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1甘味処 雪屋conco甘味処 雪屋conco甘味処 雪屋conco 上田駅の近くにあり、徒歩3分ほどです。沢山の種類のかき氷があり、ふわふわでとても美味しいです。かき氷の他にもアイス、パフェ、プリンなどのスイーツ系もあれば、ソフト麺やカレーなど食事系のものもあります。かき氷は今どきなふわふわ系ですが、食事系のものはどこか懐かしさを感じるような暖かい味で癒されます。ここのお店の愛されポイントは、親近感だと感じました。入口に駄菓子屋と書いた駄菓子を購入できるコーナーがありました。幼い頃に戻ったかのようなワクワク感が楽しめます。また、子供連れにもいいと思いました。店内が木造で作られており、木の香りもして暖かい雰囲気がお店にピッタリだと思いました。2024-01-31
2十福の湯十福の湯上田市の有名な温泉です。露天風呂が素晴らしく、四季折々の景観を楽しむことができます。2024-01-31
3長福寺長福寺生島足島神社のすぐ隣にあります 平安時代に建てられた、歴史あるお寺です 端には八角のお寺、「信州夢殿」があります 信州夢殿は奈良法隆寺の夢殿の完全二分の一写しです 奈良時代の瓦を使うなど、職人の技が詰まった建築です2024-01-31
4生島足島神社生島足島神社上田てくてくマップに沿って街歩き開始! 上田の象徴的な神社である生島足島神社 池や鳥居がとても綺麗です 鳥居をくぐると、QRコードを読み取って解説を聞くことができます 音声に従いながら見て回るのがおすすめです 背景を知ることでより深く建物を見ることができるはずです2024-01-31
5白い壁の汚れの取り方白い壁の汚れの取り方このような古典的な方法は今での主流だと考える。 だが、現代は白い壁に汚れが付いた場合にアプローチする様々な方法がある。 『西塩田公報』第86号(1954年11月5日)4頁2024-01-31
6昔と現代の豆知識の変化昔と現代の豆知識の変化今はシミ取り用の洗剤、石鹸、等が普及しているが、当時はそのような便利なものがなかったので、容易に手に入る身の回りものでシミ取りを行っていたと考えられる。 今でもいざというときに使えそうなものはありそうだ。 『西塩田公報』第83号(1954年8月5日)4頁2024-01-31
7白山比咩神社白山比咩神社 白山比咩神社は、天平3年に上田地方において疫病が流行した際、加賀の国(石川)の白山より分産したとされる。弘安元年に現在の位置に再建され、眞田昌幸・信之などの戦国武将からの寄付状など、歴史を物語る資料が多く残されている。幕末から明治初期に信濃の地で活躍した宮大工の彫り物なども多数存在し、先人たちが地域の文化財として脈々と守り受け継がれてきたことが理解できる。  白山比咩神社は毎年初詣に行く神社であり、私の住んでいる地元住民に親しまれている神社である。初詣に行くだけで、石碑などの存在を認識していなかった。歴史についても調べる機会はなかったので、親しみある神社について知ることができ良かった。2024-01-30
8信濃国分寺跡信濃国分寺跡 信濃国分寺跡は、平将門の乱により消失した当時の国分寺が立っていたとされる場所である。昭和38年から46年にかけて行われた7回の発掘調査では、僧寺や尼寺が並ぶ伽藍配置と瓦、陶器などの遺物が発掘されている。全国の国分寺においても僧寺と尼寺が近接して建設されることは稀であり、10世紀頃の国分寺衰退の痕跡も確認できるなど歴史的価値の大きい遺産である。現在は、史跡公園として整備されている。  上田市が地元でありながら国分寺跡まで、足を延ばす機会がなかった。行くことがあっても道路沿いまでで、線路を挟んだ向こうにも続いていることを知らず驚いた。併設されている信濃国分寺資料館では、発掘時の釘や瓦を見ることができ当時の歴史を知ることができる。また、安楽寺八角三重塔の模型もあり細部まで構造を確認するこ2024-01-30
9石造多宝塔石造多宝塔 信濃国分寺石造多宝塔は、現在の多宝塔は屋根や塔身の一部に窪みがみられる。これは、削り取った粉を飲むと「病気が治る」や「お守りとするとよい」などの信仰から、民衆が削り取ったものとされる。各部の様式、手法などから鎌倉時代の造立と推定される。全国的にも石造による多宝塔は少ないが、上田市には常楽寺含め二つの多宝塔が現存しており貴重なものである。  三重塔などなどの複数の歴史的価値のある建物が存在していることは知っていたが、その細部まで見ることは無かった。国分寺と共に一体感や壮大さを体感でき、良い経験となった。平日に行ったため、人が少なくゆっくり見ることができ良かった2024-01-30
10祖父母宅の蘇民将来符祖父母宅の蘇民将来符 蘇民将来符は、毎年1月7日・8日の八日堂縁日にて招福除災を祈り、参拝者に授けられる護符のこと。信濃国分寺の蘇民将来符は、ドロヤナギの木を六角錘形に作ったもので、形状や模様の一つ一つに意味がある。6つの側面には「大福・長者・蘇民・将来・子孫・人也」の文字が記されている。その形状と図柄は民芸的に格調が高く、民俗学的にも貴重な文化財とされている。昭和43年4月には上田市の民俗文化財に指定されている。  祖父母宅には、以前から蘇民将来符があることは認識していたが、どんな意味があるかなど理解していないことが多かった。毎年購入し増え続けるため、何かしらの意味があるとは思っていたが、歴史・意義に興味を持つことは無かったので良い機会となった。2024-01-30
11松平氏とゆかりのある上田のスポット松平氏とゆかりのある上田のスポット 上田を治めた松平氏にゆかりのあるスポットを載せたマップを作製した。今まで紹介してきた記事に加え、4つのスポットをマップに加えた。  信濃国分寺の三重塔修復で紹介した松平忠周であるが、彼は正徳2年(1712)5月に山家神社の社殿を、正徳4年(1714)8月には紺屋町八幡神社の社殿も修復している(ただ、どちらの修復も三重塔修復より前の時代になる)。上田に引っ越してきて間もない忠周は、古くから上田住民の心の拠り所となってきた上記の神社仏閣を修復することで、上田領民の信用・信頼を得ようとしたのではないか、と私は考える。加えて、これから先、領内で天災や大きな事件が起こらないように、と土着の神仏に願かけをする気持ちもあったと思う。  山家神社であるが、額縁の『山家神社』という字は、上田最後の藩主で、知2024-01-30
12池と動物池と動物生島足島神社には神池があり、そこにはたくさんの鯉がいる。餌も販売しており、あげてみるとたくさん寄ってきた。奥の方へ進んで行くと鳥も発見!子どもでも楽しめるのではないかと感じた。2024-01-30
13生島足島神社生島足島神社生島足島神社には生きとし生けるもの万物に生命力を与える「生島大神」と、生きとし生けるもの万物に満足を与える「足島大神」の二神が祀られている。建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)が諏訪の地に下降する途すがら、この地にお留まりになり、二柱の大神に奉仕し米粥を煮て献ぜられてたと伝えられ、その故事は今も御籠祭という神事として伝えられている。 この日は七五三の撮影が行われており、以前行った際は結婚の撮影をしていた。行事で地域の人から親しまれる場所なのだと感じた。また、この神社のステッカーを車に貼っている人をよく見かける。これも地域の住民から親しまれている証拠だと思う。2024-01-30
