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1記事1記事1昭和六年一月号  この記事は徴兵制度を示したものである、全面戦争前の1931年に戦争の準備をはじめと見える様子。 参考資料:西塩田時報(1930~)第81号~第100号 昭和六年一月号2023-01-30
2前川ゼミレポート前川ゼミレポート私の探求テーマは、「別所=上田を広める」だ。 私がこのテーマにした理由は、別所という地名は聞いたことがあっても、長野県上田市にあると知っている人は少ないのではないかと考えたからだ。また、別所の魅力を伝えることは、上田に来る観光客を増やすことに繋がると考えた。 別所へフィールドワークに行ったときに、年配の方が多いように感じた。そこで私は、今回のターゲットは若者にしようと考えた。若者に別所の魅力を伝えるときになにが一番有効で、興味を持ってもらえるかを考えた時に、私はカフェだと思った。別所には魅力的なカフェがある。それを、SNSを活用し、伝えていこうと思った。 SNSに投稿する画像を制作するときに私が気を付けたことは、二つある。一つ目は写真の撮り方だ。ケーキや飲み物がどう撮影したら魅力的2023-01-30
3「d-commons.net UI磨き上げ」まとめ(2022年度 プロジェクト研究)「d-commons.net UI磨き上げ」まとめ(2022年度 プロジェクト研究)タイトル:d-commons.net UI磨き上げ 概要:d-commons.net上に存在しているUIの課題点を発見し、解決案を考察する。UIの利便性向上を図り、更に洗練されたサイトにするためのブラッシュアップを促す。加えて、d-commons.netをより面白くするためのアイディアを考案する。 ・マイテーマ プロジェクト研究 信州上田デジタルマップ 課題探求 2022前期 教員向けd-commons.net(eduスクウェア)の研修会 アンケート結果&考察 プロジェクト研究 信州上田デジタルマップ 課題探求 その他考察2023-01-30
4これなんだろう?これなんだろう?皆さんはこんな瓦を見たことがありますか? これは猫瓦といいます。 猫瓦とは、養蚕をする上で蚕がネズミに食べられてしまうことがあり、そのネズミ除けの願いを込められた瓦のこと。そのためネズミの天敵である猫がモチーフになっている。 上田市上塩尻では蚕種製造が盛んであったり、養蚕をする家が多くあった地域であるため、今でも越屋根といった養蚕特有のものが残っている。もちろん猫瓦が残る家も多くある。猫瓦はただ猫の形をしているだけではなく、文字や絵が掘られている。これらには様々な思いが込められているそうだ。2023-01-30
5御代田町の地域デジタルアーカイブ化(プロジェクト研究)御代田町の地域デジタルアーカイブ化(プロジェクト研究)2023-01-30
6上田市で農地を所有しながら暮らすには上田市で農地を所有しながら暮らすには上田市は自然が豊かで農地が沢山あるのになぜか農業が盛んではないのだろうか。 我が家にも農地があるが半分以上がの農業放棄地となっている。農業放棄地が発生してしまっていることが農業が盛んになっていくうえで邪魔になっているのではないだろうか。 農業放棄地が増えていく原因の一つに農地に関する法律があると考えた。そこで農地法を調べたところいくつかの問題点が見つかった。 ・農地の売買や貸借に農地の所在する市町村の農業委員会の許可が必要な点。 ・農地売買の許可を得るのに農地の権利取得後の経営面積に原則として都府県50a、北海道は2ha以上になること(例外あり) ・農地を取得する個人またはその家族等が取得後に行う農業事業に必要な農作業に常時従事しないと農地を買えないこと これら3つが大きな問題と2023-01-30
7”川”と共にある上田市御所”川”と共にある上田市御所上田市には千曲川が流れている。 上田市の災害の歴史を語るには欠かせないだろう 千曲川が流れている御所では、昔から大きな洪水の被害を受けてきた。その被害を少なくするために当時の村人達は「水天宮」を奉納し、「天御中主神(あめのなかぬしのかみ)」を祭ってきた。 向かいにも「水神宮」がある。 今、ここで生活出来ているのは当時の人々が、こういった「信仰」によって水害が少なくなることを願い、どうすれば安全になるのかを考えて対応をした、それらの「堤防」の積み重ねの結晶であると考えられる。 昔の人々の想いに馳せながら、こういった史跡を巡ってみるのも面白いのではないだろうか。2023-01-30
8プロジェクト研究(長野大学前川ゼミ)2022アウトカムプロジェクト研究(長野大学前川ゼミ)2022アウトカム長野大学企業情報学部前川ゼミ/プロジェクト研究2022成果報告 ▼前川ゼミ2022成果報告 47分 ゼミメンバーの各自が成果を報告しています。(発表順は以下の順と同じ) ▼前川ゼミ・ポートフォリオ(マイサイト) 【1】川口将太(4年) 企業のソーシャルメディアを用いたメディア戦略 【2】高山大和(4年) 持続的な地域活性化策~大洗モデル~ 【3】林 亮太(4年) 「海外視聴者向けの日本国内旅行動画」その特徴と活用方法の調査 【4】中澤愛華(4年) 神川小学校における地域学習支援 【5】春原百々羽(2年) 蚕について地元の人が学ぶ理2023-01-30
9まとめ~武田信玄武将の起請文〔八三通〕~まとめ~武田信玄武将の起請文〔八三通〕~写真の起請文は、武田信玄が配下の武将を、下郷(下之郷のこと。以下同じ)諏訪大明神(生島足島神社)へ集めて、信玄に絶対背かぬことを、神前で誓わせたものです。誓いの言葉を牛王紙の裏に書き、血判を押して、差し出させたもので、全国的に有名なものです。 この貴重な文書が生島足島神社に残っていることに歴史的な価値があると感じました。 https://museum.umic.jp/bunkazai/document2/089-1.html 武田信玄と信州は深い関わりがあり、その中でも生島足島神社に信玄がこだわったというのも面白く感じました。そして、信玄についてだけではなく当時の人びとがどのような宗教観や価値観を抱いていたのかを副産物として知ることができ、特定の人物だけでなく、社会がどのように動いていったのか文書から読み解けることにもつながることがわかりました2023-01-30
10壱叶・三かわ連署願文壱叶・三かわ連署願文この文書は戦国時代の武将室賀信俊の妻壱叶と、信俊の弟経秀〔の妻三かわが、武田信玄に従って出陣した夫〔の無事を、下之郷大明神(生島足島神社)にお祈りして差し上げた、お願いの文書で、願文といいます。戦国時代の女性の願文や女性の花押〔かおう〕(書〔か〕き判〔はん〕)を記した文書は、例が少なく大変珍らしいものであるそうです。 この時代の女性の苦悩がうかがい知れます。 https://museum.umic.jp/bunkazai/document2/089-5.html2023-01-30
11開善寺宛武田信玄定書開善寺宛武田信玄定書この文書は現在上田市新田にある海禅寺が、戦国時代に小県郡東部町海善寺地区にあった当時、武田信玄が永禄5年(1562)11月7日、この寺に祈念を頼み、願がかなったときには、開善寺(海善寺・海禅寺)に、以前の通り土地を寄付することを約束した定書であるそうです。 https://museum.umic.jp/hakubutsukan/collection/item/0028.html2023-01-30
12真田氏最古の文書は信玄からの書状真田氏最古の文書は信玄からの書状「其の方年来の忠信、祝着に候。然らば本意の上に於て、諏方(訪)方(形)参百貫并ならびに横田遺跡上条、都合千貫の所これを進じ候。恐々謹言。 天文十九庚戌  七月二日 晴信(花押)   真田弾正忠(幸隆)殿」 この文書が効力を持つことになったため、上田の地にかなりの土地を得ることができたわけでありに幸隆の子昌幸が上田城を築くもととなったともみられる文書であり、その意味でも貴重なものであるとされています。 武田信玄は真田一族と深い関わりをもっていることがわかります。 https://museum.umic.jp/sanada/siryo/sandai/020202.html2023-01-30
