://d-commons.net/upload/4/616/thumbnails/054431.jpg) | 実践講座2:地域資料のデジタルアーカイブ化講座[第2回] | 【講座タイムテーブル】
ゲスト出演:朝倉久美さん(デジタルアーキビスト)
第2回 2月5日(日) 10:00~16:00 地域資料デジタルアーカイブの構築に向けて
10:00 はじめに
10:30 地域社会におけるデジタルアーカイブの課題
11:00 地域アーカイブサイト参照
(12:00 休憩)
13:00 地域デジタルコモンズ「信州上田デジタルマップ」
14:00 ミニ実習
(14:20 休憩)
14:30 デジタルアーカイブ構築の企画立案・実践・Q&A
16:00 終了
【オンデマンド】著作権と権利処理
資料の分類とメタデータ
★オンデマンド講座
・資料の分類とメタデータ 30分
・著作権と資料の権利処理 30分 | 2023-02-03 |
11 | ![実践講座2:地域資料のデジタルアーカイブ化講座[第1回] 実践講座2:地域資料のデジタルアーカイブ化講座[第1回]](https://d-commons.net/upload/4/616/thumbnails/054426.jpg) | 実践講座2:地域資料のデジタルアーカイブ化講座[第1回] | 【講座タイムテーブル】
ゲスト講師:小平千文さん(上田小県近現代史研究会会長)、桂木恵さん(同事務局長)
10:00 講座のねらいと概要
10:15 藤本蚕業歴史館・概要
10:30 藤本蚕業歴史館・バックヤード資料見聞
11:00 藤本蚕業の資料整理をふり返る
(12:00 休憩)
13:00 資料整理の課題と方法、資料目録の作成~藤本蚕業所蔵資料を例に~
(14:20 休憩)
14:30 受講者の皆さんのデジタルアーカイブ構築課題を聴きあう
16:00 終了
▼参考サイト
本講座では次のアーカイブサイト構築をモデルケースとしてご紹介いたします。
藤本蚕業歴史館アーカイブ(史料目録) https://d-commons.net/fujimoto-index/
藤本蚕業アーカイブ(デジタル化資料) https://d-commons.net/fujimoto-arch/
▼実習用サイト
みんなでつくる信州上田デジタルマップ https://d-commons.net/uedagaku/ | 2023-02-03 |
12 |  | あんかけ焼きそば | 中華料理の定番メニューとして知られているが、上田市に訪れたときは一度は食べておきたいご当地グルメ。 蒸した中華麺を油で焼きつけるようにして炒めるか、油で揚げたものの上に、肉や魚介、野菜などを炒めて、調味料やスープ、片栗粉を加えて作った餡をかけたものである。上田市であんかけ焼きそばが有名な店として「日昌亭」「福昇亭」などが挙げられる。
引用元https://d-commons.net/uedagaku?c=&p=10786
https://mecicolle.gnavi.co.jp/report/detail/5785/ | 2023-02-01 |
13 |  | おやき | 「おやき」は、小麦粉と蕎麦粉を水または湯で溶いて練り、薄くのばした皮にあんや野菜など旬のものを包み焼いたもので、信州を代表する郷土料理。 地域によっては「やきもち」とも呼ばれる。平成21年10月に、おやき事業者20社により「信州おやき協議会」が設立され、信州おやきの文化を守り発展させていくこと、全国的認知度を向上させていくこと、顧客満足のための品質向上を図ることを目的とし、おやきに関する各種イベントや勉強会、おやきつくり教室などをおこなっている。
引用元https://d-commons.net/uedagaku?c=&p=54244
https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/oyaki_nagano.html#:~:text=%E3%80%8C%E3%81%8A%E3%82%84%E3%81%8D%E3%80%8D%E3%81%AF%E3%80%81%E5%B0%8F%E9%BA%A6%E7%B2%89%E3%81%A8,%E3%81%8C%E7%99%BA%E8%A6%8B%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%80%82 | 2023-02-01 |
14 |  | 桔梗ヶ原〔信州の浮世絵〕 | 江戸時代の浮世絵師、二代歌川広重による錦絵の揃物「諸国名所百景」の一つ。
初代広重の門人で、師の亡き後その画風を継承した二代広重が、安政6年(1859)から文久元年(1861)にかけて制作した。版元は、初代広重晩年の作「名所江戸百景」を出版した魚屋栄吉。「桔梗の原」は天文年間(1532~55)に武田信玄と小笠原長時が相対した合戦場で、左にある「勘助子そだての松」は、合戦の最中に山本勘助が乳児を救い、その根元に置いて戦の後に戻ったところ、松の葉から落ちる雫を母親の乳房から出る乳のように口に含んでいたという伝説がある。その後、中山道の一里塚が築かれた。江戸日本橋の基点から59番目、江戸へ55里、京へ85里の道標で、塩尻市宗賀平出には、道を挟んだもう一方の塚が松の木とともに残されており、現存する数少ない一対 | 2023-02-01 |
15 |  | 木曽の雪〔信州の浮世絵〕 | 江戸時代の浮世絵師、二代歌川広重による錦絵の揃物「諸国名所百景」の一つ。
初代広重の門人で、師の亡き後その画風を継承した二代広重が、安政6年(1859)から文久元年(1861)にかけて制作した。版元は、初代広重晩年の作「名所江戸百景」を出版した魚屋栄吉。
図は、雪に覆われた木曽谷を描いたもの。切り立った斜面の細道を、蓑笠を着け荷を掲げて行く姿がある。当時の木曽路は、中山道の中でも峠道が多く、難所続きだった。川沿いの切り立った断崖に、棚のように張り出して造った道「木曽の桟(かけはし)」も難所の一つとして知られた。丸木の柱に、横に板を並べた簡易な造りだったが正保4年(1647)に通行人の松明の火が落ちて焼失。後に石垣を築いて再建され、現在は国道の下に石垣の一部が保存されている。松尾芭蕉が「更級紀 | 2023-02-01 |
16 |  | 戸隠山九頭龍大権現〔信州の浮世絵〕 | 江戸時代の浮世絵師、二代歌川広重による錦絵の揃物「諸国名所百景」の一つ。
初代広重の門人で、師の亡き後その画風を継承した二代広重が、安政6年(1859)から文久元年(1861)にかけて制作した。版元は、初代広重晩年の作「名所江戸百景」を出版した魚屋栄吉。徳川家の手厚い保護を受け、戸隠山顕光寺として信仰を集めた神仏混合の時代を描く。九頭龍大権現(現在の九頭龍社)の右に奥院(奥社)、江戸末期の狩野派絵師河鍋暁斎作の「龍の天井絵」がある中院(中社)、右下の石階段の先が宝光院(宝光社)とみられる。参道には杉木立の合間に院坊が立ち並び、参拝者や商人らが行き交う門前町として栄えた当時の様子を描いている。九頭龍社は古くから地主神として祀られてきた。
水の神、雨乞いの神、虫歯の神、縁結びの神として信仰を | 2023-02-01 |
17 |  | 善光寺道久須里山〔信州の浮世絵〕 | 江戸時代の浮世絵師、二代歌川広重による錦絵の揃物「諸国名所百景」の一つ。