14北向観音北向観音日本遺産の一つである北向観音を訪れた。 北向観音堂は、平安時代初期の天長2年(825年)、比叡山延暦寺座主の慈覚大師円仁により開創された霊場である。 寿永元年(1182年)には源平争乱の中、八角三重塔と石造多宝塔を残して全て焼失してしまうが、源頼朝の命のもと伽藍復興がおこなわれ、建長4年(1252年)、塩田陸奥守北条国時により再興された。北向観音様は北向に建立され 千手観音様を御本尊として現世利益を願う。祈祷では厄除・家内安全・商売繁盛・身体健全・交通安全をお願いすることができる。 率直に、想像していた場所よりも高いところにあると感じた。割といきなり北向観音が現れたように感じたが、周りと調和していると感じた。また、別所の街並みを見渡すことができた。2024-01-30
15北向観音堂北向観音堂平安時代初期に比叡山延暦寺座主慈覚大師円仁が開いた霊場。北向きの本堂は全国でもほとんど例が無く、南向きの善光寺本堂と相反している。「極楽住生」を願う善光と「両参り」し、ここで「前世利益」を祈ることで、御利益があるとされる。 商店街を抜け、北向観音堂に行った。当日は、屋台が出ていて、賑わっていた。善光寺と両参りすることが良いとされているため、上田市と長野市の観光業の連携が観光客を呼ぶための鍵になると考えた。2024-01-30
16上田わっしょい上田わっしょい上田わっしょいとはオリジナルの音楽に合わせて、上田わっしょいの掛け声のもと踊って、楽しむお祭りです。 1972年から地域の連帯を図りたいという思いから始まりました。今では長年続く市民総参加のイベントとなっています。 また、祭りにふさわしい曲が必要だとされ、「山があるから川がある」という歌い出しから始まる、市民なら一度は聞いたことの楽曲が誕生しました。2024-01-30
17信州上田祇園祭 ー下紺屋町にとっての祇園祭ー信州上田祇園祭 ー下紺屋町にとっての祇園祭ー下紺屋町は旧城下町自治会として、中心となって参加しています。祇園祭は下紺屋町にとって最大の行事であり、こどもから大人まで、地域の歴史の共有、社会参加意識、助け合いの精神を図る機会となっています。2024-01-30
18信州上田祇園祭信州上田祇園祭祇園祭の起源は869年、疫病の流行を鎮めるため御霊会が行われたことから始まりました。この御霊会が祇園祭の起源とされています。 上田市の祇園祭は、1584年6月12日真田正幸公が上田城へ入城された日が、土地の祇園祭であったことから「お城祭」とも言われています。 上田祇園祭は真田氏、仙石氏、松平氏の時代を経て疫病退散祈願、豊作祈願、地域安泰祈願を兼ねたお祭りです。平成18年には、信州上田祇園祭実行委員会組織され、宮神輿、樽神輿、こども神輿などを合わせて100基以上が集まり開催されました。今では地域に根付いたお祭りになっています。2024-01-30
19お盆にまつわる話①お盆にまつわる話①この記事では「お盆」という行事がどのように伝わってきたのか書かれています。この記事によると、どうやら中国の仏教がルーツのようです。 現代では、今は「何となく夏にある長期休みで実家に帰る期間」くらいに捉えがちですが、今一度、その由来やルーツを考えてみると発見があります。 このような記事が広報誌に載るくらい、お盆は当時の人々にとって関心の高い行事だったのでしょう。 この記事は以下から抜粋したものです。 『西塩田公報』第71号(1953年8月5日)1頁 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p1209.jpg2024-01-29
20どのくらいお盆は大切にされてきたかどのくらいお盆は大切にされてきたかこの記事では、お盆にふるまう料理を紹介しています。今ではこれだけ丁寧に料理を作ることは減ってきているかもしれません。 そもそも、この時代の人々はまだ遠く離れた人とやり取りする手段が多くはありませんから、こうしてお盆に親戚一同集まるというのはとても貴重なことだったと思います。 こちらの記事は以下より抜粋したものです。 西塩田時報よりhttps://www.mmdb.net/mlab/uedagaku/pdf/nishishioda/vol2.pdf2024-01-29
21安曽神社安曽神社鈴子、石神、柳沢の3地区の産土神(うぶすながみ)であり、地域の守り神。社伝によると、崇神天皇の御宇、国家安泰を祈願し、各地に天社国社を建てた時、御震筆阿曾山舎社(がしゃ)阿曾大明神の御勅額が奉納されたという古社。境内入口は東向き。参道脇には「郷社 安曽神社」と刻まれた社号標が建つ。鳥居をくぐり、木々の参道を進むと、立派な隨身門がある。隨身門の中には、左右に隨身像が安置されている。門をくぐると、砂利の境内。境内西奥に、両翼を広げた形の拝殿があり、拝殿の後方、垣の中に流造の本殿がある。 実際に訪れてみて、一歩境内に入ると、風情を感じられるような空間であった。特に印象に残っているのは、随身門である。とても立派な木造建築の門で、左右の随身像は守り神の様な存在感だった。2024-01-29
22昔から大切にされてきたお盆昔から大切にされてきたお盆これは昭和四年八月一日の西塩田時報より抜粋したもので、物価高騰でお盆の準備に困っている人は、組合が安く提供できると呼びかけているものです。 物価が高騰してもそれぞれの家で事前の準備がなされていることから、昔の人がお盆の大切にしていると読み取れます。 『西塩田時報』第69号(1929年8月1日)3頁よりhttps://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0301.jpg2024-01-29
23炭焼き小屋炭焼き小屋炭焼きや薪取りなどの山の仕事は主として冬の仕事であったため、冬の山は賑やかであった。良い炭を焼くには経験と勘が大切で、体力的にも大変な仕事であった。窯の造り方も経験を要するもので、窯の良し悪しで炭の出来具合が分かると言われていた。 実際に訪れてみて、石積みの作りから歴史と時代の流れを感じられた。訪れた時期が秋であったこともあり、周辺の紅葉がとても綺麗だった。2024-01-29
24西塩田時報から見る戦前の様子西塩田時報から見る戦前の様子西塩田時報を閲覧し戦前の様子を調べ、学んだことをまとめました。2024-01-29
25下之郷下之郷上田市の塩田地区に属する。 産川支流の尾根川が形成する扇状地の扇端部にあたる。生島足島神社横の十字路を中心に形成された塊村で、格子状の道路網を骨格として形成された交通の要地である。 天文22年(1553年)武田信玄が生島足島神社に下した安堵状に「下之郷上下社」とあるもので、上本郷(現・本郷)に相対する地名と考えられている。 駅から徒歩ですぐのところに生島足島神社があるため、観光に訪れる際には別所線がとても便利だと感じた。駅の待合室の外観も神社に似た赤と白が基調となっていて、駅に着いた時点から神社の雰囲気を人々に感じさせるという工夫がなされているのではないかと考えた。2024-01-29
