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子ども地域探検隊2022
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登録リスト(該当:65件)
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1
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写真
タイトル
説明
登録日
1
この木、桑の木?
背後の山に迫りくる逆さ霧に誘われて秋和を歩いていたら、ここに桑の木が。桑の木なのでしょうか? かつては蚕種製造や養蚕の盛んだった塩尻地区の至るところに桑の木があったはずですが、ある時期に伐根(ばっこん)され、殆ど見当たらなくなっていました。
2023-09-28
2
歴史景観ウォッチング 新町・諏訪部編 ⑤浜村邸
浜村家の分家、5代目。出身は諏訪の高島藩だと伝えられている。養蚕(2百貫目ぐらい)と蚕種と稲作をやってきた。明治年代、先祖は蚕種製造家として名を残している。建物は、明治元年に建てられた。歴史の散歩道は、私道。市が敷石を引き整備してくれた。上田市の景観賞を受賞した。 南側にも蚕室づくりの家がある。
2023-09-24
3
歴史的景観ウォッチング 新町・諏訪部編 ②田村邸
江戸時代から蚕種製造業を営んでいた。祖父の時代には、種繭を2百貫目とっていた。桑畠は、桑屋に見てもらい、足りない分は、坂城から買っていた。種付けする時は、雌雄鑑別に近隣から人を集めた。 矢出沢川の河岸にほら穴を掘り、蚕種の貯蔵をした。茨城にも販路があった。 父の趣味が写真で、その頃の写真もあるので整理して見てもらえるようにしておく。 建物 長屋門(総2階建て、白壁、気抜きあり)は、200 年前、江戸時代からのものと伝えられている。 母屋(総2階建て、白壁、気抜きあり)は、明治18年築の記録あり。座敷は、吹き抜け15畳 桑貯蔵蔵(地下に1mほど掘り下げ) 蚕種製造棟(2階で蚕種製造をした)
2023-09-23
4
滝澤秋曉「司令塔」より⑤
手塩にかけて育てた蚕が繭になった時(収繭)の喜びをこう書いている。 『5齢になって、蚕が部屋という部屋にいきわたって、予定の籠数をも通り越していく。この時、いろんな連中が来る。教員に引率された蚕業学校の生徒、支那人の留学生、役人や組合の技師、入れ替わり、立ち代わり応接も大抵なことじゃない。しかし、いい蚕を飼っているという確信があるから、案内しても気が引けることはない。 朝3時に起きて、午前午後とも休憩1回約30分ずつ、昼寝が1時間、夜寝るのが11時。いよいよ蚕をまぶし(蚕に繭を作らせるために、ワラで作った個室)に入れ、美しい繭が、蚕室の屋根裏から床板の上まで真っ白くきらびやかに満ち渡るのを見ると、いやだいやだと言い続けたのはどこの誰かという気持ちになる。 4月下旬から9月上
2023-06-04
5
蚕種家滝澤秋曉「司令塔」より②
蚕種家としての秋曉の仕事の様子はこう書かれている。 『司令塔へ籠りきるのは、製種(蚕種を造る)時で、朝のうち一通り指図をすると仕事に馴れた一人二人連れて司令塔に上がる。蚕種の注文の手紙は、1日に30通ほど、お礼や返事のはがきや手紙を書く。一方で、伝習生(蚕種製造について学びにきている若者)が(産卵)台紙に、店の印をおす。薄どり(蚕種の数が少ない)、厚どり(多い)、枠入などと仕分ける。自分は、手紙が片付くと帳簿に注文を書き入れる。』 *明治後期、郵便制度が整うと蚕種を持って出張販売することは少なくなくなり、郵便で送り、郵便為替で代金を受け取るようになった。写真は、塩尻小学校郷土資料室に寄贈された滝澤家の蚕種の発送箱。箱には昭和と入っている。山梨県の得意先に7枚を送るもの。なぜ、
2023-05-22
6
滝澤秋曉邸
滝沢秋暁は、蚕種家であるとともに、上田を代表する近代文学者として文学史に名を残している。塩尻地区近代化遺産調査報告書には、以下のように紹介さている。 ・・・秋暁の生家は、蚕種業「両水館」を営み、江戸時代から関東甲信一円から奥州まで、蚕種の仕入れや、販売に出かけています。それらの旅先で入手した幅広い分野の蔵書が残されており、そういう環境で秋暁は、明治8年に生まれました。 明治28年、秋暁は「絵画修業」のため上京し、絵を学ぶかたわら雑誌「文庫」の記者となり、全国からの青少年の投稿作品の選と選評などの仕事をしながら、多くの文学者とも交流し、河井酔名、横瀬夜雨などを育てたといわれます。 しかし、明治29年9月、重い脚気のため帰省。秋和に住み、家業を手伝いながら「文庫」の批評や
2023-05-20
7
「秋和の里」の滝澤秋暁邸が更地に