初代広重の門人で、師の亡き後その画風を継承した二代広重が、安政6年(1859)から文久元年(1861)にかけて制作した。版元は、初代広重晩年の作「名所江戸百景」を出版した魚屋栄吉。「久須里山」は善光寺の北、長野市浅川にある薬山。この中腹の断崖絶壁に大同2年(807)に懸崖造りの薬師堂が創建された。絶壁から迫り出した部分は支える柱もなく、ぶらぶらと揺れることから「ぶらん堂」と呼ばれ、現在の呼称「ブランド薬師」となったとされる。弘化4年(1847)の善光寺地震で崩落したが、文久元年(1861)に再建された。
URL:https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03CP1443040000
施設名:長野県立歴史館
参考資料先:信州デジタルコモンズ | 2023-02-01 |
18 |  | 1997年の上田駅 新幹線開通に向けて | 今回は1997年6月、新幹線開通に向けて改装工事中の上田駅を見ていく
画像は前回と同じく「さいきの駅舎訪問様(http://ekisya.net/A-GENEKI/160-SINETU/161-UEDA.html)」より引用する
1997年、長野駅高崎駅間が開通された
それに際し、上田駅は駅舎を改築、現在の上田駅駅舎の形へと変化を遂げた。 | 2023-02-01 |
19 |  | 1909年の上田の気候 | 長野地方測候所の記録によると、1909年の上田(小県郡上田町)の最高気温は7月18日の35.2度、最低気温は1月2日のマイナス13.7度だったことが分かる。これは1910年の記録とほとんど変わらない。
ただ最大積雪量を記録したのは3月23日の六寸(約18センチ)であり、翌年の1910年の記録よりかなり少なかった。 | 2023-02-01 |
20 |  | 1950年の上田駅 | こちらは1950年の上田駅の様子だ
(さいきの駅舎訪問より引用
http://ekisya.net/A-GENEKI/160-SINETU/161-UEDA.html)
1950年11月に上田駅は改築されたようで土産物屋のある観光指向の強い駅舎であるということが窺える。 | 2023-02-01 |
21 |  | 昭和48年の広報うえだのキッチンダイヤル | 昭和48年広報うえだのキッチンダイヤルの献立だ。
28日にすきやきうどんとある。ふと思ったが、上田市もそれなりにそばが有名なはずなのに、給食の献立で見たことがない。次の投稿は、それについて述べる。
https://museum.umic.jp/iiif/pdf/ueda-kohoS480416.pdf | 2023-02-01 |
22 |  | 上田紬の現在 | これまで上田紬の歴史を振り返ってきたのですが、最後に現在の在り方についてまとめたいと思います。
現在着物市場は、ピーク時の6分の1となっており、織元も10分の1以下まで縮小しました。
そんな今でも小岩井紬工房さんを筆頭に、上田紬の伝統は受け継がれています。着物としての在り方以外にも、ポーチや財布、イヤリングなど現代の様式に合わせて様々な在り方に変わってきています。オンラインショップも導入しており、全国各地に速攻で届くようになっています。また、地域の学生と共同で上田紬のイベント開催も行っているようです。
今回の活動を振り返ると、上田紬を歴史的に見ると、時代の背景に準ずるように繁栄したり衰退している様子がとても興味深かったです。。しかし、現在は時代の流れに関係なくとも衰退の一途を辿っ | 2023-02-01 |
23 |  | 1970年の上田駅 | 上田駅の開業は別所線開業の更に昔
1888年である。
添付画像は1970年頃の上田駅の様子だ。
(地方私鉄1960年代の回想より引用
https://umemado.blogspot.com/2019/06/blog-post_28.html )
現在の上田駅とは駅舎の雰囲気含め、大きく違う事が窺えるだろう。
次の記事では更に過去に遡り、1950年代の上田駅を見ていこうと思う。 | 2023-02-01 |
24 |  | 別所線開通 | 私達が普段使う別所線
かつて上田盆地には全長57.2kmもの鉄道が張り巡らされており、別所線以外にも営業が行われていた。
現在上田盆地を走る鉄道は、1921年に開通した別所線11.6kmを残すのみである。
別所温泉駅は1921年に温泉客の交通手段として開通
当初は川西線としての開通であった。
その後1924年に川西線から別所線に改名されている。 | 2023-02-01 |
25 |  | そばは手打ち…うどんは? | 上田市の観光課があげている、別所温泉の写真だ。実際に行って見ないと、今もこうなっているのかは、分からない。しかし、写真を見る限り、古い記事ではないのであろう。
https://museum.umic.jp/johogura/bessho/2691013/2691013.html | 2023-02-01 |
26 |  | 安江仙政の名刺 | 明治時代の新竹縣税務官、安江仙政の名刺である。
(新竹縣=台湾の北西部に位置する県)
中村利貞のものと同じ明治時代の名刺であるが、安江氏の名刺の方が印刷技術が上回っているように見える。
文字がはっきりしており、現代の名刺のような美しい文字配置がされている。
印刷技術がかなり違うのは位や環境の違いからだろうか。
佐賀県立図書館データベース- 古文書・古記録・古典籍データベース https://www.sagalibdb.jp/komonjo/detail/?id=49363 | 2023-02-01 |
27 |  | 上田は暖地? | 1896年に東京で発行された「信濃地理 生徒用」には上田は飯田に次ぐ暖地で追分(現在の軽井沢辺り)は信濃で一番の寒冷地であるという記述がある。 | 2023-02-01 |
28 |  | 上田映劇の歴史 | 1917年に建てられたのが上田映劇の前身「上田劇場」です。当時一階には桟敷(さじき)と花道があり、回り舞台仕様歌舞伎座と同じような作りをしていました。長い歴史の中でDVDプレーヤーの普及などから客足が遠のき一度定期上演を終了するも、 2014年5月 上田映劇をメイン舞台とした「晴天の霹靂」が上映される。そして 2016年12月「映画の街上田」のシンボルとして再起動させていくために「上田映劇再起動プロジェクト」が開始され、 2017年4月 「上田映劇再起動準備会」として定期上演を再開した今もなお地元のひとの愛のおかげでシンボルとして立っているのだと感じた。 | 2023-02-01 |
29 |  | 太郎山とハリー・K・シゲタ | 写真は国際的商業写真家として活躍した写真家、上田出身のハリー・K・シゲタが撮影した、千曲川と太郎山の写真「上田橋より太郎山を望む」である。
昔から現在まで変わらず太郎山は上田市民と密接に関係しているものだと分かる。
https://jpsearch.go.jp/item/u001-UMS_008_0644 | 2023-02-01 |
30 |  | 太郎山と上田のイベント | 上田市民はイベントとしてこの太郎山を登るという事もある。
上田市政70周年記念として行われたのは、れん台に乗った女性を担いで、太郎山一番のりを目指す「めざせ十勇士’89戦国ラリー」である。
