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1家庭メモ(『西塩田時報』第73号(1953年10月5日)4頁家庭メモ(『西塩田時報』第73号(1953年10月5日)4頁当時の法務省民事局参事官平賀健太氏が講義を行った「戸籍」についての記事である。 戸籍の話から住民票や選挙権、戦没者の身分証明に至るまで、戸籍の重要性を講義している。 戸籍の届け出が正確ではなかった当時の様子がうかがえる内容である。 ▼この記事は以下から参照できます。 #318 『西塩田時報』第73号(1929年12月1日)4頁2021-12-15
2禁酒(西塩田時報第1号(1923年7月1日)4頁)禁酒(西塩田時報第1号(1923年7月1日)4頁)酒でよほど痛い目を見たのか、端から否定派なのか、、 禁酒を進めるというよりかは酒を飲む人を全否定する言葉を並べてある。 しかし、軽快でストレートな表現が嫌味でなくて面白い。 ▼この記事は以下から参照できます。 #4 『西塩田時報』第1号(1923年7月1日)4頁2021-12-15
3農民への問いかけ農民への問いかけ地元の農民に対して役人に搾取される人生で良いのかと、もっと考えながら生きた方が良いと問いかけていたのが、面白かった。 ▼この記事は以下から参照できます。 『西塩田時報』https://d-commons.net/admin/content_edit.php?id=5840#photo_gallery2021-12-15
4戸籍の話(『西塩田時報』第73号(1953年10月5日)4頁戸籍の話(『西塩田時報』第73号(1953年10月5日)4頁当時の法務省民事局参事官平賀健太氏が講義を行った「戸籍」についての記事である。 戸籍の話から住民票や選挙権、戦没者の身分証明に至るまで、戸籍の重要性を講義している。 戸籍の届け出が正確ではなかった当時の様子がうかがえる内容である。 ▼この記事は以下から参照できます。 #318 『西塩田時報』第73号(1929年12月1日)4頁2021-12-15
5『夏の衛生』(『西塩田村公報』第10号(1943年8月25日)2頁)『夏の衛生』(『西塩田村公報』第10号(1943年8月25日)2頁)伝染病対策としての予防策を5つ挙げている。 「子供のアイスキャンデー」「子供の寝冷」など、子供についての記述が多いなと感じた。2021-12-15
6『家庭欄 茄子料理』(『塩田時報』第17号(1948年7月25日)4頁)『家庭欄 茄子料理』(『塩田時報』第17号(1948年7月25日)4頁)茄子料理の説明がされている。 ほんわかして好きだ。村人に寄り添った記事が出ていることが何となく好ましく感じた。 ▼この記事は以下から参照できます。 #1022 『西塩田時報[戦後]』第17号(1948年7月25日)4頁2021-12-14
7『農村女性のあり方』(『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)2頁)『農村女性のあり方』(『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)2頁)農村で働く女性の扱われ方、女性という立場の不自由さが赤裸々に述べられている。 これからの社会では、もっと「男女平等」を図っていかなければならないということを訴えかけており、令和の今でもよく取り上げられる問題が、戦後のこの時代から問題視されていたのだと思うと考え深い。2021-12-14
8明るい村に(『西塩田時報』第17号(1948年7月25日)4項)明るい村に(『西塩田時報』第17号(1948年7月25日)4項)この記事には、戦後の上田の人々の様子が書かれており、政府が取った政策を機に住み良い国を作ろうという想いが述べられている。 「町行く女の華々しき姿と色失せた人々の顔」という文からは、貧富の格差が大きい事が分かる。 戦後で荒れている世の中の様子が読み取る事ができ、興味のひかれる記事だった。 ▼この記事は以下から参照できます。 #1022 『西塩田時報[戦後]』第17号(1948年7月25日)4頁2021-12-14
9「銃後の完璧 体位向上の秋!本団体育大会 見よ堂々の戦華を」(『西塩田時報』第190号(1939年10月1日)1頁)「銃後の完璧 体位向上の秋!本団体育大会 見よ堂々の戦華を」(『西塩田時報』第190号(1939年10月1日)1頁)当時行われた体育大会の結果の様子を掲載した記事。全体的な種目は現代とほぼ変わらないが、中には「手りゅう弾投げ」のような非常に軍事色のある種目も行われ、競い合っていたことが分かる。このようにスポーツにおいても戦争の色が濃くなっていることが示されている記事を地域ニュースとして保存されているのは歴史的に非常に価値があり、次世代への教訓にもなると感じた。2021-12-14
10『衛星メモ』(『塩田田時報』第15号(1948年5月25日)1頁)『衛星メモ』(『塩田田時報』第15号(1948年5月25日)1頁)本記事では家庭の雑学のようなものがいくつか取り上げられている。 現代なら検索すればすぐに得られるような知識であるが、当時の人々からはこういった豆知識のようなものが重要だったのかもしれない。 ▼この記事は以下から参照できます。 #1015 『西塩田時報[戦後]』第15号(1948年5月25日)1頁2021-12-14
11家庭の改造と女性の地位(『西塩田時報』第2・3号(1947年3月10日)2項)家庭の改造と女性の地位(『西塩田時報』第2・3号(1947年3月10日)2項)この記事は、この時代までの男尊女卑の風潮を批判したものである。 この記事が発行された前年に女性は参政権を獲得したものの、女性の立場は家庭内や社会でほとんど変わっていない、というということが読み取れる。 現在の様子との違いをとても感じさせられる文章だった。 ▼この記事は以下から参照できます。 #980 『西塩田時報[戦後]』第2・3号(1947年3月10日)2頁2021-12-14
12「青少年学徒に賜りたる勅語」(『西塩田時報』第190号(1939年9月1日)1頁)「青少年学徒に賜りたる勅語」(『西塩田時報』第190号(1939年9月1日)1頁)昭和天皇の勅語を掲載した記事。この前年に国家総動員法が発令されたことがあり、これを含めて戦争一色となっていることがわかる。また、この日はドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発した日であり、欧州においても戦乱が広がり始めることになるが、それ以前よりこのようにあらゆる分野の記事で挙国一致、戦時体制の確立を訴えていることは、日中戦争がいかに長期化していったことを示すものだと考えられる。2021-12-14