しばらくぶりで秋和の北国街道を歩いた。驚いたことに「秋和の里」を代表する滝澤秋暁邸がなくなっていた。長屋門に茅葺にトタンをかけた重厚な母屋、門の東に続く気抜きを設けた蚕室、母屋の裏には庭を挟んで気抜きのついた2階建ての大きな蚕室がなくなり更地が広がっていた。 滝澤秋曉邸は、ずいぶん前から空家となっていてあちこちに痛みが出ていた。個人の力で修理は困難なことがうかがわれ、残すには行政の力が必要と思っていたところ、上田市の歴史風致維持保存計画に蚕種製造民家の調査事業が盛られ、記録だけでも残される可能性が出てきたところだった。また、西部地域デジタルマップでも歴史遺産の記録を残す呼びかけを始めたところであり、残念でたまらない。 地域の歴史を学び、じかに触れることができる歴史遺
2023-05-19
8
上塩尻村の総合研究シンポジウム開催2023/03/21
3月21日(火)、上田東急REIホテルで「『近世上田藩上塩尻村の総合研究Ⅱ』出版記念国際公開シンポジウム」が開催されました。 旧上塩尻村(現在の上田市上塩尻)では、江戸時代から蚕種製造が盛んとなり、それを背景に市場経済が発達し、併せて地域の共同性が育まれてきました。この日のシンポジウムは東北大学の長谷部弘先生、愛媛大学の高橋基泰先生らの研究グループによる上塩尻村研究の成果報告会です。 学術的でかなり硬派のシンポジウムにもかかわらず当日は発表者も含め40名近い参加がありました。旧佐藤宗家(代々当主が藤本善右衛門を名乗った佐藤一族の宗家)の史料をはじめとして、上塩尻の各家々や上塩尻文庫蔵の資史料などから歴史的な背景が解き明かされた研究が披露されました。 <当日のプログラム>敬称略 ①開会
2023-03-26
9
藤本蚕業歴史館でオンライン講座を開きました
2022年12月~2023年2月、上塩尻の藤本蚕業歴史館を会場に「藤本蚕業歴史館で学ぶデジタルアーキビスト養成リスキル/リカレント講座」を開催しました。 藤本蚕業歴史館には10,000点を超える資料・文献が保管されています。これまでは書庫に収蔵されているもののほとんど誰もがその存在すら知りませんでした。藤本蚕業プロジェクトがそれらの資料の目録と一部の資料をデジタル化し、インターネットに公開しました。この講座はそれらを情報源に、またデジタルアーカイブを具体的にどのように作ったかを受講者の皆様に学んでもらいました。受講者数は約50名です。オンラインにより藤本蚕業歴史館で全国から学んでいただく講座開催は初めての画期的な試みです。 講座の内容は全て動画に記録しました。講義資料も含め、以下のページからネット公
2023-03-08
10
蚕種の里「上塩尻」(6)藤本蚕業歴史館とアーカイブサイト
★
藤本蚕業アーカイブ
(デジタル文書) ★
藤本蚕業歴史館アーカイブ
(史料目録) 藤本工業社屋2階に「藤本蚕業歴史館」が開設されています。2009年に開設されました。蚕種製造家だった旧佐藤宗家(藤本善右衛門)は1908年(明治41年)、企業体「藤本蚕業」に発展します。歴史館の建物は1927年、藤本蚕業の蚕室として建設された歴史的な建造物です。 同館は文書館(アーカイブス)と展示室(博物館相当)を併せ持つ複合的施設であることから「歴史館」と名付けられました。 見学は事前に予約が必要です。ただし常時、館内の見学、史料閲覧ができるよう『藤本蚕業アーカイブ』(次の2サイト)がインターネットに公開されています。
2023-02-02
11
蚕種の里「上塩尻」(5)佐藤家住宅と旧佐藤宗家
蚕種の里「上塩尻」を代表する蚕種製造家は藤本善右衛門です。旧佐藤宗家の当主が代々藤本善右衛門を世襲してきました。1897年に刊行された『日本博覧図』には藤本善右衛門(佐藤宗家)の屋敷、宗家に隣接する分家の「佐藤尾之七」の屋敷の銅版画が収録されています。 佐藤宗家の更地となった屋敷跡からはその屋敷がいかに大きかったかがわかります。現存する蚕室も希少な建造物です。 「佐藤尾之七邸宅」は現存し「佐藤家住宅(三ツ引)」として上塩尻では初めての国登録有形文化財となりました。
2023-02-02
12
蚕種の里「上塩尻」(4)蚕種の里の研究と展示
「蚕種の里」として知られていた上塩尻の歴史と文化は有識者・学者に研究されてきました。その中では1989-1992年の工学院大学山崎弘研究室による蚕種製造民家の調査が先駆的です。杉仁氏は江戸時代、上塩尻の蚕種製造家は高い教養を持ち、日本各地の人々と「俳諧」の趣味を通して交流していたという驚くべき文化史を探求しました。 国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)には卓越した蚕種の里「上塩尻」を紹介したコーナーまで設けられています。
2023-02-02
13
蚕種の里「上塩尻」(3)すぐれた蚕種製造家を輩出
上塩尻の歴史の中でも特筆されることは日本を代表する蚕種製造家を輩出したことです。塚田与右衛門(つかだよえもん)、清水金左衛門(しみずきんざえもん)、藤本善右衛門縄葛(ふじもとぜんえもんつなね)は特に有名です。
2023-02-02
14
蚕種の里「上塩尻」(2)蚕種製造ってなに?