30チームが参加し、黄金沢の不動滝から太郎山の大鳥居まで裏参道を登って順位を競った。
https://jpsearch.go.jp/item/u001-UMS_008_0751 | 2023-02-01 |
31 |  | 支払い手形と名刺 | 「揚荷手形 通人馬会所」と書かれた封筒に入っていた、名刺と、手形である。
『なかに木版刷りの未使用の預かり手形が数枚と、中村六左衛門ら3人の名を書いた名刺が数枚入っている。幕末の金沢藩の通し人馬の賃銭の支払い手形である。中村六左衛門ら3人は、金沢藩の参勤交代の通し人馬を請け負っていた。』(覚(預切手記入用紙) | 信州デジタルコモンズ https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/library/02OD5160890000)
3人分の名前を一枚の紙に書いてあることから、紙が貴重だったのか、一人ひとりが名刺を用意する習慣がなかったのか、この時代の名刺は紙と筆さえあれば直ぐにできてしまうものだったのか、など様々な想像ができる。
また、この名刺は連絡などのために必要だったとされている。その割には住所などの情報が全く載っていないので、この | 2023-02-01 |
32 |  | 蚕業膝栗毛 第1編① | 信州デジタルコモンズによると、これは「明治29年(1896)2月発行の蚕業をテーマにした小説である。蚕業の質を高める為の講演会などの際に一緒に戯演されたものの書籍版、もしくは講演会で販売されたものであると考えられる。東海道中膝栗毛を捩っているのであろう、この物語の主人公は栃面屋・弥次郎兵衛とその幼なじみという設定の喜多八。この両人が名立たる蚕業家を尋ね行く道中を綴ったもの。物語は、蚕業で成功した弥次郎兵衛が大失敗して財産がなくなったところから始まる。弥次郎兵衛は喜多八を誘って、蚕業の知識を生かした蚕業大演説会を開催。これがある程度うまくいったことが発端となって、蚕業改革の一端として日本蚕業倶楽部の設立を考える。その設立資金を蚕業演劇で稼ぎ、蚕業視察のために全国漫遊に出るという内容である | 2023-01-27 |
33 |  | 鹿教湯温泉の歴史と五台橋 | 鹿教湯温泉は20件ほどの宿泊施設が立ち並ぶ山間の温泉地です。上田市と松本市の間にあり、環境庁選定国民保養地として認定されています。そのため、健康の郷としても有名です。そのため、散策をしながら自然の癒しを感じることもできます。
鹿教湯温泉の歴史の始まりは地名がついた由来にも関連しています。漁師から矢傷を受けた鹿が温泉の場所を教えてくれたことから温泉地としての歴史をスタートし、1200年の長い歴史を誇ります。
湯量は非常に多く、20件ほどの温泉施設では24時間かけ流しの施設も。源泉の温度は46℃ほど。また、色は無色・透明。泉質は弱アルカリ性低張性高温泉となっており、高血圧、脳卒中の後遺症、疲労回復に対して効能があります。
また、写真は鹿教湯温泉の付近にある文殊堂へとつながる橋である五台橋の画像 | 2023-02-01 |
34 |  | 終わりに | 西塩田時報を読み進めていく中で、自分のテーマと関係のない面白い記事がいくつかあり、探求に時間がかかってしまった。
戦前の記事からは、まず「食」に関する記事を探すことが難しく、記事があっても、材料の栽培方法や保存方法について書かれていることが多いという印象を受けた。
戦後の記事からは、たくさんの「食」に関する記事を見つけることができ「家庭メモ」や「季節の料理」のような記事が多い印象を受けた。その中には現代でも食べられているメニューやレシピがあったが、食材の違いや、栄養素の偏りといった面で、現在とは大きく異なっていた。
戦前と戦後の記事から、戦前は材料の栽培保存、戦後はレシピや栄養素について書かれていることが多いと感じた。
このことから戦後は戦前に比べ、他国の食文化が普及したり、 | 2023-02-01 |
35 |  | 飯島保作(花月)(いいじまほさく(かげつ)) | 飯島保作は、文久3年(1863)に飯島家の長男として横町に生まれました。明治6年(1873)上田街学校に入学し、明治10年(1877)に上等小学校全科を卒業しました。上田街学校の教員補助の職は、天皇の御巡幸が終わった後退職し、家業(質屋)に従事しました。
自らが作成した年賦には「家業のかたわら独学」とあります。向学心旺盛な青年で、この向学心が実業家飯島保作を生み、このころから雑誌に狂歌、川柳等々の投稿を始め、後の上田地方の庶民文学のリーダーとしての文学上の資質を開花させたのです。
保作は、上田商工会議所会頭、第十九銀行の頭取を歴任して生涯を閉じた上田を代表する傑出けっしゅつした実業家でした。明治15年(1882)10月、上田郵便局に採用され、最初の職業の第一歩を踏み出し、 | 2023-02-01 |
36 |  | 西塩田公報から学ぶライフハック① | 西塩田公報には『家庭メモ』というコラムがあり、生活に役立つコツやレシピなどを紹介している。
ここでは私が気になった記事を紹介していく。
~この記事で知ることができるライフハック一覧~
・サビた包丁には大根の切り口に歯磨き粉をつけて磨く
・おでき(ニキビ?)には患部に直接ゴボウの葉を当てて縛っておくと膿が抜ける
・新品の歯ブラシを使う前に熱い塩水に水が冷めるまでつけておき、しっかりと乾かしてから使うと二倍長持ち
・味付けをする際、塩は砂糖よりも材料にしみこむ速度が速いため、砂糖は先に使うこと
現代では用途によってさまざまな洗剤や掃除用具が存在 していますが、この記事掲載時(昭和28年4月5日)にはまだそういったものはなく、知恵を用いて生活をしていたことがうかがえます。
また、 | 2023-02-01 |
37 |  | 笹沢檪亭 (ささざわれきてい) | 檪亭は、安政2年(1855)、小県郡坂井村(現上田市塩川)に生まれ、本名を清十といい、幼い頃より画才に富み、花鳥画を描いては村人を感嘆させたといいます。早くに父を亡くし苦労して育ちますが、母の理解もあって、明治6年(1873)、18歳の折に島田桃渓とうけいに師事して絵の指導を受けたのを手始めに、明治18年(1885)、29歳の時には、水戸の木下華圃かほに師事。この頃から専業画家としての道を歩むことを真剣に考え始めたものと思われます。
明治19年(1866)、31歳の折には終生の師となる児玉果亭に入門を許され、果亭より檪亭の雅号を受けました。この檪亭が入門した明治19年は、第2回内国絵画共進会に出品した果亭の即品が天覧に供され、出品2点のうち1点が宮内省買上げ、1点が銀杯(こ | 2023-02-01 |
38 |  | 林倭衛 (はやししずえ) | 父は、倭衛が小学校在学中に製糸工場経営に失敗し、明治40年の春、倭衛と弟を実家の小林家にに預けたまま夜逃げ同様に東京へと出てしまいました。実家は上田駅に近い北天神町通りで蚕種用の和紙などを商っていましたが、倭衛は友人たちから離れ孤独にさいなまれましたが、同じ頃に同じ北天神町に移り住んだ馬場衛まさるが、生涯の友となりました。約1年の後にようやく父母の下に引き取られはしたものの、何かにつけて旧士族出身にこだわって失敗を繰り返す父に対して、倭衛は激しく不信を覚え続け、やがて少年の孤独感は次第に不屈な自立心へと成長していくのでした。