26神畑神畑1921年(大正10年)6月17日に上田温泉電軌により、川西線の駅として開業した。 地名の由来は下之郷生島足島神社近く、同社の神服部が神畑と訛ったものといわれる。 開業時から無人駅である。 民家やアパートなどが立ち並ぶところに位置している。当駅は周辺に住む多くの学生が利用している印象がある。学生たちにとってはとても利便性の高い駅なのではないかと感じた。2024-01-29
27上田原上田原東西に国道143号、上田電鉄別所線、北東から南西に県道上田丸子線が通じる。東部の倉升山麓に発達する扇状地と、産川、千曲川が形成する河川段丘の上に立地する地形で、地名の由来となっている。 中世は小県郡小泉荘の一部をなし、下之条に跨る一帯は天文17年(1548年)に起きた上田原の戦いの古戦場跡である。 当駅は別所線内で全15駅のうち、上田駅に次ぐ2位の平均乗車人員。一日の利用者数が多いために、当駅には待合室のほかに、下車の際に整理券と料金を渡す手間を省くことのできる、券売機もあるのではないかと考えた。2024-01-29
28参考資料参考資料今回の地域キュレーションで活用した上田の商店街とショッピングセンターに関する文献です。 https://www.geoenv.tsukuba.ac.jp/~chicho/nenpo/43/03.pdf 地方中心商店街における現状と課題 -長野県上田市うえだ原町一番街商店街を事例に-2024-01-29
29プチラパンプチラパン上田市の海野町商店街にあるオムライス屋さんです。隠れ家的なお店で、ローカルテレビ番組でも紹介されています。絶品オムライスが味わえるのでぜひ訪れてほしいです。2024-01-29
30生島足島神社生島足島神社長野大学の近くにある神社で、日本遺産にも指定されています。赤い鳥居が特徴的です。上田市に来たら訪れてほしいスポットの一つです。2024-01-29
31ザザムシ、信州昆虫食調査を通してザザムシ、信州昆虫食調査を通してさて、信州の昆虫食レポートの最後を飾る食材はこちら。「ザザムシ」。私は長野県に来るまでこの食材を知らなかった。ザザムシとは伊那市にのみ残る伝統的な昆虫食だそうで、以前は長野県全体で食べられていたものの、残念ながら上田氏にはザザムシ漁の文化は残っていないらしい。今回ばかりは伊那市のレポートになってしまうのだが、それでも調査によって発見したことや気づきがあったので共有したい。改めてザザムシとはトビケラ、カワゲラ、ヘビトンボなど、川虫のうち食用にする幼虫の総称である。天竜川で最も「ざざむし漁」が盛んで、天竜川漁業組合が許可した漁師でないと漁を行うことができない、れっきとした産業である。山国である長野県では動物性タンパク質の確保が難しかったが、伊那市では川魚屋がザザムシを採集し、加2024-01-29
32蜂の子蜂の子前回に引き続き昆虫食を紹介する。今回は信州昆虫珍味の中でも特に美味しいと言われる機会が多く、一部の家庭では比較的常習的に食べられている蜂の子を調査した。  信州で主に食べられている蜂の子はクロスズメバチの幼虫らしく、この種は地中に巣を作ることから「地蜂」とも呼ばれるそうだ。一部地域ではクロスズメバチを「スガレ」や「ヘボ」という特有の名称で呼ぶ地域もある。蜂を食べる行為は実は全国的に類似例が多く存在する。信州蜂食の中心地伊那市では蜂の子を採るために「蜂追い」なる独自的な伝統技法があり、これは生態系の文化的・供給サービスの代表的な例としてあげられるだろう。クロスズメバチが多く生息する中部地域でも地域によってその食慣行には差があり、食用としての蜂採取は信州内で、より積極的な動きが2024-01-29
33蚕のサナギ蚕のサナギ 前回イナゴを中心に信州の昆虫食について紹介したが、今回を含めあと三回投稿する。今回の主役は蚕だ。  上田市は過去、蚕糸業において国内でも有数の産地として名を馳せていた。今は蚕糸業は見る影もないのだが、現在のその面影を拝むことができる。その一つが蚕のサナギの佃煮である。前回紹介を失念していたが、イナゴ、蚕のさなぎ、次に紹介する蜂の子、ザザムシの佃煮は伊那市の食品会社「つかはら」で製造された物である。購入したのはツルヤ神畑店である。(身近に売っていて驚いた。)  蚕の歴史をさかのぼると、195年、百済によって蚕種が日本に伝えられ、283年には養蚕と絹織物の技術が伝えられた。実は日本では生糸だけではなく蚕種の輸出も経済発展を支えていた。韓国、中国、タイなどを中心とした東アジア地域では高級2024-01-29
34イナゴイナゴ 今回は信州の珍味の一つイナゴについて調査した。というのも、現在様々なフィールドで昆虫食が話題を呼んでおり、今後の食糧問題や、宇宙食の代表品目として注目されることが増えてきた。長野県(主に南部)では昆虫を食べる文化があったと聞き、さらに上田市でも養蚕業の傍ら蚕のサナギを食べることもあったという。長野県は100年ほど前に一般的に家庭で食べられていたイナゴや蜂の子の佃煮を商品化したことで県内に昆虫食が普及したのだという。現在では好んで昆虫を食べる人は少なくなってしまったが、現在でもザザムシを使った新商品を開発した高校生がおり、未開の昆虫食の可能性があるといえる。2024-01-29
35常田館製糸場常田館製糸場常田館製糸場は1900年創業の製糸工場である。 笠原工業株式会社構内に常田館製糸場に関連する施設15棟が現存していて、そのうちの明治から大正時代にかけて建てられた7棟が平成24年に国の重要文化財に指定されている。 上田駅から歩いて15分くらいで行くことができる。 たくさんの歴史が感じられる製糸場に関連する施設があり、国の重要文化財がこんなに近くにあることに驚いた。2024-01-28
36上田城上田城上田城跡公園は、上田駅から徒歩12分で行くことができる。 上田城は1583年に真田昌幸によって築かれた平城で、上田盆地の中央に位置している。 堀と土塁で囲まれ、出入口に石垣が使われている簡素な城であるが、第一次、第二次上田合戦で徳川の大軍を撃退し、天下にその名が知られる有名な城となった。 春は桜が咲いており、とても綺麗で上田城の見どころのひとつである。 四季によってさまざまな上田城の姿を見ることができる。 上田城 桜2024-01-28
37上田城のデジタルアーカイブ上田城のデジタルアーカイブ2024-01-28
38疾走!第二回福柳神疾走!第二回福柳神2024年の三が日最後の朝上田市の柳町にて第二回福柳神が行われた。昨年に続き長野大学生と柳町によって開催された。今年は昨年の30人から60人に増えたことや、大学生のみの参加から高校生や大人など参加層の幅が広がるなどの進化を遂げた開催となった。 一位を今年の福柳神とし上位七名に景品が渡される。また今年はコスプレ賞が設けられるなど走る人に限らず見た人も楽しめるような内容になっていた。 写真は表彰式のものでコスプレしている姿も見受けられる。 表彰式後は参加者同士の親睦会があり、蒸し蕎麦や豚汁などがふるまわれた。その後数名のチームに分かれ羽子板大会が開かれた。 去年に続き今年も盛り上がった福柳神。 来年もぜひ開催されることを願っている。2024-01-27