蚕種製造は「蚕の卵」を生産する産業です。蚕の卵は養蚕農家で育てる蚕を育てるためになくてはなりません。蚕の卵の多くを上塩尻で製造し、全国の養蚕農家に提供していました。 蚕糸業は昔日本の基幹産業でした。蚕の一生に沿って、蚕の卵(蚕種製造)→繭(養蚕)→生糸(製糸)と製造工程が分かれていました。 蚕の卵は孵化(ふか)が近づくと青紫色に変化します。上塩尻で蚕種製造は行われなくなりましたが、上田では現在もなお上田蚕種株式会社が蚕種製造を行っています。
2023-02-02
15
蚕種の里「上塩尻」(1)数多く残る蚕種製造民家
かつては日本一の蚕種製造地であった上塩尻では多くの家々で「蚕の卵」を製造する蚕種業が営まれていました。上塩尻には現在も数多くの蚕種製造民家が残り、地元の方々はそれらの古い民家をリフォームするなどして大切に保全活用しています。
2023-02-02
16
蚕種の里「上塩尻」の歴史と文化遺産を未来へ(講演)2023/01/18
長野県建築士会上小支部等合同新年会で上塩尻に関する講演をしました。 ★講演:蚕種の里「上塩尻」の歴史と文化遺産を未来へ YouTube/60分
前川道博(長野大学企業情報学部教授、藤本蚕業プロジェクト代表) 2023/01/18 会場:上田東急REIホテル 江戸時代から蚕種製造の中心地だった上塩尻は優れた蚕種製造家を輩出してきました。各家々で蚕種製造が営まれ、現在も数多くの蚕種製造民家が残っています。城下町や宿場町など江戸時代の面影を残す歴史的景観地区は全国に数多くありますが、「蚕種製造民家群」の織り成す歴史的景観は上塩尻にしかありません。その特異性、希少性はかけがえがありません。 私にとっても上塩尻の大切さを紹介するよい機会をいただきました。上塩尻の魅力の再発見につながれば幸
2023-02-02
17
蚕種の里「意見交換会」
まちあるきに続いて、塩尻公民館に場を移してマーティン・モリス先生(千葉大名誉教授)による「英国における古建築の保存と活用」についてのお話があった。 はじめに、日本人には、古いものは、時間がたつとなくなってしまうのが当然というあきらめがある。英国には、古建築と景観を保全・活用するという生活文化があり、保存の対象となっている古建築の数も圧倒的に多い。「古建築に生きている歴史を見ることが、一番の楽しみ。古建築は、私たちのものではない、預かっているものであり、壊さなけれなければ、次代に渡すことができる」という思いで、古い建物を、修復、再生し、住み、活用して保存する活動が活発に行われているとのこと。民家園を作り、各地の代表的な古民家を移築し、保存しています。あとはどうなろうとも知
2022-11-26
18
蚕種の里「上塩尻まちあるき」①
晴天に恵まれた11月26日(土)、藤本蚕業プロジェクト主催の「上塩尻まちあるき」が、30余名が参加して行われ、登録有形文化財「佐藤家」、藤本(佐藤宗家)蚕室、原久史氏宅(旧馬場籐四郎邸)、清水卓爾氏宅(旧清水喜左衛門邸)、東福寺檀家信徒会館(旧滝澤邸)、加賀藩お休み処(清水氏宅)、小岩井紬工房などを巡った。 案内役のプロジェクトメンバー、ゲストのマーティン・モリス先生(千葉大学名誉教授)のほかに、持ち主や地域の皆さんによる説明、普段は入ることができない邸宅の庭まで見学でき、時間を超過しての内容濃い町あるきとなった。 参加した方々は、気抜きのある蚕種製造民家が集中し、見事な石垣が北国街道沿いに築かれている町なみに、蚕種の生み出した富の豊かさを感得していた。 詳しくは、「
2022-11-26
19
佐藤家住宅・旧佐藤宗家県見学会②
信大の勝俣先生は、蚕室特有のつくりについて、温度、湿度、光を蚕の生育や時季に合わせてどのように調節するかがポイントであると話され、佐藤宗家の蚕室には、ここで開発されたことが他の地域に広まったのか、他に学び積極的に取り入れたのか、明治中期の蚕室のつくりについて先駆的な工夫や設備が見られるとその一つ一つを示しながら説明してくださいました。 地元の山崎民子さんは、可愛い猫(面)瓦から蚕種製造にかけた塩尻の人々の願いが伝わってくるし、また、その思いを次代にも伝えていきたいと話されました。 藤本蚕業プロジェクトでは、11月26日に「蚕種の里『上塩尻』まちあるき」を計画しています。今回の講師の先生のお話の詳しい内容は、情報サイト『藤本蚕業アーカイブ』をご覧ください。
2022-10-29
20
佐藤家住宅・旧佐藤宗家県見学会①
10月29日、藤本蚕業プロジェクト(代表:長野大学前川先生)主催の見学会が行われました。 佐藤家住宅の国指定有形登録文化財登録にご尽力された信大の梅干野(ほやの)先生は、江戸時代中期に始まった蚕種製造業の発展に伴い、明治になって屋敷がどのように拡張、増改築されたか建物にふれながら話されました。江戸時代には、2室だった蚕室が、明治になって9室に増え、他にはあまり見られない消毒室まで設けられています。 石垣や土壁など地元の素材を使った蚕種製造民家が狭い地域に今も多数残る上塩尻の景観は、日本の原風景ともいうべきであり、その価値を今後も訴えていきたいとの熱い思いの伝わる話でした。
2022-10-29
21
上塩尻 段々畑と花畑
明治、大正、昭和の初期頃、塩尻、秋和地域は蚕糸業のうち蚕種製造が盛んな地域でした。 地域の里山は中腹まで段々畑が形成され、桑が植えられていたと聞いています。 しかし、今となってはそういった段々畑は雑木林化してしまっていてどうなっているかよくわからないのが現状です。 そんな中、上塩尻の有志の方々で、段々畑を復元している方々がいらっしゃいます。 今回は、復元している箇所のうち花畑が広がっているところを撮影しました。 地域の歴史が残るところを整備してくださる方々に感謝ですね!
2022-09-22
22
2009年開館当時の藤本蚕業歴史館
★写真:2009年10月蚕都上田プロジェクトが実施した見学ツアーの様子 上田市上塩尻に「藤本蚕業歴史館」が開館したのが2009年10月です。今年2022年、早いものでそれから13年近くが経ちます。日本一の蚕種(蚕の卵)の製造地だった上塩尻の中でも一番の中心的な蚕種製造企業だったのが「藤本蚕業」(現在の藤本工業の前身)です。藤本蚕業歴史館は藤本蚕業の蚕室を再利用して開設しました。同社所蔵の膨大な社内文書も保全されています。一般に馴染みがない「蚕種」や上塩尻の背景を知る上で欠かせない情報源となる施設です。 13年経過すると当時はご健在だった方もお亡くなりになった方やリタイアして活動から遠ざかられた方もいます。その時の記録が希少な記録となってきました。
2022-08-31
23
これなんだろう?