明治43年には印刷会社の給仕となり月給を得るようになると、近くの水彩画研究所の夜間部に入り、明るく旺盛な好奇心のままに、生涯にわたる美術関係の友人を | 2023-02-01 |
39 |  | 西川小扇八 (にしかわこせんぱち) | 上田地方だけでなく、広く東信地方から県内にかけて日本舞踊の普及に尽力した小扇八は、明治38年東京浅草瓦かわら町に生まれました。小扇八(本名金子光みつ)の育った浅草界隈は、古くから歌舞音曲かぶおんぎょくの盛んな土地柄でした。生まれつき体の弱かった光を心配した両親は、健康のために芸事を身につけさようと、長唄や日本舞踊、華道、茶道など日本古来の伝統芸能を一通り習得させました。
とりわけ光は日本舞踊に強く興味を示し、自ら進んで西川流に入門し、稽古に励みました。縁あって18歳で結婚しますが、婚家になじまず実家に戻ります。浅草に戻った光は生涯進むべき道を日本舞踊と決め、西川扇五郎に師事します。再び踊りの世界に没頭し、厳しい稽古に耐え、艱難かんなんを克服して次第に頭角とうかくを現あらわ | 2023-02-01 |
40 |  | 中村直人 (なかむらなおんど) | 大正期中ごろ山本鼎が提唱した「農民美術」と「児童自由画教育」の二つの運動の、発祥の地、神川で少年期を過ごした直人は、リアルタイムに農民美術、児童自由画教育の誕生を直視し、その渦中で小学校時代を過ごしました。
15歳の時、山本鼎の世話で上京し、木彫家吉田白嶺の木心社に入門。兄弟子松村外次郎より木彫の手ほどきを受け、小杉法庵にデッサンを習い、自己の彫刻表現の模索が始まりました。大正14年、直人21歳で院展初入選、以後連続入選し大正15年に日本美術院賞を受賞。昭和10年には院展同人(会員)に推挙され日本の彫刻界の新風として頭角を現し始めました。
終戦後は、新日本美術会創設に参加し、各種展覧会に出品しました。その後、以前から親交を深めていた画家で彫刻家の藤田嗣治がフランスに渡り、 | 2023-02-01 |
41 |  | 上田城下町絵図 | | 2023-02-01 |
42 |  | 錦絵真田幸村勇戦之図 | 慶長20年(1615)5月の大坂夏の陣における真田幸村の有名な奮戦ぶりを描いている。中央馬上が幸村、右にやはり馬上のその長男大助。幕末期の錦絵。 作者は歌川芳虎。芳虎は号を孟斎または一孟斎という。天保年間(1830年代)より明治にかけて活躍した浮世絵師で、武者絵を得意とした。 | 2023-02-01 |
43 |  | 上田のスポーツ | 塩田地域では青年たちによるスポーツの大会が開かれており、競技は野球とバレーでした。記事の内容には競技のなかでのスポーツマンシップについてやどんなプレーがでたのかが書かれていました。
それとは別にも村の体育祭も開催されていました。多様な種目にわたるものになっており、おもしろい名前の競技もありました。「まずいっぷく」や「2百才リレー」などがとても興味をもちました。
また、現在でも上田オール西部というソフトボールチームが存在しています。大会に優勝し北海道での全国大会に行くことも書かれています。同様にバレーもママさんバレーとしてチームがあり、こちらも優勝を経て全国大会に行っています。これらも過去の歴史として地域で盛んだったスポーツの熱が残っていることが一つの地域の伝統なのではないでし | 2023-02-01 |
44 |  | 擬洋風建築を残し続けるために | 擬洋風建築は幕末から明治頃にかけて日本の各地で建築された、日本の大工らが西洋風の建物を見様見真似で建てた西洋風の建築物であり、和洋折衷、様々な意匠や工法が混じった建築物は、文明開化、近代化の象徴的な存在です。しかし、現在その多くは取り壊しや火災などで失ってしまっています。この数少ない重要な建物を残すため、多くの人に魅力を知ってもらうことが重要だと思いました。
その魅力の一つは石の再現です。壁面の出隅は「隅石積」を、壁に漆喰を塗ることで模しています。木造建築でありながら、石造の建築に見せかけるという面白さと知恵を感じます。
もう一つの魅力は独自性です。玄関に唐破風屋根を設けられていたり、天井の飾りに、波に千鳥、松竹梅、菊などが描かれていたりして、洋風に見せながら和の要素を含む和 | 2023-01-31 |
45 |  | 農村女性に望む | 戦時中の苦労や恐怖からと終戦に対する幸福感が書かれている。それとともにもう戦争のことなど考えず農家の女性としてこれから生きていくことが力強く書かれている。
まとめ
終戦直後の混乱状態のリアルなこえをまとめることができた。青年は敗戦に落ち込まず前向きに復興へとすすんでいることが読み取れた。
被害が多くなかったとは言え様々な問題を抱えていたことが分かった。 | 2023-01-31 |
46 |  | 小学校だより 運動部 | 学校だよりの内容はいまの小学生がもらってくるものと同じで保護者向けのものでした。しかし今よりも謙っておりとても丁寧に固い表現な印象をうけました。
運動部の欄では野球部の部分のみを投稿しているがそれぞれの部活動のメンバーがフルネームで掲載されていました。プライバシー面で今は論争が巻き起こりそうですね。
▼この記事は以下から参照できます。
#1260 『西塩田公報』第83号(1954年8月5日)4頁
リンクする場合は以下のようにHTMLで記述する “”は付けないこと
https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p1261.jpg | 2023-01-31 |
47 |  | 川西野球排球大会 | 塩田の地区でスポーツの大会が開かれていたことを初めて知りました。こども達のリトルやクラブチームの試合は現在でもありますが、地域で試合が開かれていたことに驚きです。中塩田や室賀などのいまでも知っている地名が野球やバレーができるほどに人数が集まっていたことが一番の驚きです。いまもやってほしいですね。
▼この記事は以下から参照できます。
#1260 『西塩田公報』第83号(1954年8月5日)4頁
リンクする場合は以下のようにHTMLで記述する “”は付けないこと
https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p1261.jpg | 2023-01-31 |
48 |  | 中村直人 | 大正期中ごろ山本鼎が提唱した「農民美術」と「児童自由画教育」の二つの運動の、発祥の地、神川で少年期を過ごした直人は、リアルタイムに農民美術、児童自由画教育の誕生を直視し、その中で小学校時代を過ごしました。
15歳の時、山本鼎の世話で上京し、木彫家吉田白嶺の木心社に入門。昭和10年には院展同人(会員)に推挙され日本の彫刻界の新風として頭角を現し始めました。
その後日本で活躍し、47歳でパリに渡りました。昭和28年のパリ展で大成功し、その後何度か個展を開き話題となり、滞欧12年の間に彫刻家から国際的な画家に見事な変身を遂げました。
昭和39年日本へ帰国。同年滞欧作展でパリ生活12年の成果を証明しました。その後二科会に招かれ、昭和55年には内閣総理大臣賞を受賞しました。帰国後は、様々な分 | 2023-01-31 |
49 |  | 小林一茶 一茶一代 | 小林一茶の詩や俳句がまとめられている資料である。