13上田の名将とのつながり上田の名将とのつながり上田で最も知られる一族といっても過言ではない真田氏、なかでも真田昌幸は甲斐の信玄の元へ送られたと伝えられています。人質といっても、奥近習おくきんじゅう(小姓こしょう)として信玄に仕え、十四歳のときには、川中島合戦で初陣を果たしたそうです。 https://museum.umic.jp/jinbutu/data/051.html2023-01-30
14向源寺宛武田信玄朱印状向源寺宛武田信玄朱印状この文書は戦国時代の永禄九年(一五六六)武田信玄が、重臣の三枝〔さいぐさ〕宗四郎昌貞に命じて「武田方の軍勢が向源寺(当時上田原にあった)境内で陣をとることを禁じ、もし命令に背〔そむ〕く者がいたら、子細〔しさい〕(くわしい事情)を申し出るように。」と、向源寺に伝えた朱印状だそうです(資料参照)。 信玄は信濃国へ、幾度か軍勢を出して合戦を繰りかえしています。このようなとき勢力下におさめた地域の主な寺や社を大事に扱うことが、民の心を安定させるために、大切であることを心得ていて、特に寺社に迷惑がかからぬよう、心配りをしていたことを物語る文書として貴重なものです。」 神仏への信仰心がもたらす力は信玄自身が一番実感していたがための行動だったのではないかと考えさせられます。 https://museum.umic.jp/bunkaza2023-01-30
15武田信玄願文(県宝)武田信玄願文(県宝) 武田信玄は、上杉謙信との戦いに備えて、東信濃の名社生島足島神社に、願文を献げ、今後の戦について深く祈願するところがあったそうな。  これがその願文で、おわりに永禄2年(1559)と記され、信玄自筆のものといわれています。 「謹んで、下之郷諏訪大明神に申し上げます。私(信玄)は、越後の軍勢(謙信をさす)が攻めてくるので、戦うがよいかどうかト(うらな)ったところ”吉”という卦が出ました。そこでこの天の教えに従って出陣いたします。何卒私の軍に勝利を与えられ、長尾景虎(謙信)が逃亡するようお助けをお願いいたします。もし私が凱歌をあげて帰国しましたなら、今年から10カ年間、毎年青銅貨10緡ずつお社のために上納いたします。」 調べて知ったことですが、信玄は戦国大名の中でも占いマニアだ2023-01-30
16はじめに~武田信玄と上田のつながり~はじめに~武田信玄と上田のつながり~武田信玄は戦国時代に甲斐国(山梨県)の守護を独占してきましたが、一見関わりのなさそうな上田とはいったいどのようなつながりがあるのでしょうか?。 信玄は領地拡大のために信濃に侵攻した歴史が残っています。現在の上田地域を支配していた村上氏との上田原の合戦、砥石城の戦いで負け戦さとなったものの最終的には、村上氏をも越後へ敗走させ、川中島の戦いを経て北信濃までその支配下に治めたのがおおまかな史実です。 上田との関わりは、玄配下の武将たちが起請文を奉じた場所が生島足島神社であり、数多くの古文書が残されているという点です。   https://museum.umic.jp/ikushima/komonjyo/index.html2023-01-30
17土偶型容器について(2)土偶型容器について(2)出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/J-7533?locale=ja) 画像の土偶型容器の出土地は長野県上田市腰越。弥生時代(前期)・前4~前3世紀頃のものとされる。現在は東京国立博物館が所蔵している。 おそらく出土の際に頭部がなくなっていたのだろう。 土偶型容器は頭部が開いているものであるが、首がなくなっていることで体全体が空洞になっていることがわかる。乳房のような表現があることから女性をイメージしていると思われる。2023-01-29
18土偶型容器について土偶型容器について出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_item_images/tnm/J-7532?locale=ja) 土偶型容器(どぐうがたようき) 頭部が開いていて足の表現がない人型(ひとがた)の容器で、容器型土偶とも喚ばれる。中から焼けた小児骨が出土した例もあることから、再葬墓という当時の東日本で流行した墓制に関わるものと考えられている。 画像の土偶型容器の出土地は長野県上田市腰越。弥生時代(前期)・前4~前3世紀頃のものとされる。現在は東京国立博物館が所蔵している。 国宝の縄文のビーナス、仮面の女神と比べると険しい顔をしている。首や胴が長く頭が大きい、腕が体全体に対し短いというようにバランスはあまり良くないように見えるが、小児を表しているのではないかと考える。2023-01-29
19別所温泉石湯別所温泉石湯別所温泉石湯石湯の表には、真田太平記の池波正太郎書「真田幸村公隠しの湯」の碑がたつ。 引用元 http://db.umic.ueda.nagano.jp/data/johogura/datadisp.php?arg_sano=25810612023-01-29
20仙石氏~松平氏 藩主の移り変わり仙石氏~松平氏 藩主の移り変わり仙石氏3代の後に上田藩主を務める松平氏は、上田藩の歴史の中で一番長い7代続くことになる。松平氏で初めて上田藩主を務めたのは松平忠周であるが、彼の時代に上田へ移封されたのだが、同じく但馬国出石(兵庫県)へ移封された仙石氏とは領地を入れ替わる形で上田を収めることとなった。 参考サイト 上田市デジタルアーカイブポータルサイト https://museum.umic.jp/sakuhin/web.html 上田市立博物館 https://museum.umic.jp/hakubutsukan/ueda-castle-history/03/2023-01-29
21初代上田藩主 真田信之初代上田藩主 真田信之真田信之は初代上田藩主を務めた人物であり、上田城を築城した真田昌幸の息子である。信之は徳川家に仕える猛将本田忠勝の娘、小松姫と結婚し、関ヶ原の戦いでは父昌幸、弟幸村とは対立することとなる。その後は上田領を任され、農村の復興と上田城下町の整備に尽力したが、1622年に松代へと移封されることとなる。 参考サイト 上田市デジタルアーカイブポータルサイト https://museum.umic.jp/sakuhin/web.html 上田市博物館 https://museum.umic.jp/hakubutsukan/ueda-castle-history/03/2023-01-28
22松平忠固松平忠固松平家は仙石氏3代の後に上田藩主を務める事になった家である。その中でも特に功績を残したのが忠固であるといえるだろう。忠固は上田藩主だけでなく当時の江戸幕府老中も務めており、条約の締結や、開国が成された際に上田の特産物を貿易に用いようと提案した人物でもある。 参考サイト 上田市立博物館 https://museum.umic.jp/hakubutsukan/ueda-castle-history/03/ 松平忠固史 https://www.matsudairatadakata.com/2023-01-28
23野沢菜漬野沢菜漬県内全域の郷土料理。寒さが厳しい長野県は、冬になると田畑から青ものはひとつもとれなくなるため、晩秋になると大量に保存用の漬物を仕込んだ。一石桶といわれる大きな桶で大量の野沢菜をつける。各地域や家庭によって漬け方は様々。そのまま食べたり、おにぎりやおやきの具材にも使われる。野沢菜には浅漬けと古漬けがあり、春先、発酵が進んで黄色く変色した古漬けは、酸味が強いが味わいがあり、油との相性がよく、炒めて食べたりもする。 [野沢菜漬 長野県 | うちの郷土料理:農林水産省](https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/nozawana_zuke_nagano.html)より引用2023-01-28
24鯉こく鯉こく佐久市の郷土料理。二毛作の難しい佐久平では、水田を利用した鯉の養殖が行われている。「鯉こく」は大胆に筒切りにして味噌で煮た汁物で、砂糖や山椒を入れたり、鱗を取らないなど、調理方法は地域や家庭によって様々である。お正月によく食べられており、「病気をせず1年健康に過ごせるように」という思いが込められている。 [鯉こく 長野県 | うちの郷土料理:農林水産省](https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/koikoku_nagano.html)より引用2023-01-28