13入學前の家庭教育に就て(『西塩田時報』第1号(1947年1月25日)2頁)入學前の家庭教育に就て(『西塩田時報』第1号(1947年1月25日)2頁)初等科一年生を受け持つ先生が保護者へ向けて書いた、入学前までにできるようになっていてほしいことを示したもの。カタカナの読み書きの習得から毎朝顔を洗うなんてことまで書かれている。 今の新聞ではあまり見られない記事で、当時と今の新聞の在り方の違いが感じられる。 さらにタイトル横の“父兄の皆様”という言葉も最近は聞かなくなったなと。 ▼このページは以下から参照できます。 #976 『西塩田時報[戦後]』第1号(1947年1月25日)2頁2021-12-14
14ポツダム宣言を味読せよ(『西塩田時報』第4号(1947年4月20日)1頁)ポツダム宣言を味読せよ(『西塩田時報』第4号(1947年4月20日)1頁)日本が受諾したポツダム宣言は、連合国側からの一方的に押し付けではなく、日本の将来を考えて行われた最高の要請であると述べられている。 また、これに則って制定された日本国憲法の「すべて国民は健康で文化的な最低生活を営む権利を有する」という部分に対し、現状の生活ではそれを達成できていないと述べられている。その中で、自分たちの役目を果たすだけではなく、自ら行動していかなければならないという強い意志を感じることができる。 ▼この記事は以下から参照できます。 #985 『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁2021-12-14
15卒業生名簿(『西塩田公報』第47号(1951年3月10日)2頁)卒業生名簿(『西塩田公報』第47号(1951年3月10日)2頁)この記事は、当時の卒業生の名前が書かれており、しかもフルネームである。 現代の学校では名簿を世間に出すことさえも厳重な取り扱いを求められているが、この時代には時報に載っている。 個人情報保護などは考えられていなかった時代ならではの記事で面白いと思った。 ▼この記事は以下から参照できます #1124 『西塩田公報』第47号(1951年3月10日)2頁2021-12-14
16児童の体格について(『西塩田時報』第2号(1923年9月1日3頁))児童の体格について(『西塩田時報』第2号(1923年9月1日3頁))この記事は当時の児童の体格について書かれている。また、日本全国と長野、西塩田小学校の3つの児童の体格の平均が比較されている。比較した後に、身体の発達に家庭でも一層のご注意を、などといった文面も見受けられる。 現代においても、このような記事を目にすることは多いのではないか。当時の記録がデータとしてしっかり残っている点が興味深かった。 ▼この記事は以下から参照できます #7 『西塩田時報』第2号(1923年9月1日)3頁2021-12-14
17「西塩田時報」13号(1948年3月25日)1頁「西塩田時報」13号(1948年3月25日)1頁自分は企業情報学にいるため新聞業の規範というタイトルに興味を持った。新聞業の人間が持つ責任や義務、その他の教訓のようなものが長々と書かれていた。自分たちも近代になり誰でも莫大な量の情報を扱えるようになった以上、見習うべきことや考えさせられることがあると感じた。#59 『西塩田時報』第13号(1924年12月1日)1頁  この記事は以下から参照できます2021-12-14
18「西塩田時報」第4号(1946年11月25日)2頁「西塩田時報」第4号(1946年11月25日)2頁「武士道は死ぬことと見つけたり」という有名な言葉が目にとまり、その後のこの言葉をオマージュしているのを見てとても興味をそそられた。ことわざと実数値を使い食事という者の重要性をとき、人間的な生活の成立を軸に記事が立てられている。食事という行為について考えさせられる記事だ。#16 『西塩田時報』第4号(1924年1月1日)2頁2021-12-14
19さよなら「西塩田公報」過去の苦楽もまたなつかしい(『西塩田公報』第104号(1956年5月5日)4頁)さよなら「西塩田公報」過去の苦楽もまたなつかしい(『西塩田公報』第104号(1956年5月5日)4頁)この記事は西塩田時報の最終刊の投稿である。 西塩田時報が地域で長く親しまれ人々に影響をどれだけ与えてきたのかが分かる内容だった。 西塩田時報がどれだけ優れた公報だったのか、どのような苦労や地域との関わりがあったのか読んでいてとても面白かった。 最終刊にあたり長く親しまれてきた公報が戦争を受けた言論統制以外での理由で廃刊を受けた人々の惜しい気持ちが当時の西塩田時報の立ち位置を示しているようで興味深かった。 ▼この記事は以下から参照できます。 #1346 『西塩田公報』第104号(1956年5月5日)4頁2021-12-14
20火鉢を囲んで (『西塩田時報』第4号(1924年1月1日)4頁)火鉢を囲んで (『西塩田時報』第4号(1924年1月1日)4頁)この記事は人間にとって幸福とは何かについて文化生活論的な内容が小説のように書かれていた。 少々哲学的な内容に感じたが戦争が現在よりかは身近な時代に人々の争いについてどのように考えるのか記述があり、とても興味の引かれる内容だった。 人間にとっての幸せとは何なのか、どのような自覚を持つべきなのか考えさせられる文だった。 ▼この記事は以下から参照できます。 #24 『西塩田時報』第4号(1924年4月1日)4頁2021-12-14
21ビタミンの話(『西塩田青年団報』第5号(1946年12月25日)3頁)ビタミンの話(『西塩田青年団報』第5号(1946年12月25日)3頁)記事では、ビタミンは人間が生きていくうえで不可欠な物質であるとした上で、摂取すべき食材が各ビタミンごとに示されている。 ビタミンB1不足によって起こる脚気はかつて国民病であったというが、戦後になって知識が広まり、食料不足も次第に解消されたことで、ようやく解決に向かったのだろう。 ▼この記事は以下から参照できます。 #973 『西塩田青年団報』第5号(1946年12月25日)3頁2021-12-14
22通知表の見方に就いて(『西塩田時報』第35号(1926年10月1日)3頁)通知表の見方に就いて(『西塩田時報』第35号(1926年10月1日)3頁)通知表の評価についての小学校からの説明である。 「うちの子の評価がいつもより低いのはどうしてだ」というクレームを受けての記事だという。 しつこい保護者はこの時代にもいたんだなと思った。 ▼この記事は以下から参照できます。 #31 『西塩田時報』第5号(1924年6月1日)3頁2021-12-14