収録数は前編の発句が春、夏、秋の部がそれぞれ約1000、冬の部は約800、雑の部は22。俳諧歌は春の部62、夏の部30、秋の部54、冬の部28、雑の部59。文章は60。尺牘(手紙の類)は16。茶話は6。連句は春の部18、夏の部13、秋の部39、冬の部40、雑の部3。後編は発句が春の部120、夏の部95、秋の部101、冬の部49。連句は春の部3、秋の部5、冬の部2となっている。(信州デジタルコモンズより引用)
それぞれの編を春夏秋冬と編纂しているのがいかにもは俳諧師という感じがする。この集は一茶本人が出版したものではなく、一茶の息子である直樹が出版したもの。
読み物としてはほとんど古語で書かれているため、かなり難読で、アマゾンなどで現代語訳されたものが販売されているため、読んでみたいと | 2023-01-31 |
50 |  | 戦時版の新聞③「プロパガンダ映画」とまとめ | 映画までもプロパガンダとして利用されていたことが分かる記事である。
イギリス領インドの青年を日本人(岡倉天心等)が助けるといった内容であると書かれている。
実際の人物までもプロパガンダ映画で使われていたことに驚いた。
岡倉天心の「東洋は一つ」という言葉を都合よく解釈し、戦争に利用したように感じる。
参考サイト
【戦後75年】戦時中の中部日本新聞をPDFで読んでみよう
2023年1月31日閲覧
▼この資料は以下から参照できます。
『中部日本戦時版』「 | 2023-01-31 |
51 |  | 戦時版の新聞② | バチカン市国について書かれた記事である。しかし、内容は敵国(アメリカ、イギリス)に対する批判である。
現代の世界史とは違った視点から歴史を見ることができ、興味深く感じた。
参考サイト
【戦後75年】戦時中の中部日本新聞をPDFで読んでみよう
2023年1月31日閲覧
▼この資料は以下から参照できます。
『中部日本戦時版』「戦争と闘ふヴアチカン 非道へ法王の睨み」(昭和19年3月16日) | 2023-01-31 |
52 |  | 戦時版の新聞① | 選民思想をかき立たせるような書き方をしている記事であるように感じる。
情報媒体が限られていた時代であるため、このような偏った情報でも疑いようもなく受け入れられていたのだろうか。
参考サイト
【戦後75年】戦時中の中部日本新聞をPDFで読んでみよう
2023年1月31日閲覧
▼この資料は以下から参照できます。
『中部日本戦時版』「我等の身体 これぞ日本人の優秀性」(昭和19年3月2日) | 2023-01-31 |
53 |  | 『昭和国民読本』(1939) | 明治から昭和初期(1939)までの出来事や歴史がまとめられた書籍である。
出来事が事細かにまとめられていることが目次から推測できる。
当時(戦時中)の国民の思想を知るのに重要な資料として活用できそうだと思った。
▼この資料は以下から参照できます。
『昭和国民読本』(1939) | 2023-01-31 |
54 |  | 太郎山神社(1) | 太郎山の山頂付近には太郎山神社が建っている。写真は太郎山神社の本殿である。
棟札によると、明治6年3月15日に再建され、大工棟梁の山崎正是、金井為久、彫工棟梁の竹内八十吉など、大勢の人々によってつくられたとある。
https://jpsearch.go.jp/item/u001-UMS_001_022 | 2023-01-30 |
55 |  | 表参道(1) | 表参道は、太郎山の頂上への参道として、昔から親しまれてきた登山道である。
写真の小さな石のほこらは、表参道に約100m毎の距離で置かれている。ふもとの白山神社を起点に太郎山神社まで36個設置されている。
https://jpsearch.go.jp/item/u001-UMS_008_0531 | 2023-01-30 |
56 |  | 太郎山とは | 太郎山は上田市の北部に位置し、標高は1164mである。
山頂までは2時間ほどで登ることができ、老若男女問わず気軽に登ることができる山として上田市民や登山好きに親しまれている。
https://jpsearch.go.jp/item/u001-UMS_008_0843 | 2023-01-30 |
57 |  | 記事3 | この記事は戦事の状況の報告である、「帝国」や「正義」などの語彙で、今の所で見ればは妙な体験だ。
参考資料:西塩田時報(1937~)第161号~第180号 昭和十二年八月号 | 2023-01-30 |
58 |  | 記事2 | これらの記事から、満州事変後に、満洲国の移民の宣伝である、東京以外の地方ではそういう宣伝があれば全方位で、特にあの時代で影響力が高いの新聞で宣伝が多ければ、全面戦争の始まりのサインではないかと思う。
参考資料:西塩田時報(1937~)第161号~第180号 昭和十二年四月号 昭和十二年七月号 | 2023-01-30 |
59 |  | 野沢菜 | 野沢菜は、県の北東にある野沢温泉村の住職が宝暦6年に京都から天王寺かぶを持ち帰り植えたのが始まりといわれている。温暖な地域の天王寺かぶは、標高600メートル近くもある高冷地の野沢温泉村の気候風土により突然変異を起こし、根が育たず葉と茎だけが大きくなり地域独特のものとなった。味は美味しいと好評で、地名の付いた「野沢菜」として広まっていった。
野沢菜食べたことがあったが画像のツルヤの野沢菜油炒めが特別美味しかった。漬物に香ばしさが追加されるだけでこんなにうまいかという感じだった。
参考文献
https://nozawakanko.jp/about/nozawana/
https://d-commons.net/uedagaku?c=28&p=4078 | 2023-01-30 |
60 |  | 鯉こく | 佐久市に伝わる「鯉こく」は、大胆に筒切りにして味噌で煮た汁もので、佐久地域の正月には欠かせないものとなっている。佐久ホテルの篠澤社長の八代前の先祖の篠澤佐五右衛門滋野包道が延享3年(1746)の正月6日に伊勢神宮の福島鳥羽大夫神官を邸宅に招き、「鯉こく」を食べさせたことがきっかけで正月に「鯉こく」を食べるようになった。
実際に鯉の切り身を買ってきて作ってみた。汁気をかなり飛ばす料理で非常に時間と手間がかかる料理という印象を受けた。凝縮された味付けで鯖味噌が一番近い味付けだと感じた。
https://d-commons.net/uedagaku?c=28&p=7106
https://life.ja-group.jp/recipe/detail?id=8279 | 2023-01-30 |
61 |  | 下塩尻にも猫瓦 | 下塩尻にも猫瓦を見つけることができました。
この猫瓦は耳の部分がとがっていないこと、文様などが彫られていないのが特徴です。他の猫瓦と比べても文様や文字が彫られていないので瓦が平です。
色も少し青っぽいので瓦自体が普通のものとは違うのではないかと思います。もしかしたら年代的には新しいのかもしれませんね。 | 2023-01-30 |
62 |  | おもしろ瓦 | 12月6日に行った上塩尻の街歩きでは猫瓦の探索をしましたが、その中で面白い瓦を見つけました!これは七福神の恵比寿様でしょうか?
瓦に文字や笑顔掘られるのはよく見かけますが、人形がくっついているような瓦は初めて見ました。なぜ七福神の恵比寿様の瓦があるのでしょうか?