25メディアの活用についてメディアの活用についてプロジェクト研究のまとめです。2023-01-28
26海野町レトロ写真館 活動報告海野町レトロ写真館 活動報告2019年度から2022年度にかけて、信州上田デジタルマップを活用のもと、上田市の海野町商店街に焦点を当てて、研究を行ってきました。2023-01-28
27まとめまとめ百数十年前の上田の地図をキュレーションしてみて、現在の地図とそこまで違いがないことに驚いた。当時の測量師の技術力の高さが垣間見える調査になった。また、地図を探すために上田という地域について調べ、それによって得られた知見というのがこの取り組みの一番の成果であると思う。2023-01-28
28真田村③ 長村真田村③ 長村明治前期。 小名真田といった小名というものがよく見られる。 https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03MP0301080180 (信州デジタルコモンズ)2023-01-27
29真田村② 傍陽村真田村② 傍陽村ここで「字」と書かれた記号が現れる。おそらくその領土主の苗字だと考える。 https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03MP0301080200 (信州デジタルコモンズ)2023-01-27
30真田村① 本原村真田村① 本原村真田村に関しても1958年10月1日に長村、傍陽村、本原村が合併しているため三つの地域を調査する。 明治18年。 https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03MP0301080170 (信州デジタルコモンズ)2023-01-27
31上田町上田町上田町の明治時代前期の姿である。寺や神社が多いことが分かる。現在の上田町と比べても全く同じ名前の寺や神社が残っておりその中には江戸時代から姿を変えず残っているものもある。 https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03MP0301080250 (信州デジタルコモンズ)2023-01-27
32はじめにはじめに上田市によると、『平成18年3月6日に、旧上田市、旧丸子町、旧真田町、旧武石村の1市2町1村が合併し、新しい「上田市」が発足しました。』とある。そのため上田の過去の資料を調査するにあたって上の4地域に分割して比較していく。 参考 ”合併(平成18年3月6日)に関すること”,上田市,2019-12-12https://www.city.ueda.nagano.jp/soshiki/gyokan/6028.html(2023年1月27日閲覧)2023-01-27
33尺貫法からメートル法へ(1933)尺貫法からメートル法へ(1933) メートル法に関するプリントを、生徒の各家庭に配布したという記事である。この記事の翌年の1934年に、日本従来の尺貫法が廃止され、メートル法が取り入れられた。これまで使ってきた単位を、使わないようにしなければならないと考えると、当時の学生はとても苦労しただろう。教育において、使用する単位を変えるということはとても大変なことだ。 #507 「西塩田時報」第114号(1933年5月1日)3頁 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/pdf/nishishioda/ns07_101to120.pdf2023-01-27
34皆勤賞(1928)皆勤賞(1928)1928年の西塩田村の学校における、皆勤賞に関する記事である。この記事を見て、当時から学校を休まないことを表彰する文化があることが分かった。また、25%もの生徒が1年間皆勤賞というところを見て、現在よりもはるかに高い数値に驚いた。おそらく当時は、今よりも学校を休んではならないという風潮が強かったのであろう。もしくは、外で遊ぶことが多かったから体が強かったのだろうか。 #234 「西塩田時報」第54号(1928年5月1日)2頁 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/pdf/nishishioda/ns04_041to060.pdf2023-01-27
35蚕種業における歴史的建築物について蚕種業における歴史的建築物について かつて蚕種業で栄えた上田を参考に地域を活性化していく方法を模索した。  建築物の特徴としては、作業を行いやすいよう、屋敷をつなぐ渡り廊下跡があり、温度調節のための木造の暖房施設があった。発展を示す跡として、屋敷が多く建ててあり、家紋付きの瓦や蔵など当時の発展の象徴が多くあった。  今回の建築物は上田市上塩尻の建築を参考にさせていただいたが、養蚕に関わる設備跡はもちろん、目地時代当時の発展の様子や当時の文化を表すもの(家紋・猫瓦)が実在する資料として現存していた。これらの建築物は国登録有形文化財にもなっており、価値が高いものになっている。  今回のイベントを介して、建築物を見学することができたがそれらを通して、別の気づきがあった。地域の方が蚕種業の歴史を詳しく知らない方がほと2023-01-27
36くるみ生産量一位の長野が作る信州の銘菓 くるみのハーモニーくるみ生産量一位の長野が作る信州の銘菓 くるみのハーモニー引用元:https://www.usagiya-ueda.com/blog 香ばしいビスケットの中に、ミルクキャラメルを絡めたくるみがたっぷりと詰められた人気のお菓子「くるみのハーモニー」。くるみの生産量全国一位の長野県が生んだこのお菓子は、おいしさが人気の理由なのはもちろんのこと、焼き色よく、サイズ感もかわいらしく、見た目も愛されるひとつの理由になっています。 そのパッケージデザインはいたってシンプルに仕上げられています。 お菓子の第一の特徴であるくるみのイラストが表面に印刷されており、あとは商品名が記載されているのみ。 歴史にゆかりある上田の地らしさがにじみ出たデザインだと感じました。商品の包みが和紙のような質感になっていることもこれを助長しているように見えます。2023-01-27
37上田人気のご当地グルメ「美味だれ」上田人気のご当地グルメ「美味だれ」引用元:https://oidareyakitori.jp/ 上田市のご当地グルメとして有名な美味だれ焼き鳥。そこに使用されるニンニクが入った醤油ベースのたれはお土産としても人気です。 この製品のパッケージデザインには一目で上田らしさを感じられる六文銭が採用されています。また製品名のタイポグラフィーもシンプルながら伝統を売りにしていることが伝わる字体で、赤基調に黒文字といった色彩も真田を想起させてくれて、よく考えられたデザインだと感じました。2023-01-27
38防空講習(1937)防空講習(1937)1937年7月7日に当時の上田中学校で、防空に関する講演があったと書いてある。防空とは敵の空中からの攻撃から身を守ることである。1937年7月7日は日中戦争が開戦した日であり、当時の学校にも戦争に対する緊迫感が漂っていたことが予測される。 #738 「西塩田時報」第165号(1937年8月1日)2頁 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/pdf/nishishioda/ns10_161to180.pdf2023-01-27
39お土産の定番! 信濃路うさぎやのくるみそばお土産の定番! 信濃路うさぎやのくるみそば引用元:https://www.usagiya-ueda.com/ 上田お土産の代表格ともいえる、蕎麦粉の皮で餡を包んだ、素朴で美味なお菓子「くるみそば」。 サクッ ホロッとした風味漂う皮部分に上に乗ったたっぷりのくるみ、中に詰められたネットリ食感の飴・餡、上田市民含め多くの人たちに愛され続けています。 この製品のデザインを見ていったとき一に目につくのは、パッケージの背景として描かれた水彩画調の植物の数々でしょう。原料に自然豊かな地だからこそのそばやくるみを使用しているこの製品らしさが表れているように思います。またタイポグラフィーも習字調で歴史ある製品なのだなということを強く感じさせてくれます。2023-01-27