23廢刊の御挨拶(『西塩田時報』第204号(1940年10月30日)1頁)廢刊の御挨拶(『西塩田時報』第204号(1940年10月30日)1頁)西塩田青年団が発行した『西塩田時報』が廃刊となる旨を伝える記事である。 1923年の発刊から高い志を持って続いてきた情報紙が、言論統制・防諜・資源節約を理由として廃刊になることに対し、発行人の無念が読み取れる。 ▼この記事は以下から参照できます。 #911 『西塩田時報』第204号(1940年10月31日)1頁2021-12-14
24かつての成人の願い(『西塩田時報』第78号(1930年5月1日)3頁)かつての成人の願い(『西塩田時報』第78号(1930年5月1日)3頁)コラムを書いた筆者が、戦争の傷が残る子ども時代に見た大人の世界は、 生きるために血眼で戦う醜い世界。 そんな時代の先で彼が望んだのは、何か世の中の役に立つ人間になることだった。 生きるために戦うことの醜さを知らない現代の日本の大人たちは、 戦いの時代になったら、彼にとっての醜い大人になってしまうのだろうか。 私は世の中の役に立つ大人になりたいとは思うものの、そういう人にならない確証は無い。 なるべく避けたいものだなと思った。 現代では多分考えないだろうこの価値観が面白いと思った。 ▼この記事は以下より参照できます #337 『西塩田時報』第78号(1930年5月1日)3頁2021-12-14
25靑年團廻れ右!軍隊化を目指す文相新體制案 (『西塩田時報』第203号(1940年10月1日)1頁)靑年團廻れ右!軍隊化を目指す文相新體制案 (『西塩田時報』第203号(1940年10月1日)1頁)この記事は、政府が地方を把握しきれていないと批判し、改善を提案している。 国民を機械にすることが新体制であるとまで言っており、日本が強くなる過程で国民が政府に絶対服従することは容認しつつ、逆に政府も完璧であることを求めているところが興味深い。 ▼この記事は以下から参照できます。 #907 『西塩田時報』第203号(1940年10月1日)1頁2021-12-14
26禁酒(『西塩田時報』第1号(1923年7月1日)4頁)禁酒(『西塩田時報』第1号(1923年7月1日)4頁)「禁酒」という分かりやすいタイトルのもとに、健康のために禁酒をしましょう的な真面目な勧告文が書かれているかと思えば、今でいうラップのように韻を踏んでいる唄なのである。内容は禁酒を進めるものであるのだが、酒飲みをこれでもかとディスっている。ふざけているように見えるが、実際に堅苦しい文章よりも読み進めやすく、タイトルもデカデカと「禁酒」の2文字で目に留まりやすい。意外と考えられている記事なのかもしれない。 ▼元記事はこちら  https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0004.jpg2021-12-14
27農村 (『西塩田時報』第108号(1932年11月1日)1頁)農村 (『西塩田時報』第108号(1932年11月1日)1頁)これは農村の困窮についての記事です。時報のなかでもかなり新しいもので、農村で暮らす庶民のリアルな生活が書かれています。こういった時代のなかでも、より暮らしやすい世を目指すために声を上げる人がいるからこそ今の世があるのだと思いました。こういった姿勢を失わないようにしていきたいです。2021-12-14
28雪國 (『西塩田時報』第27号(1926年2月1日)4頁)雪國 (『西塩田時報』第27号(1926年2月1日)4頁)これは長野県の新聞社主催のスキー講習会の記事です。スキー自体は戦前からあったものと知っていたのですが、大正時代から今現在まで長野県で有名なスポーツとして楽しまれていることに文化としての完成度の高さを感じました。また、長野県も雪國としてふさわしい地なのだと思います。2021-12-14
29働くものが幸福になる! 民主政府は總選擧で 總選擧に當り國民はいかにその貴き一票を行使するか?聞け!!村民の血の叫びを!(『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁)働くものが幸福になる! 民主政府は總選擧で 總選擧に當り國民はいかにその貴き一票を行使するか?聞け!!村民の血の叫びを!(『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁)選挙において、よく考えて投票することを呼びかけている。 よく調べずに「名前を聞いたことのある人だから」という理由だけで投票してしまったことがあるので、とても身に沁みる。自分の一票が政治を変えるのだとよく意識して投票するべきだと感じた。 この記事は以下から参照できます。 #985 『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁2021-12-14
30鄕土出身將兵 慰問原稿募集!(『西塩田村公報』第8号(1943年5月5日)3頁)鄕土出身將兵 慰問原稿募集!(『西塩田村公報』第8号(1943年5月5日)3頁)兵士への慰問品を募集している。 寫生畫は写生画、漫畫は漫画、寫眞は写真のことである。 兵士は人間であり、苦しい中戦っていたということを認識させられた。 この記事は以下から参照できます。 #939 『西塩田村公報』第8号(1943年5月5日)3頁2021-12-14
31もつとほしい豫算(『西塩田時報』第30号(1949年9月20日)2頁)もつとほしい豫算(『西塩田時報』第30号(1949年9月20日)2頁)記者の先生に対するインタビュー記事である。 戦前に比べて生徒たちの主体性を育むための授業が行われ始めたと分かる。教室内が明るく感じたものの、記者の印象としては生徒が授業中に話すことは室内の秩序が乱れていると感じたと分かる。2021-12-14
32悲しみ多し(『西塩田時報』第16号(1925年3月1日)1頁)悲しみ多し(『西塩田時報』第16号(1925年3月1日)1頁)これには自分や周りの人に対するふがいなさ、情けなさが書かれている。しかし終わりには「いまにみろ。」と強い言葉がある。 弱い者が自分や人に対してイライラすること。「ただ言われっぱなし、やられっぱなしなのではなく、いつか見返してやる日のために耐えているのだ。」と心の中には闘志がある様子。これらの見下されている人間の心情がよく感じられとても心引かれる記事だった。 ▼この記事は以下から参照できます。 #71 『西塩田時報』第16号(1925年3月1日)1頁2021-12-14