新しい発見でした。 | 2023-01-30 |
63 |  | 「d-commons.net UI磨き上げ」まとめ(2022年度 プロジェクト研究) | タイトル:d-commons.net UI磨き上げ
概要:d-commons.net上に存在しているUIの課題点を発見し、解決案を考察する。UIの利便性向上を図り、更に洗練されたサイトにするためのブラッシュアップを促す。加えて、d-commons.netをより面白くするためのアイディアを考案する。
・マイテーマ
プロジェクト研究 信州上田デジタルマップ 課題探求 2022前期
教員向けd-commons.net(eduスクウェア)の研修会 アンケート結果&考察
プロジェクト研究 信州上田デジタルマップ 課題探求 その他考察 | 2023-01-30 |
64 |  | 猫瓦 | 12月6日に上塩尻の街歩きをしてきました。
街歩きの目的は猫瓦探索でした。
北国街道沿いには猫瓦がよくありますが、上塩尻には他にも猫瓦があることがわかりました。
特に印象的だった猫瓦は鶴が掘られたものです。
猫瓦に掘られている絵には意味があります。
鶴は初めての発見だったのでどのような意味があるのか気になりました。
猫瓦に興味のある人は上塩尻を歩いてみてください。面白い瓦を見られるかもしてません! | 2023-01-30 |
65 |  | 2022年度 プロジェクト研究発表会資料「d-commons.net UI磨き上げ」 | 本記事に登録されている画像は、2023年1月28日「プロジェクト研究発表会」で使用した資料(画像版)です。
画像表示されているものと、クリップファイルに登録されているものは同一のスライドです。お好きな方法で閲覧してください。
また、こちらはPDF版の資料です→PDF版 | 2023-01-30 |
66 |  | 上田市で農地を所有しながら暮らすには | 上田市は自然が豊かで農地が沢山あるのになぜか農業が盛んではないのだろうか。
我が家にも農地があるが半分以上がの農業放棄地となっている。農業放棄地が発生してしまっていることが農業が盛んになっていくうえで邪魔になっているのではないだろうか。
農業放棄地が増えていく原因の一つに農地に関する法律があると考えた。そこで農地法を調べたところいくつかの問題点が見つかった。
・農地の売買や貸借に農地の所在する市町村の農業委員会の許可が必要な点。
・農地売買の許可を得るのに農地の権利取得後の経営面積に原則として都府県50a、北海道は2ha以上になること(例外あり)
・農地を取得する個人またはその家族等が取得後に行う農業事業に必要な農作業に常時従事しないと農地を買えないこと
これら3つが大きな問題と | 2023-01-30 |
67 |  | 「海外視聴者向けの日本人youtuberと旅行動画」その活用方法の調査 最終版 | 2022年度研究である
『「海外視聴者向けの日本人youtuberと旅行動画」その活用方法の調査』
の最終完成版になります。
私自身海外に向けた動画をいくつか制作してみた結果、
主に言語の面でかなり高度な技術が必要であることが分かりました。
それは同時に、新たに海外へ向けてYouTubeによる情報発信を企業や自治体が行うことは非常に難しいということにもなります。
外国語字幕を付けた動画で発信している企業はもちろん存在しますが、そのほとんどが日本人以外の社員も多く在籍している大企業であるため、それと同様のレベルを地方自治体などがこなすことはほぼ不可能です。
そこで、すでに個人や少人数であっても海外に向けて活動し、好調な成績を出している日本人youtuberに協力を仰ぐことで、世界中へ向けての効率的かつ効果的な情 | 2023-01-30 |
68 |  | プロジェクト研究(長野大学前川ゼミ)2022アウトカム | 長野大学企業情報学部前川ゼミ/プロジェクト研究2022成果報告
▼前川ゼミ2022成果報告 47分
ゼミメンバーの各自が成果を報告しています。(発表順は以下の順と同じ)
▼前川ゼミ・ポートフォリオ(マイサイト)
【1】川口将太(4年) 企業のソーシャルメディアを用いたメディア戦略
【2】高山大和(4年) 持続的な地域活性化策~大洗モデル~
【3】林 亮太(4年) 「海外視聴者向けの日本国内旅行動画」その特徴と活用方法の調査
【4】中澤愛華(4年) 神川小学校における地域学習支援
【5】春原百々羽(2年) 蚕について地元の人が学ぶ理 | 2023-01-30 |
69 |  | 開善寺宛武田信玄定書 | この文書は現在上田市新田にある海禅寺が、戦国時代に小県郡東部町海善寺地区にあった当時、武田信玄が永禄5年(1562)11月7日、この寺に祈念を頼み、願がかなったときには、開善寺(海善寺・海禅寺)に、以前の通り土地を寄付することを約束した定書であるそうです。
https://museum.umic.jp/hakubutsukan/collection/item/0028.html | 2023-01-30 |
70 |  | 武田信玄願文(県宝) | 武田信玄は、上杉謙信との戦いに備えて、東信濃の名社生島足島神社に、願文を献げ、今後の戦について深く祈願するところがあったそうな。
これがその願文で、おわりに永禄2年(1559)と記され、信玄自筆のものといわれています。
「謹んで、下之郷諏訪大明神に申し上げます。私(信玄)は、越後の軍勢(謙信をさす)が攻めてくるので、戦うがよいかどうかト(うらな)ったところ”吉”という卦が出ました。そこでこの天の教えに従って出陣いたします。何卒私の軍に勝利を与えられ、長尾景虎(謙信)が逃亡するようお助けをお願いいたします。もし私が凱歌をあげて帰国しましたなら、今年から10カ年間、毎年青銅貨10緡ずつお社のために上納いたします。」
調べて知ったことですが、信玄は戦国大名の中でも占いマニアだ | 2023-01-30 |
71 |  | 別所温泉森林総合センター | 森林公園(別所温泉森林公園)天神岳のふもと、別所温泉から車で10分、赤松と杉の林に囲まれた公園。森林総合センター、山菜料理、バンガロー、キャンプ、林間広場にはテニス場、フィールドアスレチック等ある。
別所温泉森林総合センター http://db.umic.ueda.nagano.jp/johogura/datadisp.php?arg_sano=2691026 | 2023-01-29 |
72 |  | 愛染桂 | 当地方では稀にみる大木のカツラ(雄木)で樹高22m、目通り5.5m、枝張り14m。北向厄除観音の霊木とされている。近年境内にある愛染堂とこのカツラの木を結んで愛染桂といい、若者たちから縁結びの霊木として親しまれている。
川口松太郎の名作「愛染桂」はこの木からヒントを得たという説もある。
引用元
解説愛染桂(市指定天然記念物) http://db.umic.ueda.nagano.jp/johogura/datadisp.php3?arg_sano=668015 | 2023-01-29 |
73 |  | 温泉薬師瑠璃殿 | 本尊薬師如来。北向観音堂の西方の崖の上に建てられた一風変わった建物で「医王尊瑠璃殿」と呼ぶ。建立年代は明らかでないが、資料によれば焼失した後文化6年(1809)に地元湯本薬師講中によって再建されたという。温泉の効能に併せて病気を除き解脱するという深い温泉薬師信仰に由来するものである。「瑠璃殿」という名は、薬師如来を瑠璃光如来とも呼ぶところからとった名である。
引用元
http://db.umic.ueda.nagano.jp/johogura/datadisp.php?arg_sano=668014 | 2023-01-29 |
74 |  | 別所温泉石湯 | 別所温泉石湯石湯の表には、真田太平記の池波正太郎書「真田幸村公隠しの湯」の碑がたつ。
引用元
http://db.umic.ueda.nagano.jp/data/johogura/datadisp.php?arg_sano=2581061 | 2023-01-29 |
75 |  | 別所温泉駅の歴史 | 別所せんはは大成10年に「川西線」として開業した。
当時「信濃別所駅」という名前で開かれ、昭和5年に、駅名が「別所温泉駅」となり、同25年に現在の駅舎が完成した。
この駅舎が一年で最も混雑するのは、大みそかから正月三が日まで。二年参りのときには終夜運転も行われ、北向観音に訪れる人たちでいっぱいになる。
引用元
Ueda City Database ( 3033024) https://museum.umic.jp/johogura/bessho/2691012/2691012.html | 2023-01-29 |
76 |  | お菓子の歴史(洋菓子輸入時代) | 明治頃に、文明開化が始まり、外国の文化が日本に取り入れられ生活が変化していったが、それは菓子も含まれる。明治10年に洋菓子の輸入が5千円であったが、20年には1万円、30年には2万5千円で、38年には一躍して23万5千円とまで上昇し、短期間で需要がかなり増えた。洋菓子製法技術や洋風食材が導入され、相手先もオランダ、ポルトガルから、イギリス、フランス、アメリカに変化した。