40はじめにはじめに私は、大正・昭和初期における教育の特色について調べていきたいと思う。西塩田時報の学校行事などについて書かれた記事を参照して、当時どのような教育が行われていたのかを解き明かしていく。また、当時、軍国主義となっていった日本だが、教育にはどのような影響が及ぼされたのかなども詳しく見ていきたい。2023-01-27
41長野伝統のお菓子 みすゞ飴長野伝統のお菓子 みすゞ飴引用元:https://misuzuame.com/sp/ame/ みすゞ飴は、国産果実を寒天・グラニュー糖・水飴で固めた、長野県の伝統的な乾燥ゼリー菓子です。 その歴史は長く、100年も前から信州上田のちでも愛され続けています。 上田土産の代表格のような存在であるこの製品のデザインは、製品同様オレンジを基調とした色彩豊かなデザインで、また習字調のような少々独特な字体で印刷された商品名は、伝統を重んじ、歴史ある信州地域の名産らしさをある意味表しているようでなんともしっくりくるように感じます。パッケージデザインには製品に使用されている果実も印刷されており、一目見て商品の要素が伝わることも良さの一つでしょう。2023-01-27
42唐菓子について唐菓子について奈良時代から平安時代にかけて遣唐使によって唐から伝来した唐菓子は,米粉や小麦粉を捏ねていろいろな形に作り,油で揚げたり,焼いたものである。 日本や仏教の世界でお供え物とされるほどであり、当時はとても高価でめったに食べられないものであったが、現在では限られた和菓子店だけではあるが、手軽に食べることができる。 写真は岡田哲「食文化入門-百問百答-」から抜粋2023-01-27
43別所温泉駅別所温泉駅別所温泉には上田駅から上田電鉄別所線にのり別所温泉駅で下車することで行くことができる。 乗車時間は30分である 引用元:信州上田景観100選 | 別所温泉駅 https://museum.umic.jp/keikan100sen/detail.php?photo=31-1_31-2&dir=1031&area=%E4%B8%8A%E7%94%B0&cattext=%E3%81%BE%E3%81%A1%E3%81%AA%E3%81%BF%E3%83%BB%E9%83%BD%E5%B8%82%E6%99%AF%E8%A6%B3&imgtitle=%E5%88%A5%E6%89%80%E6%B8%A9%E6%B3%89%E9%A7%85&imgtext=%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E3%81%8B%E3%82%89%E6%AE%8B%E3%82%8B%E3%80%81%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%82%E3%82%8B%E7%B5%82%E7%9D%80%E9%A7%85%E3%81%AF%E6%97%85%E3%81%AE%E5%A7%8B%E3%81%BE%E3%82%8A&glat=36.353&glng=138.162&access=%E4%B8%8A%E7%94%B0%E9%A7%85%E3%81%8B%E3%82%89%E4%B8%8A%E7%94%B0%E9%9B%BB%E9%89%84%E5%88%A5%E6%89%80%E7%B7%9A30%E5%88%86%E3%80%8C%E5%88%A5%E6%89%80%E6%B8%A9%E6%B3%89%E9%A7%85%E3%80%8D%E4%B8%8B%E8%BB%8A%0D%0A2023-01-26
44別所温泉の歴史別所温泉の歴史 塩田平を囲む山なみの西方にそびえる夫神(おがみ)岳のふもとに、この地方の古い歴史とともに、絶えまなく湧き続けて来たのが別所の温泉である。この自然の出湯と人とのかかわりは、夫神岳の麓から古代の布目瓦が多数発掘されたことによっても、その古さが想像される。  国造や国府の所在していた古代から、庶民の安息療養の場所であり、また温泉の効能と医薬信仰が、やがて仏教の霊場としての北向観音堂となったであろう。  別所の温泉は昔から”七久里(ななくり)の湯”と呼ばれたといわれ、平安時代の有名な和歌集にもその名をとどめている。  鎌倉時代には北条氏の居館塩田城にも近いので北条一族の好んで来湯することも多かったと想像される。国宝八角三重塔のある名刹安楽禅寺は北条氏の開基によるところから、別所とい2023-01-26
45上田市の自然文化について上田市の自然文化について別所温泉は、信州最古の歴史を持つ七久里の湯と呼ばれる温泉を持ち、平安時代の有名な和歌集にも記されている。安息の場として栄えた別所温泉は、かつて真田幸村の隠し湯があったとも言われていて、1500年以上の歴史を持っているとされている。 また別所を含む塩田平は、信州の鎌倉とも呼ばれ、温泉に限らず多くの文化財が残されている。 「幕宮池」と呼ばれる池は、日本で最も降雨量が少ないとされる位置にあり、多くのため池が作られた場所である。 〈参考資料〉 https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/others/01DD001H230003 https://adeac.jp/shinshu-chiiki/catalog/mh0555002023-01-26
46みすず飴のデザインみすず飴のデザイン画像引用元:https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwiWoaP98-T8AhV1plYBHZdnCXAQjBB6BAgNEAE&url=https%3A%2F%2Fmisuzuame.com%2Fsp%2Fame%2F&usg=AOvVaw1an-aePxECBjNJ0dsY_4LF 上田のお土産というと思い浮かぶものの一つとして、みすず飴が挙げられる。みすず飴のデザインで特徴的なのは文字のフォントである。おなじみのフォントになっているので、誰もが手に取りやすくなっていると思う。今後も、このデザインは継承していくべきだ。また、透明なパッケージにすることで、みすず飴のカラフルさが際立っている。2023-01-26
47上田紬のデザイン上田紬のデザイン日本らしさが残るデザインになっているため、観光客の目にとまりやすいと感じた。また、近年では若者向けにデザインされるお土産が多い中、伝統的な要素が前面に出されている。 画像・資料参考元:みんなで作ろう信州上田デジタルマップ 投稿者名:あやか様2023-01-26
48前川ゼミレポート前川ゼミレポート私は、なぜ上田氏は真田氏のPRに固執するかについて疑問を持ったため調べることにした。というのも、上田市には別所温泉近辺にたくさんの歴史的建造物があり、「信州の鎌倉」という別名まで付けられるほどのだからだ。そして「別所温泉」という名前自体は全国的にもある程度知られている。まったくの無名の観光地をアピールするわけではないのになぜここを差し置いて真田氏に固執するのだろうか。 真田氏に固執する理由として思いついたのが歴史好きに対するアピールの強さだ。二度にわたる上田の戦い・大阪の陣で有名な真田幸村にゆかりのある地(真田村)であることから、上田城や真田氏についてアピールできる。だが、この真田氏についてもやや疑問がある。一般人に「武将の真田」と言って思い浮かべるのは真田幸村だろう。この真田2023-01-26
49戦後80年で人々の価値観はどう動いたのか戦後80年で人々の価値観はどう動いたのか 戦後日本において、新幹線が開通し、オリンピックが開催され、インターネットが普及する間に、日本人の価値観・人生観はその生活の様相とともに大きく動いてきたように思われる。そこで、戦前の人々の価値観は、現在を生きる我々から見ていかに違うのかを研究する。  本記事では西塩田時報第百八十二號第五頁を取り上げて述べる。 「幹部修養講習會に出席して」という項目は、「原田晴章」なる人物が、「三好武治」なる人物の講演の一端を書くというもの。講演の内容は、主に支那事変(日中戦争の、当時の日本での呼び名の一つ)についてのものである。 「日本で今度の事變での勝利は精神力である」 「支那事變は世界に類の無立派なる所の正しき戰争である」  このような記述がある。やはり根拠のない精神論や戦争を美化する意2023-01-26