33卒業生の動き(『西塩田時報』第25号(1949年4月15日)5頁)卒業生の動き(『西塩田時報』第25号(1949年4月15日)5頁)恋愛結婚とお見合いでの結婚のどちらが良いか聞かれた女学生の考えや意見を知ることができる。 現代では恋愛結婚が主流だが、戦後の時代では恋愛結婚をするなら親に反対されるのだと分かる。2021-12-14
34記念『西塩田時報』第100号(1932年3月1日)記念『西塩田時報』第100号(1932年3月1日)記念すべき第100号でこの時報ができた話やその前身について触れていた。昔の人もこのような節目を大切にしていて現代の人と同じ感覚なのが興味深かった。2021-12-14
35心得『西塩田時報』第2号(1923年9月1日)4頁心得『西塩田時報』第2号(1923年9月1日)4頁「お互いに用心しましょう」という小見出しで火の元の管理や衛生環境への注意が促されていて、発行されてから間もない時期はどんな記事を書くのか疑問でしたがこのような日常生活への注意もされていたのだなと思いました。2021-12-14
36趣味に就いて(『西塩田時報[戦後]』第2・3号(1947年3月10日)6頁)趣味に就いて(『西塩田時報[戦後]』第2・3号(1947年3月10日)6頁)この記事の作者は人々に趣味を見つけることを勧めている。趣味を見つけることで良い友情を結び、視野を広げ、豊富な経験や知識を効率的に持つことができると書かれている。 まるで現代文の教科書を読んでいるような気分になり、私も趣味を見つけて人生を豊かにしたいと思った。 ▼この記事は以下から参照できます。 #984 『西塩田時報[戦後]』第2・3号(1947年3月10日)6頁2021-12-14
37何を意識するの?? (『西塩田時報』第94号(1931年9月1日)4頁)何を意識するの?? (『西塩田時報』第94号(1931年9月1日)4頁) 現在皆さんは何を考えて生きていますか? 自分のこと、他の人のこと、また他のことを考えて 過ごしていると思います。ただこの時代は現在と違った 美徳について意識するように。と書かれている。 現在とは違った価値観が感じられる記事となっている。    皆さんも他の人とは違う美徳を目指してみては? 出典元:  『西塩田時報』第94号(1931年9月1日)4頁2021-12-14
38お酒はやめたほうがいいの? 禁酒(『西塩田時報』第1号(1923年7月1日)4頁)お酒はやめたほうがいいの? 禁酒(『西塩田時報』第1号(1923年7月1日)4頁) 現在でお酒を飲む人がたくさんいると思う。そんな人たちに警告を鳴らす。  「お酒は身体にあまりよくないのである。」 お金も使うし、身体も壊す。 お酒はほどほどに (この話は誇張してます。酒は百薬の長ともいうので少しなら薬にもなります。) お酒は飲んでも、お酒に飲まれないように 出典元:  (『西塩田時報』第1号(1923年7月1日)4頁)2021-12-14
39『火事』( 『西塩田青年団報』第2号(1946年9月20日)3頁)『火事』( 『西塩田青年団報』第2号(1946年9月20日)3頁)地震・火事・雷は恐ろしく、地震と雷は不可抗力であるが火事はまったく不可抗力ではない。といったことが述べられている。 お互いに注意をすれば火事を未然に防ぎ、もし起こったとしても被害を最小限に抑えられるという小さいことだがとても大切なことであると気づかされた。 この記事は以下から参照できます #957 『西塩田青年団報』第2号(1946年9月20日)3頁2021-12-14
40『児童の体格について』(『西塩田時報』第2号(1923年9月1日)3頁)『児童の体格について』(『西塩田時報』第2号(1923年9月1日)3頁)記事では日本全国・長野・西塩田小学校の児童の体格の平均を比べたもので、この村の児童の体格があまり良くないということが述べられている。 3つのデータから、どういった児童がどのような部分で全国・長野の平均を上回っているのかがよくわかる。 地域を感じさせる記事で興味深かった。 この記事は以下から参照できます #7 『西塩田時報』第2号(1923年9月1日)3頁2021-12-14
41地方選挙に望む『西塩田青年団報』第4号(1946年11月25日)1頁地方選挙に望む『西塩田青年団報』第4号(1946年11月25日)1頁選挙の理由や意義または仕組みなどが書いてあった。選挙の制度が地方選挙では村長・議会議員・知事などを決める。選挙に出るものは私的な欲望ではなく、村の代表として信頼される人物が望ましいとも記述してあった。 今でも選挙が行われており、昔の名残も残っているように感じ、面白いと思った。 『西塩田青年団報』第4号(1946年11月25日)1頁2021-12-13
42カメラ『西塩田時報』第2号(1923年9月1日)4頁カメラ『西塩田時報』第2号(1923年9月1日)4頁これは日常を題材にした短編小説のような記事だ。 A氏について書かれており、死や幸福など対比的な内容が魅力的だと感じた。 割と文章全体が短くてすぐに読めたので面白いと感じました。 この記事は以下から参照できます。 『西塩田時報』第2号(1923年9月1日)4頁2021-12-13
43機械縫裁機械縫裁この写真は、海野町商店街にあるすや呉服店が所蔵する一枚である。 この写真の写る人々の服装から、このお店は裕福だったことが分かる。2021-12-13
44ああ、感激の優勝旗(『西塩田時報』第204号(1940年10月31日)6頁)ああ、感激の優勝旗(『西塩田時報』第204号(1940年10月31日)6頁)この資料は、上田市営運動場という場所で行われた体育大会の様子を記している。上田市営運動場という場所を調べて見たがどの施設のことを指しているのかがハッキリしなかった。というのも、この運動会が開催された昭和15年(1940年)には上田城跡公園陸上競技場はあったが、当時から陸上競技場という名で呼ばれていたと思われるため(勝俣英吉郎の銅像に記されている碑文に陸上競技場と記されていることから)、運動場という名前で新聞に載せるかどうかが怪しいと判断したためである。この体育大会では現在も競技として残っている100M走や800Mリレーの他に、バトンの代わりに俵を用いたリレーや手榴弾投という現在にはあまり聞かない競技が記されている。 現在の新聞では大会が開催されたことを掲載する際は、結果しか載せないことが多い2021-12-13