ビスケット、キャンディ、チョコレート、キャラメル、クッキーなどが輸入され、日本での消費が増えると国内生産の方が儲かると考える人が出てきて、製造が始まった。日本で最初に作られた洋菓子は明治8年のビスケットで、東京京橋の風月堂が始めた。明治中期になると森永太一郎が森永製菓会社を作り、ビスケットやドロップス、キャラメルなどの洋菓子生産 | 2023-01-29 |
77 |  | 初代上田藩主 真田信之 | 真田信之は初代上田藩主を務めた人物であり、上田城を築城した真田昌幸の息子である。信之は徳川家に仕える猛将本田忠勝の娘、小松姫と結婚し、関ヶ原の戦いでは父昌幸、弟幸村とは対立することとなる。その後は上田領を任され、農村の復興と上田城下町の整備に尽力したが、1622年に松代へと移封されることとなる。
参考サイト
上田市デジタルアーカイブポータルサイト
https://museum.umic.jp/sakuhin/web.html
上田市博物館
https://museum.umic.jp/hakubutsukan/ueda-castle-history/03/ | 2023-01-28 |
78 |  | 戦前長野の農業形態⑥ | 当時に比べると長野でのイチゴは果物の中だとあまりメジャーではないように思われるが、輸送手段や保存方法が当時に比べると発達したため、他地域での生産もさかんになったからではないかと考える。
戦前の長野での農業について共通点も多く見られたが、現在と違う点も多くとても興味深いと感じた。農業に関して調べるうちにジャムのルーツにも触れることができ有意義な学習であった。 | 2023-01-28 |
79 |  | 戦前長野の農業形態⑤ | 栽培されたイチゴは鮮度の問題から近郊には青果として、遠方には貯蔵できる形としてジャムにすることで販売していたようである。
この資料に加え、長野のジャムに関して調べてみたとこ
ろ、明治10年新宿で初めて日本でジャムが作られ、その四年後に企業として初めてジャムが作られた地が長野であり、長野は日本のジャム生産の先駆的な地のようだ。
信濃産業誌 完」
https://api.ro-da.jp/v1/shinshu-dcommons/library/02BK0102152899/images/629fa7724c1f448586380935d789259b.jp2/651,655,2070,3016/333,485/0/default.jpg
「日本におけるジャムの歴史」
http://www.sudo-jam.co.jp/tokusyu/20140210 | 2023-01-28 |
80 |  | 戦前長野の農業形態③ | こちらは大麻に関する記載である。大麻といっても工芸作物の麻のことであり、麻袋や畳に使うようである。栽培方法や適する条件等も記載されている。栽培に関する条件は比較的緩いようだ。
「信濃産業誌 完」
https://api.ro-da.jp/v1/shinshu-dcommons/library/02BK0102152899/images/f65cc121f9b64b6cbf76b0a27d25cebd.jp2/493,541,4771,3136/852,560/0/default.jpg | 2023-01-28 |
81 |  | 野沢菜漬 | 県内全域の郷土料理。寒さが厳しい長野県は、冬になると田畑から青ものはひとつもとれなくなるため、晩秋になると大量に保存用の漬物を仕込んだ。一石桶といわれる大きな桶で大量の野沢菜をつける。各地域や家庭によって漬け方は様々。そのまま食べたり、おにぎりやおやきの具材にも使われる。野沢菜には浅漬けと古漬けがあり、春先、発酵が進んで黄色く変色した古漬けは、酸味が強いが味わいがあり、油との相性がよく、炒めて食べたりもする。
[野沢菜漬 長野県 | うちの郷土料理:農林水産省](https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/nozawana_zuke_nagano.html)より引用 | 2023-01-28 |
82 |  | 戦前長野の農業形態② | まず始めに触れたいのが稲作である。資料に記載されているように川による豊富な水源、肥沃な土、夏期に暖かく、基本的に冷涼な気候であることから稲作が行われていたことがわかる。稲作に適する条件が現代と同じであり、当時から盛んに行われていたことがわかる。左のデータには作付量、反別、収穫高などが記載されている。
「信濃産業誌 完」
https://api.ro-da.jp/v1/shinshu-dcommons/library/02BK0102152899/images/75b5398006c44bf0b725eedac59bc2f7.jp2/620,642,1725,3035/308,542/0/default.jpg | 2023-01-28 |
83 |  | お菓子の歴史(京菓子・上菓子時代) | 京菓子とは、一般的に京都で作られたお菓子のことをいい、江戸が中心だった江戸時代において、都である京の菓子を地方のものと区別して呼び始めた。
また、京都では宮中や公家、茶寺や茶家に献上する菓子のことを上菓子と呼んでいるが、江戸では駄菓子(雑菓子)の対抗する意味として使われた。当時の菓子司が作るものは、蒸菓子、干菓子、駄菓子(雑菓子)であり、上菓子司の作る雑菓子には、白砂糖が用いられ、品質こそ上菓子であった。安永・天明期になると、和菓子の技巧は江戸独特の個性も加わり、かなり発展している。
守安正 著『お菓子の歴史』,白水社,1965. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2507981 (参照 2023-01-28) | 2023-01-28 |
84 |  | 海野町レトロ写真館 活動報告 | 2019年度から2022年度にかけて、信州上田デジタルマップを活用のもと、上田市の海野町商店街に焦点を当てて、研究を行ってきました。 | 2023-01-28 |
85 |  | 丸子町① 下丸子町 | 明治前期の下丸子町。現代の下丸子の姿に近い。
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03MP0301080400 (信州デジタルコモンズ) | 2023-01-27 |
86 |  | お菓子の歴史(南蛮菓子時代) | 室町時代末期、ポルトガル人やスペイン人によって南蛮菓子が渡来した。南蛮菓子は、カステイラ(カステラ)、ボーロ、パン、金平糖、カルメラ、ビスカウト(ビスケット)などがあり、これらの菓子が後世の菓子に非常に大きい影響を与えています。
南蛮菓子は、砂糖の大量輸入と、砂糖菓子の製法を伝えて、無糖時代と有糖時代の間に明確な一線を引いただろう。
守安正 著『お菓子の歴史』,白水社,1965. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2507981 (参照 2023-01-27) | 2023-01-27 |
87 |  | はじめに | 上田市によると、『平成18年3月6日に、旧上田市、旧丸子町、旧真田町、旧武石村の1市2町1村が合併し、新しい「上田市」が発足しました。』とある。そのため上田の過去の資料を調査するにあたって上の4地域に分割して比較していく。
参考
”合併(平成18年3月6日)に関すること”,上田市,2019-12-12https://www.city.ueda.nagano.jp/soshiki/gyokan/6028.html(2023年1月27日閲覧) | 2023-01-27 |
88 |  | お菓子の歴史(点心時代) | 菓子は一日二回の食事の間に食べる間食用として長く続いていたが、鎌倉時代になると都会では三食制となったため、菓子は嗜好品になり、一般庶民からは縁のないものになった。
そのころ、茶が日本に渡来して、喫茶が流行した。その際に使用する菓子を「点心」と呼ぶ。もともと、点心とは定食と定食との間の小食であり、間食やおやつを意味する。点心には主に羹(あつもの)という汁と、まんじゅう類があり、それぞれ多くの種類がある。これらが和菓子の発展に繋がっていった。
守安正 著『お菓子の歴史』,白水社,1965. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2507981 (参照 2023-01-27) | 2023-01-27 |
89 |  | 皆勤賞(1928) | 1928年の西塩田村の学校における、皆勤賞に関する記事である。この記事を見て、当時から学校を休まないことを表彰する文化があることが分かった。また、25%もの生徒が1年間皆勤賞というところを見て、現在よりもはるかに高い数値に驚いた。おそらく当時は、今よりも学校を休んではならないという風潮が強かったのであろう。もしくは、外で遊ぶことが多かったから体が強かったのだろうか。
#234 「西塩田時報」第54号(1928年5月1日)2頁