50ゼミ発表資料ゼミ発表資料参照 Vol113■とく☆とく信州 塩田平のため池群 | 楽園信州 https://blog.nagano-ken.jp/magazine/various/622.html2023-01-27
51上田蚕種協業組合上田蚕種協業組合上田蚕種協業組合は、大正5年に地元の蚕種家が出資して上田蚕種株式会社として設立したのが始まりである。現在の事務棟・採卵室など主要な建物が翌6年に完成した。その後、昭和45年から現在の社名となっている。最盛期には22万箱の蚕種をこの組合から出荷していた。 「上田蚕種協業組合」より https://museum.umic.jp/bunkazai/document/dot252023-01-26
52常田製糸場常田製糸場【概要】 常田館製糸場は明治33年(1900年)創業の製糸工場である。笠原工業株式会社構内に常田館製糸場に関連する施設15棟が現存しており、そのうち明治から大正時代にかけて建てられた7棟が平成24年に国の重要文化財に指定されている。国内最高層の木造5階建繭倉庫、大正時代末の鉄筋コンクリート5階建倉庫群などは、製糸技術が発達した時代の先人達の工夫と知恵の足跡が歴然と残る貴重な文化遺産である。 【歴史】 嘉永5年(1852)諏訪郡平野村に生まれた笠原房吉(かさはらふさきち)が、明治33年「常田館製糸場」を創業した。以来110年余、製糸業の隆盛と衰退のなかで、製糸工場建物は増築・取り壊し・焼失・改築・移転・用途変更等の紆余曲折を経ながら今日に至っている。 【現在】 笠原工業(株)では施設の一部を一般公開している。 公開2023-01-26
53上田の食文化⑥ 〜フルーツ編〜上田の食文化⑥ 〜フルーツ編〜長野県はぶどうやりんごがとても有名なのは知っていましたが、普通に道沿いにある木にりんごがよく生えていたり、道にりんごがころあっているのをよく見かけるので、それぐらいよく採れるものかとびっくりしました。 1番驚いたのは、写真のようにりんご畑に大きな穴が掘ってあって、そこに大量のりんごが入れられてたことです。 直売所にいけばとても安く売っているので、フルーツ自体も好きですし堪能してます。巨峰大好きなので、安くおいしいものが気軽に買えるのでとても嬉しいです。2023-01-26
54別所温泉の魅力を塩田平活性化に活かす別所温泉の魅力を塩田平活性化に活かす別所温泉には落ち着くカフェ、きれいな景色など様々な魅力があります。 ただ道が狭く、坂も多いため、観光が大変という面もあります。 そこで超小型車の活用やガイドの方を募り、車で移動しながら、そしてガイドの方の説明を聞きながら、別所温泉を観光するというのも良いのではないでしょうか?2023-01-26
55蚕都上田の歴史と未来蚕都上田の歴史と未来私は「蚕都上田の歴史と未来」というテーマで蚕都について探求しました。より考えを深めるために計四か所の施設に見学に行きました。 一枚目の写真は上田駅の構内に設置されている繭の女神様です。蚕糸業の全盛期時代である大正時代から蚕は上田の地を支える存在であったことが分かりました。 二枚目、三枚目の写真は常田館製糸場と上田蚕種協同組合事務棟です。製糸場は繭の乾燥や保管のために多窓式になっているなど建物ごとに様々な工夫が見られました。製糸場の建物15棟中7棟は国の重要文化財に、事務棟は文化庁の登録有形文化財にそれぞれ指定されています。四枚目の写真はホール、美術館などの複合施設であるサントミューゼです。名前の由来は蚕都からきており、人々の交流の場として上田市には欠かせない存在になっています2023-01-26
56市街地方面の神社・寺院と真田氏市街地方面の神社・寺院と真田氏上田城周辺には、神社・寺院が多数存在する。しかも、同じような場所に集まっている場合が多い。これは、地域のシンボルである上田城に深く関わってくる。1583(天正11)年、上田城を築城した真田昌幸は、城下町として海野町を作った。これは、先祖の地である海野郷(現在の東御市本海野)より、新たな本拠地近くに住民を移住させたことに由来する。それに伴い、海野郷近辺にあった寺院を城の近くに移した。例えば願行寺や日輪寺といった寺院がこれに該当し、真田氏の先祖である海野氏が開いたとされる場合が多い。特に願行寺は、江戸時代に上田藩の菩提寺になったほど、この地域や人々に深く根付いていたと考えられる。また海野町には、商売繁盛を利益とする高市神社がある。これは昌幸がつくったものだ。 このように、上田城を築城す2023-01-26
57”温泉”という身近なお風呂”温泉”という身近なお風呂住んでいる中で一番、観光する目的が明確にある場所といったら別所温泉であるといえる。 なぜ目的が明確にあるのか。 それは、上田市に住んでいる学生は実家を離れてアパートなどで一人暮らしをしている人が多い。 そのため、お湯を沸かしてくれるリモコンなどの設備が無いため、シャワーだけで済ます人がほとんどである。そのため、温泉という「湯船」に気軽に浸かれる場所というものはとても貴重である。さらに、今の時期(これを書いている日付は2023/01/27)は寒さが厳しく給湯器が凍ってしまいお湯が出にくいという人も大勢いるのではないだろうか? そのため、風呂に行くという目的の下、温泉に観光に行けるのではないだろうか。 別所温泉付近だけでも約7箇所あるため、1週間ごとのシフトを組んでみて赴いてみるというのも面白いかも2023-01-26
58平成の食平成の食山菜や雑キノコは、傾向としては採らなくなった人が多いようだ。しかし、趣味的な面も伴って、わざわざ上田地域外に出向き、採っている人もいる。タンパク源としてのイナゴ、ドジョウ、タニシなどは数も減り、食べられなくなった。その背景には水田への農薬散布が関係しているとのこと。肉や主に海の魚は店で買えるようになったため、その種類が増えたり、以前よりも多く食べられるようになった。。2023-01-26
59名工の社殿と養蚕農家 ~上田市下堀地区~名工の社殿と養蚕農家 ~上田市下堀地区~信濃国分寺駅の南側に位置する下堀地区です。 ここには堀川神社があり、今でも地区住民によって守られています。 拝殿は一見シンプルですが、本殿を見ると見事な装飾があります。これは1886年(明治19年)に上田の名工竹内八十吉によって掘られたものです。八十吉は1815年(文化12年)から1898年(明治31年)まで活躍した諏訪立川流の大工で、堀川神社以外にも信濃国分寺の本殿の彫刻も掘っている。 次に下堀地区は養蚕業で栄えていた地区である。その証拠がこの石垣である。 これは、ぼたもち積みと呼ばれる積み方でお金持ちの家しか作ることができない石垣である。https://d-commons.net/upload/4/575/054168_0023_006.jpg養蚕業で儲けていたからこそできる石垣で、当時は養蚕農家それぞれが競い合って家を建てていたそうだ。それほどまでにこの地区の養2023-01-19
60塩田平のため池塩田平のため池上田は雨が少なく、その中でも特に塩田には大きな河川が通っていないため水不足になりやすい。しかし米作りをするためには水がたくさん必要である。そこで塩田平には江戸時代を中心に多くのため池が作られた。それぞれの池に個性的な名前が付けられているので、散歩がてら観察してみるのも面白い。2023-01-26
61塩田から見る塩田から見る私は信州上田学の授業を通じて、塩田の地域の発展に必要なことを自分なりに考えました。2023-01-26
62眞田神社眞田神社眞田神社は「上田合戦」に勝利した真田昌幸・幸村親子をはじめ代々の上田城主を祀った神社なので、「勝負運」や「勝運」、落ちない城ということで「学業成就」のご利益があるとされています。2023-01-26