39上田城下町映画祭上田城下町映画祭上田城下町映画祭のお手伝いを長野大学の課題探求ゼミのメンバーで行った。 上田でのロケ作品を始め自主製作映画コンテストや映画関係者のトークショーが行われた。 私は自主製作映画を見たのだが、今日SNSなどに自身や周囲の動画などが投稿できる時代の中で明確なテーマをもとに作られた映画はやはりそこにしかないものがあった。映画祭と同時進行で行われていたため多くは上田映劇に人が集まっていたが、ぜひ次回行われるときは自主製作映画コンテストを見てほしい。 当日は受付やトークショーの記録を行ったが映画監督のお話が直接聞けるなど日常では体験できないことばかりだった。2024-01-27
40上田駅デザイン上田駅デザイン城下町上田の名残が残った駅の下の方の黒地に白のあみあみのデザイン。上田のPRのためにこのようなデザインがされたのかもしれないが街の統一感が出ているデザインがここ上田駅にもある。2024-01-26
41第4回花火を楽しむ会第4回花火を楽しむ会今年4回目になる花火を楽しむ会に行きました。 MIZUMATCHの皆さんが上田市内外から見に来る人の車を整備していました。 整備している人が大学生だと知ると、大学生がかかわっていることに関心を持つ人が多く大学生がイベントなどで参加者ではなく運営側にいるということにはほかに人を感心させる魅力があるのだと気付いた。 また、授業の一環などではなく有志で活動していることが印象的だったらしい。 学生が活動する姿に関心を持つ機会が増えるとうれしいな。 写真はその中の花火の一部であり、拡大せずに大きく見えることからも近く、大きい花火が見れたことがわかるだろう。2024-01-26
42上田市街をフィールドワーク上田市街をフィールドワーク10月自分の所属している課題探求ゼミにて上田市街のフィールドワークを行った。 お昼の時間から午後にかけてだったためお昼を求めkadokkoさんへ行ったものの本日は休業であった。 写真はその後、教授おすすめのニュービーナスというお店に向かう途中の路地の様子。日中の静寂な空間と華やかな看板がとても印象的であった。 フィールドワークを通してすれ違う人と挨拶から始まりお話をするということがあったが、皆さん楽しそうに話す方ばかりで、学生と話せることがうれしいのだそう。 もっと密着した活動ができたら楽しいだろうな。2024-01-26
43上田市有名どころ地酒6蔵上田市有名どころ地酒6蔵上田市にある日本酒の酒造6つを紹介していきます! このお酒はすべて上田市別所線改札にある居酒屋番長で飲むことができます!!!!!! つきよしの、信州亀齢、和田龍登水、瀧澤、山三、互!!!!!2024-01-26
44御食事処「かめや」御食事処「かめや」長野大学にも近いところに位置している、かめやは別所線神畑駅からも大変近くアクセスしやすいのではないだろうか。ここでは揚げ物や生姜焼きなどの定食やかつ丼やチャーハンといった丼物、肉うどんやラーメンの麺類、一品料理もあり、何を食べるか迷ったらかめやに行けば良いといえるくらいにメニューが豊富である。経営されているご夫婦もとても親切で、お店の雰囲気もよく、一度訪れるとまた行きたくなる衝動に駆られる。上田に足を運んだ際は、ぜひ行ってみてほしい。2024-01-26
45安楽寺安楽寺安楽寺は長野県上田市別所温泉にある曹洞宗の寺院。山号を崇福山と称し、院号は護国院。開山は樵谷惟仙(しょうこくいせん)。本尊は釈迦如来。国宝の八角三重塔があり、長野県で最古の禅寺であることで知られている。 安楽寺の八角三重塔は国宝に指定されているだけあって、迫力があった。八角三重塔にむかうまでに急な階段を上らなければいけないのだが、高齢者の方や、足に障害を持っている方には厳しいと思った。2024-01-26
46安楽寺八角三重塔安楽寺八角三重塔安楽寺八角三重塔は、全国で唯一の八角形の塔で、国宝に指定されています。建築様式は禅宗様で、鎌倉時代に仏教が入ってきた時期を示しています。このような八角の塔は中国では一般に見られるものということから、信州上田の地では、外国の文化を積極的に取り入れ異文化交流を行っていたのかと想像しました。また、禅寺である安楽寺は本当なら本尊は釈迦如来ですが、この塔の内部には大日如来が安置されています。このことから、やはり降水量が少なく日射量が多い上田という地で、幅広い人たちから大日如来は信仰を集めたのかと感じました。2024-01-26
47塩田平の民話や伝説について まとめ塩田平の民話や伝説について まとめ塩田平の民話は、現場に行って体験しないと気づかないこともあると思った。例えば、前山塩野神社の伝説の拝殿に彫刻された龍が出てくる話は、文だけを見て、龍は一匹だけなのかなと思って読んでしまったのだが、実際に前山塩野神社を見てみると、龍は複数彫られている。(写真参照)そのことから、目玉をくり抜かれた龍はどれだったのか。はたまた複数いたのではないか。と色々考えることができるため、現場に行かないと分からない面白みが塩田平の民話にはあると感じた。したがって、塩田平の民話に興味を持った際には、ぜひ民話の現地に行って体験してみることをおすすめする。また、縁結びの美欄樹の話など、インターネット上で紹介されていない民話が塩田平には存在していたことが分かった。加えて、自分が調べた限りでも、塩田平2024-01-26
48縁結びの美欄樹縁結びの美欄樹出典  藤沢衛彦 編『日本伝説叢書』信濃の巻,日本伝説叢書刊行会,大正6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/953569 (参照 2024-01-25) 自分が調べた限りでは、ネット上にこのお話の詳しい説明が書かれた記事がなかったので取り上げてみた。現在、この木は無いそうなので、そもそも塩田平の方々もほとんど知らないようなマイナーなお話なのではないかと感じた。別所温泉で縁結びと聞くと、北向観音前にある「愛染かつら」を思い浮かべるが、他にもこのような木がかつてあったことを初めて知った。もし仮に、現代にもこの木が残っていたとしたら、現在の別所五木が別所六木になっていたのかもしれないほどのストーリーを持っていると思った。2024-01-26
49舌喰池の伝承舌喰池の伝承塩田の里交流館「とっこ館」の正面道路を挟んで向かい側にある大きな池のお話。 伝承の内容 舌喰池が作られたころ、土手から水が漏れてしまっており、人柱を入れないと水が貯まらないという話がどこからか伝わっていた。(人柱とは、人を生き埋めにして祈ること。)結果的にくじ引きで、村外れの娘が人柱として選ばれた。その娘は、自分の不運を嘆き、舌を食い切り池へ身を投げ、死んでしまったそうだ。その後、村人たちはその出来事を受けて、この池を「舌喰池」と呼ぶようになった。   現在の舌喰池は、とても綺麗で、決してそこで人が死んでいるような印象は受けなかった。池周りの「憩いの広場」の芝も短く刈られて整備されており、とても大切にされているような印象を受けた。そのことから、地域の人々がその悲しい出来事2024-01-26