皆さんはこんな瓦を見たことがありますか? これは猫瓦といいます。 猫瓦とは、養蚕をする上で蚕がネズミに食べられてしまうことがあり、そのネズミ除けの願いを込められた瓦のこと。そのためネズミの天敵である猫がモチーフになっている。 上田市上塩尻では蚕種製造が盛んであったり、養蚕をする家が多くあった地域であるため、今でも越屋根といった養蚕特有のものが残っている。もちろん猫瓦が残る家も多くある。猫瓦はただ猫の形をしているだけではなく、文字や絵が掘られている。これらには様々な思いが込められているそうだ。
2022-07-11
24
上塩尻蚕種製造民家群8 佐藤隆一邸④
街道に面して、土塀が一部残されており、平瓦で葺き、猫瓦が飾られている。平瓦は江戸瓦とも言い、今は使われていない珍しいものである。猫瓦は、昔のものは運送トラックが通行中に破損してしまい、新しいものを送ってきたという。
2022-06-18
25
上塩尻蚕種製造民家群8 佐藤隆一邸③
奥の部屋の柱には、なたでつけられた傷が残っている。明治2(1869)年、上田藩で起こった一揆「チャラ金騒動」で、質屋をしていたため一揆勢が押しかけ、打ちこわしされそうになったが、地元の人たちが「焼いてはいけない」と止めてくれという。 「チャラ金騒動」では、上田藩で庄屋や村役人、豪農商など5百数十軒が、焼き討ち、打ちこわしにあっている。
2022-06-18
26
上塩尻蚕種製造民家群8 佐藤隆一邸②
一階南側の座敷は昔のままで、西側にはめ込みの丸障子の明りとりがある。床の間には、書画の掛け軸がかけられ、落ち着きと風格が漂う。今は、3世代の家族が暮らすが、主に北側と2階を改装して生活の場としている
2022-06-18
27
上塩尻蚕種製造民家群8 佐藤隆一邸①
佐藤宗家「藤本」の分家にあたる。明治39年、祖父が、後継ぎがなく絶家となった分家筋のこの家を買い取った。天保9(1839)年に建てられたと記録があるが、総2階建で気抜き屋根(越屋根)が貫いていることから、明治以降建て直したのではないかと考えられる。2階の東側の壁には、卯建(うだつ)がある。卯建は、他に数軒みられるだけで珍しい。 昭和15~16年頃まで、2階を蚕室として利用してきた。代々、藤本蚕業株式会社の経営に携わっており、藤本宗家が昭和2年焼失したため、藤本関係の古文書を裏の土蔵に保管してきた。西側の奥には門があり、今は別の持ち主のものだが、隠居部屋となっていた。
2022-06-18
28
上塩尻蚕種製造民家群7 藤本蚕業株式会社⑤
昭和期になると蚕種製造が近代化され冷蔵や消毒、人工ふ化室などの設備が必要となり、また、大規模化した製糸工場が、蚕種を自家製造するようになり、蚕種製造家も個人経営では対応が難しくなった。蚕種家も会社化、組合化が進み、「藤本」も藤本蚕業合名会社、藤本蚕業株式会社と経営を変え、昭和2(1927)年、扇状地の下の国道沿いの平地に大きな製造所を新築し、昭和41(1966)年まで蚕種製造を行った。現在は、藤本蚕業歴史館として江戸時代から昭和中期までの2万点余の資料や備品を保存・展示している。屋根に出ている煙突は換気設備
2022-05-30
29
上塩尻蚕種製造民家群6 佐藤宗家「藤本」邸宅の第一蚕室 ④
気抜き屋根の下は、床がすのこ状で2階の空気が抜ける屋根裏部屋となっている。信大の先生や学生が来て調査中。2階の部屋の外は、南側も北側も1間ほどのベランダになっていて、桑の葉や蚕具などを上げ下ろしできるようになっている。
2022-05-30
30
上塩尻蚕種製造民家群6 佐藤宗家「藤本」邸宅の第一蚕室 ③
1階、2階に合わせて4室の蚕室がある。高い天井を太い梁が支え、床は高く、暖房のため埋薪炉(まいしんろ)が施されている。1階の埋薪炉は、すのこの床の下に、横1m、縦2.8m、深さ80㎝ほどの大きさで、石を組み合わせて作られている。3段ぐらいに丸太を敷き詰め、間をもみ殻で埋め、上を石灰で覆い2か所に火をつけると、少しずつ4週間ほど燃え続けた。遅霜の心配のある春蚕(5月上旬から)の飼育には、暖房が必要だが、これほどの規模の設備はあまり見られない。2階にも規模は小さいが掘りごたつの状の埋薪がある。
2022-05-30
31
上塩尻蚕種製造民家群7 佐藤宗家「藤本」邸宅の銅版画 ②
写真は、佐藤宗家「藤本」の明治中頃の様子を描いた「藤本善右衛門邸宅」(「日本博覧図」M30年発行 上田市立博物館蔵より)の銅版画である。居宅は昭和2年に焼失し、現在残るのは門と右側の2階建土蔵とその手前の2階建第一蚕室・第2蚕室、土蔵2棟のみである。敷地は600坪ほどでこのあたりでは最も広いが、蚕種製造民家が立ち並ぶ狭い扇状地では、これ以上の敷地を確保することは難しかったのではないだろうか。周りはぼかされているが、実際には狭い小路があるだけで蚕種製造民家が軒を並べている。
2022-05-30
32
上塩尻蚕種製造民家群6 佐藤宗家「藤本」の第一蚕室 ①
藤本とは、佐藤本家の意味で、江戸中期の寛文年間(1661年~1673年)より、蚕種製造をしてきた。代々、養蚕や蚕種製造技術の開発・向上・啓蒙に力を注ぎ、全国一の「蚕種の郷」の基礎を築いた。明治以降も蚕種の品質向上に努め、藤本蚕業合名会社をつくり、今に至る。この蚕室は、明治23年に西筑摩郡新開村の古畑源重源昌富によって建造された。
2022-05-30
33
上塩尻蚕種製造民家群5 国の登録有形文化財「佐藤家住宅(三ツ引)」④
写真は、庭にある消火栓。 塩尻村では昭和4年、裏山の沢を水源にして水道が引かれた。当時、村長をしていたこともあり佐藤家には消火栓が設けられた。当時は、めったに見られない設備で現在も残っているのはここと佐藤宗家「藤本」だけである。