63信州上田学まとめ信州上田学まとめ私は蚕都上田の歴史について探求しました。重要文化財である常田館製糸場や上田蚕種協業組合などに見学に行き、実際に使われていた建物をこの目で確かめることができ、改めて上田が蚕都の盛んな地域だったということを実感しました。特に印象的だったのが常田館製糸場の建物内で見つけた「猫は蚕の神様です」という言葉です。蚕が無事育ち、良い繭を作ってくれるようネズミ避けのために猫にまつわる様々な祈願がされていたと分かりました。常田館製糸場は綺麗に保管されており、中には繭で作った作品などもあったので、行ったことが無い方はぜひ足を運んでいただきたいと思いました。2023-01-25
64上田のelaboration 上田の「観光産業」を知ってほしい!!上田のelaboration 上田の「観光産業」を知ってほしい!! キュレーションとは、インターネット上の情報を、特定の視点を持って収集、選別、編集することで新しい価値を持たせ、それを共有することを意味する語である。https://www.hrpro.co.jp/glossary_detail.php?id=99より引用 そこから私は上田のキュレーションとは上田の情報を我々の視点から収集、選別、編集することで価値を持たせ、上田の良さの再発見するということだと定義した。 私の上田のキュレーションは上田の「魅力」「良さ」の再発見であり、私は、それは「観光産業」にあると考えた。私が第一に上田で目を付けた観光産業は「十福の湯」だ。上田にお住まいの人ならば知っている人は知っている上田の名温泉だ。この温泉は信州最大級の大露天風呂を有しており、屋外独立の檜サウナもある。さらに自然豊かなため、温泉浴だけではなく、森林浴2023-01-25
65吉田東伍について吉田東伍について越後の農民として生まれた吉田東伍は、郷土の大地こそが日本の風土の一部であり、日本を正しく理解するためには、風土を組み立てている郷土についてしっかり見なければならないと考えていた。13年という長い時間をかけて編纂した、大日本地名辞書は人間の活動地帯である「土地」と刻まれた歴史の語り部としての「地名」を大切にすることを教えた。我が国全土の「郷土の未来」を見据えるための学問であると言える。 彼は教育をほとんど独学で行い、図書館に保管されている書籍や学術論文を主な教材としていた。その知識を活かして小学校教諭になった経歴がある。 彼の地理学の研究から、彼は小さな町の目立たない郷土や風土は決して意味のない産物ではなく、日本という国を作る一つの要素として働きかけているのだと伝えているのだと2023-01-25
66兎束武雄(うづかたけお)兎束武雄(うづかたけお)上田町大手の銀行家兎束鐘一郎の長男として生まれた武雄は、幼い頃から音楽に特別な興味を示す子どもでした。しかし、父親は音楽は男のするものではないと考え、武雄の音楽に対する熱意を快く思っては居ませんでした。母親は、音楽を好み自ら琴を弾いたり、4人の姉妹たちにも琴を習わせていました。  上田中学校(現上田高校)を卒業した武雄が、音楽の道に進みたいと父親に相談しましたが猛反対を受けましたが、母親の協力と武雄の熱意に最後には承諾しました。  武雄は上京し、東洋音楽学校に入り勉強に励みましたが、東洋音楽大学だけの勉強では満足できず、他の大学でも聴講し、作曲やピアノ、チェロなどを勉強しました。大学を卒業した武雄は、高等学校の教師になることを決意して上田に帰ってきました。  上田に戻った武雄2023-01-25
671910年の上田の気候1910年の上田の気候長野地方測候所の記録によると、1910年の上田(小県郡上田町)の最高気温は7月21日の34.7度、最低気温は2月3日のマイナス12.1度だったことが分かる。 2022年の上田市の最高気温は38.8度、最低気温はマイナス10度であり、これは現代の上田市の気候より冬はやや寒く夏はやや暑いくらいである。今と変わらず上田は夏は暑く冬はとても寒い気候であったことが分かった。 また最大積雪量を記録したのは3月23日の一尺一寸(約33センチ)であり、この年は現代の上田市の平均的な積雪量よりかなり多かったことが分かった。2023-01-25
68蚕業と気候蚕業と気候上田市は年間降水量が1000mm未満であり、日本一晴れの日が多い街である。この気候は蚕の飼育に適しており、上田市は日本でも屈指の蚕の産地になった。2023-01-25
69サントミューゼサントミューゼサントミューゼのサントは、かつて蚕都として栄えた上田市の歴史と、日本一の晴天率を誇るため、太陽が燦々と、さらには文化・まち・人を育てるという3つの目標が込められている。 ミューゼはミュージアムからの造語である2023-01-25
70蚕業の施設蚕業の施設長野県上田市では、かつては蚕業が盛んな地域であった。それを象徴するのが常田館製糸場である。この製糸場は明治33年創業の歴史ある建造物である。当時の養蚕業は日本の近代化の原動力であり、様々な箇所で利用されていた。この施設では、室温度、通風、乾燥などを整えることで、一年を通して平均的に生糸を生産することが可能となっていた。 木造5階建繭倉庫、鉄筋コンクリート5階建倉庫群などは、国指定重要文化財に指定されている。2023-01-25
71桑皮生産増強に就て(『西塩田村公報』第5号2項)桑皮生産増強に就て(『西塩田村公報』第5号2項)桑皮生産の増強についての記事である。上田は桑栽培の適作地であったことから桑が多く栽培されていた。 蚕の餌として生産していたと考えていたが、戦時中は繊維資源としても生産していたようである。 また、「東亜共栄圏」という言葉が多く使われている。 日本政府がスローガンとして使っていただけでなく、日常でも「東亜共栄圏」という言葉が使われていたことが分かる。 ▼この記事は以下から参照できます。 #928 『西塩田村公報』第5号(1942年5月22日)2頁2023-01-25
72石湯石湯石湯の表には、真田太平記の池波正太郎書「真田幸村公隠しの湯」の碑がたつ。 https://museum.umic.jp/johogura/bessho/2581061/2581061.htmlより引用2023-01-25
73安楽寺八角三重塔安楽寺八角三重塔日本で最も古い臨済禅宗寺院の一つである安楽寺。そこにある木造八角三重塔は、木造の八角塔としては全国で一つしかないという貴重な建築で、長野県では一番早く「国宝」に指定された。 https://museum.umic.jp/bunkazai/document/dot1.html2023-01-25
74別所神社本殿別所神社本殿別所神社本殿は、別所温泉の北方、常楽寺に隣接し、塩田平をはじめ遠く浅間連峰が望める小高い丘の上にあります。 https://museum.umic.jp/bunkazai/document/dot14.htmlより引用2023-01-25
75上田紬とは上田紬とは今からおよそ400年前に生まれ、歴史のある絹織物の上田紬。 特徴は草木染めという果実や植物などの天然染料を使って毛糸を染め、目を細かくしっかりと打ち込むことで生まれる丈夫でしなやかな生地。 また、柄は縞・格子柄で、シンプルで飽きのこないデザインは江戸時代より、万人から愛されてきました。2023-01-25
76仙石氏中興の祖 仙石秀久仙石氏中興の祖 仙石秀久上田藩主を務めてはいないが、仙石氏について調べる上で欠かせない人物が秀久である。秀久は織田、豊臣に仕えた後、関ヶ原の戦いでは徳川方に参戦していた。豊臣時代に小諸城主と小諸藩主を務めたが、仙石氏は小諸藩から上田藩に移封されることとなった。秀久は小諸藩時代に死去していたため息子忠政が信之の跡を継ぎ、仙石氏3代による上田統治の時代が始まった。 参考サイト 上田市デジタルアーカイブポータルサイト https://museum.umic.jp/sakuhin/web.html 上田市立博物館 https://museum.umic.jp/hakubutsukan/ueda-castle-history/03/2023-01-25