50前山塩野神社の伝承前山塩野神社の伝承この神社は独鈷山の麓にある神社で、独鈷山の山岳信仰から生まれたとされている。境内は木々に囲まれており、外界と隔てられたような神秘的な印象を受けた。 伝承の内容 昔、この神社に彫られている彫刻の竜が、夜に御神木で遊んでいたそうだ。そのうちにその木の枝が折れて枯れそうになってしまい、村人たちは困っていた。そこで、その竜を掘った人に頼んで、目玉を取ってしまった。その後のある夏に大夕立が起き、御神木に雷が落ちて煙が上がり、折れてしまった。村人たちは、竜の目玉を取らなければ、竜が雨を降らせて御神木の火を消してくれたのにと後悔したそうだ。  実際に前山塩野神社に行ってみると、御神木には柵と屋根がついており、この伝承の出来事以降、大切に守られてきたのかなと感じた。竜が雨を降らせてくれる2024-01-26
51とっこ館についてとっこ館について塩田平の民話を調査するにあたって、とっこ館を見学したが、それがどのような施設だったのかを紹介する。見学を通して、とっこ館は塩田平の歴史・文化を学べるところになっていると感じた。具体的には地域の歴史や遺産の紹介がされている展示物や、上田市周辺で産出する鉱物などが展示されており、図や実物を見て、塩田平地域の文化や歴史を分かりやすく理解することのできる施設になっていると感じた。塩田平の歴史・伝承を知りたい人、特に、上田市に来たばかりで、塩田平地域について全く知らない人などはとっこ館を利用すると、塩田平がどんな地域であるのかが大体把握できると思った。 (館内写真は撮影・掲載の許可を得て掲載しています。)2024-01-25
52上田市のおすすめカフェ上田市のおすすめカフェ上田市古里にあるコンテナカフェ。 コンテナではギャラリーを楽しむこともできます。ギャラリーは1時間制となっています。 solとはラテン語で太陽という意味であり、”生活に+太陽を、毎日に+solを”がコンセプトとなっており、行くと元気をもらえるような素敵なお店です。 メニューが豊富で、季節ごとのメニューなどもあるため、通い続けたくなるようなお店です♪2024-01-25
53雨宮刑部雨宮刑部 上田原の合戦において、村上方の将として奮戦した雨宮刑部正利(あめのみやぎょうぶまさとし)、そのお墓である。  上田原の合戦において、多くの将兵が討ち死にした。上田原には、雨宮刑部の他に、屋代源吾や小島権兵衛など、村上軍の将、武田軍では板垣信方など、いくつかのお墓がある。それぞれ比較的近くに立地しているため、気になっている人は、ぜひ行ってみてほしい。2024-01-25
54観音寺観音寺 上田原の合戦において、武田側では、重臣である板垣信方や甘利虎泰などが、村上側では雨宮刑部や屋代源吾、小島権兵衛など、名だたる将たちが討ち死にした。  しかし、それ以外にも歴史に名を残すことはなかったが、勇敢に戦い、死んでいった将兵たちが数多く存在する。観音寺は、そんな将兵たちを弔っている。  寺は住宅地の中、少し奥まったところにあり、一度気づかず通り過ぎるところだった。画像のように、奥に入る入り口には、「上田原合戦戦没将士菩提寺入口」の碑が立っており、その奥に見えるのが観音寺である。2024-01-25
55美味しいジェラートが食べられるお店美味しいジェラートが食べられるお店上田市下之郷にある「豊上モンテリア」 日替わりのジェラートをリーズナブルな値段で味わうことができます♪ 期間限定メニューもあるので年中楽しむことができます。 また、焼き菓子の販売コーナーもあるので、お土産などにもぴったりです。2024-01-25
56上田城上田城上田城を訪れた際に、桜を見ました。 桜にお城の風景が相まってとても美しかったです。 今まで、歴史文化スポットに興味がなかったのですが、これを機にお城や文化スポット巡りをしてみたいと思いました。 上田城は四季折々の催し物が開催されているので、大学在学中に見に行きたいです。2024-01-25
57上田城千本桜まつり上田城千本桜まつり毎年3月下旬から4月上旬にかけて上田城跡公園にて行われている千本桜まつり。 千本桜まつりでは、上田のご当地グルメや特産品が集結するため、上田のグルメを堪能することができます。 夜にはお堀を囲むように咲く桜が幻想的にライトアップされます。 日本夜景遺産にも認定された美しい風景をお楽しみください。 千本桜まつりは上田市を代表するイベントのひとつだと思うのでぜひ訪れてみてほしいです。2024-01-25
58上田市のカフェ上田市のカフェ上田駅近くにあるVACILANDO COFFEEに行きました。 駅から徒歩10分ほどで着いたので、立地がとてもよかったです。 このお店は、コーヒーに力を入れていて、様々な種類のコーヒーを紹介してくださいました。 店員さんもとても優しく丁寧な接客をしてくれて、とても素敵なお店でした。2024-01-25
59上田市のカフェ上田市のカフェ上田市にあるABSTYLE_UEDAに行きました。 友達とインスタで見つけて気になっていたので、行ってみました。 店内は落ち着いた雰囲気で居心地が良かったです。 ワッフルとドリンクも美味しかったです。2024-01-25
60別所 part2別所 part2 前回では、「北向観音」「岳の幟」と別所にまつわる、多くの人に興味をもって頂きたいと思うものをのせた。  そして今回は、別所の大きな温泉施設である「あいそめの湯」について紹介する。別所温泉にあるあいそめの湯は、信州の鎌倉・塩田平の西側に位置し、古くは「七久里の湯」と呼ばれ枕草子にも登場する信州最古の温泉である。 ●開館時間:10時〜22時 ※入館受付は21時20分まで ●休館日:毎月第2・第4月曜日(第2・第4月曜日が祝日の場合は翌日が休館日) ●料金  大浴場、露天風呂、福祉風呂(予約制)  未就学児童 無料  小中学生 250円  一般 500円  障害者手帳をお持ちの方については、大人250円、小中学生120円 ● ボディソープ・リンスインシャンプー(無料) ● ドライヤー(無料) となっている。(あいそめの2024-01-25
61北向き観音堂北向き観音堂平安時代初期に比叡山延暦寺座主慈覚大師円仁が開いた霊場。厄除観音として昔から信仰を集め、長野市善光寺と向かい合うように本堂が北を向いている事から北向観音と呼ばれるようになった。「極楽往生」を願う善光寺と「両参り」し、ここで「現世利益」を祈ることで、御利益があるとされる。 手水舎には境内から湧出している温泉が使われていて、とても温かい。 ここでは上田市の景色を眺めることが出来る。 北向き観音堂に行くまでの道中も、魅力があふれているためおすすめスポットである。 日本遺産に登録されている北向き観音堂はぜひ訪れるべき場所だ。2024-01-25
62いにしえの丘公園いにしえの丘公園長野大学から30分ほど歩いたところにある公園です。 古墳が2つあります。 秋に行った時は紅葉がとてもきれいでした。2024-01-25