45農村の若人に(一)(『西塩田時報』第121号(1933年12月1日)4頁)農村の若人に(一)(『西塩田時報』第121号(1933年12月1日)4頁)この文章は、匿名のYさんから農村の若者に向けた物である。 世界は戦争や疫病により、落ちぶれてしまっている。世界では資本主義や社会主義、科学を主体とする思想も広がっている。日本もそれを色々と真似ようとしているが、執筆者から見たら、立派な青年(日本)が不良な青年(外国)と遊んでいて悪い癖を覚えさせられているように感じられているそうだ。現に世界恐慌の際、労働者と資本家も苦しんでいる中で、大資本家や国際的な資本家は卑しく笑っていた。また、人間は自ら見つけた科学を全力で成長させてきた。その科学は完全に人間の上に立ち、一切の指令権を持つようになり、人間は科学に職を追われ科学の犠牲になりつつある。歴史ある美しき日本を守れ。そして、大和魂を持って世界を再生することが使命である。 ある程度理解2021-12-12
46新學制の教科について(『西塩田時報[戦後]』第5号(1947年5月20日)3頁)新學制の教科について(『西塩田時報[戦後]』第5号(1947年5月20日)3頁)この記事には学校で習う教科の変更について書かれている。ここでいう社会科が私たちの思うそれとは異なっている。ここでいう社会科とは「社会生活についての良識と性格とを学ぶこと」が目的になっていて、そのギャップが面白く感じた。 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0991.jpg2021-12-12
47禁酒(『西塩田時報』第1号(1923年7月1日)4頁)禁酒(『西塩田時報』第1号(1923年7月1日)4頁)まず、タイトルに惹かれた。「禁酒」と書かれていてどうしても気になった。作者が記されておらず、誰が何のために書いたのかすらわからない。どこか唄のような感じで述べられていて読みやすい。この文章の中で「やけのヤン八喧嘩野郎」の語呂とリズムが心地よく感じた。 この文章自体が謎すぎてクスッと笑ってしまった。 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0004.jpg2021-12-12
48家庭心得帖『西塩田公報』第67号(1953年4月5日)4頁家庭心得帖『西塩田公報』第67号(1953年4月5日)4頁「家庭心得帖」というタイトルで、包丁のサビのとり方 や料理のレシピなどが掲載されている。 西塩田時報の記事の中にとても家庭向けの内容が書いてあったので驚いた。 この記事は以下から参照できます。 #1198 『西塩田公報』第67号(1953年4月5日)4頁2021-12-11
49知って居て重宝な家庭メモ『西塩田公報』第95号(1955年8月5日)4頁知って居て重宝な家庭メモ『西塩田公報』第95号(1955年8月5日)4頁「知って居て重宝な家庭メモ」というタイトルで、衣類にチューインガムがついた時の取り方など生活の豆知識が記載されている。 地域の出来事が多く書かれているイメージだったのでこの様な内容が書かれていて面白いと感じた。 この記事は以下から参照できます。 #1310 『西塩田公報』第95号(1955年8月5日)4頁2021-12-11
50第三農村の疲弊(『西塩田時報』第124号(1934年3月1日)1頁)第三農村の疲弊(『西塩田時報』第124号(1934年3月1日)1頁)私が興味を引かれたのは、「第三農村の疲弊」という記事。 インフレ景気において利潤を得る都市部の市場と比較し、経済状況に苦しむ地方農村の状況を述べている記事だった。 私が面白いと思ったのは、地元紙であるからこうした苦境に立たされている農村の人々に寄り添い、政治に批判的な内容を書くのかと思いきや、逆に自分たちの批判的な心を改めるべきだと述べている事だ。戦争が近づく中で、国に対する忠誠心なども高められてきたことも関係しているのだろうか、と推測でき、興味深かった。 この記事は以下から参照できます。 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0549.jpg2021-12-11
51朝鮮人の結婚式(『西塩田時報』第4号(1924年4月1日)4頁)朝鮮人の結婚式(『西塩田時報』第4号(1924年4月1日)4頁)私が興味を引かれたのは、「朝鮮人の結婚式」という記事。 これは朝鮮人の結婚形態を日本との違いも踏まえて紹介した記事だったが、興味を引かれたポイントはその内容ではなく、この記事が発行された年。 この記事が発行されたのは大正13年(西暦1924年)で、大正12年の朝鮮人大虐殺が起こった関東大震災の一年後だった。関東では朝鮮人への憎悪が残っていたであろうこの時代に、地方では朝鮮人の和やかな記事が出せたというのは、当時はそれだけ都市と地方が隔絶していて情報が行き届いていなかったのだろうか、とか、地方の人々はそもそも他人事で憎悪を感じていなかったのか、といういくつかの推測を私に抱かせた。 真偽のほどは不明だが、歴史的背景を含めて考察ができるというのも、貴重な価値を持つ文献だと思った。 この記事は以2021-12-11
52コトリの湯コトリの湯上田ではないが、地藏峠つながりで。 地藏峠を長野市側に下りていくとたどり着く。 とにかく綺麗な温泉。 行った時間帯は2時くらいだったが、窓から入る光が風呂場の湯気を照らしていて神秘的だった。 内にも外にもたくさん木材が使われていて、ほのかに香る木の匂いに癒される。 レストランや図書室など、風呂上りに休める場所も。2021-12-01
53新地藏峠新地藏峠県道35号長野真田線 新地藏峠は、真田と長野市を結ぶ山道。 写真は撮れるような場所がなかったので文章だけで。 この峠には、進行方向を180度変える「ヘアピンカーブ」と呼ばれるカーブを始め、きついカーブが点在している。 加えて高低差もあるので、かなり走りがいのある峠になっている。 道幅も狭くはないので、山道を楽しむには十分。 夜間、この道も凍結することが予想されるので注意を。2021-12-01
54地藏温泉 十福の湯地藏温泉 十福の湯上田から地藏温泉に向かう途中にある温泉。 今日は立ち寄っていないので以前の写真。 何といってもこの温泉、露天風呂が広い。 昼でも夜でも、自然の中でゆっくりくつろげる。 内風呂も綺麗で、おいてあるシャンプーも香りが良い。 レストランもあって、なかでもピザは焼き立てを食べられる。 上田の温泉はかなり行っているが、そのなかでも一番おすすめの温泉なので、ぜひくつろぎに行ってみてほしい。2021-12-01
55これはなんでしょう?これはなんでしょう?このつぶつぶは何でしょう。 なにやらとても艶がある... 誰かが麦チョコでも落としたのでしょうか? 正解は鹿さんのうんち。 まーたうんちです。 上田には二ホンジカがたくさん生息しているので、彼らのでしょうか。 自然の多い山道では、しばしばシカを含め野生動物が出没する。 走っていてもお構いなしに道路を横断することも。 暗い時間帯は特に気を付けて、事故の無いように。2021-12-01