77岳の幟岳の幟塩田平の西辺に位置する別所温泉地区には、「岳の幟」と呼ぶ雨乞〔あまご〕いの祭りが伝わっています。この塩田地方は昔から水不足で大変悩まされてきた所で、灌漑〔かんがい〕用の溜〔ため〕池も多く造られ、雨乞い行事もいろいろ行われてきました。 ー中略ー 祭日は例年七月十五日(近年その日に近い日曜に変更)として、別所の上手〔わで〕・院内〔いんない〕・大湯〔おおゆ〕それに昭和四十九年大湯から独立した分去の四地区で、輪番〔りんばん〕に幟の役に当ります。夜明前に、上部に笹のついた竹竿と巻いた布を担いで夫神岳に登り、日の出と共に九頭竜神の石祠に布と神酒を供え、郷中の安全と五穀豊饒〔ごこくほうじょう〕を祈ります。 ー中略ー 支度を整えて日影公民館に待機をしていた三頭獅子とささら踊りの一行がそれに加わり2023-01-25
78真田氏~仙石氏 藩主の移り変わり真田氏~仙石氏 藩主の移り変わり仙石氏が上田藩主を務めることになった理由は、1622年に当時の上田藩主を務めていた、真田信之(幸村の兄)が松代へ移封されたことが原因である。 「上田城は真田の城」というイメージが強いが、実は真田氏が城主を務めたのは信之とその父昌幸の2代だけである。 参考サイト 上田市立博物館 https://museum.umic.jp/hakubutsukan/ueda-castle-history/03/2023-01-25
79温泉薬師瑠璃殿 解説温泉薬師瑠璃殿 解説本尊薬師如来。北向観音堂の西方の崖の上に建てられた一風変わった建物で「医王尊瑠璃殿」と呼ぶ。建立年代は明らかでないが、資料によれば焼失した後文化6年(1809)に地元湯本薬師講中によって再建されたという。温泉の効能に併せて病気を除き解脱するという深い温泉薬師信仰に由来するものである。「瑠璃殿」という名は、薬師如来を瑠璃光如来とも呼ぶところからとった名である。 http://db.umic.ueda.nagano.jp/johogura/datadisp.php?arg_sano=668014より引用2023-01-25
80別所温泉 解説別所温泉 解説塩田平を囲む山なみの西方にそびえる夫神(おがみ)岳のふもとに、この地方の古い歴史とともに、絶えまなく湧き続けて来たのが別所の温泉である。この自然の出湯と人とのかかわりは、夫神岳の麓から古代の布目瓦が多数発掘されたことによっても、その古さが想像される。 国造や国府の所在していた古代から、庶民の安息療養の場所であり、また温泉の効能と医薬信仰が、やがて仏教の霊場としての北向観音堂となったであろう。 別所の温泉は昔から”七久里(ななくり)の湯”と呼ばれたといわれ、平安時代の有名な和歌集にもその名をとどめている。 鎌倉時代には北条氏の居館塩田城にも近いので北条一族の好んで来湯することも多かったと想像される。国宝八角三重塔のある名刹安楽禅寺は北条氏の開基によるところから、別所という地名は2023-01-25
81大湯大湯大湯別所温泉外湯のひとつ。景行天皇の御代、日本武尊の東征の折発見されたと伝えられ、古名七久里の湯、枕草子にも記された信州最古の温泉。大湯は木曽義仲が愛妾葵御前をつれて逗留したと「新・平家物語」に書かれている。 http://db.umic.ueda.nagano.jp/johogura/datadisp.php?arg_sano=3032090より引用2023-01-25
82別所温泉別所温泉別所温泉JR上田駅から電車で25分、バス30分、海抜650メートル静かな高原の湯の里。温泉は54度C単純硫化水素泉で無色透明。宿は20軒、平安貴族の別荘があったところから別所という。 http://db.umic.ueda.nagano.jp/johogura/datadisp.php?arg_sano=2691013より引用2023-01-25
83大東亜戦争完遂映画会(『西塩田村公報』第5号4項)大東亜戦争完遂映画会(『西塩田村公報』第5号4項)農村でも映画会を開き、戦果を伝え、国民の団結力と忠誠心を強めていたと考えると、いかにマスメディアが戦争に利用されていたかが分かる。 上映されていたものはおそらく大本営の戦果発表だと思われる。そのアーカイブはNHKの戦争証言アーカイブス、戦時録音資料で参照できる。 この記事が書かれた当時(1942年5月22日)は、日本軍が優勢であったとされる。アジア・太平洋戦争の転換期であるミッドウェー海戦はこの新聞が発行されて約2週間後に起こる。 NHK「戦争証言アーカイブ 戦時記録資料 勝利の記録」 https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/list.cgi?cat=kiroku 2023年1月25日閲覧 ▼この記事は以下から参照できます。 #930 『西塩田村公2023-01-25
84金井正について金井正について金井正は、明治19年神川村国分に、金井家の三男として生まれました。県立長野中学校(現上田高等学校)に入学。家庭の事情から家督を継ぎ、父が局長を務める国分郵便局の事務員として勤務しました。その一方で哲学者西田幾多郎の存在を知り、哲学に関心を高め、神川読書会を企画したり同人雑誌の創刊し、社会主義による啓蒙を図りました。山本鼎がヨーロッパ留学から戻り、訪ね、児童自由画教育と農民美術運動に感銘を受け、協力を約束し、鼎による講演会「児童自由画の奨励について」を企画。続いて「第1回児童自由画展」を開催し、予想以上の成功を収めました。  農民美術運動については、鼎と連名で日本農民美術建業の趣意書を作成して、神川村の人々に働きかけました。大正8年に第1回農民美術練習所を神川小学校で開設し、2023-01-25
85農民美術運動を促進した人物農民美術運動を促進した人物版画家・山本鼎は、明治15年愛知県岡崎市で生まれましたが、父親が小県郡神川村大屋(現在の上田市大屋)に大屋医院を開業したため、鼎は上田との由縁がありました。 鼎は版画家としてだけでなく、画家としてもその名を残しました。明治35年、20歳で東京美術学校へ入学し、「湖畔」で有名な黒田清輝に油絵を学びました。大正元年にはフランスに渡り、その間に描いた作品はどれも好評を博しました。 帰国後、児童画とその指導方法の改革を目指した運動を起こします。鼎は絵を描く技術、方法が重要ではなく、自分の目で見て、感じたとったものを描くことが、児童の発達に大切などだと説きました。その後大正8年4月には神川小学校で第一回児童自由画展覧会を開催し、自由画教育は全国各地に広がりました。 一方、大正8年11月には神川村2023-01-25
86別所でひと息「風乃坂道」別所でひと息「風乃坂道」常楽寺への道中にある「風乃坂道」 落ち着いた雰囲気のこのカフェでは、心が温まるケーキがいただけます 飲み物の種類も豊富で、ケーキと相性抜群! 別所に訪れた際に立ち寄ってみては?2023-01-24
87塩田平の魅力の発信塩田平の魅力の発信塩田平のちにはため池が点在しており、塩田平の駅を降りるとため池が広がっています。もともとこの土地は塩田3万石といわれる上田藩の穀倉地帯だったのにも関わらず、恵みの雨が少ない地域でした。そのため、古くから人々にとってため池は、支えになっていたのです。そして、この塩田平には長い歴史があります。歴史があるということは、人が生きた物語があるということです。私は、こういったものを上田の地元の人はもちろん、観光客の方にも伝え発信していきたいと考えました。 こういった、地方の魅力を磨き上げ発信していくためには、まず若者の力は必要です。しかし、現在、地方の若者の人口は年々減少し、若者はみんな都心に流出していしまっています。その原因には、地方の地元の魅力をあまり理解できてなく、利便性だけが追2023-01-23
88農民美術を再び普及させるには農民美術を再び普及させるには私は課題探求ゼミナールで森林資源の活用方法として農民美術のこっぱ人形に利用できないかと考えていたため農民美術を再び普及させるためにはどうすればよいかを探求テーマとした。 農民美術は今からおよそ100年前に山本鼎によって提唱された。農村部の若者たちに手工芸品の技術を教え農閑期の副業としまた、それまで無縁であった美術活動への参加を促すものであった。上田市を拠点とし全国へと波及したが戦後は徐々に衰退した。 木っ端人形をふたたび普及させるためにまずは尾澤木彫美術館にて実際に木っ端人形の製作を体験した。実際に体験してみると道具の使い方が想像以上に難しいと感じた。また使用する道具も多く個人で気軽にできるものではないと感じた。 体験を踏まえて、講師による指導のもとで気軽に製作体験ができる体験会2023-01-23