63信州上田大花火大会信州上田大花火大会スターマインなどの約8千発の華やかな花火が空に打ちあがる。上田市夏の風物詩となっており、多くの人でにぎわいを見せる。土手から見る花火もきれいだが、別所線に乗って見る打ち上げ花火もとてもきれいである。2024-01-25
64別所 part1別所 part1 探求テーマとして、私は「別所を盛り上げるには」と設定した。今よりも多くの人に、別所のことを知ってもらい、別所でのイベントや行事について興味を持ってもらうとともに、足を運ぶ人が増えることがこのゴールであると考えた。  そこで、まず初めに、別所の大きな観光地である「北向観音」についての基本情報をあげた。  そして今回は、自分ができる、行っている活動を紹介する。  part1では、岳の幟について紹介する。 岳の幟は、7月の夏に行われているもので、別所温泉に伝わる雨乞いの祭りである。青竹に色とりどりの反物をくくりつけた幟の行列が練り歩き、笛や太鼓に合わせてささら踊りや三頭獅子舞も奉納されます。国の選択無形民俗文化財に指定された珍しいお祭りになっている。 (上田市ホームページ、信州上田観光2024-01-25
65上田城上田城真田真田昌幸によって築城された上田城は、徳川軍を二度にわたり撃退した難攻不落の城である。 上田城は自然が多い場所で、夏は避暑地となっていた。 また頂上から見る景色は、上田を見渡すことが出来絶景スポットとなっている。 春は上田城千本桜まつり・秋には上田城紅葉まつりが行われ、多くの人々が訪れ賑わいを見せる。 2009年に公開された映画「サマーウォーズ」では、ヒロインの実家、陣内家お屋敷の門として登場することで話題となった。多くのファンが訪れるスポットである。2024-01-25
66上田城内上田城内上田城は、真田昌幸が真田氏当主であった1583年 に築城が開始された平城である。1585年の第一次上田合戦では攻め寄せた徳川軍を撃退し、その後、関ヶ原の戦いの第二次上田合戦でも東軍別動隊の徳川秀忠軍を退けた。のちに天下統一を成し遂げた徳川軍を二度も退けたことにより、「落ちない城」として現代でも語り継がれており、受験シーズンには合格祈願をする受験生で賑わうことが多い。2024-01-25
67信濃国分寺三重塔信濃国分寺三重塔寺伝では1197年に源頼朝が善光寺参詣の帰途、寺の衰退を憂い、塔の復興を命じたという。建築様式から、室町時代に建立されたものと推定され、「和様」の外観は堂々と落ち着いた雰囲気を呈している。 周りに住宅や道路が多くあったが、生島足島神社と違って信濃国分寺は、お寺に近づくにつれ景観が古風になり、落ち着いたものになっているように感じた。生島足島神社も地域に根差している神社だが、信濃国分寺は上記のような繋がりで町と調和していたように感じた。2024-01-25
68眞田神社眞田神社東虎口櫓門を抜けると眞田神社がある。案内板によると上田城を築いた真田父子を主神とし、民政に尽くした仙石・松平の歴代藩主を祭神とした神社だという。眞田神社には合格祈願に訪れる学生の姿が見られた。日本一の智将といわれた真田幸村は今でも智恵の神様としてあがめられていることがうかがえた。2024-01-25
69信濃国分寺信濃国分寺信濃国分寺本堂は文永12年に起工、万延元年に竣工され、彫刻・絵様は江戸時代末期の特徴が表れている。住宅街の中にあり、訪問した時は人があまりおらず静かな雰囲気だった。思っていたよりも大きく立派で本堂だけでなく周りの石畳や石造からも歴史を感じた。三重塔の前には紅葉が見られ、とても映えていた。上田地域の、雨が少なく太陽が出る気候も国分寺の建設地に選ばれた理由のひとつと考えられる。日本遺産のストーリーにある「太陽」というワードに関連する文化財であると考える。2024-01-25
70生島足島神社生島足島神社太古より国土の鎮守と仰がれ、国の中心にある神社。生島大神・足島大神が鎮座されているとされ、神池に囲まれ、台地そのものの土間が御神体となっている。参道は、夏至に東鳥居・東御門から朝日の太陽が昇り、冬至には西鳥居・西御門に夕日の太陽が輝くため、「太陽」と「大地」を結ぶ神社と呼ばれている。 美しい神池に囲まれ、朱色の生える神社だった。長い歴史のある神社だが、それを感じさせないほどきれいであり、長い間丁寧に管理や修繕されてきたことが見受けられた。2024-01-25
71Cafe sproutCafe sprout信州上田にある見晴らしの良い塩田平にあるカフェ スプラウトに行ってきた。 発芽珈琲や発芽玄米を使ったメニューが人気。2024-01-25
72砥石城砥石城 今回の記事は砥石城。砥石崩れの舞台である。  砥石崩れは、武田信玄と村上義清の戦であり、信玄の人生で二度目の敗北となった場所である。武田軍は数的有利な状況で砥石城を攻めたが、砥石城はかなりの堅城として知られ、信玄でさえも攻めあぐねた。その後信玄は、援軍に来た村上軍と砥石城守備隊に挟み撃ちされる形となり、這う這うの体で撤退した。  この砥石崩れの後、武田家信濃先方衆である真田幸隆(幸村の祖父)が調略で砥石城を落とした。  実際に行ってみた感想としては、さすがは信玄を負かした城、上るのがとても大変だった。一応道が整備されてはいたが、急な坂や階段が多く、運動不足の私にはなかなかきつかった。  もし、行ってみようという人がいたら、しっかりと覚悟をしてから言った方がいいだろう。ただ、2024-01-25
73上田城の観光ポイント上田城の観光ポイント上田城といえば大河ドラマ「真田丸」の舞台となったことで有名である。上田城はドラマの影響で観光客が増加し上田に大きな経済効果を及ぼした。ほかにも上田市を舞台とした「サマーウォーズ」では上田城の東虎口櫓門が作中でモデルになっており聖地として親しまれている。また上田城周辺ではマンホールに真田六文銭が描かれていた。上田地域の人々にとって上田城や真田はシンボル的存在になっているのではないかと感じた。2024-01-25
74常楽寺 石造多層塔常楽寺 石造多層塔常楽寺境内北向観音の出現地にある石造多宝塔のすぐ右がわに、総高168cm、五層のよく整った層塔が一基建っています。これが多層塔といわれる石造塔です。 鎌倉時代に建てられたものです。 一時はこの石造塔群がどこかに流出して、一基も無くなってしまいました。しかし、研究家が捜索する中で滋賀県に一基あることを見つけ、上田市に戻ってきました。 説明には「多層塔の各層の笠の反り、軒の厚み、相輪の形、一層から上層へ次第に減らした安定感など、鎌倉時代の特徴をよくそなえたりっぱな多層塔です。」とあります。 実際に見た感想としては、素朴な感じながらも安定したような、重厚感があるなと思いました。2024-01-25
75イオンスタイル上田イオンスタイル上田駅を降りて、坂を上った先にあるショッピングセンター。 2階構造とコンパクトなサイズながらも幅広い商品を扱っている。特にタワーレコードは甲信越地方でも数少ない貴重なCDショップで、多くの上田市民がお世話になっていることだろう。 また最近リニューアルオープンを遂行。H&Mやセカンドストリートなど若者の需要に合わせた店を取り入れた。 大学生にとってはややアクセスのしやすさはアリオに遅れをとるが、アリオとよい競争関係を生み出しているに違いない。2024-01-25