2022-05-30
34
上塩尻蚕種製造民家群5 国の登録有形文化財「佐藤家住宅(三ツ引)③
写真は、銅版画が出された後に蚕具を消毒するために増築された消毒室。内部を漆喰で塗り固め、消毒薬(ホルマリン)が外部に漏れない構造になっている。信大繊維学部にもあったそうだが、今は見られない。
2022-05-30
35
上塩尻蚕種製造民家群5 国の登録有形文化財「佐藤家住宅(三ツ引)」②
写真は、門を入って右手奥にある江戸時代に建てられた茅葺を鉄板で覆った平屋の主屋。右側は明治になって増築された2階建瓦葺、気抜きの屋根のある蚕室。主屋の裏に平屋茅葺(鉄板仮葺)の奥上段(座敷棟)がある。江戸末期から明治期に蚕種業が盛んになるにつれ、次々に増築改修され、蚕室は9部屋をかぞえるようなになった。蚕室づくりの家は、養蚕のために温度や湿度管理に注意が払われ、天井は高く、開口部は大きいが、壁を厚くするため、夏涼しく、冬もあまり寒くないという。 今後、いつまで、保存、管理ができるか心配されている。
2022-05-30
36
上塩尻蚕種製造民家群5 国の登録有形文化財「佐藤家住宅(三ツ引)」①
佐藤家は先祖が室町時代に栃木県からやってきたと伝えられている。文禄4(1595)年の千曲川洪水で流された元宿から現在の山すその地に移り、江戸時代中期から蚕種製造を始めた。佐藤宗家「藤本」の分家にあたる。江戸時代には庄屋を務め、昭和の中期まで蚕種業を営んでいた。 江戸時代後期から明治時代にかけて建築された主屋、蚕室、物置、消毒室、文庫蔵、穀蔵、味噌蔵、屋敷神、門の9棟がR3年6月に国の登録有形文化財に登録された。 写真は、東南の方向から。気抜きのある2階建ての蚕室、門、物置が並んでいる。デジタル・マップの「塩尻小学校郷土資料館5」にあげた銅版画、佐藤尾之七邸宅(日本博覧図 明治30年発行)の現在の姿であるが、物置が2階建てになり、消毒室が増築されている。門の前の通りの奥には、佐藤宗家
2022-05-30
37
上塩尻蚕種製造民家群4 蚕種製造民家「清水卓爾氏宅」⑤
写真は、「清水卓爾氏宅」の明治中頃の様子を描いた「清水喜左衛門邸宅」(「日本博覧図」M30年発行 上田市立博物館蔵より)の銅版画である。母屋(蚕室)の裏側が北国街道。街道から下り玄関に至る坂道は、実際には、人力車一台が通行できる幅で、坂も急なため、荷車の通行も大変だったと思われる。手前、松の木の下には、湧水が見える。
2022-05-30
38
上塩尻蚕種製造民家群4 蚕種製造民家「清水卓爾氏宅」④
大沢の扇状地の扇端には湧水を利用した七つの池があり、かつては生活用水や蚕具を洗うのに使われた。門の外、左下に湧水がある。今も残る3か所の一つである。水神様を祭る祠には、慶長3年とあり歴史の古さを教えてくれる。
2022-04-03
39
上塩尻蚕種製造民家群4 蚕種製造民家「清水卓爾氏宅」③
土蔵の下に鉄筋入りのコンクリートで作られた地下室がある。夏でも室温が低いため、風穴の代わりに種紙に産み付けられた蚕種を保存し、ふ化の時期を遅らせた。 写真は、屋根に設けた気抜きを天窓のように採光に利用している。天井が高く、太い梁が力強さを感じさせる開放的な空間となっている。
2022-04-03
40
上塩尻蚕種製造民家群4 蚕種製造民家「清水卓爾氏宅」②
門を入って右側(東側)の2階建ての蚕室は、江戸時代に造られ、1階は居宅、2階蚕室として使われていた。西側の母屋は、明治29年に増築され、1階は居宅、2階は蚕室で、昭和20年代まで蚕を飼育していた。国の登録文化財に指定された佐藤尾之七邸と同じ、木曽上田村の棟梁、武居初太郎が建てた。 写真は、西側の母屋。気抜きの他に屋根の下に通風孔が設けられている。現在は、内部を改修して3世代の家族が暮らしている。
2022-04-03
41
上塩尻蚕種製造民家群4 蚕種製造民家「清水卓爾氏宅」①
旧北国街道を西に向かい新幹線の高架をくぐり、座摩神社の参道を過ぎ、坂を登り始めると左側に気抜きの屋根の二棟が迎えてくれる。一段下がったところにあるため、2階の蚕室の大きな窓や塗壁、気抜きのために屋根の上に小屋根(越屋根)を設けた蚕種製造民家が見えてくる。Google earthではまだ見ることができるが、数年前まで、街道の右側にも3軒の蚕種製造民家が並んでおり、「蚕種の郷」の入り口にふさわしい景観がみられた。
2022-04-03
42
蚕種製造民家群3 現存する蚕種製造民家
上塩尻の養蚕家屋については、1989~92(平成元~4)年に工学院大学の研究チームが大規模な調査を行い23軒が調査対象となっている。また、平成14年に近代化遺産活用計画策定のための地域調査チームによる現地調査では、気抜きのない養蚕家屋も入れて37軒を対象にしている。 現在、気抜きの備わる蚕室を持つ民家は19軒、他に気抜きはないが、喚起のため窓を大きくして蚕室として使われていた家屋が数軒、近年、取り壊されたり、建て替えられたりした家屋が10軒弱あるが、狭い北国街道や小路に面しているため、工事が難しいこともあり、内部を改修するなど手を入れ、現在も住居として使われている家屋が少なくない。 写真は、緑点は蚕種製造民家、改築されたが景観に配慮して気抜き施した家屋もある。赤点は、平成14年の調
2022-04-03
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上塩尻蚕種製造民家群2 蚕種製造の中心地:上塩尻「大村」の景観