56菅平ダム菅平ダム上田の降水量が少ないために、昭和41年から昭和43年にかけて建設されたダム。 菅平発電所もともに建設された。 あまり水が貯まっているようには見えなかったが、降水量が少ないからなのだろうか。 長野県公式HPによると、5月初旬ごろに満水になり、放流も運用開始から10数回程度しかしていないそう。 全国でもまれな利水ダムということで、発電や灌漑に使われている。2021-12-01
57菅平高原線菅平高原線鳥居峠を上田側に下りていくと、県道182号線 菅平高原線とぶつかる。 12月1日~3月31日まで通行止めとなる。 菅平に行くのであれば、もう少し下れば国道で楽に行けるので、通行止めになっても不便になることはあんまり無さそうだ。 しかし、地図を見てみると「平塚らいてうの家」が。 気になるので、暖かくなって通れるようになったら行ってみたい。2021-12-01
58峠のおやき なかざわ峠のおやき なかざわ鳥居峠を上田側に下った先、あるいは上田側から上って菅平口の信号を右折してすぐにあるお店。 おやきや団子などが売っている。 かぼちゃのおやきとみそぽーくまんを買って、お団子もいただいてしまった。 おやきを食べることは初めてだったが、手のひらサイズ一つでも満足感がかなりある。 お店の方と少し話したが、なんでも長野大学の近くで作っているらしい。2021-12-01
59鳥居峠鳥居峠鳥居峠は国道なこともあり、路面はかなり綺麗。 道幅は広く、登坂車線もある。 写真は上田側に降りていく途中で、チェーンの脱着ができるようなスペースにて撮ったもの。 以前夜間に通った際、チェーンをつけている車がいたところだ。 写真からわかるように、昼間でも標高が高いので雪が残っている。 これから冬本番、もし通行することがあるならば、夜間と早朝は特に注意が必要だ。2021-12-01
60鳥居峠鳥居峠鳥居峠は、長野県の上田と群馬県の嬬恋村にまたがる山道である。 今の時期夜間はアイスバーンが起き、灯りもないので危険な時がある。 しかし、昼間で気温が上がっていれば走りやすい道でもある。 上田から温泉で有名な草津方面に行くためには山を越えないといけないが、東御市の方から超えるよりも鳥居峠を通った方が、運転の負担も少ないだろう。 日本百名山である四阿山への登山道もあるが、一般車では入っていけないようなので注意。2021-12-01
61上田城上田城上田城の写真です。2021-11-30
62上田駅前探索2上田駅前探索211月後半のこの時期になってくると駅近くのアリオでイルミネーションが見られた。駅周辺の街もBGMがかかっていたりしてかなり雰囲気が良くなっていて良いと思った。(夜の写真を撮り忘れました)2021-11-30
63なかざわ商店なかざわ商店なかざわ商店さんのお団子。 開店と同時に駆け込んだ。 お団子以外にも大福やおやきなどもある。 五平餅は予約が必要である。2021-11-29
64キモノマルシェ2015/信州シルクロードへの誘いキモノマルシェ2015/信州シルクロードへの誘い キモノマルシェ2015/キモノアカデミー/信州の蚕糸を知ろう 「信州シルクロードへの誘い」 会場:旧常田館製糸場施設(重要文化財、長野県上田市) 2015/10/04 講師:前川道博(蚕都上田プロジェクト代表世話人) 内容:前半レクチャー、後半見学。国内に残る近代の製糸場は富岡製糸場とここ常田館製糸場の2つ。蚕種製造でも栄えた上田は蚕都と呼ばれた。女工さんたちが働いていた工場の情景も想像してみよう。2021-11-29
65キモノマルシェ2013/信州の蚕糸を知ろうキモノマルシェ2013/信州の蚕糸を知ろう キモノマルシェ2013 in 上田 キモノアカデミー/信州の蚕糸を知ろう 「蚕都上田と旧常田館製糸場施設」 2013/11/17 講師:前川道博(蚕都上田プロジェクト代表世話人)2021-11-29
66桑の実ジャム桑の実ジャム桑の実の収穫時期は6月中旬~下旬。 養蚕業で栄えていた上田ならではのジャムが、この「桑の実」ジャムです。蚕を育てるために、桑の木がたくさん植えられ、実る桑の実を使って、みすゞ商店さんの試行錯誤の末に生み出された品です。 年によって桑の実の収穫量が異なるため、生産量が限られる期間限定品です。2021-11-24
67六文銭六文銭この六文銭を見ると、上田っぽい、と思うことがある。街のマンホール、花壇、道路の標識などあちこちに六文銭が潜んでいる。街を歩いていてこれを見つけるとニヤッとしてしまうのだ。2021-11-23
68塩田平自転車巡り塩田平自転車巡り2021-11-23
69塩田平自転車巡り塩田平自転車巡り柳沢バイパスを進んでいくと途中で無言館へ向かう道をずっと上っていくと前山寺の隣にあるカフェ。上り坂は正直なところ体力に自信がある人でないと自転車で登るのはかなりきつい。しかし、その分カフェから眺める景色は絶景である。2021-11-22
70保命水とは?保命水とは?柳町の路地にある水場。明治14年に付近にある海善寺の湧き水を木管を繋いで引いてきたもの。上田市に上下水道が開設される大正12年まで生活用水・非常用水として、地域住民や北国街道を往来する人々に多く利用されていた。利用されている時も、生活用水として使われなくなってからも、地域住民が価値を見出し、長年、維持してきたことが感じ取れた。2021-11-22
71塩田平自転車巡り塩田平自転車巡り上田丸子線の来光寺池の手前で右折すると見えてくる柳沢バイパス沿いにあるカフェ。開けた土地に立地しているため見つけやすい。まろやかですっきりとした口当たりが特徴の発芽コーヒーが売りである。スイーツとの相性も抜群である。2021-11-22
72塩田平自転車巡り塩田平自転車巡り大学前あたりから上田丸子線をまっすぐ行く途中で最初に見つけたカフェ。古民家をカフェに改装して作られている。コーヒーやスイーツはもちろんのこと、カレーなどのボリューム満点なランチも楽しめる。2021-11-22
73日本農民美術記念看板日本農民美術記念看板令和3年10月14日に設置された記念看板です。上田を拠点に農民美術や児童自由画教育を提唱し、活動の基点となった「日本農民美術研究所」の案内板を設置し、長く後世に語り継ぐという目的で設置しました。設置場所は大屋駅のすぐ近くです。2021-11-22