76平日・夕暮れの商店街(2)平日・夕暮れの商店街(2)海野町商店街などでは、現在、タワーマンションの建設が進んでいる。これは中心街の人口が増えていることに起因する(特に高齢者層) しかし商店街の継続のためには、高齢者のニーズに合わせていくだけでなく、学生などの若者を引きつける魅力をつくることとの両立が求められている。 西にはアリオ、東にはイオンという大手商業施設を構えている中、これらと商店街の共存が、上田の課題である。2024-01-25
77保育園の送迎バス保育園の送迎バス上田市内を車で巡っていると、よく保育園の送迎バスを見かけます。 中にいる小さな園児たちが笑顔で手を振ってくることもあります。朝大学に行く道中でもバスを待っている親子も見かけます。朝の送迎は親にとって時間がない中で行うので大変ですよね… その負担を軽減できるので助かっていると思います!2024-01-25
78山に囲まれて山に囲まれて上田は周りを山に囲まれた盆地である。そのため降水量が少なく、夏は暑く冬は寒いという特徴がある。 私の出身地は茨城県南部であるため夏はムシムシとし冬はカラッとしている。今年から上田に住み始めて、夏の紫外線量の多さと乾燥具合いには慣れるまでに時間がかかったと感じる。 また、関東平野と違い、周りを360°山に囲まれているのは最初のころは慣れず、ずっと旅行気分であった。 このような場所で生活するのは息苦しくなるものかと思ったが案外そうでもなく、綺麗な山の自然を見ると癒される気さえしてくるのだ。2024-01-25
79平日・夕暮れの商店街(1)平日・夕暮れの商店街(1)上田駅前には長い商店街がある。レストラン、八百屋、衣料品、薬局、書店が点在。かなり歩くが、この通りにはライブハウスも。 金曜日の夜になると、飲み会・打ち上げのため多くの社会人や学生が居酒屋を巡り楽しく騒いでいる。2024-01-25
80別所神社別所神社別所神社は、古くから熊野社といわれていて、社伝によると、紀州の熊野本宮大社からの分祀されたといわれている。明治11年までは熊野社とされていたが、以降は別所神社に改められた。横には神楽殿もあり、別所が一望できる。現在では、神楽殿を利用したヨガなどがある。 建築様式や、建物を飾る彫刻も華やかで、建築物として優れ、当初の形式がよく残され、文化財として保存価値の高いものです。2024-01-25
81上田城の地形上田城の地形上田城は難攻不落の城といわれた防御力に長けた城だった。南端は千曲川の分流である尼ヶ淵に面しており、上田泥流層が浸食されて作られた崖になっている。実際に見てみると10mほどの崖になっていた。江戸時代は分流が流れていたためより防御力があったと考える。自然地形を巧みに利用した防御機能は、上田城が難攻不落といわれる大きな要因ではないだろうか。2024-01-25
82Ario 上田Ario 上田 駅からのアクセスもよく、老若男女問わず地元の人々から愛されている大型商業施設。  イトーヨーカドーやAZULなどの衣料品店、レストラン街や雑貨店、また映画館も隣接している。 近々リニューアル予定らしい。2024-01-25
83菅平でウインタースポーツ菅平でウインタースポーツ 上田駅から車で40分。私は菅平高原のスキー場を訪れた。初めてのスノーボードをやるためだ。 私の地元では雪は降ってもまったく積もらない程度なので、一面の雪景色に感動したのを覚えている。 前日に雪が降ったためか雪は新雪でいくら転んでも平気であった。初めてであったがそれなりに滑れるようになったのは嬉しかったし楽しかった。 上田ではこのような体験が身近に体験できることに羨ましさを感じた。2024-01-25
84長福寺長福寺長福寺はその八角のお堂は信州の夢殿と称されている。奈良の法隆寺の夢殿完全二分の一に写し、瓦なども奈良のものを使用するなど、当時の匠の技術が集結した昭和を代表する建築である。実際に見てみて、これまで見てきたものと比べて、八角形が珍しく、感じた。縁起のあるものとされているのだから、もう少し、存在感を強調したほうがいいと感じた。この時は見ることができなかった、長福寺銅像菩薩立像があるのだが、これは国の重要文化財にもなっていて、飛鳥時代の歴史遺産として、いつかは見てみたいと感じた。2024-01-25
85活気溢れる・上田わっしょい活気溢れる・上田わっしょい 八月某日、上田市内で行われた上田わっしょいという祭りを見に行った。当初は規模の小さい地域の催し物程度の認識であったが、実際に見物して印象がガラリと変わった。  それぞれの地区に分かれて集団で神輿を担いでいる様子はとてもエネルギッシュで熱気が直に伝わってきた。これは一度は見に行ってみて欲しい祭りの一つである。2024-01-25
86戦前と戦後の北海道新聞における文化の移り変わり戦前と戦後の北海道新聞における文化の移り変わりまず初めに何故北海道新聞で文化の移り変わりを調べたかったのかというと西塩田時報で様々な大正から昭和にかけての記事を閲覧していた際に自分の地元ではどのように変化していったのか素直に興味を持ったからだ。 そこで今回は現代の北海道新聞と昔の戦前の新聞を用いて文化をそれぞれ比較しようと思う。 比較する新聞の年は1942年と2020年だ。北海道新聞は1942年に創刊された。1942年といえば日本は第二次世界大戦中であり、アメリカと戦っていた時期であった。実際の記事を見てみるとそれが伺える。下方に「アメリカの焦燥」と書かれた項目がある。当時の日本がアメリカを牽制していたのが分かる。さらに、「戰」や「諸勅令」といった今となっては使われなくなった漢字や表現が使われている。ここからも北海道での戦時中の緊張感が伝2024-01-25
87生島足島神社 西鳥居生島足島神社 西鳥居生島足島神社の西鳥居は、前回投稿した泥宮とのつながりがある。昔は、西鳥居と泥宮が直線でつながっていた。また、太陽は東の鳥居~西の鳥居を抜けて一直線に伸びる参道の先へと沈んでいくのは非常に幻想的である。 この鳥居は日没の光が鳥居を抜けて差し込むように計算されている。大地をご神体とする生島足島神社にこの仕掛けが施されていることは、太陽と大地の聖地であることを象徴しているように思わせる。2024-01-25
88上田原古戦場公園上田原古戦場公園 最初は上田原古戦場公園。  ここは、甲斐国の戦国大名・武田信玄と北信の戦国大名・村上義清の戦った場所である。上田原の合戦では、武田信玄が初めて敗北した戦いとも知られていて、武田家重臣である、板垣信方や甘利虎泰などが戦死している。  現在では、上田原古戦場公園として、野球場やスケートボード場、テニスコートなど皆が楽しんで運動できるような場所になっている。自分が行った時も、犬の散歩や、夫婦でウォーキングなど、運動している人が多くいた。  だいたい500年前には殺し合いをしていた場所が、今では皆の憩いの場になっているというのは、なかなか面白いと思う。上田原の戦いで死んでしまった将兵たちは、これをどう思っているだろう。恨めしく思っているだろうか。それとも、一緒に野球を楽しんだりして2024-01-25