蚕種製造の中心地上塩尻「大村」は、扇状地の斜面の50000㎡ほどの狭い土地に100戸ほどの民家が集中し、その半数以上が養蚕をし、蚕種製造を営む集落だった。 門構え、土塀、気抜き屋根を持つ白壁の総二階の蚕室を持つ江戸から明治にかけて建築された大きな蚕種製造民家が、狭い小路を挟んで立ち並ぶ景観は、他に例を見ない。写真は、 気抜きの屋根の並ぶ蚕種製造民家群を裏山から撮ったもの。手前の山の下を左右に北国街道が通る。
2022-04-03
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上塩尻蚕種製造民家群1 蚕種製造の中心地:上塩尻「大村」
明治30年発行の「長野県小県郡熱心蚕種製造家一覧」には、上田町を中心に郡下163戸の蚕種製造家の氏名が記載されている。その2/3の107戸は、旧塩尻村(上塩尻58,下塩尻20、秋和29)がしめている。塩尻とともに西部地域に属する(鎌原7,諏訪部2)も加えると上田盆地の西部、千曲川北岸が蚕種製造の中心だったことがわかる。 上塩尻の中でも53戸の蚕種製造家が集中している「大村」(字:北側・南側)は、千曲川と虚空蔵山に挟まれた大沢の扇状地の斜面で、千曲川の洪水を受けにくく、江戸時代には信越、北陸を結ぶ北国街道が通っていた。上塩尻村の中心である「大村」は、扇状地の上部を北国街道が西の扇端部に向かって下り、平坦部を通る国道18号線とがけ下で交わる西端地点を頂点し、東500mの塩尻小学校の西縁とそこから北に向
2022-04-03
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〈秋和〉不思議な街並み 2
①街道に面して入口のある家が少ない。 旧家の多くは、入口や玄関が街道に面していない。東西にある小路に門を設け入口としている。街道に背を向けている南側の家ばかりでなく、北側にある家も同様で、南に庭があっても塀で囲み、街道から母屋が見えにくい。近年、改築された家の多くは、街道に面して入口や駐車場を設けている。 ②街道に面して、旧家の間口の幅がほぼ10~12mほどで、広狭の差が少ない。 文人で蚕種家だった滝澤秋暁生家は例外的に20mほど。 ③どの家も間口の幅いっぱいに家が建てられている。 家々は、間口の幅いっぱいに家が建てられている。また、街道に寄せぎりぎりの位置に建てられているため、街道の南側は家が高い壁のように立ち並んでいる。 写真の家は、左手の小路に向かって門のある家。右手が
2022-03-23
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〈秋和〉不思議な街並み 1
秋和集落は、旧北国街道に沿って東西1kmほどの街村を形成している。昭和16年に国道が集落の南にできたため、道幅狭く、通過車両少なく、道路に沿って水路のある街道の面影が残っている。道の両側には戦前まで蚕種製造を生業としてきた気抜きのある民家も多かったが、近年は、改築する家が増え、独特の景観も失われつつある。昔の景観を思い出しながら街並みを歩くと、不思議な点に気づいた。 写真は、西から東を望む。右手の建物は、街道の面影を残す旧中島銀行。左手は、改築された家々
2022-03-23
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埋薪
まいしん
のある
藤本
ふじもと
の
蚕室
さんしつ
(
上塩尻
かみしおじり
)
蚕種製造
さんしゅせいぞう
の
中心地
ちゅうしんち
だった
上塩尻
かみしおじり
でもその
筆頭
ひっとう
の
蚕種製造家
さんしゅせいぞうか
であった
藤本
ふじもと
(
佐藤本家
さとうほんけ
)の
蚕室
さんしつ
。
蚕種製造
さんしゅせいぞう
に
使
つか
われました。
蚕
かいこ
の
成育
せいいく
に
大敵
たいてき
の
寒
さむ
さを
防
ふせ
ぐため、
床下
ゆかした
に
埋薪
まいしん
と呼ばれるオンドルのような
暖房施設
だんぼうしせつ
が
備
そな
わっています。
2022-01-18
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養蚕農家の生活1 西沢吉次郎さんの話
上小地域から桑畑とともに養蚕農家が姿を消して久しい。蚕の飼育についての記録は残っているが、蚕とともに暮す生活の記録はあまり見当たらない。知る人もわずかになり、聞くことも難しくなっている。 上小郷土史研究会が平成2年に発行した「大正から昭和へー町や村の暮らしー」所載の西沢吉次郎さんの作品は、当地の養蚕農家の生活を描いた貴重な記録である。西部地域の記録ではないが、養蚕・蚕種製造をする農家の生活を想像する手立てとして使用することを許可してもらった。 西沢さんは1919(大正8)年、現上田市真田町本原に生まれ、子供のころの農業や養蚕の手伝いをした思い出を記録している。明治の中頃から大正、昭和初期は、繭景気が良い時代で、「米の成る田に桑の木植えて、お前食う木かくわ(桑)ぬ木か」というざ
2021-10-12
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塩尻小学校郷土資料館7 蚕種家「佐藤尾之七邸宅」の今
写真は、資料館に版画があった蚕種家「佐藤尾之七邸宅」の今である。住む人なく閉められた門の脇に、蚕種家の屋敷だったことを紹介する説明文が掲げてある。往時の活気はうかがうべくもないが、一時代を築いた風格が漂い、「蚕種の郷」独特の景観を伝えている。1912(大正元)年の長野県の調査では、塩尻村(上塩尻、下塩尻、秋和)で県税を納めている戸数は566戸、うち蚕種製造戸数は、136戸で23.3%を占めていた。版画は当時の盛況ぶりを想像する手がかりとなっている。 今、塩尻地区でも朽ちるにまかされた蚕室や現代的な住宅に建て替わる古民家が少なくない。「気抜き」のある建物が狭い小路をはさんで軒を連ねる「蚕種の郷」の景観も雑木に覆われた段々畑同様に消えゆく時が迫ってはいないか。失ったら取り戻すことでき