74神川・山本鼎の会の紹介神川・山本鼎の会の紹介神川・山本鼎の会は平成29年2月に発足された会です。会員は95名ほどいます。 「山本鼎の偉業を顕彰し、氏の考えと人間愛を未来へとつなげる、次代を担う青少年が先輩達たちの知恵を学び、自主自立の精神を目覚めさせ、ひろく世界へ羽ばたくことを応援する」という目的で活動しています。 活動内容は「山本鼎とそれを支えた神川人、山本鼎の親族・友人・芸術家を現出する」「活動の起点となった日本農民美術研究所に記念碑を建立し長く未来に語り伝える」「関係上田市マップを作成配布し、人々の関心を再び高め、上田市のまちづくりにつなげてゆく」「自由大学の全容と遺産を上田市から広く発信する」です。2021-11-22
75小諸唱歌小諸唱歌《1番の歌詞》 いざ(や) 友どち 共々に 我町々を 東より 西また 南北のくま 散歩ながらに 巡り見ん 作詞:池田芦舟、星野香山 作曲:長尾亥三太 1905(明治38)年作詞・作曲 1926(大正15)年改訂・追加作 2021-11-22
76#りんご県のおみや#りんご県のおみやりんごの甘酸っぱさと、口当たりの良いバタークリームがおいしい、すっきり食べられるお菓子でs。 長野県といえば、全国的にもりんごの産地として有名です。上田もその例外ではありません。 明治七年(1874年)から栽培が始まり、善光寺への参詣客に売っていました。世界恐慌でそれまでの主要産業だった養蚕業が打撃を受けたことをきっかけに、りんご栽培が盛んになりました。当時は味が不評だったため、同じくりんごが特産の青森県を真似て、「紅玉」と「国光」の品種を中心に栽培されるように。 「水はけの良い土地」、「昼夜の気温差」がりんごの生育に適しており、8月~2月にかけてが旬と、おいしく食べられる期間が長いことが特徴。 りんごの名前の初めに「サン」がついているものは、袋をつけないで作られたりんごで、太陽光2021-11-23
77一番「強い」地域資源一番「強い」地域資源長野大学って一番強い地域資源だと思うんですよ 強いってどういうことか? 地域資源って店だったり自然、史跡って感じで色んなものがあるんですけど、1つだけ絶対に関わっている要素があるんですよ。 それは人です! それをたくさん抱えている大学という組織は地域において強い力を持っていると思うんですよね カードにするならユニットの強化系ですかね~2021-11-22
78上窪池上窪池上窪池は1645年に築造されたとあり、江戸時代に改修される以前は泥池と呼ばれていた。塩田鯉の養殖にも使われていた。池のほぼ北西に泥宮が祭られておりこの二つは一対の物と考えられる。泥は稲作にとって欠かせないものであり、稲の母として古来泥は神聖なものとして扱われてきた。また夏至の日には太陽の昇道がまっすぐ鳥居の真ん中にくる。2021-11-20
79パノラマライン展望台パノラマライン展望台ここパノラマライン展望台は塩田地域を見渡せる景色のとてもいい展望台である。付近にはクマ注意の看板もあるため注意したい。また道が狭く近くに車を止めて歩いていくのがいいだろう。近場できれいな景色を見たい時や、嫌なことを忘れたいときにいいのではないだろうか。2021-11-20
80研修会2021「地元をフィールドにした地域の学び」研修会2021「地元をフィールドにした地域の学び」長野県総合教育センター/長野大学連携講座2021 総合的な学習・探求の時間 基本Ⅱ 地元をフィールドにした地域の学び 研修会資料はこちらに掲載します。2021-11-18
81駒形社跡駒形社跡駒形社があった場所。上信越自動車道開通に伴い、八満弓神社境内に移設されている。(参照 駒形社(八満弓神社境内)) 碑文 駒形社跡 裏面 小諸市大字八満字駒形に 鎮座していた駒形社 は創建 年代は詳らかではないが塩野の の牧の西方の駒形として奉齋 されたと伝えらている 現在の祠は貞享元年の再建で ある 此の度上信越自動車道開通 に伴い当初八満弓神社境内 に遷し奉り跡地に石碑を 建立してその名を留めるものなり  平成六年十二月吉日 宮司 金井重忠 筆頭 池田二郎 総代 美齊津卓雄    依田 進    田中三雄    小山春男    美齊津幸一2021-11-18
82地域キュレーション「上田探検」2021地域キュレーション「上田探検」2021信州上田学A(2021年度後学期)の地域キュレーション課題「上田探検」に取り組んだ学生たちのアウトカムをご紹介します。
  1. 上田とコンテンツツーリズム (りった)
     上田の観光事業への取り組みを知り、よりよい策を考える。
  2. 別所温泉めぐり (あゆ)
     別所温泉街を巡り、気になるスポットを撮影する。
  3. 塩田平をめぐる (オガサカ)
     別所温泉がどのような場所であるのか、歴史的背景や、地理的な側面から見たい。
  4. 上田の歴史にふれる (崔)
     昔の上田は何があって、何をしていたのかを探求し今後の活動に活かす。
2021-11-17
83六文銭六文銭お店の名前から真田の家紋が思い浮かびます。 このお店はとんかつが有名です。(開店前でした) どの品もボリュームがあり、サクサクできたてのとんかつやメンチカツを頬張ることができます。 お腹も舌も満足する一品が味わえます。2021-11-17
84大正二年上田町市街図大正二年上田町市街図測量による地図が作成されるようになったため、方位・縮尺が地図に記入されるようになり、凡例にある地図記号も用いられるようになった。しかし、かなり簡略化された地図だ。地図からは、市街地の周囲は水田や畑が広がっていたことがわかる。 大正期の上田は、養蚕業とその関連産業が隆盛を極めており、市街地北方に「大星川原種桑園」、南方に「鴨池種桑田」などの広大な桑園が見られる。 また、「上田蚕糸専門学校」(現信州大学繊維学部明治44年開校)、「小県蚕業学校」(明治25年開校、大正12年現在の上田東高校の地への移動)も見える。2023-05-06
85上田紬のお店上田紬のお店お土産屋さんを探していたところ、この看板を見つけました。中から機織り機の音がしたので、気になりお邪魔したのですが休業日でした…。伝統工芸品の上田紬の機織り体験もできるのだとか。(予約優先) 外ではお茶もできます。 生糸を経糸に、真綿からつむいだ紬糸を緯糸にして織りなされる上田紬は、絹の心地よい感触や、独特の光沢を楽しめます。2021-11-17
86柳町柳町城下町だった頃を想像できる景観。350年の歴史がある酒蔵から、東京からやってきた天然酵母のパン屋さんまで古いものも、新しいものも景観として上手く溶け込んでいた。店の看板には、上田の農民芸術「こっぱ人形」が使われていて、こだわりを感じた。また、橋は生活圏と生活圏を繋げているものだと思った。2021-11-17
87前山寺までの道中前山寺までの道中自転車移動の最中、看板を見つけました。 看板一つでこんなに見所がある塩田町はどんなところなのか… しおだの町中を自転車で走っていると、至る所にため池があり、地元では見たことがなかったので、違いを感じました。2021-11-17