89三枝昌貞起請文三枝昌貞起請文生島足島神社には、甲斐から信濃へ版図を広げた戦国大名の武田信玄とその家臣達の起請文が数多く残されている。 起請文とは、主君に対して家臣が忠節を神仏に誓って尽くすことを決意表明した文書である。 基本的に、主君を裏切らないことや他国と勝手に文通をしないこと、賄賂を受け取らないこと等を誓うのだが、三枝昌貞の起請文は普通の起請文とは違う内容が書かれている。 内容は「信玄様に対して、如何なることにおいても愚痴を言わないこと」。このような起請文は珍しく研究の価値があるのではないだろうか。2023-01-23
90上田の魅力と活性化上田の魅力と活性化 単元3を通して、塩田平地域は「信州の鎌倉」と呼ばれ、多くの寺院や文化財、ため池など様々な魅力があることが分かった。しかし、活性化を考えたときに、オシャレや写真映えなどに興味がある若者からすると、現在の塩田平にあまり興味が湧かないと感じた。  そこで、ため池を活用した花火を打ち上げやイルミネーション、夜桜や紅葉をライトアップすることで若者を呼び込めると考えた。広いため池では、スワンボートのような足漕ぎボートを設置することで、若者だけでなく親子も楽しめると考える。  また、生島足島神社で祭りを開催したり、マルシェのようなものを開いたりすることで、老若男女問わず楽しめる場所になると考えた。マルシェでは地域の特産品などの宣伝を行うことも可能である。  以前、「信州上田レイライン線」2023-01-23
91蚕都から学ぶ発展のコツ蚕都から学ぶ発展のコツ かつて蚕種業で栄えた上田を参考に地域を活性化していく方法を模索した。  今回僕が行ったこととして、上田上塩尻にある養蚕に関わる建築物を見学し、地域が発展するために必要なことを探求した。  建築物の特徴としては、作業を行いやすいよう、屋敷をつなぐ渡り廊下跡があり、温度調節のための木造の暖房施設があった。発展を示す跡として、屋敷が多く建ててあり、家紋付きの瓦や蔵など当時の発展の象徴が多くあった。  僕はイベントを介して、建築物を見学することができたがそれらを通して、別の気づきがあった。地域の方が養蚕の歴史を詳しく知らない方がほとんどだった。今回のイベントに参加して重要性に気付いた方がほとんどだった。地域を活かすにはまず地域の人が地域について理解することで地域が活性化するのではな2023-01-23
92釜めし釜めし大学前駅から別所温泉方面に2駅進んだ中塩田駅のすぐ近くにある、小料理屋 禅美庵で食べた釜めし。1000円代前半と学生にも優しい値段でとてもおいしいのでおすすめしたい。2023-01-23
93上田市立博物館上田市立博物館上田市立博物館に行き真田幸村(信繋)について学んできました。 真田家は織田、武田、豊臣家など仕える先を転々としており、豊臣家に仕えた時期が一番長かったそうです。 徳川家と豊臣家の関係が悪化してきた頃、幸村は豊臣家に誘われ、大阪城入りをします。 そこで真田丸という砦を城南に作ります。 その後に勃発した大阪冬の陣で徳川を破り、幸村は武名をあげました。 しかし、その後に起こった大坂夏の陣で徳川、真田両軍とも力尽き、幸村は命を落としました。 幸村がどんなことを行った人なのかよく理解していなかったので知ることができてよかった。 このほかにも上田の歴史を様々な面から見ることができて勉強になった。 また、十勇士の中で穴山小助、海野六郎などは実際に絵があったため 存在する人物であったと考え2023-01-23
94まとめまとめ上田には歴史が詰まっている。 私は長野大学に入学してから上田市とのかかわりが増え、より感じるようになった。 例えば、上田城。石垣やお城の後はそこに時代を感じさせる。神社やお寺も意外と上田にあったりする。 上田駅を出てすぐの商店街は今も昔もそこに存在している感じがする。少し歩けばいろんなお店があって、昔ながらのものもあれば最近できたおしゃれなお店まで、点在している。 上田市がどうやって歴史をつないで今の姿になっているのかを私たちは肌で感じながら暮らすことができる。 それこそが上田にある魅力の一つではないだろうか。2023-01-23
95海野町レトロ写真館 活動報告海野町レトロ写真館 活動報告1.研究目的 上田市にある海野町商店街には、人情味溢れる店主が集まり、どちらの店主にお話を伺っても優しい対応である。また、祇園祭や七夕祭りなどのイベントをきっかけに、大勢の人々で賑わっている。しかし、大型店舗の出店増加や急速な高齢化と人口流出による客数の減少などにより、新しい取り組みを行う機会が少なくなり、魅力や集客力が低下しつつある。同じ街でも商店街に住む人とマンションの住人とのコミュニケーションが取れていない現状である。そして、商店街の人々が好きだった界隈の空間を忘れ、変わってしまった街の風景に慣れてしまっている。 そこで、海野町商店街の昔の風景の様子を今の景色と合わせてみることができる思い出の写真を地域に共有することで、人情味溢れる町の個性が表現され、地元の人々が魅力の2023-01-23
96上田の都市開発について(前川課題発見ゼミ)上田の都市開発について(前川課題発見ゼミ) 私は、上田の探検を通して、上田は細い道が多いことや、郊外に市街地が拡散していることが課題であると感じた。これらの問題の解決方法の一つとして、道路交通網の整備や区画の見直しといった大規模な都市開発が不可欠だと考えた。  そこで、近年急速に都市開発がなされ、区画が整理された佐久平と交えて、上田の行っていくべき都市開発の在り方について考えた。  佐久平はかつて田園風景の広がる盆地であったが、新幹線の開通により急速な発展を遂げたことは周知の事実である。一般的に、新幹線の開通に伴う佐久平の都市開発は、成功例の一つだといわれている。  だが、この急激な発展によって生まれた弊害もある。その弊害は、佐久市の岩村田地区に顕著に表れている。岩村田はかつて佐久市の中心市街地であった。しかし、新2023-01-23
97家庭欄「夏の料理」ほか家庭欄「夏の料理」ほか夏の料理はつくってみたくなるレシピであるように思う。特に目を引いたのが短歌で、百姓がテーマのものが多いように感じた。 ▼記事はこちらから 「西上田時報」(第16号1948年6月25日2項)2023-01-22
98鉄道施設としての別所線鉄道施設としての別所線写真の通りに別所温泉駅では、日本遺産の別所線の鉄道施設としての説明看板が立てられています。 上田から別所温泉までの路線は大正10年(1921年)に開通したと書かれています。 また、真っ赤な鉄橋である千曲川橋梁(きょうりょう)は224メートルの長さであったそうです。 中塩田駅や別所温泉駅など駅舎に近代の趣が残っている様子が見る事が出来ます。2023-01-22
99信州上田レイライン線について信州上田レイライン線について日本遺産のレイラインを見に行くことが出来るようにレイライン線の時刻表が出されています。 電車から下之郷駅でバスに乗り換えることでレイラインを楽しめるようになっていて、上田駅からどの時間で出発して到着するのかわかりやすく書かれています。 また、切符についても窓口に相談することが出来るようになっています。2023-01-22
100農業放棄地を減らしていくためには農業放棄地を減らしていくためには上田市には農地が沢山あるのになぜ農業が盛んではないのだろうか。 我が家にも農地があるが現在農業をしているのは所有する農地の半分にも見たいない程度である。このような農業放棄地が発生してしまっていることが農業が盛んになっていくうえで邪魔になっているのではないだろうか。 農業放棄地が増えていく原因の一つに農地に関する法律があると考えた。そこで農地法を調べたところいくつかの問題点が見つかった。 ・農地の売買や貸借に農地の所在する市町村の農業委員会の許可が必要な点。 ・農地売買の許可を得るのに農地の権利取得後の経営面積に原則として都府県50a北海道は2ha以上になること(例外あり) ・農地を取得する個人またはその家族等が取得後に行う農業事業に必要な農作業に常時従事しないと農地を買えないこ2023-01-19
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