89生島足島神社生島足島神社生きとし生けるもの万物に生命力を与える「生島大神」と、生きとし生けるもの万物に満足を与える「足島大神」の二神が祀られ、摂社には諏訪大神が祀られる信濃屈指の古社である。 初めて訪れた際に感じたことは、全体が赤で統一された建築に魅了された。赤くそびえたつ鳥居がとても印象的だった。 創建の年代は明らかではないが、平安時代の天皇からの崇敬が厚く、鎌倉時代の北条国時や戦国時代の真田昌幸からも寄進があり社殿を修築するなど古くから日本の歴史に関わってきた神社である。2024-01-25
90上田レイライン 泥宮上田レイライン 泥宮泥宮は字のごとく大地をご神体として、生島樽島神社が建設されたときに、遺霊をここに残したという歴史がある。 かつては生島樽島神社の西鳥居とまっすぐな道でつながっていたといい、ご神体と同じくこの二つの神社は、深いつながりがある。実際に見に行き、感じたことは目の前にため池があり、周りが住宅に囲まれており、地域住民に大切 にされながら今日まで保存されてきたんだと感じた。2024-01-25
91長野のローカルスーパー長野のローカルスーパー長野のローカルスーパー「ツルヤ」には、横断歩道が設置されていました。親子でお買い物をする時に一緒に横断歩道のわたり方を教えるきっかけにもなると思います。中には手を挙げてわたる子供もちらほらいました!2024-01-25
92上田城上田城上田城が積雪していました2024-01-25
93石久摩神社石久摩神社石久摩神社は隣の川辺小学校とつながりが深く、北鳥居の下に埋められたタイムカプセルの中に児童作文があります。 また、東鳥居付近にある上田原自治会館では5年に1度「上田原古戦場祭り」が行われます。2024-01-25
94上田駅上田駅長野県上田市天神一丁目にある、東日本旅客鉄道・しなの鉄道・上田電鉄の駅。JR東日本の北陸新幹線、しなの鉄道のしなの鉄道線、上田電鉄の別所線の3路線が乗り入れ、そのうち別所線は当駅が起点となっている。 駅の北口、市街地側は「お城口」。南口、別所温泉側は「温泉口」と呼ばれている。 写真はお城口。鞍をイメージしたデザインとなっており、夜には上田市ゆかりの真田家の家紋「六文銭」が間接照明で照らされる。 市街地側に上田市ゆかりの六文銭を持ってきたことは、上田に来た人に市の自慢のものを印象付ける効果があり、とても良いと感じた。夜にはライトアップがされていて、日中と一味違う六文銭の美しさを感じることができると思った。2024-01-24
95戦前に発行された西塩田時報は戦争、学校、地域などの時事ニュースが多く書かれており、生活の知恵と思われる記事は957ページの中でたった5つほどであった。戦後になると生活の知恵を特集したコーナーのようなものができ、数ページごとに1つ生活の知恵と思われる記事が掲載されている。また、記事の内容も変化しているように感じられる。戦前は、睡眠やビタミン、乳児の育て方という基礎的な生活の知恵であったのに対して戦後は基礎的な生活の知恵も残しつつ、季節の料理やさらにより良い暮らしを求める記事が多い。この変化は、戦前から戦後にかけて人々の暮らしに対する意識の変化があると考える。戦前は生きていくことに必死で暮らしの質は求めておらず、戦後になり心にゆとりが生まれることで暮らしに対する質を求めることができる2024-01-24
96西塩田時報と他県の時報~それらの抱える課題~西塩田時報と他県の時報~それらの抱える課題~西塩田時報に似た他県の時報を調べ違いや共通点を見つけていく予定で進めていたが似た時報がデジタルアーカイブとして残っていなかった。そこで、歴史的資料がなぜデジタルアーカイブとして残っていないのかについて考え、デジタルアーカイブの問題点と実際に使ってみての問題点をまとめてみた。2024-01-24
97西塩田時報から見る ラジオ放送の普及西塩田時報から見る ラジオ放送の普及 1925年ラジオ放送が開始され、我が国の現状や問題点、将来性や、欧米諸国との比較について言及されていました。上田地域でもラジオ放送が聞けるようなり、西塩田時報からも当時の様子が記されていました。この後急速にラジオ放送が普及していくのですが、その背景について、考察していく。  2024-01-24
98デジタルアーカイブを利用しやすくするにはデジタルアーカイブを利用しやすくするにはデジタルアーカイブをより多くの人に利用してもらい、使いやすいと感じてもらう 参考 藤本蚕業デジタルコモンズ https://d-commons.net/fujimoto-dc/ 上田市公文書 https://www.city.ueda.nagano.jp/soshiki/kobunshokan/ 国立公文書館デジタルアーカイブ https://www.digital.archives.go.jp/ デジタルアーカイブ学会 https://digitalarchivejapan.org/ 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/ja/ デジタルアーカイブとは?https://solution.toppan.co.jp/newnormal/contents/digitalarchive_toha.html 内閣府知的財産戦略推進事務局「デジタルアーカイブ活動」のためのガイドラインhttps://www.kantei.go.jp/jp/singi/titeki2/digitalarchive_suisiniinkai/pdf/guideline_2023.2024-01-24
99今後のデジタルアーカイブの在り方について今後のデジタルアーカイブの在り方についてPowerPointでまとめました。 参考URL ・「国立国会図書館デジタルコレクション」https://dl.ndl.go.jp/ ・「上田市公文書館」https://kobunshokan.city.ueda.nagano.jp/ ・「上田老舗図鑑」https://d-commons.net/uedagaku/detail.php?id=2351 ・「西塩田時報」https://d-commons.net/uedagaku/detail.php?id=36132024-01-24
100上田市の景観上田市の景観今回私は上田市の現在と過去の写真や街並みを比べてみることで新たな発見や気づきがあるかもしれないと考え、調べてみることにしました。今回参考にさせていただいたのは上田の海野街や上田のスクランブル交差点の過去の写真と現在の上田の写真に写っている場所です。 比べてみたところ海野街は確かに歴史の流れを感じるほど変わっていましたが、スクランブル交差点の写真に写っているは昭和48年の海野街の写真と現在の海野街の風景はほぼ同じでした。昭和48年から変わらない商店街があり続けていることに少し不思議を感じ、なぜ現在の最新鋭のモダンな見た目の商店街にしていないのか疑問に感じたため上田の景観について調べてみることにしました。その結果過去の街並みや景観が保たれている場所の多くはその景観や見た目の良さ守るた2024-01-24
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