88塩田平自転車巡り塩田平自転車巡り今まで自転車を乗り回してきて、大学周辺から別所温泉にかけて気になるスポットをわかりやすいルートで巡ってみた。2021-11-17
89紫陽花小道紫陽花小道ここ紫陽花小道は1万株もの紫陽花が植えられていている。小道というほどの短い距離ではなく、そこそこの距離がある。紫陽花が咲く時期に行けば一面の紫陽花もみられる。また少し高いところにあるので上田地域を見下ろすことができる。水車小屋もあり涼しげな雰囲気を感じることができるだろう。 梅雨の時期に行くことが多くなるが雨の後に行くと道がぬかるんでいるので注意したい。また蜂などの危険な生物も生息している場所になるので注意が必要だ。 注:写真は7月7日のもの2021-11-17
90舌喰池舌喰池この池は2000年前からある非常に歴史が深い池である。 さて舌喰池とは物騒な名前だ。諸説あるがこの名前の由来は水漏れがひどかったこの池を改修するとき堤の真ん中に人柱を入れなければ効果がないと言われ、くじ引きで人柱に選ばれた娘が舌を噛み切って自殺してしまったということからこの名前が来ている。その他にも塩田地方では土手の崩れることを「くいる」といい、土手を築くたびに下が崩れる「したくいる」が舌喰になったという説もある。 水鳥も飛来しており、カイツブリなどの様々な水鳥を見ることができる。 そのほかにも池のほとりはかなり広く芝生が生えきれいに整備されているので、池や水鳥などを眺めながらのピクニックにも絶好の場所となるだろう。 またこの池は全国ため池100選にも選ばれている。近くには資2021-11-17
91前山寺の三重塔前山寺の三重塔紅葉の季節真っ只中の秋の前山寺は、銀杏が見頃でした。 立派な門をくぐってすぐに目に入ったのは、前山寺の有名な「三重塔」でした。迫力があるのはもちろん、散る銀杏の葉と塔のコントラストが綺麗で、写真を撮りたくなりました。風が強い日だったので落ち葉も多かったのですが、銀杏の葉が黄色い絨毯のようになっており、境内が色づいていました。 三重塔は国の重要文化財にも指定され、元弘年中(一三三一年)讃岐国善通寺から来上した長秀上人により正法院を現在の位置に移し、前山寺を開山したと伝えられています。 前山寺のHP→ https://www.zensanji.info/2021-11-17
92八木沢駅から望む独鈷山八木沢駅から望む独鈷山別所線にある八木沢駅を降りると南に独鈷山を望むことができる。独鈷山は突兀とした特異な山並みが特徴である。撮影時期は7月なので青々とした田んぼもありとてもきれいな景色となっている。2021-11-17
93前山寺のくるみおはぎ前山寺のくるみおはぎ事前に電話での予約が必要ですが、前山寺では胡桃おはぎをいただくことができます。お寺は山を登ったところにあるので見晴らしが良く、座ったお座敷のガラス窓からは、しおだを一望することができ、おはぎに舌鼓を打ちつつ景色も楽しむことができます。餡子で包まれたものではなく、胡桃入りのタレを付けていただきます。軽い食感なので、飽きることなく食べられます。甘いものや和菓子が好きな人にぜひ食べてもらいたい一品です。2021-11-17
94上田探検のねらい上田探検のねらい今回は「上田紬」をテーマに街歩きをしました。 上田紬に関わる方々にお話を聞いたり、体験したりすることを通して上田紬の魅力を知り、今後につなげていくためです。2021-11-16
95どうして「地域資源」で「遊ぶ」の?どうして「地域資源」で「遊ぶ」の?こんにちわ! 突然ですが、急に投稿をしだして「じゃあ地域のゲーム作ります!遊びませんか!?」って言い出してる人どう思いますか? 「何やってるんだろう?」 「何のためにやってるんだろう?」 って思いません? では逆に、「地域について知って欲しいので講義します!」 って言ってる人はどう思いますか? 興味が無い人からしたら「講義」とかなんて言われたら近寄りがたい印象を持っちゃいますよね 僕も正直近寄りがたいって思ってた側の人間でした。 中学辺りから地域について興味は持ってたんですけど、ごりごりにやり始めたのは高校1年の夏からだったんですよね サステイナビリティについての研修だったりで色んな大学にお邪魔したな~ そんな感じでやってて、ふと思ったんですよ。 「これ自分が興味あるだけだか2021-11-16
96上田探検の狙い上田探検の狙い近年では開発などにより美しい自然は失われつつあるが、このような自然は守っていかなくてはいけない。しかし、維持・保護にもお金がかかり維持するメリットがなけば守っていくことは難しいだろう。なのでどのような自然があり魅力があるかを紹介していきたい。2021-11-16
97あいそめの湯②あいそめの湯②信州最古の温泉といわれている別所温泉であるが、あいそめの湯に飾られていた別所温泉の歴史が書かれたものがあったので、自分でも深く調べてみた。 別所温泉は景行天皇の時代、日本武尊の東征の折りに発見されたといわれている。または平安時代(794年-1185年)中期の女流作家、清少納言によって書かれた「枕草子」にある「湯は七久里の湯、有馬の湯、玉造の湯」という一節の中の「七久里の湯」が起源ではないかという説もある。 12世紀に入ると別所は木曽義仲(源 義仲)信州を平定するために派遣した軍勢によって火を放たれ、多くの寺院建築が灰になってしまったが、大悲殿ならびに安楽寺の八角三重の塔だけは焼失をまぬがれた。その後、焼失した別所の寺院は源頼朝、次いでに塩田北条氏によって再建されることとなった。そして、こ2021-11-16
98あいそめの湯あいそめの湯あいそめの湯に行ってみました。 塩田といえば別所温泉。 別所温泉の泉質は皮脂を溶かして古い角質層を軟化させ、その効用で肌がすべすべになるといわれています。 実際に入ってみると、硫黄のにおいがして、温泉に入っている感が凄かったです。2021-11-16
99大手門公園大手門公園上田城から市役所方面に歩いて約10分のところにある小さな公園です。滝と紅葉が織りなす風景はまるで京都を思わせるような雅な雰囲気が漂わせていました。街歩き一番のお気に入りスポットです。2021-11-15
100富士アイス富士アイス海野町商店街にある行列の絶えないお店。名物は志゛まん焼き。出来立て熱々の志゛まん焼きはあんこもクリームも薄めの皮にたっぷり詰まっていてとてもおいしいです。1つ80円という安さも魅力の一つ。10個以上買っていく人もいる、言わずと知れた上田の名物です。2021-11-15
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