2021-08-12
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塩尻小学校郷土資料館6 「蚕都物語」
塩尻地区には江戸時代後期から養蚕、蚕種製造の先駆者が生まれている。中でも養蚕技術書「新撰養蚕秘書(しんせんようさんひしょ)」を著した塚田与右衛門(つかだようえもん1715―1810)。 新品種「信州かなす」を発見し、「蚕かいの学(かいこかいのまなび)」を著わし、養蚕技術者を育成し、組合を作り品質の向上に尽力した藤本善右衛門縄葛(ふじもとぜんえもんつなね1815-1890)。 「養蚕教弘録(ようさんきょうこうろく)」を著わすとともに、かいこの飼育には湿度の加減が難しいことから乾湿計を考案した清水金左衛門(しみずきんざえもん1823-1888)が知られている。3人は時代が近いばかりでなく、その居宅も、北国街道に沿った100メートル四方内に近接している。 ①「蚕都物語―蚕種家清水金左衛門の遥かな旅路」(しみず たか
2021-08-12
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塩尻小学校郷土資料館5 蚕種家の居宅
①版画「佐藤尾之七邸宅」:蚕種を製造販売する蚕種家(たねや)の居宅を描いた版画1896(明治29)年。 練り塀に囲まれた広い敷地の中に幾つもの建物がある。中央の母屋は、平屋だが大きなかやぶきで、座敷で主人が来客と話をしている。右手に続く2階建てかわらぶきの建物の窓には家人か使用人が見え、居室や事務所か。建物の壁が右側の塀とつながり、大きな門に続く。門を入ると左手には2階建てかわらぶきの蚕室が見える。蚕室の中には蚕棚が重なり、内外で数人が立ち働いている。蚕室の屋根には換気用の煙だしの「気抜き」の小屋根がついている。門の右手の小ぶりの2階建ては、雇人の部屋か。中央の広庭は、作業場になっており数人が働いている。母屋の左、左右を2階建ての練り壁の蔵と奥の塀で囲まれた一画は、庭木の植えられた庭園の
2021-08-12
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塩尻小学校郷土資料館4 蚕種販売(1)
①蚕種製造鑑札:蚕種の品質を保証するために江戸時代に上田藩から規則を守り、鑑札を持って商いをするように命令が出ている。明治になり蚕種が高値で輸出されるようになると、粗悪品も出回るようになり、製造、販売には免許鑑札が必要になった。
2021-08-12
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塩尻小学校郷土資料館3 蚕種製造道具
①平付枠板、枠板、種紙、たねの黒枠:蚕種は、繭を出荷しないで、マユの殻を破りう化したオスとメスのガを交尾させ、種紙に卵(1匹が500個ほど)を産み付けさせる。明治の中ごろまでは「平づけ」といって半紙大の種紙に80匹ほどのガをはなって自由に産卵させた(1枚に4万個ほど)。明治の中ごろから微粒子病の予防のため、産卵した母ガがわかるように台紙に数字を入れた28のわくを作、一匹ずつわくの中で産卵させる。産卵を終えた母ガを検査し、病気が見つかれば、その数字の蚕種だけ交換する「わくづけ」が広まった。昭和に入ると産卵の終わった台紙を水に浸し、はがれ落ちた卵を乾燥して容器容れて出荷する「バラ蚕種」という製造法も生まれた。 ②自動鑑別機、雌雄分離機:大正期になると中国やヨーロッパのカイコとかけあわせて両
2021-08-12
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塩尻小学校郷土資料館1 郷土資料館はタイムカプセル
塩尻小学校郷土資料館は、1961(昭和36)年、PTAや地元自治会の協力で各家庭から寄付された農具、養蚕道具、製糸道具、織機、衣料日用品、昔の旅の服装用具、昔の新聞、雑誌、書籍、楽器、写真、古文書、土器や石器など約280点を空き教室に展示して始まった。その後、周年記念事業等で整備充実が図られ、1995(平成7)年には校舎改築にあわせて独立した郷土資料館が完成した。塩尻地区が「蚕種の郷」だったことから、他に見られない蚕種製造にかかわる貴重な資料が集められていている。展示品の中から蚕種製造にかかわる資料(太字で表記)を紹介する。写真は、塩尻小学校郷土資料館。右は桑の木。
2021-08-12
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蚕種の郷10 蚕種製造に欠かせない歩桑(ぶぐわ)の栽培
蚕の餌となる桑は、他の樹木と違って、その根を地中深く伸ばします。千曲川の洪水に流されることもなく、急斜面でも地下水を吸収して成長できるので干ばつにも強いのです。また、洪水は上流から肥えた土を供給してくれました。 さらに、岩鼻から吹き出す強風は、蚕の害虫カイコノウジバエの卵を桑の葉からふりおとしてくれます。そのため塩尻地区の河原や扇状地、山の斜面に育つウジバエの卵を産み付けられていない桑「歩桑(ぶぐわ)」は、蚕種製造には、欠かせないものでした。 写真は、バイパスののり面に桑の実を食べた鳥の糞から育った桑の葉
2021-06-25
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蚕種の郷9 なぜ、蚕種の郷に?