https://mmdb.net/mlab/uedagaku/pdf/nishishioda/ns04_041to060.pdf | 2023-01-27 |
90 |  | 蚕種業における歴史的建築物について | かつて蚕種業で栄えた上田を参考に地域を活性化していく方法を模索した。
建築物の特徴としては、作業を行いやすいよう、屋敷をつなぐ渡り廊下跡があり、温度調節のための木造の暖房施設があった。発展を示す跡として、屋敷が多く建ててあり、家紋付きの瓦や蔵など当時の発展の象徴が多くあった。
今回の建築物は上田市上塩尻の建築を参考にさせていただいたが、養蚕に関わる設備跡はもちろん、目地時代当時の発展の様子や当時の文化を表すもの(家紋・猫瓦)が実在する資料として現存していた。これらの建築物は国登録有形文化財にもなっており、価値が高いものになっている。
今回のイベントを介して、建築物を見学することができたがそれらを通して、別の気づきがあった。地域の方が養蚕の歴史を詳しく知らない方がほとん | 2023-01-27 |
91 |  | かわいい見た目に全世代から人気のお菓子 餅屋伝助のウサギ餅 | 引用元:https://ueda-tabi.com/mochiyadensuke/
ウサギの形に丸めた可愛いお餅の中に、餡が入ったお菓子です。ウサギ餅はカスタードクリーム、カマンベールチーズ、チョコレートの3種類。上品な甘さがあり、ふんわりもちもちな食感、口溶けの良い柔らかなお餅に餡がマッチしていて、どの世代の人からも人気のお土産として愛され続けています。
この商品でのデザイン面を考えるにあたって着目すべきは本体のかわいらしいウサギの形でしょう。
ウサギの顔をデフォルメ化し表現したものや、簡単に耳のみを焼き目としてつけているものなど、昔から変わることなく愛されているこのデザイン。変にモダンチックな凝った仕上がりでなく、このような親しみやすい見た目だからこその愛され度合だと感じました。 | 2023-01-27 |
92 |  | 防空講習(1937) | 1937年7月7日に当時の上田中学校で、防空に関する講演があったと書いてある。防空とは敵の空中からの攻撃から身を守ることである。1937年7月7日は日中戦争が開戦した日であり、当時の学校にも戦争に対する緊迫感が漂っていたことが予測される。
#738 「西塩田時報」第165号(1937年8月1日)2頁
https://mmdb.net/mlab/uedagaku/pdf/nishishioda/ns10_161to180.pdf | 2023-01-27 |
93 |  | はじめに | 私は、大正・昭和初期における教育の特色について調べていきたいと思う。西塩田時報の学校行事などについて書かれた記事を参照して、当時どのような教育が行われていたのかを解き明かしていく。また、当時、軍国主義となっていった日本だが、教育にはどのような影響が及ぼされたのかなども詳しく見ていきたい。 | 2023-01-27 |
94 |  | お菓子の歴史(上古時代~唐菓子時代) | 日本のお菓子の歴史はとても古く、約2000年前の上古時代といわれている。菓子の名称については色々な説があるが、初めは「古能美(このみ、木の実)」、「久多毛能(くたもの、果物)」であり、現在でいう菓子とは違っている。
現在の菓子は唐菓子時代(奈良朝平安朝初期)に輸入された唐菓子が始まりとされている。
守安正 著『お菓子の歴史』,白水社,1965. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2507981 (参照 2023-01-27) | 2023-01-27 |
95 |  | 別所温泉駅 | 別所温泉には上田駅から上田電鉄別所線にのり別所温泉駅で下車することで行くことができる。
乗車時間は30分である
引用元:信州上田景観100選 | 別所温泉駅 https://museum.umic.jp/keikan100sen/detail.php?photo=31-1_31-2&dir=1031&area=%E4%B8%8A%E7%94%B0&cattext=%E3%81%BE%E3%81%A1%E3%81%AA%E3%81%BF%E3%83%BB%E9%83%BD%E5%B8%82%E6%99%AF%E8%A6%B3&imgtitle=%E5%88%A5%E6%89%80%E6%B8%A9%E6%B3%89%E9%A7%85&imgtext=%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E3%81%8B%E3%82%89%E6%AE%8B%E3%82%8B%E3%80%81%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%82%E3%82%8B%E7%B5%82%E7%9D%80%E9%A7%85%E3%81%AF%E6%97%85%E3%81%AE%E5%A7%8B%E3%81%BE%E3%82%8A&glat=36.353&glng=138.162&access=%E4%B8%8A%E7%94%B0%E9%A7%85%E3%81%8B%E3%82%89%E4%B8%8A%E7%94%B0%E9%9B%BB%E9%89%84%E5%88%A5%E6%89%80%E7%B7%9A30%E5%88%86%E3%80%8C%E5%88%A5%E6%89%80%E6%B8%A9%E6%B3%89%E9%A7%85%E3%80%8D%E4%B8%8B%E8%BB%8A%0D%0A | 2023-01-26 |
96 |  | 別所温泉の歴史 | 塩田平を囲む山なみの西方にそびえる夫神(おがみ)岳のふもとに、この地方の古い歴史とともに、絶えまなく湧き続けて来たのが別所の温泉である。この自然の出湯と人とのかかわりは、夫神岳の麓から古代の布目瓦が多数発掘されたことによっても、その古さが想像される。
国造や国府の所在していた古代から、庶民の安息療養の場所であり、また温泉の効能と医薬信仰が、やがて仏教の霊場としての北向観音堂となったであろう。
別所の温泉は昔から”七久里(ななくり)の湯”と呼ばれたといわれ、平安時代の有名な和歌集にもその名をとどめている。
鎌倉時代には北条氏の居館塩田城にも近いので北条一族の好んで来湯することも多かったと想像される。国宝八角三重塔のある名刹安楽禅寺は北条氏の開基によるところから、別所とい | 2023-01-26 |
97 |  | みすず飴のデザイン | 画像引用元:https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwiWoaP98-T8AhV1plYBHZdnCXAQjBB6BAgNEAE&url=https%3A%2F%2Fmisuzuame.com%2Fsp%2Fame%2F&usg=AOvVaw1an-aePxECBjNJ0dsY_4LF
上田のお土産というと思い浮かぶものの一つとして、みすず飴が挙げられる。みすず飴のデザインで特徴的なのは文字のフォントである。おなじみのフォントになっているので、誰もが手に取りやすくなっていると思う。今後も、このデザインは継承していくべきだ。また、透明なパッケージにすることで、みすず飴のカラフルさが際立っている。 | 2023-01-26 |
98 |  | ゼミ発表資料 | 参照
Vol113■とく☆とく信州 塩田平のため池群 | 楽園信州 https://blog.nagano-ken.jp/magazine/various/622.html | 2023-01-27 |
99 |  | 上田蚕種協業組合 | 上田蚕種協業組合は、大正5年に地元の蚕種家が出資して上田蚕種株式会社として設立したのが始まりである。現在の事務棟・採卵室など主要な建物が翌6年に完成した。その後、昭和45年から現在の社名となっている。最盛期には22万箱の蚕種をこの組合から出荷していた。
「上田蚕種協業組合」より
https://museum.umic.jp/bunkazai/document/dot25 | 2023-01-26 |
100 |  | 常田製糸場 | 【概要】
常田館製糸場は明治33年(1900年)創業の製糸工場である。笠原工業株式会社構内に常田館製糸場に関連する施設15棟が現存しており、そのうち明治から大正時代にかけて建てられた7棟が平成24年に国の重要文化財に指定されている。国内最高層の木造5階建繭倉庫、大正時代末の鉄筋コンクリート5階建倉庫群などは、製糸技術が発達した時代の先人達の工夫と知恵の足跡が歴然と残る貴重な文化遺産である。
【歴史】
嘉永5年(1852)諏訪郡平野村に生まれた笠原房吉(かさはらふさきち)が、明治33年「常田館製糸場」を創業した。以来110年余、製糸業の隆盛と衰退のなかで、製糸工場建物は増築・取り壊し・焼失・改築・移転・用途変更等の紆余曲折を経ながら今日に至っている。
【現在】
笠原工業(株)では施設の一部を一般公開している。
公開 | 2023-01-26 |