蚕種製造は、蚕が作った繭の殻を破って出たオスとメスの蛾を交配させて、メスの蛾に、厚手の紙(産卵台紙)に卵(蚕種)を産みつけさせます。卵を産み付けられた産卵台紙(種紙)販売するのが蚕種業です。大事なことは、卵から生まれた蚕が病気に強いか、その蚕が吐いた糸の品質が良いかです。塩尻の先人たちが生み出した蚕種は、強健であり、発育が早く桑の食い方も活発で飼いやすく、繭の形もよくそろい、糸量も多いと人気を呼び、蚕種の郷・塩尻の名が全国に知られるようになりました。 こうした品質の良い蚕種が作られるようになったのは、上田地方、とりわけ塩尻が養蚕・蚕種製造に向いた場所だったからです。 写真(「養蚕・製糸」(上田市立博物館)より)は、産卵台紙にメスの蛾が卵を産み付けている様子。白い粒が卵。卵
2021-06-25
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蚕種の郷8 養蚕から蚕種製造へ
塩尻では、豊臣秀吉の時代、文禄4年(1595年)の千曲川大洪水で壊滅的な被害を受け、水害に強い桑を植え、養蚕が始まったと伝えられています。江戸時代は、米を年貢として取り立てていたので田に他の作物を作ることは禁止されていましたが、しばしば水害に襲われる河原の畑や急な斜面の段々畑に桑を植え、蚕を飼うことは許されていました。中期には、稲作の合間に始めた養蚕の中でも蚕種製造に力を入れるようになり、後期には本場の奥州(東北地方)を追い越し、日本一の蚕種の生産地となりました。写真は、昭和20年ころ養蚕作業の様子(塩尻地区写真集より)です。養蚕は手がかかる仕事が多く、家族総出で作業しました。学校は、「蚕休み」にして子たちも手伝いました。写真は、蚕が作った繭を前に置かれた藁で作った「まぶし
2021-06-25
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2019西部地域まちあるき:藤本蚕業歴史館
2019年6月14日に行われた西部地域まちあるき(上塩尻)では、藤本蚕業歴史館を見学しました。 かつて「蚕都」と呼ばれた上田市の中で、蚕種製造の中心地だった上塩尻。そしてその総元締めであったのがこの藤本工業(藤本蚕種)です。 館内には資料だけではなく当時の備品等も保管されており、タイムスリップが可能であれば蚕種製造をしたいと思いました。
2021-01-29
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2019西部地域まちあるき:蓬蘆書屋
2019年6月14日に行われた西部地域まちあるき(下塩尻)では、蓬蘆(ほうろ)書屋に伺いました。 個人宅ではありますが、かつては蚕種製造を営んでいたことから家屋の造りが蚕室づくりとなっており、現在の屋敷内はご当主のお仕事の関係から蔵書の海と化しています。 見学中は歴史が流れ込む感覚を味わいました。
2021-01-27
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地域の記憶:上塩尻・段々畑の桑園
地域のありようは長い間には大きく様変わりします。昔その地域がどうであったのかを確認するにはその当時の資料が欠かせません。人の記憶の中にその様相は残っていても、第三者がそれを確認できるのはデータとして残された何らかの記録です。証言のような言葉(人の記憶)でも補えますが、それを証言してくれる映像なり、道具なり、資料なりがあってその確認ができます。 2019年2月、上塩尻のSさんのお宅を訪問しました。蚕種製造の中心地・上塩尻の古い資料をデジタルアーカイブ化しようというねらいです。 Sさんのお宅にあった一枚の写真に注目。少年たちと大人たちの集合写真です。脱穀作業を共同で行った時の記録と思います。少年たちは国民服を着ています。1940年代前半の撮影ではないかと思われます。その背後に段々畑の桑園
2020-12-19
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Excellent上田、上塩尻見学:藤本蚕業歴史館
2019/10/31、長野大学で私が担当する1年生の課題発見ゼミⅡ「Excellent上田」で、かつて蚕種製造の中心地だった上塩尻を訪れました。最初に訪れたのが藤本蚕業歴史館です。この建物は昭和初期、藤本蚕業の蚕種製造施設として建てられたものです。現在この建物の2階が文書・資料の保管所兼展示スペースとして使われています。 館内には1990年前半の上塩尻集落のミニチュア模型があります。上塩尻を俯瞰するのに役立ちます。 上塩尻の藤本は、代々当主が藤本善右衛門を名乗った蚕種製造家・佐藤本家を引き継いで明治期、企業となります。藤本蚕業歴史館には企業としての藤本蚕業の文書が多数残されているだけでなく、前身の佐藤本家の文書、資料も多数残されています。江戸期の藤本善右衛門保右が著した蚕書『蚕かひの学』の版木が残されて
2020-12-19
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JIA長野県クラブの上塩尻見学会
2020/7/31、JIA(日本建築家協会)長野県クラブの上塩尻見学会があり、見学会のコーディネーションと当日の案内をさせていただきました。 全国的に見ても稀有な蚕種製造民家群が残る上塩尻はまだ広く知られているに至っておらず、参加者のほとんどにとっても上塩尻を見学するのは初めてのことです。建築家の方々だけあって、蚕種製造民家に対する参加者の方々の関心は高く、建築的に特徴のあるところにはたびたび視点が釘づけになっていました。 コロナ禍の情勢下で見学会を実施することとなり、主催者側では、その状況に対応した配慮もされて見学会と意見交換会がなされました。人と人の間の距離があるため、お互いの声が聴きとりにくい一面がありましたが、その辺はやむを得ません。 意見交換も貴重な機会でした。空家に移り住んでも
2020-12-19
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秋和の文庫蔵を訪ねる
2020/2/17、地元の方々と学生と秋和文庫蔵を訪ねました。 秋和は蚕種製造の中心地であった塩尻村の中で、上塩尻、下塩尻と共に蚕種製造が営まれ、蚕都上田の興隆にも大きく貢献した一地域です。そうした近代の地域の背景を知る上でも地元の古い資料は欠かせないものです。 地域の文書保管のための文庫蔵の内部には明治以降の文書が段ボール箱やタンスに入れてしまわれています。具体的にどのような資料が保存されているのか、まだその目録化はされていないとのこと。しかし、これだけしっかりと明治以降の文書が残されていることはかけがえがありません。実に得難いことです。平成のものもあります。 いくつか手にした文書は「明治十八年 祭典諸事記載帳」「明治三十年度 人夫賃金支払帳 塩尻村秋和土木委員」「明治十年第三月
2020-08-25
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モリス先生来訪、古建築をフィートで測る
2018/11/30、千葉大学のマーティン・モリス先生が上田に来訪されました。この日、塩尻地区のある古い民家を地元の方々と見聞しました。モリス先生はイギリス出身ですが、驚くほど日本の伝統建築に詳しく、訪問先の室内を簡易的に測定し、建築上の特徴などからその年代の推定までされていました。 さらに驚いたのはフィートのメジャーで寸法を測り始めたこと。よくよく考えてみればフィートと尺の単位は極めて近似しており、尺のメジャーの代わりにフィートのメジャーを使っているのだとわかりました。なるほど!です。 モリス先生は、長年上塩尻を研究されている東北大学の長谷部弘先生の研究グループでも共同研究をされたことがあり、10年以上前、上塩尻の民家を調査されたことがあります。この日は塩尻地区の何名かの方々とも意見
2020-08-25
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上塩尻の蚕室
蚕種製造のための養蚕施設。下に埋薪(まいしん)と呼ばれる暖房の仕掛けがあるのが特徴。韓国のオンドルに似ています。
2019-03-01
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